夕礼拝

心を尽くして主に仕えよ

「心を尽くして主に仕えよ」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:申命記第10章12-22節
・ 新約聖書:ローマの信徒への手紙第2章25-29節
・ 讃美歌:297、506

主が今求めておられること
 本日は旧約聖書申命記第10章12節以下からみ言葉に聞いていくのですが、その最初の12節に「イスラエルよ。今、あなたの神、主があなたに求めておられることは何か」という問いかけがあります。今、主なる神が自分に求めておられることは何かを考え、そのみ心に従って生きようとすることが私たちの信仰です。信仰に生きるということは、私たちが常に変わらない信念を持って生きることではありません。信念と信仰は違います。信仰に生きるとは、神のみ言葉を常に新しく聞いて、それに応答していくことです。常に新しく神のみ心を求め、それに従っていくことです。聖書が教える信仰はそういう柔軟さを持ったものなのです。
 それは、人間の状況によって左右され、揺れ動いてしまう無節操や無定見とは違います。私たちが常に応答していくのは、人間や社会の状況、人々の思いではなくて、神のみ心です。自分たちが今何を必要としているか、何を願っているか、に対応するのではなくて、主なる神が今自分に何を求め、何をさせようとしておられるのかを見つめ、それに応答していくのです。つまりここに「今」と言われているのは、人間の現実における今、私たちが感じている今ではなくて、神のみ前における今、神との関係における今なのです。イスラエルの民はこの時、主なる神との関係においてどのような「今」を生きていたのでしょうか。

イスラエルの民の今
 それを知るためには、申命記がどういう設定で書かれているのか、そしてとりわけ直前の9章から10章にかけて何が語られていたのかを再確認しなければなりません。申命記は、エジプトの奴隷状態から主なる神によって解放されたイスラエルの民が、神が与えて下さる約束の地を目指して荒れ野を旅してきたことを振返って語っています。四十年にわたるその旅がいよいよ終りに近づき、これから約束の地へと入って行こうとしているのです。それが彼らの「今」です。モーセがその時点で、民のこれまでの歩みを振り返って語っているのが申命記なのです。そこで見つめられているのは、イスラエルの民は荒れ野の旅において繰り返し神に背いてきたということです。神が恵みによってエジプトの奴隷状態から解放して下さったのに、荒れ野の旅において困難や苦しみが起こって来るとすぐにその恵みを忘れて神に不平不満を言い、エジプトにいた方がマシだったなどと言って、恩知らずなことばかりしてきたのです。その代表的な出来事が、ホレブ(別名シナイ)山において、モーセが神から十戒を授けられていた間、麓で待っていた彼らが金の子牛の像を造って拝み始めたことです。そのことが9章8節以下に語られていました。主なる神はこのホレブで彼らと契約を結んで下さり、彼らをご自分の民として下さり、神の民として生きるための教えとして十戒を与えて下さったのでした。そこには、「あなたにはわたしをおいてほかに神があってはならない」「あなたはいかなる像も造ってはならない」と語られていました。自分たちをエジプトの奴隷状態から解放して下さった、その主なる神との関係を大切にし、この神とのみ共に歩むことが、主なる神の民としての生き方なのです。ところがその十戒が与えられていたまさにその時に、彼らは目に見える偶像を造って拝んだのです。このどうしようもない罪に対して神は激しく怒り、この民はもう滅ぼしてしまうとおっしゃいました。モーセはその時、イスラエルの民のために必死に赦しを願いました。9章25節には、四十日四十夜、主の御前にひれ伏して祈ったと語られています。その祈りが26節以下に語られていますが、その内容は、この民はあなたが大いなる御業をもってエジプトから救い出したあなたの民なのですから、そのあなたの愛を思い起こし、この民の罪を赦して下さい、ということです。そのモーセの執り成しの祈りによって主なる神は、10章に入って、一度は破壊されてしまった、十戒を記した石の板をもう一度授けて下さったのです。またイスラエルの中のレビ族を、その板を入れた箱、8節で「契約の箱」と呼ばれている箱を担ぐ者として任命し、11節にあるようにモーセに「立って、民を先導して進みなさい。彼らは、わたしが先祖に与えると誓った土地に入り、それを得る」と告げて下さったのです。つまり神はイスラエルの民の罪を赦して、彼らと共に再出発して下さったのです。10章11節までの所には、そのことが語られています。それが、12節におけるイスラエルの民の「今」です。今彼らは、いよいよ約束の地へと入って行こうとしています。その彼らの真ん中には、レビ族が担ぐ契約の箱があります。この箱を担ぐ人々を中心として旅している彼らの姿は、日本で言えば御神輿を担いで行進している姿に似ていると言えるかもしれません。しかし御神輿と決定的に違うのは、契約の箱は、9章に語られている出来事、彼らが主なる神に対してどうしようもなく恩知らずな罪を犯したことを、そしてその罪を神が赦して下さって、もう一度彼らと共に歩んで下さっていることを常に思い起こさせるものだということです。神の恵みによって救いにあずかり、約束の地へと入ろうとしている、しかしその歩みにおいて罪を犯し、滅ぼされても仕方のない者となってしまったけれども、神の赦しの恵みによって再出発して歩んでいる、それが、神のみ前での、神との関係における彼らの「今」なのです。その今、主なる神が求めておられることは何か、がこの12節で問われているのです。

