「福音に仕える者として」 副牧師 長尾ハンナ
・ 旧約聖書: イザヤ書 第52章13節―第53章12節
・ 新約聖書: エフェソの信徒への手紙 第3章1―13節
・ 讃美歌:13、396、580
キリストにおいて一つ
本日はご一緒にエフェソの信徒への手紙第3章1節から13節をお読みします。エフェソの信徒への手紙は第1章1節には「神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロから」とあります。ですので、この手紙は古くから使徒パウロが書いたものであると考えられていました。今日では研究が進み、パウロの影響を受けた別の著者によるものであるとも言われております。けれども、ここでは伝統的な考えに従って、また言いやすいようにパウロの手紙として読んで行きたいと思います。本日お読みする箇所はこの手紙を書いているパウロの立場を語りつつ、始まります。1、2節です。「こういうわけで、あなたがた異邦人のためにキリスト・イエスの囚人となっているわたしパウロは……。あなたがたのために神がわたしに恵みをお与えになった次第について、あなたがたは聞いたにちがいありません。」(1-2節)という言葉からはじまっています。まず「こういうわけで」と始まります。これは1、2章の内容を受けてということです。1、2章について、本日詳しく触れることが出来ませんが、ある人がこのような解説をしています。エフェソの手紙を読んでいくと、この世を創造された神様の目的が示される。この世界の人々、全ての民、また全世界の全てが、主イエス・キリストの支配の範囲である。全ての被造物が、主イエス・キリストをその頭、その体の一枝となり、主イエス・キリストの元に一つとなるのです。少し間が空きましたが、本日の箇所の直前は第2章11節から22節で、その小見出しは「キリストにおいて一つとなる」となっておりました。その箇所では、主なる神を信じない、イスラエルの神とは本来無縁であった異邦人にも、この神の救いが及んだということが示されております。主イエス・キリストにおいて救いの道が開かれたということです。神様がその独り子主イエス・キリストにおいて、すべての人、すべてのものを統一し、キリストの体である教会にされたということです。そして、その事実を知った上で、その事実を受けて「こういうわけで」とパウロはこれからのことを語ります。
同じ体、同じ約束
2章の11節から22節で語られたこの事実を本日の箇所の第3章の6節で、再び要約のように記されています。「異邦人が福音によってキリスト・イエスにおいて、約束されたものをわたしたちと一緒に受け継ぐ者、同じ体に属する者、同じ約束にあずかる者となるということです。」(6節)主なる神とは無縁であった異邦人にも、主なる神の救いが及んだということが、ここで、「一緒に受け継ぐ者、同じ体に属する者、同じ約束にあずかる者となる」(6節)と表現されています。この中で「同じ体に属する者」という言葉があります。この意味は、異邦人であるキリスト者がキリストの体としての教会に属する者となった、元々ユダヤ人であるキリスト者と一緒に教会を構成する者となったということです。そのようにして、ユダヤ人も異邦人もキリストにおいて一つなのです。これは驚くべきことなのです。
自分の立場、身分
1、2章ではこのような重要なことを語って来ました。そして、その後に、パウロは自分が「あなたがた異邦人のためにキリスト・イエスの囚人となっている」と言います。更に7節では、「福音に仕える者」として自分の立場を語っています。これは自分の立場、即ち身分について語っています。神様の大いなる御業と一人の個人の立場について書かれています。パウロという人は主イエス・キリストによって一つとされた教会、その教会の形成に決定的な役割を果たした人です。本日の箇所はパウロの使徒、囚人、福音に仕える者としての働きが記されていきます。パウロはここで自分の歩みを語りながら、パウロが福音の宣教をもって仕えた「教会」のことを語っていきます。
計画
