主日礼拝

アダムとキリスト

「アダムとキリスト」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:創世記第3章1-24節
・ 新約聖書:ローマの信徒への手紙第5章12-21節
・ 讃美歌:11、134、447

このようなわけで  
 主日礼拝においてローマの信徒への手紙を読んでいますが、前回まで三回にわたって、第5章1~11節を読みました。本日はその先の12節以下へと読み進めるのですが、12節の冒頭に「このようなわけで」とあります。その言葉から分かるように12節以下は11節までと密接に結びついています。11節までの所でパウロは、神の御子であるイエス・キリストが罪人である私たちのために死んで下さったことによって、罪人である私たちが神との間に平和を得、神との和解を与えられた、と語っています。このキリストによって神の愛が私たちに示され、注がれたのです。それゆえに今や私たちは、神の栄光にあずかる希望に生きることができる、そしてその希望のゆえに、苦難の中でも忍耐し、その忍耐が練達を生み、その練達によって希望がさらに深められていくという祝福された歩みを与えられている、と語ってきたのです。それらを受けて「このようなわけで」と12節に入っていくのです。

アダムとキリスト  
 12節以下に語られていることは、アダムとキリストの比較です。アダムとは、旧約聖書創世記の天地創造物語に出て来る、神に造られた最初の人間です。そのアダムはここでどのような者として見つめられているのでしょうか。12節に「一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです」とあります。この「一人の人」がアダムです。つまり最初の人間アダムによって罪が世に入り、罪と共に死が全ての人に及んだことが見つめられているのです。このアダムと比べられる形で、キリストのことが見つめられています。その二人の対比がはっきり語られているのは17?19節です。このようにあります。「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです」。アダムの罪によって全ての人が罪人となり、死の支配を受けるようになった、しかしイエス・キリストの正しい行為、従順によって、全ての人は義とされ命を得る、つまり救われるのです。11節までに語られてきた、イエス・キリストによって私たち罪人が義とされ、神との平和、和解を与えられ、神の愛を注がれることが、こういう形で改めて見つめられているのです。

アダムの罪  
 パウロがこのようにここでアダムのことを語るのは何のためなのでしょうか。またそれは私たちとどのような関係があるのでしょうか。パウロはアダムの犯した罪、不従順を見つめているわけですが、それは先程朗読された創世記第3章に語られていることです。アダムと妻エバは、エデンの園、楽園に住んでいました。そこには沢山の木の実があり、好きなだけ食べることが出来たのです。つまり神の豊かな恵みの中で、生きていくのに何の苦労もなかった、それが楽園ということです。しかしその楽園に生きるために神が彼らに命じておられたことがありました。それは、園の中央にある「善悪の知識の木」の実だけは食べてはいけない、ということです。その禁じられていた木の実を彼らは食べてしまったのです。この神への不従順が彼らの罪です。この罪のゆえに人間は楽園を追放され、自分で働いて、顔に汗して食べ物を得なければならなくなったのです。このアダムの罪によって、罪が世に入り、私たち全ての者が罪人となった、アダムの罪は私たちの罪の源なのだとパウロは語っているのです。

原罪  
 これはキリスト教の用語で「原罪」と呼ばれている事柄です。それは最初の人間アダムの罪以来、全ての人間は生まれながらに罪人である、という教えです。生まれたばかりの赤ん坊は罪のない、真っ白なカンバスのような者だが、成長し知恵がついてくるにつれて悪いことも覚え、悪の色に染まっていき、大人になる頃には立派な罪人になる、というのではない。私たちは意識的に罪を犯すようになる前から、生まれつき罪を負っている、それが原罪です。アダムの罪によってその原罪がこの世に入り、全ての人が罪人となった、アダムの罪を私たちも受け継いでいるのだ、とパウロは言っているのです。  
 私たちはこの原罪の教えに対して、そんなことは納得できない、そんなお伽噺のようなことを自分と結びつけられても迷惑だし、自分が自分の意志でしたことについて罪を問われるならともかく、何もしていなくても生まれつき罪人だなどと言われるのは心外だ、と思うかもしれません。しかしいたずらに反発する前に、私たちはこの教えが語ろうとしていることを正確に捉えなければなりません。

