夕礼拝

かたくなな民の救い

「かたくなな民の救い」牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:申命記第9章1-10章11節
・ 新約聖書:テモテへの手紙一第1章12-17節
・ 讃美歌:136、437

約束の地に入るに当たって  
 私が夕礼拝説教を担当する日には、旧約聖書申命記からみ言葉に聞いています。申命記は、エジプトの奴隷状態からモーセに率いられて脱出し、四十年の荒れ野の旅を経て、いよいよ約束の地カナンを目前にしているイスラエルの民に、モーセが神のみ心、掟をもう一度語り聞かせているというものです。モーセ自身は約束の地に入ることはできず、それを目前にして死ぬのです。つまり申命記はモーセの遺言とも言えます。これから約束の地に入って行こうとしているイスラエルの民に、モーセがこれだけは言い残しておこうとしているのが申命記なのです。本日の第9章の1節にある「聞け、イスラエルよ」という言葉にはそういう思いが込められているのです。  
 モーセはここでイスラエルの民に何を「聞け」と言っているのでしょうか。1、2節を読んでみます。「聞け、イスラエルよ。あなたは今日、ヨルダン川を渡り、行ってあなたよりも大きく強い国々を追い払おうとしている。町々は大きく、城壁は天に達し、民は、あなたの知っているアナクの子孫で、大きくて背が高い。あなたは、『誰がアナクの子孫に立ち向かいえようか』というのを聞いたことがあろう」。イスラエルの人々が入って行こうとしている約束の地には、既に多くの人々が住んでおり、その人々はイスラエルよりも大きく強い国々を築いており、天に達するような城壁を備えた大きな町々を持っているのです。そこに住む人々はアナクの子孫だ、とあります。アナクは「大きくて背が高い」とあるように、旧約聖書に出てくる、ひときわ大きく強い民のことです。彼らは天使が人間の娘に生ませた子供の子孫だとも言われています。人間離れした体と力を持っているのです。イスラエルの民は、そのような人々と戦い、その地を獲得しなければならないのです。約束の地に入るとはそういうことです。そのことを指摘した上で、モーセがここで民に「聞け」と言っていることの中心は3節です。「しかし、今日、あなたの神、主は焼き尽くす火となり、あなたに先立って渡り、彼らを滅ぼしてあなたの前に屈服させられることを知り、主が言われたとおり、彼らを追い払い、速やかに滅ぼしなさい」。あなたがたが約束の地を得るために先頭に立って戦って下さるのは主なる神なのだ、主が、焼き尽くす火となって、あなたに先立ってヨルダン川を渡り、彼らを滅ぼしてあなたの前に屈服させて下さる、そのことを信じて、主なる神の後に続いて勇気をもってヨルダンを渡り、約束の地を獲得しなさい、とモーセは民を勇気づけているのです。

信仰者への励まし  
 このモーセの言葉は、信仰をもって生きようとしている私たち一人一人への励ましです。信仰をもって生きることは、ヨルダン川を渡って約束の地に入ることに似ています。川のこちら側の、私たちが生まれつき生きている世界、人間の思いや力に支配され翻弄されている世界から、向こう岸へ、神が与えて下さる新しい世界へと、神の恵みと導きを信じて勇気をもって渡っていく、それが信仰に生きる者となることなのです。渡って行く向こう岸は、決して何の苦労も悩みも苦しみもない天国ではありません。そこもやはりこの世における生活であり、弱さや欠けや罪のある歩みです。その中で、目に見えない神を信じて、その恵みと導きを信じて生きることはやさしいことではありません。自分よりも余程強い敵に常に囲まれ、戦わなければならないのです。そこにはむしろこちら側にいた時よりも大きな戦いが、苦しみがあるのです。その信仰の歩みにおいて私たちが覚えておくべき第一のことは、主なる神ご自身がその戦いを先頭に立って戦って下さるのだということです。私たちは一人で、自分の力のみで敵と戦うのではありません。先立って歩み、戦って下さる神の後について、川を渡り、歩み、戦っていくのです。それゆえに、圧倒的な力を持つ敵が待ち構えていることを知りつつ、勇気をもって向こう岸へと渡っていくことができるのです。

