「逃亡者モーセ」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書: 出エジプト記 第2章11ー25節
・ 新約聖書: 使徒言行録 第7章23ー29節
・ 讃美歌 : 166、477
歴史の主
旧約聖書出エジプト記は、ヘブライ人、つまりアブラハムの子孫であるイスラエルの民が、奴隷とされ苦しめられていたエジプトから脱出して、彼らの先祖に主なる神様が約束して下さっていたカナンの地へと旅立つ、その大いなる脱出の物語です。このことはおよそ紀元前1200年ごろの出来事であったと考えられています。主なる神様によってこの大いなる救い、解放が与えられたことが、イスラエルの民の信仰の原体験となりました。旧約聖書の信仰の中心は、この出エジプトの出来事にあると言ってもよいのです。自分たちはエジプトで奴隷とされ苦しい思いをしていたが、主なる神様によって解放されて約束の地カナンへと導かれた、それがイスラエルの民の誰もが共有する民族としての自己理解だったのです。それぞれの民族は、それぞれを結びつける絆となる共通の物語を持っています。イスラエルにおいては出エジプトの出来事がそれに当たるのです。そしてそこに、イスラエルの民の、つまり旧約聖書の信仰の特色もまた示されています。つまりイスラエルにとって、神様は、大自然の神秘の中に存在する人間を超えた力のような方ではないのです。旧約聖書の信仰は、自然崇拝、例えば太陽を拝んだり、山に向かって手を合わせたり、火を崇拝するようなことから生まれたものではなくて、そもそも始めから、人間の歴史を支配し、その中で救いのみ業をなさる神様との出会いであり、交わりだったのです。別の言い方をすれば、イスラエルにとって神様は、最初から、人格的な存在だったということです。人格的な存在とは、出会いと交わりの相手となるような存在ということです。あるいは、言葉を持つ存在と言うこともできます。言葉をもって人間に語りかけ、また人間からの語りかけに答えて下さる神様です。そのような神様が、奴隷として苦しんでいたイスラエルの人々に語りかけて下さり、エジプトからの脱出、解放のみ業を行って下さったのです。歴史の中で行われたその救いを感謝をもって振り返り、今も、そしてこれからも歴史を導いておられる神様を信じて、この神様との対話、交わりに生きることこそが、イスラエルの民の、旧約聖書の信仰なのです。このような信仰のゆえに、イスラエルの民は、歴史の荒波の中を、民族のアイデンティティーを失わずに歩み続けることができました。国を滅ぼされてしまうことも一度ならずあり、他国に捕え移されてしまったり、千数百年にわたって自分たちの国を持たず、いろいろな国に離散して歩んだこともありましたが、今日に至るまで民族の伝統を保つことができたのです。このことが示しているのは、歴史を支配し導く人格的な神を信じ、その神との交わり、対話に生きる信仰こそが、苦しみ、試練の中で人間を本当に生かし、支えることができるのだということです。
モーセの葛藤
さて、歴史を支配する主が、奴隷とされていたイスラエルの民をエジプトから脱出させて下さった、その大いなる解放、救いのみ業のために用いられたのがモーセでした。出エジプト記はこのモーセの生涯を描くことによって神様の救いのみ業を語っています。前回読んだ2章1~10節には、モーセの数奇な生い立ちが語られていました。彼はヘブライ人の家に生まれましたが、その頃、エジプトの王ファラオは、ヘブライ人に生まれた男の子はナイル川にほうり込んで殺せと命じていました。両親はしばらく彼をかくまっていましたが、これ以上隠し切れなくなり、防水した籠に赤ん坊を入れてナイル川に流しました。子供の運命を神様のみ手に委ねたのです。その結果、エジプトの王女が彼を見つけて自分の子として育てることになりました。モーセという名も、水の中から引き上げた(マーシャー)という言葉から、この王女が着けたのです。こうしてモーセは、奴隷の民ヘブライ人でありながら、支配者であるエジプトの王家の一員として育てられることになったのです。このことが、彼の人格の形成に大きな、そして複雑な影響を与えたことは想像に難くありません。