アダムの罪は私たちの罪  
 第一に、「そんなお伽噺のようなことを」ということについてです。確かにこの創世記第3章に語られていることは一つの物語であり、「神話」と言ってもよいでしょう。これは歴史上の出来事、つまり紀元前何年に起こったというような事柄ではありません。それは今日の科学的なものの考え方からしてそうだ、というのではなくて、聖書はそもそもこれを歴史上の出来事として語ってはいないのです。聖書において歴史とは、神の民イスラエルの歴史です。それは別の言い方をすれば、神がイスラエルという一つの民を選んで、その民を通して全ての人々のための救いのみ業を行なって下さる、その救いのみ業の歴史です。そういう意味での本来の歴史は、創世記第12章から、つまりイスラエルの最初の先祖であるアブラハムの物語から始まるのです。それ以前の所、つまり創世記1?11章は、そのイスラエルの民の歴史の前提となることを語っているのです。つまり神の救いのみ業がなされていくこの世界とはどのような所であり、その救いを必要としている人間とはどのようなものであるか、が11章までに語られているのです。ですから創世記1?11章は、歴史的な出来事と言うよりも、この世界と人間の本質を語っている物語なのです。第3章のアダムの罪の話も、人間が罪人であるとはどういうことかを描いている物語として読むべきです。そこに描かれている人間の罪の根本は、神の命令に背く不従順です。アダムとエバが神の命令に背いてあの木の実を食べたのは蛇の誘惑によってでした。蛇が言ったことは、「神があの木の実を食べてはいけないと言っているのは、それを食べるとあなたがたが神と肩を並べる者となり、神から自由になって生きることが出来るようになるからであって、神はあなたがたをいつまでも奴隷のように自分の下に縛り付けておきたいのだ」ということです。そういう誘惑によって彼らは食べたのです。ですからこれは、お腹が空いたのでつい食べてしまったというような話ではなくて、神の下で、神に従って生きることを束縛と思い、神から自由になって、自分が主人となって生きようとした、ということなのです。それが人間の罪の根本です。このことはお伽噺でも何でもなくて、私たちが日々していることです。私たちはいつもアダムと同じように、神から自由になって、自分が主人となって生きようとする神への不従順の罪を犯しているのです。お伽噺のように見えるアダムのこの物語は、そういう私たちの罪の現実を描き出しているのです。

罪の支配  
 第二に、生まれつき罪人だと言われるのは心外だ、ということについてです。これについてもパウロが語っていることを注意深く読まなければなりません。彼はここで、一人の人アダムによって罪が世に入り、全ての人に及んだと言っていますが、同時に12節の終わりで「すべての人が罪を犯したからです」とも言っています。つまりパウロはここで、全ての人が、つまり私たち一人一人が、自分の責任において神への不従順の罪を犯していることを見つめているのです。そのことを見つめつつ、そのように私たちが罪を犯していることの根本に、あのアダムの罪があると言っているのです。それが原罪です。それは、アダムの罪がいつのまにか私たちにまで遺伝しているというようなことではなくて、私たちは罪の力に支配されてしまっている、ということです。私たちが自分の意志で罪を犯すことも犯さないこともできるなら、私たちが罪を支配していることになりますが、現実はそうではない、むしろ私たちは罪の力に支配され、翻弄され、罪へと引きずり込まれているのです。原罪というのは、そのように私たちを支配している罪です。パウロがここで「罪が世に入った」というふうに罪を主語として語っているのは、私たちが罪を犯すと言うよりも罪が入って来て私たちを支配しているという現実を語るためだと言えるでしょう。原罪の教えは、何もしていないのに罪人と決めつけられる、ということではなくて、どんなに努力しても、罪の支配下に置かれているためにどうしても罪を犯してしまう、という私たちの体験している現実を語っているのです。  
 パウロがアダムにおいて見つめているのは、このような人間の罪の現実です。罪に陥ったアダムの姿こそ、神との間に平和を得ていない、和解させていただいていない、罪人である私たちの姿です。アダムは、神の恵みの中で生きていた楽園の生活をむしろ不自由なものと感じて、神からの自由を求め、自分が主となろうとしたことによって、神との平和を失い、神の敵となってしまったのです。そのために彼は楽園を追放されました。それは追放されたと言うよりも、自分から楽園を捨てたのです。神の下で、神との平和な交わりに生きるところにこそ楽園があります。生まれつきの私たちは皆、アダムと同じように、神から自由になろうとして自分から楽園を捨て、神に敵対して生きているのです。

