主日礼拝

言、命、光

「言、命、光」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:詩編 第33編1-22節
・ 新約聖書:ヨハネによる福音書 第1章1-5節
・ 讃美歌:11、145、453

神の「言」である主イエス・キリスト
 先週から、ヨハネによる福音書を礼拝において読み始めています。本日もその冒頭の所、1章1-5節よりみ言葉に聞きます。
 この福音書は、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」と語り始めています。この謎のような言葉によってこの福音書は私たちに何を語ろうとしているのでしょうか。先週のお話と重なる点もありますが、改めて考えていきたいと思います。「初めに」という冒頭の言葉は、この福音書を書いた人が、この世界の、そして私たち人間の「初め」を尋ね求める思いをもってこれを書いていることを示しています。「初め」、それは起源、根源と言ってもよいでしょう、あるいは土台と言ってもよいかもしれません。この世界の、人間の、初め、起源、根源、土台は何か。それは「言」だ、と彼は言っているのです。その「言」とは、私たち人間が語る不確かな、あやふやな、また不誠実なことの多い言葉ではありません。神の言です。神の私たちに対する語りかけです。この世界の、そして私たちの人生の、初めには、その起源、根源、土台には、神の語りかけがある、とこの福音書は宣言しているのです。そしてその神の語りかけ、言は、神と共にあり、自らが神であった、と続いています。それはこの福音書が、神の語りかけ、「言」を、一人のお方として、つまり人格的な存在として見つめているということです。そのお方とは主イエス・キリストです。14節まで読み進めるとそれが分かります。この福音書が「言」と言っているのは肉となって私たちの間に宿られた主イエス・キリストのことなのです。ですから、「初めに言があった」という謎めいた言葉で語り始められているこの福音書も、やはり冒頭から主イエス・キリストのことを語っているのです。ただその主イエスの地上を歩まれたお姿を語る前に、主イエスの本質を見つめ、明らかにしようとしています。主イエスとは、この世界の根源であり、私たちの人生を根底において支えている土台であるところの神の「言」、神からの語りかけなのだ、ご自身が神であられるその「言」が肉となってこの世を生きて下さったのが主イエス・キリストなのだ、ということをこの福音書は語っているのです。

創造のみ業に関わっていた主イエス・キリスト
 2節の「この言は、初めに神と共にあった」は一見、1節を言い直しているだけのように思えますが、「この言」と訳されているのは「このもの」あるいは「この方」という言葉であって、それは1節の「言」を受けていると同時に、14節の「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」を既に意識しています。肉をとってこの世を生きて下さった主イエス・キリストが、実は世の初めに既に父である神と共におられたのです。この「初めに」は創世記の冒頭の「初めに神は天地を創造された」を意識している、ということを先週も申しました。神がこの世界を創造なさった時、そこに、言である主イエス・キリストも共におられ、天地創造のみ業に共に関わっておられたのです。そのことが3節において「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」と語られています。「言」であられる主イエス・キリストによって、この世の全てのものは造られたのです。主イエス・キリストは神によって造られた被造物ではなくて、むしろ創造主であられるのです。主イエスは父なる神から生まれた子なる神であられ、まことの神として初めから父と共におられるのです。しかしそれは父なる神と子なる神という二人の神がおられるということのではありません。神はお一人である、ということも聖書の根本的な信仰です。そこにさらに聖霊なる神が加わって、父と子と聖霊という三者でありつつお一人なる神であるという、いわゆる「三位一体の神」という教えが生まれていったのです。ヨハネ福音書のこの冒頭の部分は、聖書においてご自身を啓示しておられる神が父と子と聖霊なる三位一体の神であられることを私たちが認識するための大切な役割を果しているのです。