彼は自分がヘブライ人であることを知っていました。つまり、自分の同胞たちが奴隷として苦しめられ、虐げられていることを知っていたのです。しかし、本来ならその人々の中にいるはずの自分が、エジプトの宮廷におり、王家の一員として、贅沢な、安穏な生活をしている。同胞を支配し、苦しめている人々の中で、その一員として生きているのです。このことは彼の心に大きな葛藤を生み出したでしょう。自分はこれでよいのだろうか、このままエジプトの王家の一員として、同胞の苦しみに目を塞ぎ、自分の平穏な生活を守っていくということでよいのだろうか、それはよくないとすれば、いったい何をすべきなのだろうか、自分に何ができるのだろうか、そういう思い悩みが、成長するにつれて彼の心を大きく占めていっただろうと思います。本日の箇所、2章11節以下には、そのような中でモーセが何を決断し、行ったかが語られているのです。
決断
11節の始めに、「モーセが成人したころのこと」とあります。自分で決断し、行動することができる大人になって、ということです。そのモーセが決断したのは、虐げられ、苦しめられている同胞のために何かをして助けようということでした。もはやこのことに目を塞いで、自分は関係ないと見て見ぬふりをしていることはできない、何かをしなければ、と思ったのです。彼は自分個人の安穏な生活を守ることよりも、民族としての自覚、同胞に対する義務を果たすことを選ぶ決心をしたのです。11節の続きに、「彼は同胞のところへ出て行き、彼らが重労働に服しているのを見た。そして一人のエジプト人が、同胞であるヘブライ人の一人を打っているのを見た」とあります。ここに「同胞」という言葉が二度繰り返されています。そこにモーセの思いが現れていると言えるでしょう。自分はあの重労働に服し、鞭打たれているヘブライ人たちの同胞だ、同胞である彼らのために何かをしなければ、という思いです。そのような思いが爆発するままに彼がしたことは、12節「モーセは辺りを見回し、だれもいないのを確かめると、そのエジプト人を打ち殺して死体を砂に埋めた」ということでした。ここには彼の「同胞を助けるために何かをしなければ」という強い思いと、しかしそれを実行するに当たっての深い恐れとが見て取れます。「辺りを見回し、だれもいないのを確かめると」という所に、また殺したエジプト人の死体を砂に埋めて隠したところにそれが現れています。彼は恐怖に捕えられているのです。内心深く恐れながら、しかし同胞のために、その苦しみを救うために、立ち上がったのです。
挫折
13節には、その翌日のことが語られています。「翌日、また出て行くと、今度はヘブライ人どうしが二人でけんかをしていた」。モーセは再び同胞たちの中に出かけて行ったのです。それは、自分が何か同胞たちのために出来ることはないか、同胞を救う働きができないか、という思いからでしょう。すると今度は、ヘブライ人どうしが喧嘩をしていたのです。彼は「これはいけない」と思いました。我々は皆同胞であり、仲間、友ではないか。しかも今我々はこのエジプトで奴隷の身に落とされている。そういう苦境にみんなが置かれているのだ。同胞どうしで喧嘩をしている場合か。むしろみんなが力を合わせてこの苦しみに立ち向かうべきではないのか…。そのように思ったモーセは、喧嘩の仲裁に入り、明らかにこちらの方が悪いと思える人をたしなめて、「どうして自分の仲間を殴るのか」と言ったのです。ところがそれに対するその人の反応は、モーセの心を凍り付かせました。14節にあるように彼は、「誰がお前を我々の監督や裁判官にしたのか」と言い返したのです。「お前はいつから俺たちの監督や裁判官になったのか。お前の言うことを聞く気はない。でしゃばった口をきくな」。この男の言葉には、モーセに対する激しい反感、敵意があります。それは単にモーセが彼をいさめたことに対する腹立ちのみではないでしょう。そこには、彼らとモーセの立場の違いから来る反感があったのです。「お前はこうやってのこのこと奴隷として苦しめられている俺たちの所に出てきて、偉そうなことを言っているが、どうせ夜になればあのエジプトの宮殿に帰って、うまいものを食って、あったかい布団に寝て、ぬくぬくと暮らしているんだろう。