もう少しこの1節を見て行きたいともいますが、1節の最後は「わたしパウロは…。」と途中で途切れたようになっています。一般にこれは14節に続いていると考えられています。つまり、パウロはここで「祈り」(14節)を記そうとしていました。けれども祈りではない別の考えが浮かび上がったのでしょうか。ここで祈りとも密接に関係している使徒としての自分の働きに言及し始めていくのです。もちろんパウロは自分自身のことを語りたいから語っているというのではありません。パウロはここで「教会」について語りたいのです。教会に異邦人も加えられたという神の恵みを、エフェソの信徒たちがしっかり受け止めるために、パウロは語っていくのです。「こういうわけで、あなたがた異邦人のためにキリスト・イエスの囚人となっているわたしパウロは……。」そして、7節へ飛びますが「神は、その力を働かせてわたしに恵みを賜り、この福音に仕える者としてくださいました。この恵みは、聖なる者たちすべての中で最もつまらない者であるわたしに与えられました。わたしは、この恵みにより、キリストの計り知れない富について、異邦人に福音を告げ知らせており、すべてのものをお造りになった神の内に世の初めから隠されていた秘められた計画が、どのように実現されるのかを、すべての人々に説き明かしています。」(7-9節)
パウロ
パウロという人物は元々熱心なユダヤ教徒でした。そして、キリスト教徒を迫害していた人です。しかし、パウロは復活の主イエス・キリストと出会い、その出会いを通して、回心し、その生涯を終えるまでキリスト教の伝道者として歩みました。特にパウロは「異邦人のため使徒」(ローマの信徒への手紙11章13節)としてその道を歩み通しました。異邦人に主イエス・キリストの出来事を伝えようと生涯を歩んだのです。パウロの回心、この人生の180度の方向転換の根底には神の恵みがあります。計り知れない神の恵みがありました。パウロは神の計り知れない恵みの生涯に留まり続け、主の御言葉を伝えました。パウロはこの神の恵みについてコリントの信徒への手紙一第15章9節でこのように言います。「この恵みは、聖なる者たちすべての中で最もつまらない者であるわたしに与えられました。」(コリントの信徒への手紙一第15章9節)パウロはこの神の恵みを深く受け止めたのです。
神の内に世の初めから隠されていた秘められた計画
パウロはまた自分を「キリスト・イエスの囚人」と言います。パウロは自分の人生を「囚人」と規定したのです。実際、パウロはこの手紙を書いたとき、獄中にありました。囚人は徹底して拘束され、自由を持ちません。神の恵みに留まり続けるということは、囚人のように留まり続けるということです。パウロは、キリストの囚人として福音に仕える、このように自分の人生を理解したのです。そして、そのパウロが具体的に行っていたことは「異邦人に福音を告げ知らせ」ることでした。この福音が時を経て、場所を経て、私たちにも伝えられたのです。異邦人に「すべての人に」神の救いが及ぶことは決して偶然の出来事ではありません。まして、人間の都合によることではありません。本日の箇所で言いますと9節にありますように「神の内に世の初めから隠されていた秘められた計画」なのです。
奥義
本日の箇所は少し長い箇所を読んで頂きましたが、ここでパウロは「計画」という言葉を何度も使っています。まず3節「秘められた計画が啓示によってわたしに知らされました。」4節「キリストによって実現されるこの計画」5節「この計画は」とあります。ここで「計画」と訳されている言葉は、口語訳では「奥義」と訳されていました。ギリシャ語のミステリオンという言葉です。英語のミステリーの語源となった言葉です。「神秘」という意味もあります。「奥義」というのは、なかなか分からないことです。神の知恵であって、人には伺い知ることができない、ということであります。人が知ることができない、神様が示してくださったのです。そして、この「奥義」「計画」とは、主イエス・キリストによって異邦人も共に救われるという、神様の大いなる救いの御計画です。パウロにとっては3節にありますように「秘められた計画が啓示によってわたしに知らされました。」神様が示して下さった、啓示です。「啓示」というのは、掩われたものがあらわされる、ということですが、神様ご自身によってあらわされることであります。