夕礼拝

主の御翼のもとに

「主の御翼のもとに」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:ルツ記 第2章1-23節
・ 新約聖書:マタイによる福音書 第15章21-28節
・ 讃美歌:135 、432

第1章のあらすじ
 私が夕礼拝の説教を担当する日には、旧約聖書からみ言葉に聞いておりますが、前回からルツ記に入りました。本日はその第2章を読むのですが、第1章を読んだ前回は10月21日でしたから、三ヶ月前です。そこで先ず、第1章を振り返ることから始めたいと思います。
 ユダのベツレヘム出身のエフラタ族の人であるエリメレクが、イスラエルの地の飢饉を逃れて、異国であるモアブの地に移住しました。妻はナオミと言い、マフロンとキルヨンという二人の息子がいました。しかしエリメレクはモアブの地で亡くなりました。二人の息子はそれぞれ、モアブの女性と結婚しました。兄の嫁はオルパ、弟の嫁はルツでした。しかし二人の息子も相次いで亡くなり、ナオミと二人の嫁だけが遺されました。ナオミは、故郷であるベツレヘムに帰ることを決意し、二人の嫁に、モアブの地に残り、再婚して幸せになるようにと勧めました。彼女らを嫁という立場から解放してやろうとしたのです。兄嫁はその勧めに従って実家に帰りましたが、ルツはナオミのもとに留まり、一緒にイスラエルの地に行くと言いました。そのルツの言葉が1章16節以下に語られています。「あなたを見捨て、あなたに背を向けて帰れなどと、そんなひどいことを強いないでください。わたしは、あなたの行かれる所に行き、お泊まりになる所に泊まります。あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神。あなたの亡くなる所でわたしも死に、そこに葬られたいのです。死んでお別れするのならともかく、そのほかのことであなたを離れるようなことをしたなら、主よ、どうかわたしを幾重にも罰してください」。こうしてナオミとルツはベツレヘムに帰って来た、そこまでが第1章のあらすじです。 ナオミとルツの深い苦しみ
 今簡単に言いましたが、ナオミとルツは大変深い苦しみの中にあります。ナオミは、夫と二人の息子を失い、ひとりぼっちになってしまいました。ルツも、子どもを与えられないまま夫に先立たれたのです。子どもが一人でもいれば、ナオミもルツも、その子の成長に望みを置いて生きることができたでしょう。しかしそういう将来への希望は全く失われているのです。故郷ベツレヘムに帰って来たナオミも、ナオミについて全く知らない異国の地であるイスラエルにやって来たルツも、共に深い絶望と虚しさの中にいるのです。 
 二人がベツレヘムに着いたのは、大麦の刈り入れの始まる頃だった、と1章の終りにあります。人々が収穫の忙しさと喜びの中にあるところに二人は到着したのです。このことも二人のつらさ、苦しみをより大きくしたでしょう。人々が収穫の喜びを覚えている中で、彼女たちには収穫するものが何もないのです。元々エリメレクの所有だった畑はあっても、所有者が長く不在だったためにそこは荒れ果てています。女二人でこれからそこを耕したとしても、どれだけのものを得られるか分かりません。故郷に帰っては来たものの、その日の食べ物にも困るどん底の生活が待っていたのです。

落ち穂拾い
 2節でルツがナオミに「畑に行ってみます。だれか厚意を示してくださる方の後ろで、落ち穂を拾わせてもらいます」と言ったことは、彼女らの置かれていたそういう厳しい状況を示しています。落ち穂拾いは、どうにも食い詰めた者がその日の食物を得るために最後の手段としてすることです。イスラエルの律法には、収穫後の落ち穂は貧しい者のために残しておかなければならないという掟がありました。レビ記19章9、10節を読んでみます。「穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。ぶどうも、摘み尽くしてはならない。ぶどう畑の落ちた実を拾い集めてはならない。これらは貧しい者や寄留者のために残しておかねばならない。わたしはあなたたちの神、主である」。これを読むと、旧約聖書の律法が相互扶助の精神に満ちていることが分かります。その土台には主なる神への信仰があります。収穫は主が与えて下さった恵みだから、自分だけで独占するのではなく、貧しい人、困っている人と分かち合わなければならない、主が収穫を与えて下さったのは、そのように貧しい人を助けるためでもあるのだ、ということがこの掟によって教えられているのです。ルツはこの掟を頼りに、誰かの畑で落ち穂を拾わせてもらおうと出掛けたのです。それは一日のみのことではありません。19節には「今日は一体どこで落ち穂を拾い集めたのですか」というナオミの言葉があります。ルツは毎日いろいろな人の畑で、所有者にお願いして落ち穂を拾わせてもらっていたのです。それは大変つらい日々だったでしょう。あのような掟があるからといって、誰もが快く迎えてくれるわけではないでしょう。蔑まれたり、意地悪をされたりすることもあったでしょう。ルツは、自分としゅうとめの生活のためにそのようなつらい働きをしていたのです。