勘違いしてはならない  
 モーセはこのように、ヨルダン川を渡ろうとしているイスラエルの民への励ましを語っているのですが、彼は同時に、約束の地を得ていく中で彼らが陥る誤解、勘違いへの警告を語っています。9章の主要なテーマはむしろそちらにあるのです。どういう誤解、勘違いが起こるかは4節に語られています。「あなたの神、主があなたの前から彼らを追い出されるとき、あなたは、『わたしが正しいので、主はわたしを導いてこの土地を得させてくださった』と思ってはならない。この国々の民が神に逆らうから、主があなたの前から彼らを追い払われるのである」。主なる神が先頭に立って川を渡り、敵と戦い、約束の地を得させて下さる、その時に、「私が正しいから主はこの土地を与えて下さった。私の正しさへの報いとしてこの恵みが与えられた」と思ってしまうこと、それが誤解であり勘違いなのです。約束の地を与えて下さる神の恵みは、イスラエルが他の民よりも正しいから、優れており立派だから、その報いとして与えられるのではないのです。あなたが正しいからではなくて、この地にもともと住んでいた人々が神に逆らっているから、神はその人々を滅ぼしてあなたにこの地をお与えになるのです。そのことを決して忘れてはならないとモーセは言っています。5?7節にはそのことが繰り返し強調されているのです。  
 ここにも、私たちの信仰の歩みにおける大事なことが示されています。私たちも、神から恵み、祝福が与えられる時に、自分が正しいからこのような恵みが与えられた、このような祝福が与えられているのだから自分は正しいのだ、と思ってしまうことがあります。神の恵み、祝福を、自分の正しさの印として受け止めてしまうのです。そこには、自分はこのままでよいのだ、変わらなくてよいのだ、という思いが生まれます。自分の現状を良しとして、そこから一歩も先に進むことができなくなるのです。変えられていくこと、新しくされていくことができなくなるのです。神の恵み、祝福を間違って受け止めてしまうとそういうことが起ります。与えられている恵みが現状肯定のよすがとなり、神のみ心に従って歩み続け、前進していくことを妨げてしまうことになるのです。モーセはそのことを警告しているのです。神が先頭に立って戦って下さり、約束の地を与えて下さる、その恵みを信じて勇気をもってヨルダンを渡れ、しかしその恵みがあなたがたの歩みをかえって止め、現状の中に座り込ませ、神によって前進し変えられていくことを妨げるようなことになってはならない、それが、ここで彼がイスラエルの民に「聞け」と言っていることなのです。

