主日礼拝

主の愛にとどまる

「主の愛にとどまる」  伝道師 嶋田恵悟

・ 旧約聖書: 詩編 第1編1-6節
・ 新約聖書: ヨハネによる福音書 第15章7-17節
・ 讃美歌:3、54、481

主イエスにつながって歩む
ヨハネによる福音書第15章はぶどうの木のたとえをもって始まります。主イエス・キリストと信仰者の関係を、ぶどうの木とその枝になぞらえているのです。ぶどうの枝が、ぶどうの木に結びついていないと実を実らせることが出来ないように、信仰者も、信仰による実りを実らせるためには、キリストにつながっていることが大切なのです。このたとえで大切なことは、1節以下で、「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる」とあるように、父なる神様が、御言葉をもって信仰者の手入れをするということです。農夫が裁ち鋏でぶどうの枝を剪定するように、父なる神様が、御言葉を通して、信仰者の中にある、実を実らせない枝を剪定して行くのです。信仰者たちは、それによって豊かな実りを実らせるのです。私たちは、信仰生活を送る中で、豊かな実りを実らせたいと願っています。聖書の教えに生き、それによって真の救いを与えられたいと願っているのです。しかし、そこで、注意をしなくてはならないことは、信仰者が、自分が思い描いている人生の実りを信仰生活における実りと混同し、それを実現して行くことを、あたかも信仰生活であるかのようにとらえてしまうことです。自分の思いを御言葉に読み込んで、それに従って歩んでいくことがあるのです。そこでは、御言葉が信仰者を剪定し、造りかえて行くのではなく、信仰者各自が、自分勝手に御言葉を理解し、自分の都合の良いように御言葉を剪定しているのです。そういう時に、主イエスがお語りになる、「わたしにつながっていながら実を結ばない」という状況が生まれるのです。信仰者が熱心にキリストの御言葉に接していながら、信仰の実りを実らせていないという事態が生じるのです。私たちが、御言葉を自分の思いに従わせるのではなく、自分をキリストに従わせなくてはならないのです。

相互内在的な関係
本日朗読された15章の7節以下には、主イエスにつながって、御言葉によって歩む者の姿が、より詳しく語られています。7節には次のようにあります。「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる」。ここでは、信仰者が、キリストにつながるだけでなく、御言葉が信仰者の内にとどまることが見つめられています。御言葉というのを、キリストと置き換えても良いでしょう。ここから分かることは、御言葉と私たち、言い替えるのであれば、キリストと信仰者との関係は、相互内在的であると言うことです。それは、前回取り上げた第15章の4節に、「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている」とあり、又、5節後半には、「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」とあることからも明らかです。信仰者と主イエスとの関係は一方的なものではないのです。信仰者がキリストにつながると共に、キリストの御言葉の方が信仰者の内側にとどまることが大切なのです。ぶどうの枝が木につながっているように、キリストにつながっていなさいと言われると、自らの努力によって、御言葉を学び、その教えに生きて行くことで、御言葉を自分のものとして行かなくてはならないと感じるかもしれません。しかし、そのような仕方でのみキリストとつながっている時、それは一方的なつながりです。むしろ、御言葉の方が、私たちをとらえ、私たちの内側に留まって下さるということに目を留めなくてはならないのです。信仰者がキリストにつながるということが、キリストが信仰者につながるということ抜きに考えられると、必ず、信仰者の自分勝手な思いにキリストを従わせるということが起こります。人間は、どこまでも、自分本位です。そのような中で、人間が満足を与えられることによって得られる、人間の喜びのために、キリストが用いられることもあるのです。そのような所では、結局、信仰によって、神様が栄光を受けるというのではなく、人間が栄光を受けることが求められて行くのです。そこでは、本当の意味でのキリストとの関係は生まれていないのです。

御言葉の前で悔い改める
 御言葉が、私たちの内側にあるというと実感がないかもしれません。しかし、それは、私たちが本当に御言葉を神様からの語りかけとして聞く時に経験することなのです。信仰生活の中で、私たちは熱心に御言葉を求め、キリストにつながろうとします。しかし、自分で御言葉を理解し、それをとらえようとしている中で、御言葉の方が、自らをとらえて来るということがあります。それまで、自分からとらえようとして、繰り返し聞いていても理解出来なかった御言葉が、自分自身の中で響いて来るという経験があるのではないでしょうか。それまで、自分が主体的に御言葉を求めていたのに、御言葉の方が主となって、自分のことをとらえ、さらには、自分の生き方を規定して行くということがあるのです。御言葉を学ぶことによってキリストを知ろうとしていたのに、むしろ、御言葉によって、自分自身がキリストに知られており、主なる神様の目から見た自分のことを知らされる経験と言っても良いかもしれません。自分のことは自分が最も良く分かっていると思っていたのに、御言葉を通して、自分のことを深く知らされるのです。人間が、自分のことは自分だけが知っていると思っている時、自分の人生の主は自分自身です。しかし、自分が知らない自分の姿をキリストによって示される時、キリストが人生の主人になるのです。そして、このキリストを通して知らされるのは、自分の罪の姿に他なりません。自分の思いに御言葉を従わせ、そのような形でキリストにも、主なる神様にも敵対して歩んでいる罪の姿を知らされるのです。神様の救いを得ようとしながら、真の神からの語りかけを聞いていないということを示されるのです。そのような時に、起こるのが、キリストの前での悔い改めです。悔い改めるとは、ただ反省するというようなことではありません。それまで自分を主として歩みが180度転換し、キリストを主として、キリストに生かされて行く者となることでもあるのです。この自分本位な歩みから神に生かされる歩みへの転換は、自分の主体的な聖書の学びが深まり、御言葉の蓄積が一定ラインに到達するというようなことによって起こるのではありません。まさに、キリストが主となって、私たちの内側にとどまり、私たちに働きかけるということによって起こるのです。そして、この悔い改めが起こること、即ち、キリストが私たちの内側にとどまることがある時に、信仰者は、真に御言葉に聞いているのです。自分の思いによってキリストの救いを判断するという形でなく、真にキリストに結び合わされるのです。