私たちの今
 イスラエルの民のこの「今」、神のみ前での、神との関係における「今」は、私たちの「今」でもあります。私たちは今、教会の礼拝へと神によって招かれています。それは、神の独り子主イエス・キリストの十字架の死と復活という神が与えて下さった救いの恵みが私たちにも与えられているということです。神がこの救いにあずからせるために招いて下さっているのでなければ、私たちがこうして礼拝の場に集うということは起るはずがないのです。つまりこうして礼拝をしている私たちは、既に洗礼を受けてクリスチャンとなっている人も、そうでないいわゆる求道中の人も皆、主イエス・キリストによる神の救いの恵みの中に置かれており、その恵みに応えて生きることへと招かれているのです。それは私たちが、主なる神の恵みによってエジプトの奴隷状態から解放されたイスラエルの民と同じ立場にいるということです。そしてイスラエルの民がこの時約束の地を目指して荒れ野を旅していたように、私たちも、神が主イエス・キリストによって約束して下さった救いの完成、復活と永遠の命を待ち望みつつ、荒れ野のようなこの世を旅しています。荒れ野のようなということは、そこを歩んでいく中で様々な苦しみがあるということです。この世を生きる私たちの人生には、信仰をもって生きることを妨げる様々な力が働いています。エジプトから解放されたからといって救いが完成したわけではなく、なお荒れ野の苦しい旅路を歩まなければならなかったイスラエルの民と同じく、私たちも、主イエス・キリストによる罪の赦し、救いを信じてそれにあずかってからも、いろいろな困難や苦しみに直面しつつこの世を生きているのです。その荒れ野の旅路の中で、私たちも、繰り返し罪に陥ります。神の恵みに応えることができずに、それを裏切り、神に信頼して依り頼むのでなく他の様々な力、この世の力であったり自分自身の力であったりに頼り、それらを神としてしまうという恩知らずの罪に陥るのです。私たちは、主の日、日曜日に神を礼拝して新しい一週間を歩み出しても、すぐにまたそのような罪に陥ってしまうのではないでしょうか。しかしそのような私たちのことを、天に昇られた主イエス・キリストがいつも執り成して下さっています。その執り成しのおかげで私たちは今日この主の日に、再び礼拝へと、神のもとへと招かれているのです。それは神が私たちを赦して、再出発させて下さっているということです。モーセの執り成しによってイスラエルの民が再出発を許されたように、私たちも、神の憐れみによる罪の赦しをいただいて、今日また新しく歩み出すのです。イスラエルの民の歩みにおいては契約の箱がその神の赦しの恵みを指し示していました。私たちにおいては、毎週の主の日の礼拝が、神による罪の赦しの恵みを確認し、新しく歩み出すために与えられているのです。このように、申命記10章12節におけるイスラエルの民の「今」は、私たちの「今」でもあります。「今、あなたの神、主があなたに求めておられることは何か」という問いは、私たち一人一人にも向けられているのです。

主を愛すること
 主なる神が今私たちに求めておられることは何なのでしょうか。12節後半以下にこのように語られています。「ただ、あなたの神、主を畏れてそのすべての道に従って歩み、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え、わたしが今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って、あなたが幸いを得ることではないか」。ここには五つのことが並べられています。第一は主を畏れること、第二はそのすべての道に従って歩むこと、第三は主を愛すること、第四は心を尽くし、魂を尽くして主に仕えること、第五は主の戒めと掟を守ることです。この五つのことが、イスラエルの民に、そして私たちにも、今求められているのです。これらの五つはそれぞれ別のことではありません。五つ全体で一つのことが語られていると言ってよいでしょう。五つの真ん中である第三のことは、主を愛することであって、それがまさに中心です。他の四つのことは、主を愛することの内容を語っているのです。既に申命記第6章5節に、この教えの元となる言葉がありました。そこには「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」とありました。そしてこれは、主イエスが、律法の中で最も大事な掟は何かと問われた時にお答えになったことでもあります。「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛する」ことこそ、主イエス・キリストによる罪の赦しにあずかり、礼拝へと招かれている私たちに対しても、主なる神が今求めておられることなのです。

