主日礼拝

ナルドの香油

「ナルドの香油」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:出エジプト記第12章21―36節
・ 新約聖書:マルコによる福音書第14章1―9節  
・ 讃美歌:136、355、567、聖餐 73

祭りの間に
 主日礼拝においてマルコによる福音書を読み進めてきまして、いよいよ14章に入ります。この14章から、いわゆる受難の物語となります。主イエス・キリストが、捕えられ、十字架につけられて殺される、その苦しみと死を語って行く箇所に入るのです。
 14章1節に「さて、過越祭と除酵祭の二日前になった」とあります。これは取りも直さず、主イエスの十字架の死の二日前ということです。この祭りの真っ最中に主イエスは十字架にかけられたのです。1、2節には、祭司長、律法学者たちが、イエスを捕えて殺そうと計略を練っていたが、「民衆が騒ぎだすといけないから、祭りの間はやめておこう」と言っていたことが語られています。しかし実際には、この祭りの間に主イエスは十字架につけられます。祭司長たちがこのように言っていたのに、主イエスの十字架の死がこの祭りの間に起こったということは重要であり、興味深いことです。いろいろな事情が重なってそうなったのです。主イエスの弟子の一人であるイスカリオテのユダが、主イエスを引き渡すことを申し出たのもその一つだったでしょう。それらのいろいろな成り行きの中で、主イエスの十字架は彼らの計画よりも早くなったのです。それは、人間の様々な思いや事情を超えて働く父なる神様のみ心によることです。父なる神は、主イエスがこの祭りの間に十字架につけられて死ぬことを望まれたのです。そのみ心の意味を先ず考えたと思います。

過越祭と除酵祭
 過越祭と除酵祭という二つの祭りが並べられていますが、それらはどういう祭りだったのかを確認しておきましょう。そのことが、本日共に読まれた旧約聖書の箇所、出エジプト記第12章に語られています。過越祭は、エジプトで奴隷とされていたイスラエルの民を主なる神が救い出して下さったことを記念する祭りです。イスラエルの民をなかなか去らせようとしなかったエジプト王ファラオが、ついに彼らの解放を認めたのは、神の使いがエジプト人の長男、最初に生まれた雄の家畜を全て打ち殺すという恐るべき災いを下されたことによってでした。その時、イスラエルの民の家においては、小羊が犠牲として殺され、その血が戸口に塗られたのです。その血の印のある家を、神の使いは通り過ぎて、つまり過ぎ越して、何の災いも下しませんでした。イスラエルの人々は、この小羊の犠牲の血によって災いから守られ、エジプトからの解放を与えられたのです。そのことを記念して、「過越の小羊」と呼ばれる羊の血を戸口に塗り、その肉を食べるのが「過越祭」です。出エジプト記12章26節以下に、この祭りの食事の席で、「この儀式にはどういう意味があるのですか」と子供たちが問い、それに対して親は「これが主の過越の犠牲である。主がエジプト人を撃たれたとき、エジプトにいたイスラエルの人々の家を過ぎ越し、我々の家を救われたのである」と答えなさいと語られています。そのようにして、親から子へと、主なる神様の救いの恵みが語り継がれ、継承されていくのです。また除酵祭は、この過越祭に続いて七日間守られる祭りです。パン種を入れないで、つまり酵母を除いて焼いたパンを食べるので「除酵祭」と呼ばれています。その意味は出エジプト記12章33、34節から分かります。「エジプト人は、民をせきたてて、急いで国から去らせようとした。そうしないと自分たちは皆、死んでしまうと思ったのである。民は、まだ酵母の入っていないパンの練り粉をこね鉢ごと外套に包み、肩に担いだ」。つまりイスラエルの民は、酵母を入れて発酵させている暇がないほど急いでエジプトを脱出したのです。その出来事を記念して除酵祭が行われるのです。
 このように、過越祭も除酵祭も、イスラエルの民をエジプトでの奴隷状態から解放して下さったという、神様の大いなる救いの出来事を記念する祭りです。神様による救いを記念するこの祭りの中で、救い主イエス・キリストが十字架につけられて殺されたのです。これはまことに皮肉なことだと言えます。しかもそれを計画したのは、これらの祭りを司るべき祭司長たちであり、エジプトからの解放の恵みに基づいて与えられた律法を研究し、それを人々に教えるのが務めである律法学者たちでした。神様のみ心について最もよく理解し、それを人々に教えるべき人々が、神様が遣わして下さった独り子イエス・キリストを十字架につけようとしているのです。