望むものがかなえられる
7節の後半では、更に、もし、キリスト、御言葉との間に、相互内在的な関係が結ばれるのであれば、望むものが何でもかなえられると語られています。望むものが何でもかなえられると聞くと、心に思い浮かべる自分の欲求が聞かれるというようなことを想像するかもしれません。しかし、ここでは、人間の欲望の実現が見つめられているのではありません。神様は人間の欲望を無制限にかなえてくれる、打ち出の小槌のようなものではないし、人間の立派な信仰に対するご褒美として願いを聞いて下さるような方でもないのです。ここでは、キリストと信仰者との相互内在的な関係が見つめられているのですから、当然、人間が一方的に欲求を押しつけることが出来るような神様の姿は、描かれていないのです。ここでは、神と人とが相互に結び合って行くことによって与えられる豊かな実りが見つめられているのです。私たちは、確かに日々の生活において、様々な人間の欲望に支配され、それらを実現したいという思いをもっています。しかし、それが、ここで語られている願いではありません。むしろ、ここでは、信仰者として生きる時に生じる願いが見つめられていると言っても良いでしょう。私たちは、信仰者としての豊かな実りを実らせ、真の救いにあずかって行くことを求めています。しかし、実際は、その真の実りを実らせることから離れて、自分勝手な実りを求めていたりするのです。自分は、信仰者として善い実りを実らせているかと聞かれれば、自信をもって肯定出来る人はいないでしょう。そのような意味で、信仰者は少なからず、豊かな実りを求めていながら、それとは全く異なる歩みをしている自分自身に苦しんでいるのではないでしょうか。ここで、語られている「望むもの」とは、信仰者としての豊かな実りを実らせ、救いにあずかって行くことなのです。だからこそ、続く8節では、「あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる」という言葉が続いて行くのです。つまり、神と人との相互内在的な関係が結ばれて行くところにこそ、真の信仰生活の実りが生まれていくと言うのです。更に、加えて、父なる神様が栄光を受けると言われています。信仰者の実らせる実りは、それによって人間が栄光を受けるようなものではなく、父なる神様が栄光を受けるのです。

わたしの愛にとどまりなさい
キリストと信仰者の相互内在的な関係を9節では次のように言い表しています。「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい」。ここで、主の愛にとどまるようにとありますが、「とどまる」という言葉は、これまで「つながっている」と訳されていたのと同じ言葉です。つまり、これまで語られて来た、キリストにつながっているということが、キリストの愛にとどまるという表現に置き換えられているのです。即ち、主イエスと信仰者が結び合う関係が、愛という言葉で表されているのです。愛にとどまるという方が、はるかに、キリストとの相互内在的な関係が表されると言って良いでしょう。愛というのは、まさに相互内在的な関係だからです。誰かを愛する時、自分が愛する者が、その愛の中にとどまることを求めます。そして、当然、相手も自分の愛の中にとどまることを求めているのです。そして、両者が、愛の中にとどまっていることによって、その関係は確かに愛によって結ばれた関係となるのです。相手のことを無視して、自分の熱心さだけを根拠に、相手をその自己中心的な愛に従わせようとするような一方的な関係は、愛によって結ばれた関係とはいえません。つまり、ここで、キリストが、「わたしの愛にとどまりなさい」とおっしゃる時、信仰者が一方的な愛でキリストを愛し、キリストにつながるようにと言うのではありません。キリストの方が、信仰者の下にとどまることによって、信仰者に愛を示しているのだから、その愛にとどまるようにと言うのです。信仰者がキリストの愛を無視して、自分の神様に対する愛を押しつけるのではなく、キリストの愛に応答する形で、その愛にとどまり、キリストを愛して行くのです。そのような、相互内在的な関係の中でのみ、真に主の愛にとどまっているのです。それは、ただ単純に、自分の力で、主を愛して行くと言うのではありません。主が、私たちの内にとどまって下さることと、私たちが主の愛の内にとどまることが結びついて、キリストとの関係がしっかりと結ばれるということに他ならないのです。

