夕礼拝

目の澄んだ者の言葉

「目の澄んだ者の言葉」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:民数記 第23章27―24章25節
・ 新約聖書:エフェソの信徒への手紙第 1章15―23節  
・ 讃美歌:327、529

荒れ野の旅も終わりに近づいた
 私が夕礼拝の説教を担当する日は、旧約聖書の民数記からみ言葉に聞いています。毎回申しておりますが、民数記は、エジプトで奴隷とされていたイスラエルの民が、モーセに率いられて脱出した後、神様が約束して下さった乳と蜜の流れる地カナンに向かって荒れ野を旅していく様子を描いています。その荒れ野の旅も、いよいよ終わりに近付いてきました。先ほどは23章27節以下を朗読しましたが、ここは22章1節からひと続きの話です。その最後の所だけを朗読したのです。ですからこの説教においては、22章からを読みつつお話をしていきます。その22章の1節にこうあります。「イスラエルの人々は更に進んで、エリコに近いヨルダン川の対岸にあるモアブの平野に宿営した」。これを新共同訳聖書の後ろの付録の地図の2、「出エジプトの道」において確認してみますと、「エリコに近いヨルダン川の対岸にあるモアブの平野」というのはこの地図の右上、エジプトから出たイスラエルの民の歩みを記した点線の最後の所の矢印のあたりです。長かった荒れ野の旅もようやくここまで来たのです。

呪いの危機
 しかしこの辺りはモアブ人の地です。モアブの人々にとって、荒れ野を越えて押し寄せて来るイスラエルの大群は大変な脅威でした。その恐れの思いが22章3、4節にこう語られています。「モアブは、このおびただしい数の民に恐れを抱いていた。モアブはイスラエルの人々の前に気力もうせ、ミディアン人の長老たちに、『今やこの群衆は、牛が野の草をなめ尽くすように、我々の周りをすべてなめ尽くそうとしている』と言った」。そこで、バラクというモアブの王が一つの企みをしました。5、6節です。「彼は、ユーフラテス川流域にあるアマウ人の町ペトルに住むベオルの子バラムを招こうとして、使者を送り、こう伝えた。『今ここに、エジプトから上って来た一つの民がいる。今や彼らは、地の面を覆い、わたしの前に住んでいる。この民はわたしよりも強大だ。今すぐに来て、わたしのためにこの民を呪ってもらいたい。そうすれば、わたしはこれを撃ち破って、この国から追い出すことができるだろう。あなたが祝福する者は祝福され、あなたが呪う者は呪われることを、わたしは知っている』」。モアブの王バラクは、バラムという著名な魔術師あるいは占い師を招いて、イスラエルの民に呪いをかけてもらうことによってこれを打ち破ろうとしたのです。これは笑い事ではありません。魔術や呪いは当時、大きな力を持つものとして恐れられていました。今日の私たちは科学の進歩によってそういうことからかなり解放されていますが、しかし今なお、罰が当たるという恐れは様々な形で残されています。科学技術の粋を集めた建物も、地鎮祭をして、お祓いをしてから建て始めるのです。姓名判断とか風水などの占いを気にする思いも根強くあります。およそ三千年前のこの当時、遠いユーフラテス川の流域つまり今のイラクあたりから招かれた大魔術師が呪いをかけることは、味方には大変な助けとなり、敵には大きな脅威となったのです。ですからこれはイスラエルの民の約束の地への歩みにおける大きな危機なのです。