主イエスこそ過越の小羊
 しかし彼らは、このことをするのは、祭りの間はやめておこう、と言っています。この「祭りの間は」の意味は、祭りの期間はということではなくて、祭りに集まる民衆の前では、ということだという考え方もあります。祭りには多くの民衆がエルサレムに集まります。その民衆の前でイエスを殺すのはやめて、できるだけ目立たない仕方で始末しよう、と彼らは考えていたわけです。しかし結局は彼らの思惑とは違って、祭りの最中に、多くの民衆の前で主イエスは十字架につけられました。それは先ほども申しましたように、父なる神様のみ心によることです。神様は、主イエスの十字架の死が、この祭りの間に起こることを望まれたのです。それは、主イエスの十字架の死が、この祭りで記念されている過越の小羊としての死であることを明らかにするためです。エジプトからの解放の時、過越の小羊が犠牲となって殺され、その血が戸口に塗られたことによってイスラエルの民が災いから守られ、それによってエジプト脱出が実現しました。つまりイスラエルの民はこの小羊が犠牲となって殺され、その血が流されたことによって救われたのです。それと同じことが、いやそれよりももっと決定的なことが、主イエス・キリストの十字架の死において起ったのです。神様の独り子、まことの神であられ、しかも人間となってこの世に来て下さった主イエスが、私たちの罪を全て背負って十字架にかかり、犠牲となって死んで下さったのです。この主イエスの犠牲の死によって私たちは罪を赦され、神様の民として新しく生きることができるのです。主イエスが過越祭の時に十字架につけられたことは、主イエスこそ私たちのための過越の小羊であられることを示しているのです。主イエスを亡きものにしようとする祭司長、律法学者たちは、主イエスを十字架につけて、その思いを遂げました。しかし父なる神様は、彼らのその思いを用いて、しかもそれが過越の祭りの中で行われるように導くことによって、まことの過越の小羊である主イエスの死による救いを実現して下さったのです。

ナルドの香油を注いだ女性
 さて、本日の3節以下に語られているのは、マルコの記述によれば、主イエスが捕えられる前の日、つまりいわゆる受難週の水曜日の出来事です。エルサレムに来られて以来主イエスは日中は神殿の境内で教え、夜は近くのベタニアの村のある家に泊まっておられました。この家は「重い皮膚病の人シモン」の家であったと書かれています。ヨハネ福音書ではこれが、マルタとマリアそしてラザロのきょうだいたちの家だったと言われており、このことが起った日付も、過越祭の六日前となっていて、マルコとは違っています。しかしいずれにせよこの出来事は、主イエスが定宿としておられた家でのことです。食事の席に着いておられた主イエスのところに、一人の女性がやって来て、主イエスの頭に、ナルドの香油を注ぎかけたのです。ナルドの香油とは、インドや東アジア原産の香油だそうで、大変高価なものでした。5節には、これを売れば三百デナリオン以上になったはずだ、とあります。一デナリオンが当時の普通の労働者の一日の賃金ですから、三百日分の賃金、つまりほぼ一年分の収入です。小さな壷に入った香油がそれほどの価値を持っているのです。しかもこの女性はここで、その壷から数滴を主イエスの頭に注いだのではありません。石膏の壷を壊して、とあります。つまり彼女は壷の中身を全部注いでしまったのです。残しておいて他のことにも使おうとは全く思っていないのです。全てを主イエスの頭に注ぎかけてしまったのです。

主イエスへの献身の思い
 彼女はなぜこんなことをしたのでしょうか。彼女の思いや言葉はここには全く記されていません。それでいろいろと想像がなされます。ナルドの香油は、死体の葬りの時に、死臭を防ぐための香料として用いられたようです。それゆえに、彼女は主イエスの埋葬の準備をしたのだ、とも言われます。主イエスがまもなく捕えられ、殺されてしまうことを彼女は敏感に感じ取っていたので、その葬りの準備としてナルドの香油を主イエスに注いだ、8節で主イエスもそのように言っておられます。しかし、彼女がそのような思いでこのことをしたと考えることには無理があるように思います。まだ生きておられる主イエスに、埋葬の準備として香油を注ぐというのはおかしなことです。またこの時点で、主イエスがまもなく殺されることを彼女が知っていたとも思えません。弟子たちですら、そうは思っていなかったと思われます。この女性が、主イエスの埋葬の準備という意識を持っていたと考える必要はないと思います。そうではなくて、彼女は、主イエスを心から愛しており、主イエスのために何かをしたい、と純粋に思っていたのだと思います。今自分がイエス様のために出来ることは何だろうかと考えた末、彼女は自分の一番大切にしているものを主イエスにお献げしたのです。ナルドの香油の壷は、彼女が母親から、母親はそのまた母親から、先祖代々大切に受け継がれてきた宝物だったのではないでしょうか。それは彼女が持っていたただ一つの宝物だった。その宝物を全部、彼女は主イエスに献げたのです。そのようにして彼女は主イエスへの愛を、自分の身を献げる献身の思いを表現したのです。

