主日礼拝

主が与える平和

「主が与える平和」  伝道師 嶋田恵悟

・ 旧約聖書: 詩編第29編1ー11節
・ 新約聖書: ヨハネによる福音書第14章25ー31節
・ 讃美歌:1、54、344

平和・平安
 本日の説教題を「主が与える平和」としました。先ほど朗読された聖書箇所のヨハネによる福音書14章27節で、主イエスは、「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える」とお語りになっています。主イエス・キリストが与えて下さる平和があるのです。
私たちは平和と言うと、真っ先に、争いがない状況を思い浮かべます。この世には、様々な争いがあります。人類の歴史の中で戦争が絶えたことはありません。日本にも悲惨な戦争の歴史があります。又、争いは戦争だけに限りません。個人の間にも争いがあり、その結果、人命が奪われ殺人事件にまでなるということもあります。そして、実際に命を奪い合うということはないにしても、私たちは、隣人との間に生じる様々な諍いや、それによって生まれる憎しみの思いから自由ではありません。私たちは極力、そのような争いは避け、平和に歩みたいと願っています。更に、争いがなければ平和なのかと言えば、決してそうではありません。ここで平和と訳されている言葉は、以前用いていた口語訳聖書では平安と訳されていました。私たちにとって、心が安らいでいるということがとても大切です。人々との争いは、もちろん私たちの平安を乱しますが、たとえ、争いがなくても、私たちは、様々な心配や不安や恐れを抱えています。事故や病気を心配することがあります。又、生きている環境が急激に変化する中で、将来に対する不安も抱きます。自分の命が取り去られる時のことを考え恐れを抱くこともあるでしょう。争いがなくても、不安や心配に囲まれていれば、それは平和・平安とは言えないでしょう。そのような心配、不安、恐れは、出来るだけ取り去りたいと思います。私たちは、戦争や争い、不安や心配に囲まれた世にあって、誰しも平和の実現のために努力し、又、心から平安を求めています。ですから、主イエスが、「わたしの平和を与える」とおっしゃって下さることは、私たちにとって大きな慰めなのではないでしょうか。私たちは、今日、主イエスが与えて下さる平和・平安について示されたいと思います。

心を騒がせる
主が与える平和を考えるに際し、先ず、主イエスが、どのような状況の中で、この言葉をお語りになったのかを見つめたいと思います。ヨハネによる福音書は、第14章から、主イエスの訣別説教が始まります。主イエスが世を去られる前に、弟子たちにお語りになった最後の説教です。主イエスが、この説教をお語りになった時、そこには、平和・平安とは程遠い状態がありました。そのことは、この訣別説教の最初の言葉、14章1節が「心を騒がせるな」という主イエスの語りかけで始まっていることに明確に表れています。この「心を騒がせる」と言う表現はヨハネによる福音書のキーワードです。それは、まさに、この福音書において、平和・平安と対立する概念と言っても良いのです。ここで「心を騒がせる」とはどのようなことなのでしょうか。言葉から普通に考えれば、心配や不安や恐れで心が満たされている状況を想像出来ますが、その本質をもう少し詳しく見つめてみたいと思います。
この時、主イエスは逮捕され、十字架につけられようとしています。主イエスの死が迫っているのです。この主イエスの十字架は、単に、罪を犯していない人が冤罪で捕まり、死刑に処せられるというようなことではありません。神の子として世に来られた主イエスが、罪に支配された人間の手によって裁かれるということです。つまり、主イエスの十字架は、真の神を殺し、自分が神に成り代わり、自分中心に歩むという人間の罪の力が極まった時、その結果として起こった出来事なのです。そして、心を騒がせるとは、そのような罪の力を前にし、それと向かい合う者に引き起こされる状態なのです。だからこそ、十字架に向かって歩んでいく、主イエスと弟子たちは、十字架への道のりを進むに連れて、心騒ぐ思いが高まって行くのです。この時、誰よりも、主イエスご自身が心を騒がせておられました。12章27節には、主イエスが、「今、わたしは心騒ぐ」とおっしゃったことが記されています。更に、13章の21節には、「イエスはこう話し終えると、心を騒がせ、断言された」とあります。なぜなら、主イエスこそが、ご自身の身に起こることになる十字架の死を見つめ、誰よりも真剣に罪の力と向かいあっておられたからです。そして、主イエスが、心を騒がせる中、主イエスに従う弟子たちも又、心を騒がせていたのです。もちろん、弟子たちは、主イエスのように明確に十字架の死を意識していなかったでしょう。しかし、忍び寄ってくる大きな力を肌で感じていたのだと思います。