ボアズ
 ある日、ルツはたまたま、エレメレクの一族、つまり親戚筋に当たるボアズという人の畑で落ち穂を拾わせてもらうことになりました。4節にボアズが登場しますが、そこに彼の人となりが現れています。「ボアズがベツレヘムからやって来て、農夫たちに、『主があなたたちと共におられますように』と言うと、彼らも、『主があなたを祝福してくださいますように』と言った」。ボアズは雇い人である農夫たちに「主があなたたちと共におられますように」と挨拶し、農夫たちも「主があなたを祝福してくださいますように」と応えています。主なる神の下で、ボアズが農夫たちと良い関係を結んでいることが分かります。彼は雇い人たちを主の下で共に生きる人々として大事にしているのです。そういう彼は、自分の畑で落ち穂を拾っている貧しい人たちのことをもいつも気にかけ、慈しみの目で見つめていたのです。この日彼は、見知らぬ若い女性が落ち穂を拾っているのに気づき、農夫の監督に「そこの若い女は誰の娘か」と尋ねました。彼女が先頃モアブの地から戻って来たナオミの嫁であることを知ったボアズは、ルツに声をかけます。「わたしの娘よ、よく聞きなさい。よその畑に落ち穂を拾いに行くことはない。ここから離れることなく、わたしのところの女たちと一緒にここにいなさい。刈り入れをする畑を確かめておいて、女たちについて行きなさい。若い者には邪魔をしないように命じておこう。喉が渇いたら、水がめの所へ行って、若い者がくんでおいた水を飲みなさい」。これは並々ならぬ親切です。彼はルツに、自分の畑で落ち穂を拾うことを許しただけでなく、もうよその畑には行くな、毎日私の畑に来なさい、と言ったのです。そして、若い者つまり彼の雇い人たちが彼女の邪魔をしたりいじめたりしないように命じ、喉が渇いたら雇い人たちのために用意してある水を飲みなさい、と言ったのです。 主なる神の厚意
 これを読むと私たちは、ボアズはルツに一目惚れしたのだと思います。ラブ・ロマンスとしてはそれが面白いし、映画にでもするならそういうふうに描くところでしょう。そういう面もないことはないかもしれませんが、聖書が、ルツ記が語ろうとしているのはそういうことではありません。ルツはボアズのこの思いがけない厚意に驚き、感謝し、10節でこのように尋ねています。「よそ者のわたしにこれほど目をかけてくださるとは、厚意を示してくださるのは、なぜですか」。それに対してボアズはこう答えているのです。「主人が亡くなった後も、しゅうとめに尽くしたこと、両親と生まれ故郷を捨てて、全く見も知らぬ国に来たことなど、何もかも伝え聞いていました。どうか、主があなたの行いに豊かに報いてくださるように。イスラエルの神、主がその御翼のもとに逃れて来たあなたに十分に報いてくださるように」。これが、ボアズの厚意の理由です。ルツが、夫の死後もしゅうとめに尽くし、しゅうとめと共に見知らぬ異国であるイスラエルにやって来たことに対して、主なる神が豊かに報いて下さるようにとボアズは言っています。彼がルツに厚意を示したのは、主なる神がルツに恵みを注ぎ、報いて下さっていることを示し、現すためなのです。そしてそれは、しゅうとめに献身的に仕えているけなげな嫁の働きに報いよう、というだけのことではありません。ルツは、モアブという異国の出身でありながら、イスラエルの神である主の御翼のもとに逃れて来たのです。そのルツを、主なる神が温かく迎え入れ、育み養って下さる、そういう主なる神の恵みのみ心を、ボアズは自分の親切によって現そうとしているのです。