自分の頑さ、罪を覚えており、忘れない  
 与えられた恵みによって現状肯定に陥り、前進することが出来なくならないために、モーセがここでイスラエルの民に常に見つめさせ、覚えておかせようとしていることが、6、7節に語られています。「あなたが正しいので、あなたの神、主がこの良い土地を与え、それを得させてくださるのではないことをわきまえなさい。あなたはかたくなな民である。あなたは荒れ野で、あなたの神、主を怒らせたことを思い起こし、忘れてはならない。あなたたちは、エジプトの国を出た日からここに来るまで主に背き続けてきた」。あなたはかたくなな民であり、主に背き続けてきた、そのことを覚えておかなければならない、とモーセは言っています。ここは以前の口語訳聖書では「あなたは強情な民である」と訳されていました。さらその前の文語訳聖書では「汝は項(うなじ)の強(こは)き民なればなり」となっていました。「うなじ」とは首筋のことです。「こわい」とは固くて動かないことです。首筋が固くて動かない。これは牛などに軛をかけ、手綱を引いて方向を指示しようとしても、首筋が固くて全然思う方を向こうとしないことを意味しています。あなたがたはそのように頑なな、強情な民だと言われているのです。神が向きを変えさせようとしてもそれに従わない、変えられることを拒んで、頑なに、強情に、自分の好きな方向へと歩もうとする。あなたがたはそのようにしてこれまでの荒れ野の歩みにおいてどれだけ主に背き、主を怒らせてきたか、そのことを思い起こし、忘れてはならない、とモーセは言っているのです。モーセがイスラエルの民に見つめさせ、覚えておかせようとしているのはこの彼らの頑さです。神に背き続けてきた罪です。そのことをしっかり覚えていることによってのみ、与えられた恵みの中で、自分は正しいのだ、このままでよいのだ、という現状肯定に陥り前進できなくなってしまうことを防ぐことができるのです。12月の最後の主日の夕礼拝においてこの申命記の第8章を読みました。そこで語られていたのは、約束の地に入るにあたって、荒れ野の旅において主が常にあなたがたを養い、導き、守って下さったことを思い起こしなさい、そしてその地に入って豊かになった時に、主を忘れ、その地の人々が拝んでいる他の神々を拝むようなことになってはならない、ということでした。約束の地に入るにあたって常に思い起こし、忘れてはならないことが8章にも教えられていたのです。その8章においては、主の恵み、導きを忘れてはならないと言われていたのに対して、9章では、自分たちの頑さ、強情さ、背きの罪を忘れてはならないと言われています。つまり8章と9章は対になっていると言うことができます。主なる神の恵みと導きを忘れず、他の神々に心を向けないことは、自分自身の頑さ、繰り返し神に背いてきた罪を忘れずに覚えている、ということと表裏一体なのです。