彼女をとがめた人々
 ところが、そこにいた人たちの何人かが、彼女の行為を見て憤慨しました。マタイ福音書におけるこの箇所では、憤慨したのは弟子たちとなっています。ヨハネ福音書はそれをイスカリオテのユダだと言っています。しかしマルコ福音書は「そこにいた人々の何人か」と言っています。そういう漠然とした言い方によってマルコは、福音書を読む私たちが、自分自身をその場に置いて考えることを求めているのではないでしょうか。この女性の、主イエスへの一途な愛と献身とを目の前で見たとしたら、私たちはどのように反応するでしょうか。何と言うでしょうか。「なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに」と私たちも言うのではないでしょうか。それはある意味でまことに正しい、正論です。三百デナリオン、三百日分の賃金の価値のあるものを、主イエスの頭に全て注ぎかけてしまったら、三百デナリオンはたちまちパーになります。それだけのお金があれば、それを有効に使っていろいろなことが出来るはずです。貧しい人々を支えるという善いことをすることができます。それをこんなふうに使ってしまうなんて無駄遣いだ、というのは、私たちもそのように考える、正論なのです。人々はそういう正論によって彼女を厳しくとがめたのです。

この人を困らせるな
 しかし主イエスはそれに対して、「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ」とおっしゃいました。「そんなことを言ってこの人を困らせるな」と言われたのです。実際、この人々がしているのは、この女性のしたことにケチをつけ、困らせることでしかありません。貧しい人への施しを盾に取っていますが、それは彼女を困らせるための口実に過ぎないのです。そのことを主イエスは7節でこう指摘しておられます。「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない」。貧しい人々を助けることは、あなたがたがその気になりさえすれば、いつでも出来る、そのために全財産を投げ出すことだって出来るのだからそうすればよい、と主イエスは言っておられるのです。しかし彼らにはそんな気はさらさらありません。彼らは、貧しい人のために、ということを考えているのではなくて、彼女のしたことを批判したいだけなのです。それは彼らが、彼女のこの行為に、自分たちの中にはない、主イエスに対する純粋な愛と献身を見たからです。自分にはこんなことはとてもできない、というすばらしい愛の行為を見た時に、その行為にケチをつけたくなる、こんな問題がある、あんな欠けがあると文句をつけたくなる、それがこの人々の思いなのです。そのために、誰も反論できないような正論をふりかざすのです。このような正論を、私たちもしばしば語るのではないでしょうか。いかにも正しいことを語りならが、あるいは誰かのために配慮しているようなことを言いながら、実は相手のしていることにケチをつけ、困らせているだけ、ということが、私たちにもよくあるのではないでしょうか。特にここで起っているのは、この女性の、主イエスに対するひたむきな奉仕にケチをつける、ということです。人のしている奉仕にケチをつけ、批判するということは、残念ながら教会においてもよく起ることです。あの人のあの奉仕はこういうところがなっていない、こういう配慮が欠けている、というようなことが語られるのです。そしてそういう批判は大抵当っています。正論なのです。完全な、全く欠点のない奉仕などあり得ないのですから、人の奉仕のあら探しをしようとすればいくらでも出来ます。この女性の純粋な、心からの献身も、ある見方からすればこのような批判にさらされるのです。主イエスは、この批判に対して、「そんな批判は間違っている。この人の奉仕は正しい」とおっしゃったのではありませんでした。そうではなくて「なぜこの人を困らせるのか」とおっしゃったのです。ここが大事です。主イエスは、「この人の奉仕こそ完璧だ。この人を批判することは許されない。奉仕する者は皆この人を見倣え」とおっしゃったのではないのです。この人のしていることも、見方によってはいろいろな問題があるだろう、欠けもあるだろう、しかし、そういうことを指摘し、ケチをつけてこの人を困らせないでほしい、この人が心を込めて精一杯している奉仕を受け入れてほしい、そしてそれを共に喜んでほしい、それが主イエスの思いなのです。