弟子たちの恐れ
この時、主イエスも弟子たちも、どちらも罪の力を前にして心を騒がせていました。しかし、その中身は異なっています。主イエスは、罪の力と真剣に向かい合い、その力との戦いに備えているのです。武者震いに、震えていると言ったら良いのかもしれません。一方の弟子たちは、漠然と迫って来る大きな力を感じつつ、その正体を見抜けず、ただただその力に翻弄され、どうしたらよいのか分からずに怖じ恐れていると言った方が良いでしょう。この弟子たちの状況を、もう少し詳しく見て行きたいと思います。もちろん、弟子たちには自たちの身に危機が迫っていることの恐れもあったことでしょう。主イエスが捕らえられたら、弟子である自分たちも犯罪者扱いされてしまうかもしれないのです。しかし、弟子たちは単純に、自らの身の危険のみを見つめていたのではありません。弟子たちには、もっと深い所で恐れに支配されていたのです。そのことを考えるために、直前の箇所に記されている一人の弟子の姿に注目してみたいと思います。それはトマスです。14章に入って、訣別説教を語る中で、主イエスは、ご自身が世を去って行かれることをはっきりとお語りになります。その時、トマスは5節で次のように質問しています。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか」。この言葉には、主イエスがどこかへ行ってしまうと言う不安と共に、その道を探り、どこまでもついて行こうという、熱心な思いが表れています。そもそも主イエスの弟子たちは、誰しも、自分の全てを捨てて、主イエスの後に従って来た人でした。多少の困難が身に降りかかろうとも、ついて行く覚悟はあるのです。つまり、弟子たちは、この時、主イエスと共に身が危険にさらされることの不安も少なからずあったにせよ、根本的には、主イエスがこの世を去って、自分たちと主イエスが離ればなれになってしまうことを恐れていたのです。この時、弟子たちは、主イエスが、十字架と復活によって、人間を支配する罪の力に勝利するという形で、救いを実現して下さる方であるとは知りません。しかし、弟子たちは、それぞれに、この方こそ、自分の救い主だと思っていたことでしょう。皆それぞれに、自分の理想を思い描き、人生の道を求めて、主イエスに従っていたのです。ですから、主イエスが地上を去り、主イエスを失うことは、自分の歩むべき道が見いだせなくなること、言い替えるのであれば、自分の人生の意味、生きていることの意味が失われることでもあるのです。そのことに対して恐れを抱いていたのです。

生きる意味の喪失
生きる意味の喪失と言うことが、果たして、それ程までに恐れを抱かせるようなことなのだろうかとの疑問を抱く方もいるかもしれません。しかし、このことは、見過ごすことが出来ない問題です。この世で生きる限り、私たちは、必ず、自らが生きることの意味づけを行っていると言っても良いかもしれません。それは、何も信仰の営みにおいてのみ行われるのではありません。様々な仕方で自分の存在意義を確かめるのです。仕事や趣味、芸術等に打ち込み他者に認められることによってであったり、家族のために仕え、良い家庭を形成することを通してであったりします。又、隣人との間に信頼関係を結ぶことによってであったり、ボランティア活動によって社会に貢献することを通してであったりするのです。難しい意味など考えずに、お金を稼いで、毎日を楽しく享楽的に生きようとする時であっても、そのことの中に、自分の欲求を満たし快楽を追求して行くという形で、人生に何らかの意味を見出そうとしているのです。もし、自らの生に何の意味も見いだせないとするならば、そこでは虚無的にならざるを得ず、生きる力は生まれてこないでしょう。私たちは、人々や社会と良い関係を結び、そこで自らが認められ、受け入れられることによって、自らの存在意義を見出し、そこに慰めを与えられつつ歩むのです。自分で意識するかしないかは別にして、生きる意味を見いだすことによって、私たちは、しっかりと立ち、歩んでいくことが出来るのです。つまり、弟子たちが置かれようとしていた、生きる意味の喪失という状況は、もう、それ以上、歩むことが出来ずに、その場に立ちつくし、或いは、倒れ伏してしまうことになるような状況なのです。
この意味喪失を前にして心を騒がせる思いは、現代を生きる私たちの身近な問題とも言えるでしょう。私たちにも、確かに病や、災害による身の危険が迫ることがありますし、又、人々の中にある憎しみが、戦争と言う形になって表れることを恐れる思いがあります。しかし、それに加えて、生きる意味の喪失による、不安に覆われていると言えるでしょう。例えば、最近では、若者が夢や希望を持てない時代になったと言われます。近代化の中で、職業は細分化され、人々は、社会の歯車を担う労働力としてのみ評価され扱われるようになります。更に現代は、派遣社員という雇用の調整弁ともされかねない非正規の雇用形態が増加しています。そこには、確かに、働くということにおいて、自分存在意義が見いだしにくい環境があります。そのような中、以前には考えられなかったような凶悪犯罪が報道されています。通り魔的な犯行によって見ず知らずの人を殺傷した人の口からは、「人を殺したかった」、「誰でも良かった」、「自分は死刑になってもかまわない」といった言葉が語られるのです。このような事件の背後にも、その深い所に生きる意味の喪失という問題が横たわっていると言っても良いかもしれません。人生の意味が見いだせないことと、人々との関係が希薄になることは一つのことです。そこでは必然的に自分の命も他人の命も軽んじられるようになるのです。そのように考えると、現代社会の病理の背後にも、人々を真の神から遠ざけ、生きる力を奪い、立ち止まらせ、或いは、倒れさせてしまう罪の力を思わずにはいられないのです。