そういう生活をしているお前に、俺たちの日々の苦しみが、虐げられている者の悲しみが分かるものか。俺たちの苦しみを分かりもしないくせに、同胞だの仲間だのと知ったふうなことを言うな。俺たちはお前を仲間だなどと思っていない」。そういう敵意がこの男の言葉には感じられるのです。そしてこれはモーセにとって、自分でも感じている最も痛いところでした。彼はまさにこのことを悩み苦しんできたのです。自分はヘブライ人でありながら、同胞の苦しみを共有することができていない、これではいけない、何とか少しでも同胞のために働き、助け、その問題を分かち合いたい、彼はそう思って一大決心をし、身の危険を犯してあのエジプト人を打ち殺したのです。ところが彼のそういう葛藤や純粋な気持ちが、同胞たちに少しも理解されていない、受け入れられていない、その事実を彼は突き付けられたのです。しかもこの男はさらに「お前はあのエジプト人を殺したように、このわたしも殺すつもりか」と言いました。昨日のことがもう知れ渡っている、しかもそれが、モーセが同胞であるヘブライ人を助けたという連帯の行為として好意的に受け止められているのではなくて、彼が自分の気に入らない人を打ち殺したというただの乱暴狼藉として伝え広められているのです。それは昨日彼が助けたヘブライ人が、そのことを仲間たちに話した時に、モーセに助けてもらったという感謝ではなくて、エジプトの王室育ちのあのモーセが、何の気まぐれを起したのかエジプト人を打ち殺して自分を助けた、ああいう苦労知らずの甘やかされた奴は気分次第で何をしだかすか分からないぞ、などと言ったということかもしれません。同胞として何かをしたい、助けたい、という思いでいるモーセのことを、当のヘブライ人たちはそのような冷たい、反感に満ちた目で見ているのです。このことを示されたモーセは、同胞のために何かをしようとした決心に冷水を浴びせられ、燃え上がった決意は一気に冷めてしまいました。そして後に残ったのは、自分にはもうどこにも居場所がない、という事実でした。エジプトの王家で育てられながら、エジプト人を打ち殺した彼は、裏切り者としてファラオの怒りを買い、命をねらわれることになり、さりとて同胞であるヘブライ人たちにも受け入れられず、独りエジプトから逃げ出さなければならなくなったのです。
逃亡者モーセ
エジプトを逃げ出したモーセはミディアン地方にたどりつきました。ミディアンというのは、アラビヤ半島北西部を根拠地としていた遊牧民の名です。モーセはその人々の所に身を寄せることになったのです。そしてミディアンの祭司レウエル、この人の名は3章に入ると「エトロ」となるのですが、その人の娘であるツィポラと結婚して、羊の群れを飼う者となりました。このあたりの話は、創世記29章で、やはり故郷を追われて逃亡していったヤコブがハランの井戸の所で後に妻となるラケルと出会う話と重なります。モーセも、逃亡先のミディアンの地に落ち着き、そこで結婚し、子供も生まれ、そこそこに安定した生活を送るようになったのです。それが、本日の箇所でモーセがたどりついた姿です。このモーセの姿は、一旦は志を立てて同胞のために立ち上がろうとしたが、そのとたんにつまずき、挫折し、逃げ出した逃亡者の姿です。彼はミディアンの地で、もはや同胞であるイスラエルの民のことなど考えず、彼らのために何かをしようという志も捨てて、自分の家族の幸せだけを考えるマイホームパパになって、ひっそりと暮らしていたのです。出エジプトという神様の大いなる解放、救いのみ業のために用いられていったのはこのモーセでした。彼がミディアンの地に逃れてから何年も経ったある日、主なる神様が彼に出会い、語りかけ、彼を出エジプトの指導者としてお遣わしになったのです。そのことは第3章以下に語られていきます。この第2章における挫折した逃亡者モーセと、3章以下に語られていく出エジプトの指導者モーセとの間には、まことに大きな断絶があります。2章にあるのは、決心して立ち上がってみたものの、同胞たちにも受け入れられずにたちまち挫折し逃亡したモーセなのです。
神のご計画