キリストの恵みの勝利  
 しかしこのアダムのことを語ることがパウロの最終目的ではありません。一人の人アダムは、もう一人の人イエス・キリストとの対比において見つめられているのです。しかもそれはただ二人を並べているのではありません。一人の人アダムによる罪と死の支配が、もう一人の人イエス・キリストによって打ち破られ、罪の赦しと永遠の命の約束が与えられたことが見つめられているのです。アダムはキリストによって乗り越えられ、キリストによって今や新しい時代が始まっているのです。パウロは、アダムとキリストを見比べつつ、キリストにおける神の恵みが、アダムにおける人間の罪とは比べ物にならないほど大きいことを語っているのです。そのことが最もはっきりと語られているのが15、16節です。「しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです。この賜物は、罪を犯した一人によってもたらされたようなものではありません。裁きの場合は、一つの罪でも有罪の判決が下されますが、恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下されるからです」。イエス・キリストによって示され与えられた神の恵みの賜物は、罪とは比較にならないくらい大きい。それはいかに多くの罪があっても、それらを全て赦し、無罪の判決を与える恵みなのだ、ということです。20節後半の「罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました」という文章もそのことを語っています。アダムとキリストの対比によってパウロが語ろうとしていることの中心は、アダムの罪に対するキリストの恵みの勝利です。それゆえにここは11節までに語られたことと「このようなわけで」とつながっているのです。主イエス・キリストによって神との間に平和を得た、神と和解させていただいた、神の愛が注がれているという11節までに語られていた救いの恵みは、アダムの罪と、それによってこの世に入り、私たちをも支配している罪の力に、主イエス・キリストが、十字架の死と復活とによって勝利して下さった、私たちを罪と死の支配から解放して下さったということによって与えられているのです。   

罪の闇をもう一度見つめる  
 ですから12節以下は根本的には11節までと同じことを語っています。主イエス・キリストによって与えられた救いの恵みがここにも語られているのです。しかしそれが、アダムとキリストとの対比において語られることによって、キリストによる救いによって乗り越えられた人間の罪がよりいっそうはっきりと見つめられているのです。つまり11節までにおいては、主イエスによる救いの光の明るさだけが語られていたのに対して、12節以下では、その光によって打ち破られた罪の暗さ、闇が見つめられているのです。勿論、救いの光は罪の闇とは比較にならないほど強く輝き、罪の闇に勝利しています。しかしその光の中で、生まれつきの私たちを捕えている罪の闇がもう一度丁寧に見つめられているのです。もう一度と言ったのは、パウロはこの手紙の1章18節から3章20節において、人間の罪のことをかなり長く語ったからです。異邦人のみでなく、神の民とされているユダヤ人も、同じように罪を犯しており、神の怒りの下にあるのだということがそこで既に語られたのです。それを前提として、3章21節以下で、イエス・キリストを信じる信仰によって罪人に与えられる神の義、罪の赦しの福音を語ってきたのです。そういう意味では、人間の罪のことは既に語られ、今はもうそこを通り抜けて神の恵みによる救い、福音に話は移っているのです。ここへ来てもう一度罪の闇の話をするのは逆戻りのような感じもします。しかもパウロがここで語っているのは、先ほども申しましたように原罪の事実です。最初の人間アダムの罪によって、罪と死の支配が全ての人に及び、今や私たちは皆生まれながら罪に支配されているということです。それは3章20節までに語られた、全ての人が罪を犯しているということよりも、ある意味でさらに深刻なことです。私たちが罪を犯しているのは、実は罪に支配されてしまっているからで、私たちは自分の力ではどうにもならないくらいに罪に縛りつけられ、その虜になっているのだということをパウロはここで見つめ、語っているのです。イエス・キリストを信じる信仰によって義とされ、神との和解、平和を与えられたという救いの恵みを語ってきたはずの彼が、どうしてもう一度このようなことを語るのでしょうか。