バラムとろば
 さてバラクからの依頼を受けたバラムは、それを受けるべきかどうか、神の示しを求めました。12節で「あなたは彼らと一緒に行ってはならない。この民を呪ってはならない。彼らは祝福されているからだ」という神の示しがあったので、バラムは断ります。しかしバラクはあきらめずに再度使者を送りました。バラムがもう一度神に伺いを立てると今度は20節の言葉が与えられました。「これらの者があなたを呼びに来たのなら、立って彼らと共に行くがよい。しかし、わたしがあなたに告げることだけを行わねばならない」。それでバラムは出発します。ところがその途上で不思議な出来事が起りました。22節以下です。そこを読んでみます。
「22章22~35節」
 この不思議な話が語ろうとしているのはこういうことではないでしょうか。ろばはおおむね、温和だが愚かな動物というイメージを与えられています。その愚かなろばに見えていた主の御使いがバラムには見えなかったのです。大魔術師、占い師であるバラムですら、主なる神様に目を開いていただかなければ、ろばに見えていることすらも見ることができないのです。バラムはこのことによって、自分がいかに目が見えていないかを思い知らされ、主なる神様の前にひれ伏さざるを得なかったのです。最後の35節で主の御使いはバラムに「この人たちと共に行きなさい。しかし、ただわたしがあなたに告げることだけを告げなさい」と言いました。神様が告げて下さること、目を開いて見せて下さることこそが語られるべきことだ。バラムはこの出来事を通してそれを肝に銘じてバラクのもとに向かったのです。

魔術や占いの虚しさ
 バラムを迎えたバラクは大歓迎し、翌朝早速彼をイスラエルの民の見える所に連れて行きました。22章41節以下を読みます。
「22章41節~23章12節」
 バラムは御使いに命じられた通り、神様に示されたことのみを語りました。それは呪いではなくて祝福でした。「神が呪いをかけぬものに、どうしてわたしが呪いをかけられよう。主がののしらぬものを、どうしてわたしがののしれよう」と彼は語ったのです。この言葉は、魔術や占いの虚しさを告白しています。バラクは、魔術師バラムを雇って、その魔術を用いてイスラエルを倒そうとしています。つまり神の力を自分の目的に奉仕させようとしているのです。魔術や占いの本質はそこにあります。神仏の力を自分の思いのままにコントロールしようとするのが魔術や占いなのです。その力が災いをもたらさないように、むしろ幸運をもたらすようにしようとするのが、風水とか姓名判断などの占いであり、敵をやっつけるために用いようとするのが呪いです。しかしバラムのこの言葉は、そういう人間の企みが決して実現しないことを示しています。どのように偉大な魔術師も、神様が呪わないものを呪うことはできないのです。つまり祝福にせよ呪いにせよ、神様のみ心のみが実現するのであって、人間がそれをコントロールすることは出来ないのです。人間に出来ることは、神様のみ心を聞き、それを告げ知らせ、それに従うことのみなのだとバラムは言っているのです。大魔術師の口からこのような、魔術や占いの虚しさが語られている、それがこの話の大事なポイントの一つです。

まじないも占いもない祝福
 バラクは当然のことながらこのバラムの言葉に怒りうろたえます。敵を呪うために雇った魔術師が逆に敵を祝福してしまったのです。そこで彼は、別の場所からバラムにイスラエルの民を見させようとします。場所を替えれば呪いをかけることができるかもしれないと思ったのです。それはおかしな話に思われますが、魔術や占いの本質がそこにも現れています。自分の思い通りの答えが得られるまで、場所を替えたり人を替えたりしていろいろ試していくのです。神のみ心を尋ねることが目的なのではなくて、自分の思いを通すことが目的なのですから、当然そうなるのです。大吉が出るまでおみくじを引き続けるようなものです。
 そのようにして、別の場所でバラムに与えられた神様の第二の示しが23章18節以下です。
「23章18~24節」
 この第二の託宣は、場所を替えることで祝福を取り消してもらおうとするバラクの願いへの否定です。「祝福の命令をわたしは受けた。神の祝福されたものを、わたしが取り消すことはできない」のです。ここで重要なのは23節です。「ヤコブのうちにまじないはなく、イスラエルのうちに占いはない。神はその働きを時に応じてヤコブに告げ、イスラエルに示される」。「まじないも占いもない」それが、神の民イスラエルに与えられている祝福なのです。イスラエルにおいては、占いや魔術は固く禁じられていました。それは先ほどから見ているように、自分の願いを実現するために神様を自分に奉仕させようとすることだからです。そのように神を自分の思いによって動かそうとするのではなくて、「神はその働きを時に応じてヤコブに告げ、イスラエルに示される」とあるように、神が告げ示して下さるみ言葉に聞き、そのみ心に従っていく、そこにこそ、主なる神様の民として歩む者たちの祝福があるのです。魔術師、占い師であるバラムが、まじないや占いがないことがイスラエルの祝福だと語っているのはまことに皮肉な話ですが、まさにそこにこの話の主題があるのです。