神の愛による創造
 万物が「言」である主イエス・キリストによって成った、というこの福音書の教えは、今見てきたようにイエス・キリストがまことの神であられることを示していると同時に、神がこの世界と私たち人間をどのようなみ心によって造って下さったのかを示しています。神は私たちに語りかけ、私たちとの交わりを持とうとしてこの世界と私たちを創造して下さったのです。それはつまり、この世界と私たちを心から愛して下さっているということです。神は、私たちへの愛のみ心をもってこの世界を創造して下さったのです。この世界と私たちの起源、根源、土台は、神の愛なのです。「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」という3節はそのことを語っているのです。この世のものは全て、そして私たち人間も一人残らず、神の愛のみ心によって成ったのであり、その愛のみ心を受けていないものは何一つないのです。そういう恵みのメッセージ、まさに福音をこの冒頭の言葉は告げているのです。 言は命を与える
 それゆえに4節において「言の内に命があった」と語られているのです。神の言、神の語りかけ、神の愛こそがこの世界と私たちの根源であり、私たちを生かす土台であるならば、その言の内には私たちを本当に生かす命があるのです。私たちのまことの命が、その言によってこそ与えられるのです。この3節から4節にかけてのところの読み方には議論があります。3節の「成ったもの」という言葉は原文において3節の最後にあります。その言葉を4節と結びつけて読むべきだ、という主張があるのです。そうすると、「成ったものはこの言において命があった」という意味になります。「言」の内に命があると言うよりも、「言」によって成ったものは命を得て、生き生きと生かされる、ということが語られているのではないか、という主張です。この福音書が語ろうとしているのはまさにそういうことです。初めからあった「言」、それ自身が神であり、またこの世界と私たちを創造した「言」は、私たちに命を与え、生き生きと生かすのです。何故ならその言は神の語りかけであり、神の愛がそこに示されているからです。神の語りかけである「言」にこそ私たちの命の根源、土台があるのです。

言葉より行動?
 「初めに言があった」という印象的な文章は、私たちの心に様々な思いを引き起こします。昔から多くの人々がこの言葉と対話してきました。例えばゲーテは「ファウスト」という戯曲の中で、主人公ファウスト博士がこの言葉と対話する場面を描きました。ゲーテはファウスト博士に、自分は哲学も法学も医学も、そして残念なことに神学までも熱心に学び、底の底まで究めた、と語らせています。あらゆる学問を究めたけれども、未だ究極の真理を得ることが出来ずにいるファウスト博士が、聖書のこの言葉「初めに言があった」と対話する場面を彼は描いたのです。ファウストはこの言葉に納得しません。「自分はコトバというものをそんなに高く評価できない」と思うのです。それで彼は「言」をいろいろと言い換えていきます。「初めに思いがあった」がよいのではないか、いや、「初めに力があった」だろうか、そして彼が最後に辿り着いた結論は、「初めに行為(行い、業)があった」でした。初めにあったもの、この世の全てのものの起源、根源、土台に相応しいのは、「言」ではなくてむしろ「行為」だ、とファウスト博士は考えたのです。それは私たちもまた考えることなのではないでしょうか。私たちも、「コトバ」というものをそれほど高く評価できない、という思いをどこかで持っています。「コトバ」というのはそんなに信頼できるものではない、大事なのは「コトバ」よりもむしろ「行為、行い」だ。「コトバ」はいくら語られても、それによって人が生かされるわけではない。むしろ大事なのは「行為、行い」であって、行い、行動の伴わない「コトバ」は虚しい、そのように思っていることは多いのではないでしょうか。あらゆる学問を究めた大学者でなくても、人間はだいたいそのように思うものなのです。それは、私たちの体験から来る結論です。私たちの歩みにおいて、人々と共に生きている人生において、私たちは、言葉の虚しさをいやという程体験しています。言葉は、勿論人を慰め、支え、助ける働きをすることもありますが、同時に人は言葉によって嘘をつきます。人を騙し、陥れ、利用します。人の言葉にまんまと載せられて痛い思いをする、ということもしばしばです。初めの方でも申しましたように、私たち人間が語る言葉は、時としてまことに不誠実な、愛のない、人を生かすどころか殺してしまうようなものとなっているのです。だから、言葉というのはそんなに高く評価できない、言葉だけではダメだ、巧言令色少なし仁、言葉よりむしろ行動だ、という思いを私たちは抱くのです。
 けれども、これも最初に申しましたように、「初めに言があった」の「言」は、私たちが語る人間の言葉ではありません。神が語られる神の言です。神はその言をもって私たちに語りかけておられるのです。それは、神が私たちとの間に、愛の関係を築こうとしておられるということです。私たちを、愛する相手として立て、互いに愛し合って生きるパートナーとしようとしておられる、ということです。神が言によってこの世界と人間を創造されたというのは、神がこの愛のみ心によって世界を造られたことを意味しているのです。言をもって語りかけて下さる神の愛こそが、この世界と私たちの存在の起源、根源であり、私たちの人生を支える土台なのです。「初めに言があった」というヨハネ福音書の冒頭において私たちはこの神の言、神の語りかけ、神の愛をこそ見つめるべきです。そうすれば、この言の内にこそ命があること、あるいはこの言によって成ったものは生き生きと生かされることが分かるのです。