この惨めな逃亡者モーセを、出エジプトの偉大な指導者モーセに変えたのは何なのでしょうか。その秘密は、23節以下に語られています。23~25節にこう書かれています。「それから長い年月がたち、エジプト王は死んだ。その間イスラエルの人々は労働のゆえにうめき、叫んだ。労働のゆえに助けを求める彼らの叫び声は神に届いた。神はその嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。神はイスラエルの人々を顧み、御心に留められた」。モーセがミディアンの地で、自分と家族の生活のことのみを考えて生きている間に、イスラエルの人々の、奴隷の苦しみの中からの助けを求めるうめき、叫びの声が神様に届いたのです。24、25節には、「神は」という主語が繰り返され、強調されています。神が彼らの嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こして下さったのです。また神が、イスラエルの人々を顧み、御心に留めて下さったのです。この、神のみ心こそが、第2章と第3章を結びつけています。自分の決心と志においては全く挫折し、逃亡者となるしかなかったモーセを、新しく立て、大いなるみ業のために遣わし、用いたのは、この神のみ心だったのです。そこに、神様のご計画が示されています。23節に、イスラエルの人々の叫び声が神に届いたとあり、24節で、神がアブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされたとあるのは、それまでは神様はイスラエルの人々の苦しみに無頓着であったとか、先祖たちとの契約を忘れてしまっていた、ということではありません。そうではなくて、この時にこそ、神様の救いのご計画における時が満ちたということです。モーセが、イスラエルの人々に受け入れられず、挫折して他国に逃亡し、もはや自分と家族の生活のことしか考えずに生きる者となった、そのことによって神様の救いのご計画の時が満ちるのです。出エジプト記はそのことを意図的に語っています。エジプトからの解放の出来事は、モーセという偉大な人物の働きによって成されたのではなくて、主なる神様が、人々のうめき苦しみの声を聞き、契約を思い起こし、民を顧み、御心に留め、そして人間の決意や志においては完全に挫折し、逃亡するしかなかったモーセを立て、遣わすことによって成し遂げて下さった神様のみ業だったのです。
神様の救いのみ業は常にこのようにして行われます。本日のこの物語は新約聖書においても見つめられています。それが本日共に読まれた使徒言行録第7章23節以下です。そこをもう一度読んでみます。「四十歳になったとき、モーセは兄弟であるイスラエルの子らを助けようと思い立ちました。それで、彼らの一人が虐待されているのを見て助け、相手のエジプト人を打ち殺し、ひどい目に遭っていた人のあだを討ったのです。モーセは、自分の手を通して神が兄弟たちを救おうとしておられることを、彼らが理解してくれると思いました。しかし、理解してくれませんでした。次の日、モーセはイスラエル人が互いに争っているところに来合わせたので、仲直りをさせようとして言いました。『君たち、兄弟どうしではないか。なぜ、傷つけ合うのだ。』すると、仲間を痛めつけていた男は、モーセを突き飛ばして言いました。『だれが、お前を我々の指導者や裁判官にしたのか。きのうエジプト人を殺したように、わたしを殺そうとするのか。』モーセはこの言葉を聞いて、逃げ出し、そして、ミディアン地方に身を寄せている間に、二人の男の子をもうけました」。この中の25節に注目したいと思います。これは、使徒言行録の著者の、モーセの行動についての解釈です。つまりモーセは初め、自分の手を通して神が兄弟たちを救おうとしておられることを同胞たちが理解してくれると思って行動を起したのです。しかしその彼の思いは人々に受け入れられず、彼は挫折し、逃亡するしかありませんでした。そのことを経て、今度は神様ご自身が彼を立て、用いて下さったのです。その後のところ、35節にこうあります。「人々が、『だれが、お前を指導者や裁判官にしたのか』と言って拒んだこのモーセを、神は柴の中に現れた天使の手を通して、指導者また解放者としてお遣わしになったのです」。25節の「自分の手を通して」とこの35節の「天使の手を通して」とが対照的です。モーセを民の指導者、解放者として立てたのは、モーセ自身の手ではなく、天使の手、つまり神様のみ手、み心、ご計画だったのです。