繰り返し背きの罪に陥るイスラエルの民  
 8節以下には、イスラエルの民が、荒れ野の旅において主なる神に繰り返し背き、それによって主を怒らせてきた事実が語られています。その代表的な出来事として8~21節に語られているのは、ホレブにおいて彼らが子牛の鋳造を造ってそれを拝んだことです。そのことは出エジプト記の32章に語られていますが、ここにその顛末がまとめられています。ホレブ、別名シナイ山においてモーセは、9節にあるように、「石の板、すなわち主があなたたちと結ばれた契約の板を受け取るため山に登った」のです。それは十戒を記した石の板です。モーセは主からそれをいただくために、四十日四十夜、山にとどまって断食をしました。ところがその間、麓で待っていたイスラエルの民は、指導者モーセの行方が分からなくなったために不安になり、金の子牛の鋳造を造って拝み始めたのです。彼らは、主なる神が自分たちをエジプトでの奴隷の苦しみから救い出して下さったことを体験しているのです。主がモーセを遣わして数々の驚くべきみ業を示し、最後にはエジプト中の長男を、人も家畜も皆打ち殺し、しかしイスラエルの家の長男は一人も滅ぼされないといういわゆる過越の出来事によってついにエジプト王ファラオを屈服させて下さったのを見たのです。さらに彼らは、前には海が立ちはだかり、後ろからはエジプトの軍勢が追って来るという絶体絶命の危機において、神が海の水を分けて向こう岸に渡らせて下さったという大いなる救いの出来事をも体験したのです。それにもかかわらず、指導者モーセが四十日いなくなっただけで、主なる神を信じることをやめ、目に見える偶像の神を造り、それを拝んでしまう、それは彼らが主なる神にではなく、目に見える何かに頼っていたということです。彼らは神を、自分を危険から守り幸福を与えてくれる存在として、目に見える仕方で自分の身近な所に確保しておきたいと思っていたのです。つまり主なる神に従うのではなくて、神を自分のために利用しようとしていたのです。  
 イスラエルの民のこのような背きに対して主は激しくお怒りになりました。そのことが13、14節に語られています。「主は更に、わたしに言われた。『わたしはこの民を見てきたが、実にかたくなな民である。わたしを引き止めるな。わたしは彼らを滅ぼし、天の下からその名を消し去って、あなたを彼らより強く、数の多い国民とする』」。つまり主は、もうこのような民にはあきれ果てた、この民は滅ぼして、モーセから別の民を興す、とおっしゃったのです。イスラエルはこの時、主に見捨てられ、滅ぼされてしまいそうになったのです。モーセはそのことを人々に思い起こさせ、それを忘れないようにと言っているのです。あなたがたは荒れ野の旅においてこのような罪を犯してきた、そのあなたがたがどうして「約束の地を得たのはわたしが正しかったからだ、自分たちはこれでよいのだ」、などと言えようか、と言っているのです。  
 しかもこのような背きの罪はこの時だけではありません。22?24節に、イスラエルが繰り返し同じように主に背き続けてきたことが指摘されています。タブエラでもというのは民数記11章1?3節のことです。そこで民は荒れ野での不自由な乏しい生活に不満を言ったのです。そのために主の怒りの火が燃え上がったと語られています。マサでもとあるのは出エジプト記17章にあることです。荒れ野で飲み水が無くなった民はモーセに「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのか。わたしも子供たちも、家畜までも渇きで殺すためなのか」と詰め寄ったのです。エジプトで奴隷のままでいた方がマシだった、ということです。それは主の恵みを無にすることであり、逆にそれを恨むような恩知らずです。キブロト・ハタアワでもというのは、先程の民数記11章の続き、4節以下のことです。ここでは人々は神が与えて下さっている天からのパンであるマナに対して不満を言いました。このように言ったのです。「誰か肉を食べさせてくれないものか。エジプトでは魚をただで食べていたし、きゅうりやメロン、葱や玉葱やにんにくが忘れられない。今では、わたしたちの唾は干上がり、どこを見回してもマナばかりで、何もない」。彼らはエジプトで奴隷とされていた時、決してこのようにご馳走で満腹することなできてはいなかったのです。ところが今、マナしかない荒れ野の生活の中で、エジプトを懐かしがっている。主はこの時も激しくお怒りになりました。そしてモーセを通してこう言われたのです。11章18節以下です。「民に告げなさい。明日のために自分自身を聖別しなさい。あなたたちは肉を食べることができる。主の耳に達するほど、泣き言を言い、誰か肉を食べさせてくれないものか、エジプトでは幸せだったと訴えたから、主はあなたたちに肉をお与えになり、あなたたちは食べることができる。あなたたちがそれを食べるのは、一日や二日や五日や十日や二十日ではない。一ヶ月に及び、ついにあなたたちの鼻から出るようになり、吐き気を催すほどになる。あなたたちは、あなたたちのうちにいます主を拒み、主の面前で、どうして我々はエジプトを出て来てしまったのか、と泣き言を言ったからだ」。この主のみ言葉は31節以下において実現しました。「さて、主のもとから風が出て、海の方からうずらを吹き寄せ、宿営の近くに落とした。うずらは、宿営の周囲、縦横それぞれ一日の道のりの範囲にわたって、地上に二アンマほどの高さに積もった。民は出て行って、終日終夜、そして翌日も、うずらを集め、少ない者でも十ホメル集めた。そして、宿営の周りに広げておいた。肉がまだ歯の間にあって、かみ切られないうちに、主は民に対して憤りを発し、激しい疫病で民を打たれた。そのためその場所は、キブロト・ハタアワ(貪欲の墓)と呼ばれている。貪欲な人々をそこに葬ったからである」。このようにして主は、肉を食べたいと不満を言った人々を、その肉によって打たれたのです。さらに、本日の箇所の23節以下には、カデシュ・バルネアにおけることも語られています。これは民数記13、14章に書かれていることです。主なる神は約束の地カナンを本当はもっと早くイスラエルの民に与えようとしておられたのです。ところが、主の命令によってその地を偵察に行った人々は、そこには自分たちよりも強い民が住んでおり、先程のアナク人もいる、我々にはとてもそこを取ることなどできないと報告したために、民は怖じ気づき、主がその地へと攻め上れとお命じになったのに従わなかったのです。それは23節にあるように「主を信頼せず、その声に聞き従わなかった」ということです。このことが示しているのも、彼らが、これまでの数々の主の力強い導きにもかかわらず、主に信頼するのではなくて自分の力でどうにかしようとしている、ということです。このようにイスラエルの民は繰り返し主に背き、裏切り、罪を犯してきたのです。24節にあるように「主があなたたちをお選びになって以来、あなたたちは背き続けてきた」のです。モーセは今約束の地に入ろうとしている民にそのことを思い出させ、覚えておかせようとしているのです。