元始に言霊あり
 私たちの教会の創立者であるヘボンは、聖書の日本語訳においても中心的な働きをした人です。彼がS・R・ブラウン、奥野昌綱と共に1872年、明治5年に出版した「新約聖書ヨハネ伝」の冒頭の文は、「元始(はじめ)に言霊(ことだま)あり」となっていました。「はじめ」は「元」と「始」とを合わせた言葉です。そして「言」は「言霊」と訳されました。言葉には霊的な力が宿っており、その力が言葉によって語られたことを実現していく、という日本古来の考え方による言葉です。この言葉を用いることによって、初めにあった「言」の持つ神としての力、またそれが人格的存在であることを示そうとしたのです。しかしこの「言霊」という言葉は、言葉の持つ呪文のような魔術的な力を意味するものでもあるので、父なる神と共に天地創造に関わり、人となってこの世に来られた独り子なる神を表すものとしては相応しくないということもあって、すぐに用いられなくなりました。このようにある留保をもって受け止めなければなりませんが、「言」が「言霊」と訳されたこともあるという事実は記憶しておいたらよいと思います。虚しい単なる言葉ではない、力をもって働く言が見つめられているのです。

悪魔の罠
 神からの語りかけである言こそ、初めにあったもの、この世界の起源であり私たちの人生の土台であり、私たちを生き生きと生かすものです。ファウスト博士はその神の言を自らの土台として受け入れることをせず、人間の「行為、行動」を土台として歩もうとしました。この場面は、彼のもとに悪魔メフィストフェレスが現れ、働きかけ始める直前に置かれています。それはとても象徴的なことです。神の言を土台とせず、人間の行為、行動、行いによって生きようとするところにこそ、悪魔の力が発揮されていくのです。私たちが、「言葉よりむしろ行動だ」と思って神の言に聞こうとしなくなるところにこそ、悪魔の罠があるのです。

人間を照らす光
 神の言こそが、私たちを本当に生かす命の源であることをこの福音書はこのように冒頭において語っています。その神の「言」、神の語りかけが、私たちを生き生きと生かすことを別の仕方で語っているのが、4節後半から5節にかけての「命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」です。「言」の内に命がある、あるいは「言」によって成ったものは命を与えられ、生かされる、ということが、この「言」は人間を照らす光である、と言い替えられているのです。光は、神が天地創造のみ業において最初にお造りになったものであり、この世界が存在し、人間が生きるために神が与えて下さった第一のものです。光が輝くことから始まって、神の愛によって秩序づけられた世界が、つまり私たちが生きることのできる世界が築かれていったのです。この光が「人間を照らす光」と言われていることは大事です。神が光を創造して下さったのは、何よりも人間を照らすためです。つまり、光は私たち人間に対する神の愛の現れなのです。その光は、天地創造の時に輝いただけではありません。「光は暗闇の中で輝いている」とあります。これは現在のことを語っている文章です。光は今、暗闇の中で輝いているのです。神の愛が今、私たちに注がれ、私たちを生かしているのです。そしてこの文章は同時に、「暗闇」もまた現在の事柄であることを示しています。天地創造において光が創造されたから、もはや闇はないのではありません。私たちの人生に、そしてこの世界に、今、現実として、暗闇があるのです。その暗闇をもたらしているのは私たちの罪です。私たちが、「言」によって、つまり愛による語りかけによってこの世界を造り、私たちに命を与えて下さった神を神として敬い、礼拝し、その神と共に生きようとせず、神から目を背け、神の言に聞き従うのでなく、自分の思いや考えを第一として生きている、例えば「言葉よりむしろ行動だ」という思いに生きている、それが罪です。その罪によって私たちは神の光を見失い、暗闇に陥ってその中を生きているのです。そのように私たちが自ら作り出した暗闇の中に、神がご自身の愛の光を輝かせて下さっているのです。

