主日礼拝

あなたの罪は赦された

「あなたの罪は赦された」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: 詩編 第32編1-11節
・ 新約聖書: ルカによる福音書 第5章17-26節
・ 讃美歌:204、122、402

教えと癒し
 今私たちはルカによる福音書第5章において、主イエスが、お育ちになったナザレの町があるガリラヤ地方で伝道を始められた、その初期の活動の様子を読み進めています。主イエスはガリラヤの町々の会堂やその他いろいろな所で教えを語っておられました。それと並んで、これまで読んできたところにはいくつかの、病気の人の癒し、あるいは悪霊に取りつかれた人から悪霊を追い出すというこれも癒しのみ業が行われたことが語られてきました。教えを語ることと癒しを行うことが、主イエスの活動だったのです。本日の箇所の最初の17節にも、「ある日のこと、イエスが教えておられると」とあります。いつものようにこの日も、集まって来た人々に教えを語っておられたのです。そして17節の終わりのところには、「主の力が働いて、イエスは病気をいやしておられた」とあります。教えを語ると共に病気の癒しが行われていたことがこのように指摘されているのです。本日の箇所でも、教えを語っておられる中で、中風を患っている一人の人の癒しのみ業が行われます。主イエスにおいて、教えと癒しのみ業が不可分に結びついていることを、ルカはこのような仕方で語っているのです。

ファリサイ派の人々と律法の教師たち
 本日の箇所の話はマタイとマルコ福音書にもありまして、それによればこれはカファルナウムにおける出来事だったようです。主イエスはこの町をガリラヤにおける伝道の拠点としておられました。その、主イエスがいつも教えを語っておられた家に、この日は、ファリサイ派の人々と律法の教師たちが座っていた、と17節は語っています。さらに「この人々はガリラヤとユダヤのすべての村、そしてエルサレムから来たのである」とあります。近隣のガリラヤ地方の村々からのみでなく、ユダヤからも、その中心である首都エルサレムからも、ファリサイ派の人々と律法の教師たちが、イエスの教えを聞こうとして集まって来たのです。主イエスの噂は既にこのようにユダヤ人たちの全体に広まっていました。
 ファリサイ派の人々と律法の学者たちというのは、当時のユダヤ人たちの宗教的指導者であり、旧約聖書にある神様の掟、律法について学び、それに基づく生活を人々に教えていた人々です。彼らは、ユダヤ人が神様の民として生きていくための道を教えていたのです。その人々が主イエスのもとに来たのは、教えを受けるためと言うよりも、最近現れて評判になっているイエスという男がどんなことを教えているのか、それは果して律法に適った正しい教えなのか、を確かめるためでしょう。イエスを言わば試し、監視するために彼らは来たのです。ですからそこに座っている彼らの態度は、一生懸命教えを聞こうとする者の態度ではなく、腕組みでもしながらふんぞり返り、こいつはいったいどんなことを語るのか聞いてやろう、という傲慢なものだったでしょう。そういう人たちを前にして話をするのは気持ちのよいものではありません。

病人を吊り降ろす
 この日、主イエスが教えを語っておられると、突然、部屋の天井にボコッと穴があきました。当時のこの地方の家の天井は主に土で出来ています。ですから土のかけらや埃が人々の頭の上にパラパラと落ちて来ただろうと思います。みんながあっけに取られていると、天井の穴はますます大きくなり、そこから、一人の病人を寝かせた床が吊り降ろされてきたのです。その事情が18、19節に語られています。何人かの人々が、中風を煩っていて歩くことのできない男を床に乗せたまま運んで来て、主イエスの前に置こうとしたのだけれども、家には大勢の人々が詰めかけていて床を運び込むことができなかったので、屋根に上り、瓦をはがして穴を開け、病人を床ごと吊り降ろしたのでした。「瓦をはがして」とありますが、今の日本の家のように傾斜のある屋根に瓦が乗っているわけではありません。平らな屋根で、しかも家の外側に屋根に上るための階段が作られていたようです。ですから床を担いで屋根に上ることはそう難しいことではないのです。マルコ福音書には、この人々は「四人」だったとあります。床の四隅を持ってやって来て、その四隅を縄で縛って吊り降ろしたのでしょう。彼らは、この病人をなんとしても主イエスの前に連れて行って癒してもらおうとしてこのような行動に出たのです。