心に触れる言葉
 このボアズの言葉にルツはこう答えています。「わたしの主よ。どうぞこれからも厚意を示してくださいますように。あなたのはしための一人にも及ばぬこのわたしですのに、心に触れる言葉をかけていただいて、本当に慰められました」。ルツはボアズの言葉によって本当に慰められたのです。それは裏返して言えば、ルツの心には悲しみとつらさが満ちていたということです。「よそ者のわたしにこれほど目をかけてくださるとは」と10節で言っていたように、彼女はイスラエルの地に来て、自分がよそ者であること、外国人であることによる疎外感を深く感じていたのです。表面的には、夫が死んでもしゅうとめに従って来た立派な嫁だと褒めている人々も、内心では、「あの人はモアブ人だから、私たちとは違う、よそ者だ」と思っていることをひしひしと感じていたのです。イスラエルの人々は、自分たちは神に選ばれた民だという選民意識、同族意識を強く抱いており、外国人を異邦人と呼んで蔑んでいました。そういう人々の中で、モアブ出身のルツが生きていくのは大変なことだったでしょう。そういう疎外感、孤独の中で彼女の心は閉ざされかけていたのだと思います。ボアズの親切とその厚意ある言葉は、そんな彼女の心に触れたのです。「心に触れる言葉をかけていただいて」と言っています。ここは直訳すると「あなたは私の心に語りかけてくれた」となります。ボアズの言葉は、疎外感で閉ざされようとしていたルツの心の奥底に届いたのです。心に届く言葉を聞くことによって、人は本当に慰められます。そして閉ざされていた心が再び開かれていくのです。

厚意を示してくださる
 このルツ記第2章には、三度繰り返されている大事な言葉があります。新共同訳はそれを意識して訳しています。その内の二つが10節と13節に出てきます。それは「厚意を示してくださる」という言葉です。10節には「厚意を示してくださるのは、なぜですか」とあり、13節には「これからも厚意を示してくださいますように」とあります。もう一箇所この言葉が語られているのは2節です。そこには「だれか厚意を示してくださる方の後ろで、落ち穂を拾わせてもらいます」とありました。三度繰り返されている「厚意を示してくださる」という言葉が、この第2章のキーワードです。ルツは、自分とナオミに「厚意を示してくださる方」を求めて落ち穂拾いに出たのです。そしてその「厚意を示してくださる方」であるボアズと出会い、慰めを得たのです。しかしボアズが言っているのは、これは自分の厚意ではない、むしろ主なる神の厚意だ、主なる神が、その御翼のもとに逃れて来たあなたに豊かな厚意を示し、迎え入れて下さっているのだ、ということです。ルツはボアズを通して、厚意を示してくださる主なる神と出会い、慰められたのです。主なる神が、その御翼のもとに逃れて来た異邦人の女性ルツを迎え入れ、厚意を示して下さった、それがルツ記全体の主題です。主なる神の厚意、恵みは、イスラエルの民だけに向けられているのではありません。主はみもとに身を寄せて来る全ての者に厚意を示し、彼らを温かく養って下さるのです。

カナンの女
 本日は、共に読まれる新約聖書の箇所として、マタイによる福音書第15章21節以下を選びました。主イエス・キリストが、ティルスとシドンの地方、つまり異邦人の地に行かれた時のことです。その地の一人の女が、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫びながらついて来ました。主イエスは「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」と言って、さらには「子どもたちのパンを取って小犬にやってはいけない」とまで言って、この女の願いを拒否なさいました。ところがこの女はその主イエスのお言葉をそのまま受け入れて、「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」と言ったのです。それを聞いた主イエスは、「あなたの願いどおりになるように」とおっしゃって、娘を癒して下さったのです。この話については、主イエスはなぜこの女の求めを最初拒否なさったのだろうか、とか、人を「小犬」呼ばわりするなんてひどい、などといういろいろな感想が生じますが、この話が語ろうとしているのは、この異邦人の女性が、自分には主イエスによる救いを受ける資格は全くないことをはっきりと認めつつ、主イエスの前に身を投げ出して、その恵みのおこぼれにでもあずかりたいとひたすら願った、ということです。彼女は異邦人でしたが、苦しみ、絶望の中で主イエスの御翼のもとに逃れて来たのです。主イエスはその人をしっかり受け止め、厚意をもって迎えて下さったのです。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように」というお言葉はそのことを示していると言えるでしょう。ルツ記第2章が語っているのもこれと同じことです。苦しみの中で御翼のもとに逃れて来た異邦人の女性ルツを、ボアズがというよりも主なる神が、厚意をもって迎え入れ、養って下さったのです。