埋葬の準備として
 「わたしに良いことをしてくれたのだ」と主は言われました。彼女が主イエスのために何かをしたい、自分の出来る限りのことをしてお仕えしたい、と思ってしたことを、主イエスは「わたしに良いことをしてくれた」と受け止め、それを喜んで下さるのです。そして「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない」と主は言われました。これは、主イエスがまもなく十字架につけられて殺されることによって彼らのもとから引き離されることを意識したお言葉です。そう語ることによって主イエスは、彼女の愛と献身を、ご自分の十字架の死と結びつけ、そのご自分のための奉仕として受け止めて下さっているのです。そのことが8節の「前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた」というみ言葉に言い表されているのです。つまり「主イエスの埋葬の準備」は、彼女がそのような思いでこのことをした、ということではなくて、主イエスが、彼女の心からの奉仕をそのように受け止めて下さった、ということなのです。主イエスはこのように、私たちの主イエスへの愛、献身、奉仕を、十字架につけられて死ぬご自分への愛、献身、奉仕として受け止めて下さるのです。そこに、主の大きな恵みがあります。主イエスの十字架の死は、神の独り子が、私たち罪人を愛し、私たちの救いのためにご自身を徹底的に低くして、仕えて下さったという出来事です。主イエスご自身が、私たちへの愛と献身と奉仕に生き抜いて下さったのです。私たちは、主イエスの愛と献身と奉仕に応えて、主イエスを愛し、この身を献げ、主イエスに仕えていくのです。それが私たちの信仰の生活です。その私たちの奉仕を主イエスは、それがいかにつたない、欠けの多い、不十分なものであっても、十字架にかかって死んで下さることによって私たちに救いを与えて下さる、そのご自分の救いのみ業と結びつけ、その救いへの応答として喜んで受け止めて下さるのです。

福音の記念として
 また主イエスは、できるかぎりのことをしてご自分に奉仕しようとしている人を、誰かが困らせ、その奉仕を批判し、ケチをつけることをお望みにはならないのです。その批判は当っているかもしれない、しかし、私に仕えようとしているこの人を困らせないでほしい、とおっしゃるのです。また、私たちが、自分の奉仕を誇ったり、人の奉仕と自分の奉仕を比べて優越感を抱いたり劣等感に陥ったりすることもお望みにならないのです。例えばこの女性が、「私を批判したあの人たちは何よ、貧しい人たちのためとか言いながら、自分は何もしていないじゃないの、私は三百デナリオンにもなる香油をイエス様の頭に注いだのよ」などと言い始めたら、あるいは「あの人の奉仕は二百デナリオンぐらいね。私のは三百よ」などと言うようになったら、それはおしまいです。その時には彼女も、「無駄遣いだ」という正論をふりかざして批判している人々と同じになってしまいます。十字架の死に至るまで、私たちに仕える道を歩み通して下さった主イエスは、私たちがその恵みに感謝して心から主イエスに仕えていくことをこそお喜びになるのです。その奉仕がたとえ様々な問題を含み、欠けのあるものであっても、それをご自分の救いのみ業の、十字架の死による罪の赦しの福音の記念として受け止め、位置づけて下さるのです。最後の9節で主イエスは「はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう」とおっしゃいました。このみ言葉は、この女性の奉仕がいかに素晴らしいことだったかを語っているのではなくて、彼女の、自分に出来る精一杯のことをして主イエスに良いことをしようとした思いを、主イエスが、ご自分の十字架の死による救いと結びつけて、彼女自身が思ってもみなかった大きな意味をそこに与えて下さった、ということを語っているのです。

聖餐にあずかることによって
 これから私たちは聖餐にあずかります。聖餐は、洗礼を受けて主イエス・キリストの救いにあずかり、キリストの体である教会の一員とされた者が、パンと杯にあずかることによって、私たちのために過越の小羊として十字架の上で死んで下さった主イエス・キリストの体と血とにあずかり、主イエスが徹底的にご自身を低くして私たちに仕えて下さることによって与え下さった救いの恵みを味わい、それによって養われ強められていくために、主が備えて下さった食卓です。洗礼を受け、この聖餐に共にあずかって生きることが、私たちの信仰生活なのです。聖餐にあずかることによって私たちは、主イエスを愛し、この身を献げてお仕えしていく、その志を新たにされます。私たちが主イエスにお献げすることができる奉仕は、そんなに立派なものではないかもしれません。しかし、自分の一番大切なものをお献げしようという心からの思いをもってすれば、つまり主イエスにこの身を献げる献身の思いがあれば、私たちも、この女性と同じことが出来るのです。それが三百デナリオンに当たるかどうかは問題ではありません。主イエスは、献げるものの量や質や価値によってではなく、主イエスに感謝し、主イエスのために良いことをしようという私たちの思いをしっかりと受け止めて下さり、それを喜んで下さり、ご自分の救いのみ業の中にそれを位置づけ、主の恵みの記念としての意味を与えて下さるのです。

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