思い起こさせる聖霊
弟子たちは、主イエスを失うかもしれないという現実を前に、自らの生きる意味の喪失ということに対する恐れを抱きならが、心を騒がせていました。そのような弟子たちに向かって、主イエスは、25~26節で次のように語ります。「わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。しかし弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」。心配、不安、恐れが支配する中で語られた訣別説教の中で、主イエスが何より強調してお語りになったのが聖霊についてです。前回お読みした14章15節から聖霊を与える約束をお語りになっているのです。そこで見つめられているのは、聖霊が弁護者であるということです。弁護者と言う言葉はパラクレートスと言う言葉で、「傍らに呼ぶ」という意味があり「慰め主」とも訳されます。聖霊は、主イエスが世にいなくなる中、信仰者の傍らに立って、慰めて下さる方なのです。そのように言うと漠然としていますが、本日の箇所は、よりはっきりと、この弁護者としての聖霊の役割が、主イエスが地上でお語りになったことを思い起こさせることだと言っています。聖霊の働きは、主イエスと切り離された働きではないのです。主イエスとは無関係に、私たちと神様を結びつける霊的な力と言うのではありません。それは「わたしの名によってお遣わしになる聖霊」と言われていることからも明らかです。聖霊は、私たちに地上を歩まれた主イエス・キリストがお語りになったことを思い起こさせるのです。主イエスが地上でお語りになった「これらのこと」と言うのは、14節以下に記されています。それは一言で言えば、主イエスが神と一つであり、主イエスと結ばれ、主イエスを通ることによって、真の神と結びつく者とされると言うことです。聖霊は、主イエスこそ真の救い主であり、その救いの御業を思い起こさせるのです。ここで、「思い起こさせる」と言う表現から、考えると、昔を懐かしむとか、思い出を鮮明に呼び起こすと言うようなことを想像するかもしれません。しかし、ここには、もっと強い意味があります。それは、肉体を取って歩む、主イエス・キリストがいない中、弟子たち即ち、信仰者たちに救い主としての主イエス・キリストが示し、更には、主イエス・キリストの命に生きさせるのです。つまり、ただ記憶に働きかけて、思い出させると言うより、全人格に働きかけ、その人をキリストのものとし、キリストの業を行う者とされるのです。

世とは異なる仕方で
そして、この聖霊の働きこそ、主が与える平和・平安なのです。27~28節で、主イエスは次のようにおっしゃっています。「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな、おびえるな『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と行ったのをあなたがたは聞いた」。ここで、主イエスが一度世を去り、また戻って来ると言うのは、十字架で死に復活し、天に挙げられた後、聖霊と言う形で戻って来るということです。ここで「平和を与える」と言うことと、「あなたがたのところへ戻って来る」と言うことを重ね合わせて読むことが出来るでしょう。つまり、主が平和を与えて下さるということは、主イエスが聖霊によって臨んで下さることに他ならないのです。
ここで、この平和が、世とは異なる仕方で与えられることが語られています。私たちの周りには、世がもたらす様々な平安があります。家族や仕事や趣味、それによってもたらされる人々との豊な交わりであったりします。又、人間の努力によって造り上げられる平和な世界だったりします。それらは、確かに人生にある意味を与え、慰めをもたらします。しかし、聖霊は、それとは異なった仕方で、即ち、主イエス・キリストが私たちの救い主として共にいて下さり、私たちをご自身のものとして下さっていることを示すことを通して平安を与えるのです。この二つの平安を比べる時、世がもたらす平安は、目に見えるものであり、私たちにとって確かなものに見えます。それに対し、聖霊がもたらす平安は、目に見えず、世が与える平安に比べると、不確かであるようにも思えます。しかし、そうではありません。私たちの目に見える平和や平安は、簡単に崩れてしまうものです。罪や死の力の前で無力です。それに対して、主が与える聖霊による平安は、目に見えないけれども、決して崩れることのない平安です。主イエスは30節で次のようにお語りになります。「もはや、あなたがたと多くを語るまい。世の支配者が来るからである。だが、彼はわたしをどうすることもできない」。ここで「世の支配者」と言われているのは、具体的には、主イエスを捕らえようとする人々ですが、その根本的に見つめられているのは、世を支配する罪の力です。主イエスが、十字架と復活によって、罪の力に勝利されるからこそ、その力は、主イエスをどうすることも出来ないのです。罪の力に打ち勝つ主イエスが聖霊によって共にいて下さり、それによって信仰者は、そのキリストのものとされている。だからこそ、それは、罪や死の力を前にしても崩れることがない、真の平安なのです。