真実の幸いを得る
 また13節の終りには、これらの五つのことによって「あなたが幸いを得る」ことをこそ主なる神は願っておられることが示されています。主なる神を真実に愛して生きることによって、私たちは真実の幸いを得ることができるのです。本当に幸せな人生が与えられるのです。なぜそう言えるのか、そのことが14、15節に語られています。14節には「見よ、天とその天の天も、地と地にあるすべてのものも、あなたの神、主のものである」とあります。「天とその天の天も」というのは奇妙な言い方ですが、最初の天は「大空、天空」という意味で、「その天の天」は、その大空よりもさらに高いもの、という意味です。限りなく高い天の天までも、また地とそこにある全てのものも、主のものであり、主なる神はその全てを支配しておられるのだ、というのが14節の意味です。そして15節には「主はあなたの先祖に心引かれて彼らを愛し、子孫であるあなたたちをすべての民の中から選んで、今日のようにしてくださった」とあります。この翻訳ですと、14節と15節はつながりなく並んでいるように感じられます。しかし実は原文の15節の始めには「しかし、それにもかかわらず」という意味の接続詞があるのです。口語訳はそれを生かして、14節から15節へのつながりをこう訳していました。「見よ、天と、もろもろの天の天、および地と、地にあるのもとはみな、あなたの神、主のものである。そうであるのに、主はただあなたたちの先祖たちを喜び愛し…」。この口語訳の方が原文の意味を正確に表しています。つまり14節と15節との間にはあるコントラストが見つめられているのです。主なる神は天の天をも、地にある全てのものをも支配しておられる、この世界の全てのものは神のものであり神の自由になるのだ、それなのにその神が、あなたの先祖を特別に愛し、子孫であるあなたたちを全ての民の中から選んで、救いの恵みを与え、ご自分の民として下さった、あなたがたイスラエルの民は、神のそのような特別な愛を受けており、その愛によって生かされている者なのだ、ということがここに語られているのです。それゆえに、あなたがたが今なすべきことは、主なる神を心から愛して生きることなのです。つまりここに語られているのは、神が先ずあなたがたを心から愛しておられるのだから、その愛に応えてあなたがたも心から神を愛して歩みなさい、ということなのです。そこにこそ真実の幸いがあります。神によって真実に愛されている自分が、それの愛に応えて神を真実に愛するという、主なる神との愛の応答関係に生きることこそ、真実の幸いなのです。

選びの愛
 神はこの愛によって「あなたたちをすべての民の中から選んで」下さった、と15節にあります。この世界の全てのものは神のものであり、全ての民も神の支配下にあるのです。しかし神はその全ての民の中から、イスラエルの民を選んで、契約を結び、ご自分の民として下さいました。イスラエルに対する神の愛は、選びの愛です。このことによって示されているのは、主なる神の愛は、「人類愛」というような一般的、普遍的、そして抽象的なものではないということです。神の愛は個別的、具体的なのです。「人類愛」という抽象的な愛は、下手をすれば、具体的には一人の人をも愛していなくても語れてしまいます。しかし主なる神の愛はそのようなものではなくて、私たちを個々に、具体的に愛して下さるのです。主イエスがお語りになった、九十九匹を山に残していなくなった一匹の羊を探しに行く羊飼いのたとえ話において示されているのが、まさにこの選びの愛です。神のそのような具体的な、選びの愛を受けて、それに応えて私たちも神を具体的に愛していくのです。