暗闇は光に勝たない
 さらに5節の後半には、「暗闇は光を理解しなかった」とあります。ここは以前の口語訳聖書では、「やみはこれに勝たなかった」となっていました。ちなみに、先程紹介したヘボンの1872年の訳では「暗(くらき)はこれをさとらざりし」でした。理解する、悟る、とも訳せるし、打ち勝つ、勝利する、とも訳せる言葉が用いられているのです。理解するとは、それを自分のものにして支配する、ということです。その点で「理解する」と「勝つ」はつながるのです。いずれにしてもここには、光と暗闇との戦いが見つめられています。今、この世界と私たちの人生に暗闇の現実がある。しかしそこに神の愛による光が輝いて、暗闇を打ち払い、私たちに命を与えて下さるのです。光と暗闇の戦いは今まさに繰り広げられています。しかしこの戦いにおいて支配し、勝利するのは、暗闇ではなくて光です。光が輝く時、闇はもはやその光をかき消すことはできません。光が輝けば闇はもはや闇ではなくなるのです。光は闇に勝つけれども、闇は光に勝つことはできないのです。

主イエス・キリストにおいて
 このことは、勿論単なる物理的現象を語っているのではないし、罪が支配するこの世の暗闇の中に、神の救いの恵みの光が輝き、罪の闇に打ち勝つ、というような抽象的なことを言っているのでもありません。人間を照らす光が、暗闇の中に輝いている、それはこの世界に起った具体的な現実です。主イエス・キリストが人間となってこの世に来て下さり、この地上を生きて下さり、十字架の死と復活による救いを実現して下さったことによってこのことは現実となったのです。この福音書の3章19-21節にそのことが語られています。「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために」。光は既に世に来たのです。しかし人々はその光を受け入れなかったのです。それは、まことの神が人間となってこの世に来て下さり、十字架の死を遂げて下さった主イエス・キリストのことです。主イエスご自身も「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」と8章12節で語られました。「人間を照らす光」とは、主イエス・キリストです。「光は暗闇の中に輝いている」というのも、私たちの罪によって深まっているこの世の暗闇の中に、主イエス・キリストが来て下さり、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さることによって罪を赦して下さり、その死からの復活によって、私たちにも復活と永遠の命の約束を与えて下さった、ということです。その主イエスが今、この礼拝において私たちと出会い、語りかけ、交わりを持って下さっているのです。この世の現実におけるどのような暗闇も、この主イエスの恵みの光に打ち勝つことはできません。暗闇は光を支配下に置くことはできないのです。

神の言による新しい天地創造
 天地創造において、言を語りかけることによってこの世界と人間を造って下さった神は、その言であり、まことの命でもあり、人間を照らす光でもある主イエス・キリストを、人間としてこの世に遣わして下さることによって、罪の闇の中にいる私たちのための救いのみ業を行って下さいました。主イエス・キリストが肉となって地上を歩まれたご生涯において、神から私たちへの新しい語りかけがなされたのです。神の言、神の語りかけによって新しい世界が開かれます。神の言は、語りかけられた私たちに命を与え、生き生きと生きる新しい人生を与えるのです。私たちを覆っている暗闇を打ち払い、光に照らされて生きる者とするのです。それはあの天地創造のみ業に匹敵するような、力ある恵みのみ業です。ヨハネによる福音書を通して私たちも、神の言による新しい天地創造のみ業にあずかっていくことができるのです。

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