神の霊による託宣
 バラクはなおあきらめずに、再び場所を替えて、イスラエルの民を呪うことを求めます。そこからが、先ほど朗読した所です。ここでバラムは第三の託宣を告げるのですが、この三度目はそれまでの二回とは違うところがあります。これまでは、山の上に七つの祭壇を築き、そこに七頭の雄牛と雄羊を献げ、バラムはそこから一人で進んで行って神様からの託宣をいただく、ということがなされていました。ところがこの三度目は、祭壇は同じように築かれ、献げ物も献げられますが、バラムはその後一人で進んで行くことをしないのです。24章1節にこうあります。「バラムは、イスラエルを祝福することが主の良いとされることであると悟り、いつものようにまじないを行いに行くことをせず、顔を荒れ野に向けた」。ここから分かるように、バラムがこれまで一人で進んで行ったのは、まじないをするためです。まじないによって神の託宣を受け、それを告げたのです。ところがこの度はそのまじないをしなかった。それは「イスラエルを祝福することが主の良いとされることであると悟」ったからです。つまり、祝福するか呪うかをまじないによって判断する必要はもうない、この民を祝福することこそ神のみ心であることがバラムには分かったのです。そこで彼は「顔を荒れ野に向けた」、つまり、どのように祝福を告げようかと、イスラエルの宿営を眺めたのです。それが2節です。「バラムは目を凝らして、イスラエルが部族ごとに宿営しているのを見渡した」。しかしバラムの第三の祝福の言葉は、バラムが考えたものとはなりませんでした。「神の霊がそのとき、彼に臨んだ」のです。これは、これまでの二回にはなかったことです。バラムの第三の託宣はまじないによってではなく、神様の霊、聖霊によって与えられたのです。まじないが行われなかったこの第三回においてのみ、神の霊の働きが語られているということにも、主なる神様のみ業、聖霊の働きと、まじない、占いの類いが相容れないものであることが示されていると言えるでしょう。

目の澄んだ者の言葉
 この第三の託宣において最も目を引くのは、イスラエルへの祝福の言葉よりも、バラム自身について語られている3、4節です。「べオルの子バラムの言葉。目の澄んだ者の言葉。神の仰せを聞き、全能者のお与えになる幻を見る者、倒れ伏し、目を開かれている者の言葉」。バラムは、自分自身のことをこのように語る言葉を聖霊によって与えられたのです。「目の澄んだ者」とあります。開かれた、曇りのない目で物事を見ている者、ということです。それは言い換えれば、「神の仰せを聞き、全能者のお与えになる幻を見る者」です。曇りのない澄んだ目で物事を見るとは、神様のみ言葉を聞き、神が見せて下さる幻、つまり目に見える事柄の背後に隠されている神のみ心やご計画を見ることなのです。目が澄んでいるというのは、この世の現実を色めがねなしに、予断や希望的観測なしに冷静に見つめることではありません。目に見える現実の背後に、目に見えない隠された神の現実、神のみ心があることを知り、それに基づいて現実を見つめていくことこそが、本当に澄んだ、開かれた目で物事を見ることなのです。自分はそのような澄んだ目を与えられた、とバラムは語っています。どのようにしてその目を与えられたのか。「倒れ伏し、目を開かれている者」という言葉がそれを語っています。彼は倒れ伏すことによって目を開かれたのです。それは、先程の22章の、ろばと御使いの話のことでしょう。バラムはあそこで、自分が、ろばの目に見えていることすら見ることができず、忠実なろばを打ちたたくような愚かな者であることを思い知らされました。神様が目を開いて下さったことによって初めて、真実を見ることが出来るようになったのです。その時彼は御使いの前にひれ伏しました。「倒れ伏し」というのはそのことです。彼はそれまで、魔術師、占い師として、自分は普通の人の見えない事柄を見る力があると思っていました。しかしここで彼は、自分がろばにも劣る、全く何も見えていない者であったことを知らされ、まことの神様の前に倒れ伏したのです。そのことによって彼は目を開かれ、澄んだ目を与えられました。目に見える現実の背後にある神のみ心をこそ求め、神がお示しになるみ言葉に聞き従い、そのみ心を通して物事を見つめていく姿勢を与えられたのです。そのようにして彼は、イスラエルを祝福しておられる主なる神様のみ心、ご計画の中で用いられる者となったのです。