教会への教訓
 私たちはここから、主なる神の恵みの豊かさ、深さを知らされます。主はこのような恵みによって、私たちをも御翼のもとに迎え入れて下さり、神の民として育み、養って下さっているのです。それが教会です。その恵みを見つめる時、この話は私たち教会にとって大事な教訓をも与えていると言えます。ルツは、主なる神の御翼のもとに逃れて来ましたが、その主なる神の民であるイスラエルの人々の中で、よそ者としての疎外感を感じ、苦しみを覚えていたのです。同じ思いを、私たちが、主なる神の救いを求めて教会に身を寄せて来た人々に与えていることはないでしょうか。故意にそんなことをする人はいないでしょう。イスラエルの人々だって、ルツをよそ者として締め出そうとしていたわけではありません。でも彼らが、自分たちの元々の慣れ親しんだ交わりを大事にしている中で、よそから新たに来て知り合いもないルツは疎外感を与えられていったのです。よく知り合った者どうしが親しく楽しい交わりに生きていることが、新しく来た人に疎外感を感じさせることがある、ということを私たちは意識していなければなりません。そしてそこにおいて大事なのは、私たちは教会において、主なる神さまの御翼のもとに迎え入れられ、その慈しみによって養われているのだ、ということです。その主なる神さまは、ご自分の御翼のもとに新たに逃れて来た人たちをも、恵みをもって迎え入れ、厚意を示し、守り養おうとしておられるのです。私たちはこの神さまのみ心をいつもしっかりと見つめていなければなりません。そのみ心をないがしろにして、自分たちの親しい交わりを楽しむことだけに没頭してしまってはならないのです。

ボアズの姿に倣って
 そういう意味でボアズの姿は私たちが模範とすべきものです。彼はルツが主なる神の御翼のもとに逃れて来た人であることを見つめ、特別な厚意をもって彼女の心に語りかけ、彼女のために便宜を図りました。それは一目惚れしたからと言うよりも、彼が、主なる神の慈しみのみ心を常に思い、その主のみ心を自分も行なおうとしていたからこそ出来たことなのです。ボアズはルツを自分たちの昼の食事に呼び寄せました。ルツはお腹いっぱい食べ、飽き足りて残すほどだったと14節にあります。そんなことは、ルツにとって、イスラエルの地に来てから初めてのことだったでしょう。そしてその午後もボアズの畑で、彼がわざと落としておくようにしてくれた落ち穂を拾い、それを打って取れた大麦は1エファにもなったと17節にあります。1エファはおよそ23リットルです。さらにボアズは彼女が食べた食事の残りをおみやげにして渡しました。そこまで手厚い厚意を彼は示したのです。主なる神が御翼のもとに身を寄せてきた人に与えて下さる厚意、恵みを示すためにはそれだけのことをする必要がある、ということです。よそ者としての孤独や疎外感を感じている人に対しては、通り一遍の厚意を示すだけでは足りない、これだけ手厚い厚意を示すことによってこそ、主なる神がその人を喜んでこの群れに迎え入れておられることを表すことができるのです。そういう意味で私たちも、教会に新しい人を迎えることにおいてこのボアズの姿に倣っていきたいのです。

新たな展開へ
 ルツは帰ってその日の出来事をナオミに報告しました。彼女に厚意を示してくれた人がボアズであることを聞くとナオミは、「その人はわたしたちと縁続きの人です。わたしたちの家を絶やさないようにする責任のある人の一人です」と言いました。ボアズはエリメレクの親族なのです。そしてイスラエルの律法では、ある家の男性が絶えてしまった場合、その親戚が夫を失った妻と結婚してその家を残すべきことが定められていました。「わたしたちの家を絶やさないようにする責任のある人」というのはそういうことです。ここから、ボアズとルツの結婚という次の展開への道が開かれていくのです。しかし第2章の中心はあくまでも、主なる神が、その御翼のもとに逃れ、身を寄せて来た異邦の女ルツを、温かく迎え入れて下さった、ということです。ボアズは、常に主なる神のみ心を思い、その恵みと慈しみに倣って自分も生きようとしていたことによって、主の恵みのみ業に仕える者となることができたのです。そしてそのことを通して、生涯の伴侶をも得ることになったのです。

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