神の奥義は主イエス・キリストにおいて完成されているのです。主イエス・キリストがこの世に来られことによって啓示されたのです。主イエス・キリストは神のご計画、奥義そのものであり、同時に神の啓示でもあります。パウロにとって、自分に知らされた、明らかされたことなのです。主イエス・キリスト・イエスによる救いという恵みは、奥義なのです。天地を造られて以来の最も深い真理、神様の御心そのものなのです。イエス・キリストによって啓示されたこの奥義は、使徒たち、預言者たちによって啓示されました。明らかにされたのです。「この計画は、キリスト以前の時代には人の子らに知らされていませんでしたが、今や“霊”によって、キリストの聖なる使徒たちや預言者たちに啓示されました」(5節)「霊によって」とは聖霊によってということです。この奥義は教会に明らかにされました。私たちに、この奥義が示されている、これはとても大きなことです。知識の1つではありません。パウロはこの奥義を明らかにすること、それはこの宣べ伝える者とされました。このことがキリストの囚人パウロのなすべきことであり、異邦人のための使徒としてパウロに託された務めでした。
共に
6節を見ますと、「すなわち、異邦人が福音によってキリスト・イエスにおいて、約束されたものをわたしたちと一緒に受け継ぐ者、同じ体に属する者、同じ約束にあずかる者となるということです。」とあります。つまりこのキリストの奥義は、ユダヤ人と異邦人の区別をなくし、共に神の国を受け継ぐ者となり、共に一つの体となり、共に約束に与る者となるということなのです。この日本に、そして今私たちが遣わされている場所においてもその隣り人に、私共の愛する者に、この奥義が与えられていかなければなりません。この奥義は、この6節では「共に」ということが3回繰り返されて告げられているのです。「共に受け継ぎ」「共に体に属し」「共に約束に与る」のです。この奥義は、決して私一人が与れば良いというようなものではないのです。共に与らなければならないものなのです。だから、宣べ伝えるのです。自分が救われ、心が平安であれば良いなどと言うのは、おおよそこの奥義を知った者の信仰のあり方ではありません。この奥義は「共に」与るものなのです。自分だけの救いでよいのならば、どうしてパウロは囚人となったでしょう。この奥義とは、異邦人が、つまり全ての人が、私共が出会う全ての人が、キリスト・イエスの福音において、共に神の国を受け継ぎ、共に一つの体となり、共に約束に与る者となるというものなのです。この大いなる神様の救いの御業に仕える為に、まことに取るに足りない私共一人一人が召されたのです。ここに、私共の喜び、私共の栄光、私共の誇りがあるのです。
天上の支配や権威
パウロの宣べ伝えた福音の真実は、既に申した通りに異邦人も教会に加えられているという事実です。10節から11節をお読みします。「こうして、色々の働きをする神の知恵は、今や教会によって、天上の支配や権威に知らされるようになったのですが、これは、神がわたしたちの主キリスト・イエスによって実現された永遠の計画に沿うものです。」(10~11節)ここには私たちのあまり聞き慣れないことが語られています。それは「神の知恵は、今や教会によって天上の支配や権威に知らされるようになった」というくだりです。その意味はどういうことでしょうか。この中の「教会によって……知らされるようになった。」というのは、教会によって知らせる主イエス・キリストの出来事、もう少し具体的に言います、教会の伝道によって知らされるようになった、ということです。問題は「天上の支配や権威にそれが知らされるようになった」という言葉です。教会の伝道とは私たちの目に見える範囲のことだけではありません。もちろん目に見える、この社会、この地上的においてなされる業ですが、その業を通して、目に見えない天上のこととも関係しているのです。教会をこのように理解するのは、既にこの手紙の1章の終わりにも出てきました。20節から23節ですが、その箇所で復活のキリストは神によって「すべての支配、権威、勢力、主権の上に置かれ」たのです。そしてまさにこのような方の体が教会であり、この体の頭もキリストであると語っていたのです。見えるものも、見えないものも、すべてを含めて、それらの主である方が教会の主でもあるのです。教会が御言葉をこの世に伝える伝道によって、天上を支配している者にも、この世を支配しているものに、すべてのものにも、神の知恵が知らされることになるのです。教会が指し示す事柄は、全てのものの主である方が教会の主であるということです。