私たちの知らないところで
 主なる神様はこのようにしてイスラエルの民をその重大な危機から救って下さいました。バラクの企んだ呪いを祝福に変えて下さったのです。しかしこれらのことは全て、イスラエルの民の全くあずかり知らない中でなされています。イスラエルの民は、バラクの企みも知らず、バラムが招かれてあちこちの丘の上から自分たちを見ていたことも知らないのです。民の全く知らないところで、主なる神様は彼らを守り、呪いを祝福に変えて下さっていたのです。私たちもまた、そのような神様の守りの中に置かれていることを覚えたいと思います。詩編121編の4節に「見よ、イスラエルを見守る方は、まどろむことなく、眠ることもない」とあります。私たちが何も知らずに眠っている間にも、主は私たちを見守り、危険から救い出し、支えていて下さるのです。

神に目を開かれて生きる
 さて本日は、共に読まれる新約聖書の箇所として、エフェソの信徒への手紙第1章15節以下を選びました。ここには、使徒パウロの、エフェソの教会の信徒たちのための祈りが記されています。パウロはこう祈っています。17から19節です。「どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように」。パウロは、神様があなたがたの目を開いて下さるようにと祈っているのです。神様は、私たちの目を開いて下さるのです。曇りのない澄んだ目を与えて下さるのです。つまりバラムに起ったことが私たちにも起るのです。主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が目を開いて下さる時、何が見えてくるのでしょうか。それは18節にあるように、「神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか」です。神によって目を開かれることによって、豊かな栄光に輝くものを受け継ぐ希望へと招かれていることが見えてくるのです。また19節には「わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように」とあります。信仰の目を開かれることによって、神の絶大な力が分かってくるのです。その力によって神がして下さっていることが20節以下に語られています。「神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です」。神の絶大な力は、主イエス・キリストの十字架の死と復活と、そのキリストが天に昇り、父なる神の右の座に着いておられることにおいて発揮されています。神様のこの力によって主イエス・キリストは、全ての支配、権威、勢力、主権の上に立てられ、全てのものはそのキリストの足もとに従わせられているのです。この、主イエス・キリストのご支配こそ、神様が信仰の目を開いて下さることによって見えてくることであり、またそれは神様によって目を開かれなければ見ることができない、隠された事実なのです。この隠された、神の恵みの事実を見つめる澄んだ目を与えられることによってこそ、私たちは、罪と悲惨に満ちた、悲しみの多い、希望を見出すことができないような目に見える現実の中で、なお希望を失うことなく生きることができるのです。主イエス・キリストが、神の絶大な力によって、この世の全ての力、支配の上に立てられているという隠された事実は、「キリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしておられる方の満ちておられる場」である教会において私たちに示されています。私たちは教会において、主イエスの父である神様の前に倒れ伏して礼拝をささげ、目を開かれて、独り子主イエス・キリストによって与えられている神の絶大な恵みに生かされていくのです。

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