主の掟を守る
このような、キリストの愛にとどまるというようなことは、抽象的なことのようにも思います。しかし、これは、信仰生活の中で、具体的に表される実りをもたらして行くものです。10節には、「わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる」とあります。ここで、主の愛にとどまることと、主の掟を守ることが結びつけられています。「父の掟」とか「わたしの掟」と言われているものがどのようなことなのかは、12節で語られています。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」。私たちは、真に愛によって結ばれた関係を形作って行くことは出来ません。どこかで、自己中心的な愛に相手を引きつけようとします。しかし、キリストと結び合わされた者は、そこでキリストの愛をもって愛するということをも示されて行くのです。キリストとの愛の結びつきの中に入れられた者は、周囲の人々とも、互いに愛し合う関係に生きて行くのです。そして、又、互いに愛し合うという掟を守ることによって、信仰者は、キリストの愛にとどまっているのです。ここで、注意をしたいことは、信仰者が、隣人愛に生きることが出来れば、キリストとの愛の関係が与えられるというように、掟を守ることが条件として示されているのではないということです。キリストの愛にとどまっている人は、自然と、キリストの掟に生きているし、キリストの掟に生きていれば、自然と、キリストの愛にとどまっているのです。

父とキリストの関係
更に、ここでは父なる神様とキリストとの関係を根拠にして、キリストと信仰者との関係に結びつけられていることに注目しなくてはならないでしょう。9節で見つめられていることは、父なる神様がキリストを愛しておられるのと同じように、キリストは、信仰者を愛しているということです。又、10節で語られているのは、キリストが、父なる神様の掟を守り、その愛にとどまっているように、信仰者もキリストの愛にとどまっているようにと語られているのです。ここで語られていることは、信仰者は、キリストを通して、父なる神様と結び会わされ、更に、父なる神様とキリストの間にある完全な愛を映し出して行くということです。人間の愛は不完全なものです。自己中心的な愛で神を愛し、隣人との関係においても様々な破れを経験します。父なる神様と私たち人間の間の関係、又、人間同士の関係は、人間の罪によって引き裂かれているのです。しかし、そのような者が、キリストを通して、神と隣人に結びつけられて行くのです。神とキリストの間にある完全な愛が、キリストと私たちの間に映し出され、更には、私たちと隣人との間に映し出されて行くのです。そのようなことを聞くと、そんな大それたことは出来るはずがないと思うかもしれません。もちろん、それは、自分の力によってのみ成し遂げることではありません。ここで心にとめたいのは、キリストは、神の愛で、私たちを愛し、又、神の掟を守り神の愛にとどまって下さったことの結果として、何が実現したかと言うことです。それは言うまでもなく十字架の出来事です。キリストが、私たちを愛し、又、この世で、父なる神様の愛の掟に生きて下さった結果、人間の罪を担い、罪からの赦しを与えるために、十字架へと歩まれたのです。つまり、キリストは、十字架の出来事において、私たちの中にとどまりつつ、私たちの罪を担って下さると共に、その姿によって、私たちがキリストの愛にとどまり、隣人との関係において互いに愛し合って行くことがどのようなことなのかを身をもって示して下さったのです。だからこそ、信仰者は、キリストによる罪の赦しを受ける中で悔い改め、又、同時に、キリストによって愛の道を指し示されながら歩んでいくのです。そのことの中でのみ、愛に破れのある私たちが真に愛に生きる者とされるのです。それこそが、信仰者に与えられている真の実りなのです。

主の喜びに満たされる
11節には、「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである」とあります。ここで語られているのは、個人の喜びではなく、キリストの喜びです。このキリストの喜びが、私たちの内にあって、それによって、私たちの喜びが満たされるのです。キリストと結ばれ、主なる神様との関係が結ばれて行き、そのことによって生じるキリストの喜びが自分たちの喜びになって行くのです。そのことこそ信仰者の喜びがあります。自己中心的な愛を押しつけ、自分の欲求を満たして行くことによって、自分の喜びを満たそうとするのが私たち人間の姿なのかもしれません。そのような自己の満足を追求して行く姿勢でのみいる時、信仰生活においても、キリストにつながることにおいても、人間が主人になり、キリストは、自分が満足を得、自分の栄光のための手段になってしまうのです。私たちは、自分が信仰の実りを実らせていないことにも気づかずに、自分の追い求める人生の実りにのみ目を向けてしまうのです。しかし、そのような中で得られる個人の満足や喜びや実りは、本当の喜びではないのです。自分の栄光や喜びを追求することにあくせくしている私たちに向かって、主イエスは私たちのもとにとどまりながら、「わたしの愛にとどまりなさい」と語りかけておられます。私たちは、私たちの内側で語られる御言葉に生かされ、自らを悔い改めなくてはなりません、そのことの中で、キリストと結び合わされ、喜びに満たされつつ、神と隣人を愛する真の実りを実らせる歩みに押し出されて行くのです。

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