あなたの罪は赦された
 主イエスはこれを見てどうなさったでしょうか。20節「イエスはその人たちの信仰を見て、『人よ、あなたの罪は赦された』と言われた」。ここに、この話において注目すべき大切なことが示されています。まず、「その人たちの信仰を見て」とあることです。主イエスはここで、床に寝かされている病人のではなくて、彼を連れて来て、屋根に穴を開けて吊り降ろした友人たちの信仰を見つめられたのです。しかしその上で主イエスが語りかけられたのは、この病人でした。「人よ、あなたの罪は赦された」というのは、中風を患っている病人に対する言葉です。つまり、主イエスが信仰を見つめられた相手と、「あなたの罪は赦された」と宣言なさった相手とが違っているのです。このことには後で触れるとして、先ず、「あなたの罪は赦された」という主イエスの宣言について考えていきたいと思います。
 主イエスがこの宣言を語られた相手は、中風という病気を患っている人です。そのために、立ち上がることができず、勿論自分で歩くこともできず、人に抱えられなければどこにも行くことができない生活をしていたのです。この人はそのような深い苦しみ、嘆きの中にいました。私たちがここでしっかりと見つめなければならないのは、主イエスが、この人に対してお語りになったのは、「あなたの罪は赦された」という言葉だった、ということです。主イエスはこの言葉によって、この人に対する救いを告げておられるのです。前回読んだ12節以下には、重い皮膚病にかかった人が癒された話がありましたが、そこで主イエスは「よろしい。清くなれ」と言ってその人を癒されました。本日の箇所においてそれに当たる言葉はこの「あなたの罪は赦された」なのです。主イエス・キリストは、人々が抱えている様々な問題、苦しみや悲しみとしっかり向き合い、そこにおいて必要な救いのみ業を行なって下さいます。一人一人に、一番必要な言葉を語りかけて下さるのです。この人においてはそれが、「あなたの罪は赦された」という宣言だったのです。

罪の赦しの宣言
 この罪というのは、私たちが日々犯すいろいろな過ち、不正、隣人を傷つけてしまうような一つ一つの言葉や行いのことではありません。それらの根本にあるもの、それら全てを生み出している源が罪です。毎週礼拝前に行なわれている求道者会で学んでいる「ハイデルベルク信仰問答」においてはそれは、生まれつき神様をも隣人をも憎んでしまう私たちの傾向のことだと言われています。神様を愛するのではなくてむしろ憎んでしまうことが罪なのです。神様を憎む、なんて言われてもピンと来ないかもしれませんが、それは、神様のみ心に従おうとしない、ということだけでなくて、神様が造り、生かして下さっている自分自身を憎んでしまうこと、神様が自分に与えておられる様々な境遇や出来事、つまり世間の言葉で言えば自分の定めとか運命を憎んでしまうことです。要するに自分が今ここでこのような者として生きていることを喜び受け入れることができないという思い、それが神様を憎むことなのです。そのように神様を憎んでしまう時に私たちは、隣人をも喜び受け入れ、愛することできなくなります。隣人に対して嫉妬したり、その裏返しとして隣人のことを軽蔑したり、いずれにしても隣人を憎み、よい関係を築けなくなるのです。私たちは誰でも皆、こういう罪を抱えています。そこから、個々具体的ないろいろな悪、過ち、不正などが生じてくるのです。隣人との間で、お互いに傷つけ合ってしまうことが起るのです。それらの問題を解決するためには、根本の所にある罪をどうにかしなければなりません。しかし私たちは自分で自分の罪をどうにかすることができないのです。罪は、神様がそれを赦して下さることによってしか解決しません。神様のことを憎んでしまう私たちを、にもかかわらず神様が愛して下さり、その愛によって憎しみを取り除いて下さり、私たちと新しい、よい関係を結んで下さる、それが神様による罪の赦しです。「あなたの罪は赦された」という宣言が神様から与えられることによってこそ、私たちは神様を愛し、また隣人をも愛することができるようになるのです。それが主イエスによって与えられる救いです。主イエスはこの救いをこの人に宣言して下さったのです。それはこの人だけでなく、私たち全ての者が本当に必要としている救いなのではないでしょうか。主イエスが人々に教え、語っておられたのは、この救いの到来なのです。ルカは4章18節において、主イエスが語られた教えは「捕われている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げる」福音、よい知らせ、喜びの知らせであると語っていますが、「あなたの罪は赦された」という宣言こそ、この福音、主の恵みによる解放を告げる言葉なのです。この宣言によって私たちは、神様と隣人とを憎んでしまう罪から解放され、神様を愛し、隣人を愛して生きることができる本当の自由を与えられるのです。