教会によって、教会の業によって神の知恵が、私たちの見えない力、天上の支配、権威、この世の支配、権威と言われているものに対しても知られるようになるということです。私たちの生きるこの現代社会において、「天上の支配と権威」ということをどのように考えれば良いでしょうか。色々な事柄が挙げられると思いますが、経済力、名誉、地位、あるいはイデオロギー、つまり、この世のものということです。そして、この世にものに対する絶対的信頼を持つということです。科学技術の力、流行、娯楽、あるものに対して熱狂的に追い求めることということも含まれます。この世のもの、事柄に対する信頼とは神の御支配とは相対するものです。このような支配、権威から私たちが解放され、神の支配を祈り求めるということです。
苦難の中で
最後にパウロは「あなたがたのためにわたしが受けている苦難を見て、落胆しないでください。」と語ります。パウロは自分が囚人となったことを隠しません。むしろ、そのことをあえて、自分の立場として語ります。聖書はパウロを始め、主イエスの直接の弟子であった十二使徒の多くは殉教したのです。私共はこのことをきちんと受けとめなければいけないと思います。このことは、キリスト教が宣べ伝えてきた神様の救いというものが、この世における安泰というものを約束するようなものではないということを明確に示しているのです。神の独り子である主イエス・キリスト御自身が十字架の上で殺されたのです。主イエスは十字架の上で死に、弟子たちも殉教した。信仰すればあなたの苦しみはなくなります。苦しみがなくなるということを語っているのではなく、その苦難が全く違った意味を持つようになるのです。パウロは、「あなたがたのためにわたしが受けている苦難を見て、落胆しないでください。」と語ってすぐに、「この苦難はあなたがたの栄光なのです。」と語ります。どうして苦難が栄光になるのか。それは、パウロが囚人となっているという苦難は、エフェソの人々に、彼らだけではありませんけれど、異邦人に福音を伝えるということによってもたらされたものでしょう。この異邦人が救われる、エフェソの人々もその中に含まれているわけですが、この神様の御計画、救いの御業の栄光のしるし、それが私の今の苦難の意味なのだとパウロは言っているのです。この異邦人に福音が伝えられるということは、神様が全ての人を救いへと招かれるという永遠の御計画の中で、どうしても必要なこと、なくてはならないことであったわけです。この苦難によって、神のもとにある目標、救いの完成に向かって歩む者を励ますことになるからです。自分の苦しみが、同じ目標である救いの完成へと歩む人々を励ます。これは実に驚くべき、苦難の理解です。私たちの信仰とは今ある困難を取り除くことを約束するようなものではありません。色々な苦難、この世における困難が私たちを襲います。答えの出ない問いが投げかけられます。そのような困難の中にあって、なおも生き抜く力を与えるのです。
それが仕事、家庭、健康、人生の歩みのことであれ、苦しみの中で現れる私共の罪人としての姿は、自分のことしか考えられなくなるということです。自分がこの苦しみから抜け出すことということしか考えられなくなるのです。主イエス・キリストの福音はそこから私たちを解放します。パウロは囚われ人となりながら、その状況を受け入れつつ、なおもキリストの救いを信じて生き抜くことによって、キリストの救いの力、福音の力を証しする者として立ったのです。パウロのこの姿によって励まされ、慰められ、力を与えられてきたことでしょうか。苦しみの中で、なおも喜んで生きる。これこそ、私共に与えられた、キリストの救いに与った私共の、新しい命のあり方なのです。