主の業に用いられていった弟子たち
現在を生きる私たちは、肉を取られた主イエスが世におられない中を歩んでいます。しかし、主は、私たちに聖霊による平安を与えて下さっています。私たちは、主イエスが目に見える形でいて下さる方が、はるかに確かに信仰に生きることが出来ると思うかもしれません。しかしそうではありません。聖霊と言う形で臨んで下さることにおいて、より、地上にいた時よりも、明確に救いが示されるのです。事実、主イエスの弟子たちは、主イエスが地上において御言葉をお語りになった時よりも、はるかにはっきりと救い主である主イエスのことが示されたのです。主イエスが世におられた時、弟子たちは、主イエスの救いをしっかりと理解していませんでした。むしろ、皆、それぞれに、自分が理想とする主イエスの姿を思い描き、その方に従うことによって、必死に自分の人生を意味づけようとしていました。しかし、聖霊という形で弟子たちに臨んで下さる時、弟子たちは、自分で意味を探すのではなく、聖霊によって、自らが、罪を滅ぼす力がある主イエスの救いにあずかっていることを示されたのです。更には、聖霊の働きの中で、自らが主の救いの業のために用いられるという大きな意味を与えられて、歩みはじめたのです。それ故、この時の弟子たちにとっては、聖霊と言う形で世に戻って来て下さるという約束がある以上、主イエスがこの世から去られることは、絶望ではないのです。だからこそ、主イエスは、28節の後半で、「わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ」とおっしゃるのです。

主イエスに立ち上がらされて
私たちは、主イエスは、目に見ることは出来ませんし、触れることも出来ません。その言葉を直接に聞くことも出来ません。しかし、私たちも、聖霊の働きの中で、主イエスの死を越えた救いを示されています。そして、主によって、自らの歩みに意味を与えられて、キリストを証しする者とされているのです。主が与える平和とは、聖霊によって主が共にいて下さるということによる平和です。それは、ただ、戦争や争い、不安や心配がこの世から無くなるということではありません。私たちの周りで、依然として争いや戦争があり、病や事故による心配や不安は尽きないでしょう。しかし、どのような状況の中でも、主イエスが、神様の御業を成し遂げて、世を支配する罪の力に勝利されたことを示されるのです。31節の最後の箇所で主イエスは、「わたしが父を愛し、父がお命じになったとおりに行っていることを、世は知るべきである」とあります。聖霊の働きの中で、私たちは、主が父なる神様の救いの御業を行って下さったことを教えられます。さらに、その主イエスが共にいて下さることを示されるのです。もちろん、この平安の内を歩むということは、もう戦争のない社会や、人々との良い関係を求めて行かなくても良くなるということではありません。主による平安を与えられれば、それで良しとはならないのです。むしろ、キリストのものとされていると言う平安が与えられる中でこそ、真に、人生の意味を与えられ、人々との良い関係を結びつつ、平和を求めて行く者とされるのです。私たちは、聖霊の働きの中で31節の最後の箇所で主が弟子たちに語りかけられた言葉を聞く者でありたいと思います。「さあ、立て。ここから出かけよう」。世の支配者たち、罪の力を前にして、私たちは心騒がせます。そこで、時に、生きる意味を見失い、立ちつくし、倒れ込んでしまうような状態が襲うのです。しかし、私たちのために罪に勝利し、聖霊という形で臨んで下さる主は、私たちに、そこに立ち止まることを赦しません。主の大きな働きに用いつつ、私たちに立ち上がり、そこから歩み出させようとされるのです。その言葉に聞きつつ、自らの人生の意味を示されつつ、キリストの業を行って行く時、様々な罪の現実による争いがあるにしても、そこで真の平安の内を歩むことが出来るのです。そして、そのような平安の中で、キリストの業を行って行く時、人々との間に、具体的に、争いではなく平和・平安が実現するために働く者とされるのです。

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