冒涜の言葉?
 さて主イエスは、この人が本当に必要としている救いのみ言葉をお語りになりました。ところがそれを聞いた律法学者やファリサイ派の人々は、心の中で「これは問題だ」と思ったのです。「あなたの罪は赦された」などと言うなんて、この男は自分を何者だと思っているのか。神お一人の他に、人間の罪を赦すことができる者などいるだろうか。神にしかできないことを自分がするかのように宣言するなんて、イエスは神を冒涜している、それが彼らの思いです。彼らは先程申しましたようにもともと、イエスのことを監視し、おかしなことを言っていないかテストしようと思って来ているわけです。そのような目で主イエスを見ている彼らには、主イエスの救いの宣言は冒涜の言葉としか聞こえないのです。

どちらが易しいか
 主イエスは彼らの思いを見抜いて、彼らに一つの問いを投げかけられました。「何を心の中で考えているのか。『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか」。この問いは、彼らの心の中の思いをあぶり出す問いです。中風で寝たきりの人に、「あなたの罪は赦された」と言うのと、「起きて歩け」と言うのと、どちらが易しいでしょうか。彼らは、そしておそらく私たちも、「あなたの罪は赦された」と言う方が易しい、と思っているのです。「起きて歩け」と言うことは、この人の病気が癒され、起き上がって歩けるようになるという目に見える結果が伴わなければならないから、こちらの方がずっと難しい。イエスは、「あなたの罪は赦された」などという、結果がはっきり現れない、実現したのかどうかが分からないようなことを言って、自分を偉いもの、権威ある者のように見せかけているのだ、と彼らは思っているのです。

罪の赦しは抽象的観念?
 この彼らの思い、おそらく私たちも抱いているこの思いは、二重の意味で間違っています。第一に、彼らは、そして私たちも、罪の赦しの宣言などというものは、言葉だけでいくらでも与えることができる、そしてそれが本当に実現したかどうかを目に見える仕方で確かめることはできない、つまりそれは頭の中、心の中だけの問題に過ぎないのだ、と思っているということです。それが第一の根本的な間違いです。そして第二の間違いはこれと結びついていますが、人間にとって、罪の赦しなどということよりも、病気であるとか、生活の上での苦しみ、悲しみ、経済的不安、あるいは人間関係の苦しみ、そういうことの方がずっと切実な、具体的な問題なのであって、罪の赦しなどというものは抽象的な観念の中だけのことだ、という思いです。この二つのことが前提となっているがゆえに、「あなたの罪は赦された」という主イエスの言葉を、そんなことを言うだけなら誰でもできる、この人にとっては病気こそが一番大事な問題なのであって、「起きて歩け」と言うことこそがずっと難しい、そして本当に必要なことなのだ、という思いが生まれるのです。

罪を赦す権威
 主イエスはその彼らの間違いを明らかにするために、「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」とおっしゃり、中風の人に、「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と言われました。するとその人はすぐさま、皆の前で立ち上がり、主イエスのお言葉通りに、寝ていた台を取り上げて、神様を賛美しながら家に帰って行ったのです。このようにして、主イエスの奇跡によってこの人の病気は癒されたのです。しかしこれは、単なる病気の癒しの業ではありません。主イエスがこの癒しのみ業をなさったのは、「人の子(それは主イエスがご自分のことを呼ぶ時によく用いられた言い方です)が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせ」るためでした。この癒しのみ業によって、主イエスの、罪を赦す権威が明らかにされているのです。それはどういうことでしょうか。一つの考え方としては、人々がこちらの方が難しいと思っている病気の癒しの業をすることによって、もう一つの、より易しいと思われている、「あなたの罪は赦された」と宣言する権威、力を主イエスが持っておられることを示す、ということかもしれません。私も以前はそういうことかなと考えていましたが、今は、そうではないと思うようになりました。「どちらが易しいか」という問いは、私たちの思いを明らかにするためであって、主イエスご自身はそういう論理の中で行動しておられるのではありません。むしろここで主イエスは、「あなたの罪は赦された」というご自分の宣言が、言葉だけの、抽象的な観念の中だけのことではなくて、この世を生きる私たちの人生の現実に「起き上がり、床を担いで家に帰る」という具体的な実りをもたらすものだということを示して下さったのです。この人は、立つことも歩くこともできなかったのが、自分の足で起き上がることができるようになりました。彼が寝かされていた床、それは彼が、人によって担がれ、持ち運ばれなければどこにも行くことができなかったことの象徴です。しかし今や彼はその床を担いで歩き出しました。担がれなければならなかった者が、担ぐ者へと変えられたのです。そしてもう一つ、彼は神を賛美しながら帰って行きました。神に感謝し、神を愛し、賛美する言葉が、歌が、彼に与えられたのです。「あなたの罪は赦された」という主イエスの宣言は、彼にこのような目に見える具体的な新しい生活を与えたのです。主イエスの教え、み言葉と、癒しのみ業とはこのように結びついています。主イエスがみ言葉をもって教えられたことは、そのみ業によって現実となり、私たちの生活を具体的に新しくするのです。「あなたの罪は赦された」という主イエスの教えがそのような権威と力とを持ったものであることを示すために、「起き上がり、床を担いで家に帰れ」という癒しのみ業が行われたのです。