心の割礼
 この神の選びの愛に応えて生きるために、16節には「心の包皮を切り捨てよ」と語られています。包皮を切り捨てるというのは、割礼を受けることです。それはイスラエルの民が主なる神の民とされていることの目に見える印として行なわれていた儀式でした。肉体に割礼を受けることによって、イスラエルの民は自分たちが神に選ばれて神の民とされていることを確認し、確信して生きていたのです。しかしここでも言われているように、本当に大事なのは肉体の包皮を切り捨てることではなくて、心の包皮を切り捨てること、心に割礼を受けることです。そのことはここでは「二度とかたくなになってはならない」という勧めと結びつけられています。9章の13節には、イスラエルの民がホレブで金の子牛を造った時、主が「わたしはこの民を見てきたが、実にかたくなな民である」と言って彼らを滅ぼそうとしたことが語られていました。主なる神の恵みに応えて主と共に生きようとせず、目に見えるものにばかり頼ろうとするところに、彼らのかたくなさがあるのです。「心の包皮を切り捨てよ」という勧めは、イスラエルの民においては、そのようなかたくなな心を捨て去って、主なる神の愛に応えて生きよ、ということです。
 先程共に読んだ新約聖書の箇所、ローマの信徒への手紙の第2章25節以下でパウロもそれと同じことを語っています。その28、29節にこうあります。「外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではありません。内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく〝霊〟によって心に施された割礼こそ割礼なのです」。キリスト信者は、「霊によって心に施された割礼」を受けて、神の民とされるのです。それは私たちにおいては洗礼のことです。私たちは洗礼を受けることによって、主イエス・キリストの十字架と復活による救いの恵みにあずかるのです。つまり私たちを具体的に愛して下さっている神の選びの愛を受け、キリストの体である教会に連なる者とされるのです。そして私たちもキリストの父である神を心から、具体的に愛する者として新しく生きていくのです。

人を偏り見ない
 心の割礼を受けて主なる神を愛して生きるところにどのような歩みが与えられていくのか、それが17節以下に語られています。17、18節にこうあります「あなたたちの神、主は神々の中の神、主なる者の中の主、偉大にして勇ましく畏るべき神、人を偏り見ず、賄賂を取ることをせず、孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛して食物と衣服を与えられる」。ここに「神は人を偏り見ず、賄賂を取ることをせず」とあります。それは、ある特定の人にだけ恵みを与えるようなことはしない、ということです。それは先程の「神の愛は選びの愛だ」ということと一見矛盾することのようにも思われますが、決してそうではありません。選びの愛というのは、その愛を受けた者が、自分にはその愛を受ける資格の全くない罪人なのに、神が特別に自分を選んでこのような愛を注いで下さった、と感謝することをもたらすのです。つまりそれは、自分は選ばれているがあの人もこの人も選ばれていない、と自慢したり人を見下したりするためのものではありません。神の選びの愛を受けた者は、全く相応しくない罪人である自分がこの愛を受けたのだから、あの人もこの人も、どんなに弱く貧しい罪人であっても、同じ神の選びの愛を受けることができるはずだ、と思うのです。そこに、人を偏り見ない、賄賂を取ることに代表されるような、自分にとって利益となる人だけを愛するような生き方ではなく、弱い者貧しい者を愛し、その権利を守る、という生き方が生まれるのです。

寄留者を愛する
 19節にはとりわけ「寄留者を愛しなさい」と教えられています。寄留者とは、他所からやって来た人です。今話題となっている言葉で言えば「難民」です。教会にも寄留者がいます。真実なみ言葉を求めて他の教会から来た人もそうだし、勇気を出して礼拝に来た求道者の方々もそうです。そういう寄留者はしばしば「余所者」として冷たくあしらわれたり排除されたりします。その人々を愛し、交わりの輪の中に温かく迎え入れ、友となること、それが、神の愛に応えて生きることなのです。「あなたたちもエジプトの国で寄留者であった」と語られています。私たちも、もともと最初から神の民だったのではありません。罪によって神のもとから失われていた余所者だったのです。その私たちに神が選びの愛を注いで下さり、ご自分のもとに招き、迎え入れて下さったことによって、私たちは生きることができる場を与えられたのです。だから私たちも、私たちの間にいる寄留者、他所からやって来た人たちを愛し、受け入れ、交わりを築いていくのです。主イエス・キリストが、「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛する」ことと並んで、もう一つの大切な教えとしてお語りになった、「隣人を自分のように愛しなさい」という教えはそのことを意味していると言えるでしょう。私たちを選んで下さり、み子イエス・キリストによる救いを与えて下さり、新しい神の民である教会の一員として下さった神の愛に応えて、私たちは、心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして主なる神を愛すると共に、隣人を、私たちの間にいる寄留者を、愛し、受け入れ、友となり、交わりを築いていくのです。それこそが、主が今私たちに求めておられることなのです。

関連記事

TOP