恐れから解放されて
この神様のみ手、み心、ご計画による救い、解放のみ業が私たちのために決定的になされたのが、神様の独り子イエス・キリストにおいてです。エジプトで奴隷とされているイスラエルの民の姿は、罪に支配され、その奴隷となっている私たちの生まれつきの姿と重なります。罪の支配の下で、私たちは自由を失い、互いに愛し合い支え合うことができなくなり、むしろいがみ合うような病んだ関係しか築けなくなっているのです。私たちはそのような中で、なんとか人のためになることをしよう、良い関係を築こうと努力します。しかし、同胞のために何かをしようと決心して行動を起したあのモーセと同じように、私たちの努力は空回りし、仲間のためと思ってしたことが受け入れられなかったり、よい関係を築こうとして喧嘩の仲裁に入ったら逆に恨まれてしまったりするのです。罪に支配された奴隷根性が私たちの身にしみついているのでそういうことになるのです。そのような体験によって私たちは挫折を覚え、人との関わりを恐れるようになり、逃げ出して自分一人の、あるいは家族のみの幸せを追い求める生活に引き蘢るようになります。周囲の現実には目を塞いで、自分のことだけを考えて生きる方が余計なトラブルに巻き込まれないですむ、という思いに捕えられていきます。そのようにして、罪の奴隷状態はいつまでも続いていくのです。この罪の支配を打ち破ることは、私たちの力ではできません。それをして下さるのは神様です。神様はその独り子イエス・キリストをこの世に遣わして下さり、その主イエスが私たちの全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さったことによって、罪の支配を打ち破り、私たちを奴隷状態から解放して下さったのです。この主イエス・キリストによる、神様の恵みの罪に対する勝利にあずかり、それによって新しくされることによって初めて、私たちは、恐れから解放されて、私たちを支配している罪と戦っていくことができるようになるのです。自分の決心によって行動を起したモーセが挫折したのは、彼が内心に深い恐れに捕えられていたからです。彼は辺りを見回し、誰もいないのを確かめてからでなければ行動できません。また打ち殺したエジプト人の死体を砂に埋めて隠したのです。それは勇気ある行動と言うよりも、臆病者が自分の恐れを隠すために勇気を装い、虚勢を張っているような姿です。自分の力や決意によって歩もうとする時に、私たちはこのように虚勢を張ることしかできないのです。しかしそのように恐れに支配されていては、罪の力を打ち破ることはできません。3章以降の、神様によって遣わされたモーセは、もはや自分の力や決意によって歩んではいません。人格的な神様との出会いを体験し、神様からの語りかけを受け、歴史を支配し導く神様との交わりと対話の中で歩む者とされたのです。そのことによって彼は全く新しくなりました。2章のモーセとは全く別人のような、恐れから解放された、力と自信に満ちた指導者となり、様々な困難、妨げの中で、イスラエルの民のエジプトからの脱出を実現することができたのです。
主イエス・キリストを信じ、その十字架による罪の赦し、私たちを支配する罪の力に対する神様の恵みの勝利にあずかって生きる者となるなら、私たちにも、このモーセに起ったのと同じ変化が与えられます。独り子を救い主として遣わして下さる恵みによってこの世界の歴史を、そして私たちの人生を支配し、導いておられる神様からの語りかけを受け、その神様との交わりに生きることによって、私たちは恐れから解放され、臆病とその裏返しである虚勢を捨て、人を恐れることなく、困難や妨げ、無理解の中でも希望を失うことなく、本当に自由な心で隣人を愛し、自分たちに染み付いている奴隷根性と戦って、良い関係を築いていくために努力していくことができるようになるのです。