罪の赦しの具体的恵み
 主イエス・キリストによって与えられる罪の赦しの恵みは、決して言葉だけの抽象的な観念の中の事柄ではありません。私たちはこの宣言をいただいて、具体的に新しく歩み始めることができるのです。なぜなら、主イエスによる罪の赦しは、言葉によって与えられたのみではなかったからです。神様の独り子、まことの神であられる主イエスが、この罪の赦しの福音の実現のために、私たちと同じ人間となってこの世に来て下さったのです。そして主イエスは、神様をも隣人をも憎んでしまう私たちの罪の全てをご自分の上に引き受けて、私たちの代わりに十字架にかかって死んで下さいました。具体的な苦しみと死とを、私たちのために引き受けて下さったのです。この主イエスの死によって私たちの罪は赦され、そして主イエスの復活によって、神様とのよい関係に生きる新しい命が私たちに与えられたのです。神様のことを憎んでしまう私たちを、にもかかわらず神様が愛して下さり、その愛によって憎しみを取り除いて下さり、私たちと新しい、よい関係を結んで下さった、それが罪の赦しだということを先ほど申しました。この神様の愛は、独り子イエス・キリストの十字架の死と復活において、具体的に示され、与えられているのです。「あなたの罪は赦された」という主イエスの宣言は、この主イエスの十字架と復活とによって示された神様の愛によって裏付けられています。私たちは主イエスが示して下さったこの神様の愛の中で、神様と隣人を愛して生きる者へと変えられていくのです。この神様の愛のゆえに、私たちは、神様によって造られ、生かされている自分自身を喜び受け入れることができます。隣人に対して嫉妬や軽蔑の思いを持つのでなく、自分と同じように神様によって造られ、生かされている者として隣人を喜び受け入れ、よい関係を築いていくことができるのです。

隣人を担う
 隣人との新しい関係、それは隣人を担うことができる関係です。この人は友人たちに担がれて主イエスの前に連れて来られたことによって、罪の赦しを与えられ、新しくされて、今度は床を担ぐ者となったのです。それは、彼が今度は誰かを担いで主イエスのもとに連れて来る者となる、ということを象徴しています。苦しんでいる人、立ち上がることができなくなっている人の床を担いで、主イエスのもとに連れて来るのです。勿論それは一人でできることではありません。主イエスを信じ、その救いにあずかった仲間たちと力を合わせて、一人の人を主イエスのもとに運ぶのです。そして必要とあれば、人の家の屋根に穴を開けてまで、その人を主イエスのみ前に置こうとするのです。主イエスは、そのようにした彼の友人たちの信仰を見て、彼に「あなたの罪は赦された」と宣言して下さいました。今度は彼がその信仰に生きる者となるのです。人の家の屋根に穴を開けるなんて、とんでもない非常識な行為です。しかし一人の友人の救いのためにそこまですることの中に、主イエスは真実の信仰を見て下さるのです。伝道には、このようなある意味型破れの、破天荒なことも時として必要だ、ということでしょう。自分自身がそのようにして救われたことを知っている者こそ、そのように生きることができるのです。

本当に驚くべきこと
 主イエスによって与えられる罪の赦しの恵みは、私たちをこのように立ち上がらせ床を担いで歩き出させるものです。私たちの日々の具体的な生活が、神様への賛美と、解放と自由の喜びによってこのように新しく動き出すのです。26節には、「人々は皆大変驚き、神を賛美し始めた。そして、恐れに打たれて、『今日、驚くべきことを見た』と言った」とあります。人々は大変驚きました。その驚きは、中風の人が癒されたという奇跡を見た驚きではありません。本当に驚くべきことは、まことの神であられる主イエス・キリストによる罪の赦しの宣言が、このような喜びに満ちた新しい生活を現実的具体的に私たちに与えるということです。私たちは、毎週の主の日の礼拝において、主イエスから、「あなたの罪は赦された」という権威ある宣言をいただきつつ歩んでいます。それは言葉だけの、抽象的観念的なものではありません。この宣言によってもたらされる喜びに満ちた新しい歩みが、聖霊のお働きによって、私たちの日々の具体的な生活の中に実現していくのです。そのことを信じて祈り求めていきたいのです。

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