自分の罪を覚えて生きる  
 このイスラエルの民の姿はまさに私たちの姿です。私たちも、主なる神の恵みを受け、導かれ、守られているにもかかわらず、その恵みに応えて主との関係を大切にしようとせず、繰り返し繰り返し背き続けている者です。私たちも、恩知らずの罪によって主の怒りを引き起こし続けているのです。自分がそのようにまことに頑なな、強情な、うなじのこわい者であることを私たちはしっかりと覚えていなければなりません。そのことを忘れて、自分は正しい、これでいいのだ、などと思ってしまってはならないのです。私たちが繰り返し罪に陥り、背き続けてしまうのは、自分の背きの罪の深刻さを覚えることなく、それをすぐに忘れてしまうからだと言えるでしょう。モーセがここで民に、あなたがたは頑なな民である、主があなたがたを選び、救いの恵みを与えて下さって以来ずっと背き続けてきた、そのことを覚えておきなさいと言っているのは、まさに私たちに対して語られているみ言葉なのです。

執り成しによる罪の赦しによって  
 イスラエルの民が繰り返し背きに陥り、主なる神がお怒りになる、その場面で、モーセは常に民のために主に赦しを願い、執り成しをしてきました。ホレブにおける執り成しの祈りが9章26?29節です。22?24節に語られているいくつかの出来事においても、モーセは主の怒りをなだめ、民のための執り成しをしてきました。イスラエルの民がこれまで滅ぼされることなく歩んで来ることが出来たのは、彼らが主に背き、罪に陥るごとに、モーセが執り成しをし、それによって主の赦しが与えられてきたからなのです。本日は第10章の11節までを読むことにしましたが、それは10章の10、11節に、主がホレブにおいてモーセの執り成しの祈りを聞き入れて下さったことが語られているからです。「わたしは前と同じように、四十日四十夜、山にとどまっていたが、このときも主はわたしに耳を傾け、あなたを滅ぼそうとはされなかった。主はわたしに言われた。『立って、民を先導して進みなさい。彼らは、わたしが先祖に与えると誓った土地に入り、それを得る』」。モーセの執り成しによってイスラエルの民は罪を赦され、約束の地へと向かって前進していくことができたのです。  
 繰り返し背き続けている頑なな私たちのためにも、常に執り成して下さっている方がおられます。神の独り子主イエス・キリストです。本日共に読まれた新約聖書の箇所であるテモテへの手紙一の第1章15節には「『キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた』という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します」とあります。主イエス・キリストは、繰り返し神に背いていく罪人である私たちを救うためにこの世に来て下さり、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さり、復活して私たちの永遠の命の先駆けとなって下さっています。この主イエスの十字架と復活による執り成し、罪の赦しの恵みが、私たちの信仰の旅路を支えているのです。私たちは、自分が繰り返し神に背き、その恩を仇で返すような頑な罪人であることをしっかりと覚えていなければなりません。しかしそれ以上に、主イエスがその私たちのために、十字架の死と復活による執り成しをいつも与えて下さっていることを、しっかりと覚えていきたいのです。それによってこそ私たちは、神の恵みを受けつつ、しかしそれによって自分が正しいのだという錯覚に陥り、このままでよいのだ、と現状を肯定してしまうのでなく、神の導きによって常に自分を変えていただきながら、信仰において常に前進していくことができるのです。主イエスによる罪の赦しによって生かされている私たちは、首筋が固くこわばり、自分の思う方向にしか進もうとしない頑なで強情な者としてではなく、神の恵みの中で変えられ、新しくされる、柔らかさ、柔軟さをもって歩む者でありたいのです。

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