救いの恵みの中でこそ罪を見つめることができる  
 しかしそれは不思議なことではありません。むしろ当然のことなのです。なぜなら、主イエス・キリストを信じる信仰によって義とされ、神との和解、平和を与えられたからこそ、その救いの光によって打ち破られた罪の闇、自分がかつてそれに捕えられ、支配されていたその罪の深刻さを本当に見つめることができるからです。つまりパウロは、11節までにおいてキリストによる救いの恵みを語ってきたのに、12節以下でアダムによって入り込んだ罪の支配を語っているのではなくて、11節までを語ったからこそ、12節以下で私たちを生まれつき支配している罪の力、原罪の事実を見つめ語ることが出来たのです。信仰によって義とされ、神との和解、平和を与えられたことによってパウロは、もはや罪のことなど忘れてしまい、そんなものはなかったかのように生きるようになったのではなくて、むしろ自分の罪の現実を目を開いて見つめ、自分が生まれつき罪に支配されてしまっているという事実の深刻さをより正確に認識することができるようになったのです。主イエス・キリストによる救いの恵みの中でこそ、自分の罪を見つめる足場を与えられたと言ってもよいでしょう。そこに、自分も、また全ての人々が、生まれながらに罪に支配されてしまっているという原罪が見えてきたのです。ですから、アダムによって罪が全ての人を支配するようになったという原罪の事実が、3章20節までのところにではなくて、イエス・キリストによる神の義が示され、そこに与えられる救いの恵みが語られた後のこの箇所で語られていることには意味があるのです。それはこの箇所においてこそ見つめることができる、いやむしろ、主イエスによって与えられた神との和解、平和なしにはとうてい見つめることが出来ない事実なのです。  
 私たちは、自分の罪を本当に見つめ、認めることがなかなか出来ない者です。それゆえに悔い改めることができない者です。表面的には、口先だけでは、自分は罪人ですと平気で言うけれども、本当にはそんなことは思っていない、自分は正しいと思っているのです。だから、アダムの罪によって全ての人が罪に支配されているとか、生まれながらに罪人だなどと言われると反発するのです。そのように私たちが自分の罪を認めようとしないのは、それを認めたら自分の存在が、今生きている生活が、脅かされ、土台を失ってぐらついてしまうからです。自分を守ろうとする私たちの本能が、自分の罪を認めようとしない思いを生んでいるのです。そのような私たちにこのローマの信徒への手紙が教えてくれているのは、私たちが自分の罪を本当にありのままに見つめることができるのは、主イエス・キリストの十字架の死によって、神が私たちの罪を赦して下さり、神の義を与え、神と和解して生きることができるようにして下さった、その福音を私たちが本当に受けることによってなのだということです。5章1?11節についての三回の説教において繰り返し読んだのは8節の言葉でした。「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」。このキリストの死によって私たちは神との和解、平和を与えられたのです。このキリストの死によって私たちに対する罪の支配は打ち破られたのです。主イエス・キリストにおいて、神の救いの恵みが圧倒的な力をもって私たちの罪に打ち勝ったのです。そのことを示されたからこそ、私たちはパウロと共に、「わたしたちがまだ罪人であったとき」と言うことができるのです。パウロのこの言葉は、本心ではそうは思っていない単なるたてまえなどではありません。彼は、キリストと出会う前の自分の罪を本当に深刻なこととして捉えているのです。10節に「敵であった時でさえ、御子の死によって神と和解させていただいた」とあります。つまり自分は神の敵だった、神に味方しないのではなくて、はっきりと敵対し、神を抹殺して自分が神に成り代わり、主人となろうとする者だった、そのことを真剣に見つめているのです。その事実を見つめて行く時に彼は、アダムの罪がまさに自分の罪であり、その罪が自分を生まれながらに支配しているという原罪の事実を認めざるを得なかったのです。しかしそのことを彼が見つめることができたのは、キリストが自分のために死んで下さったことによって、神が自分の罪を赦して下さったという神の愛を示されたからです。罪の支配とは比較にならない、圧倒的な主イエスの恵み、私たちのために十字架にかかって死んで下さった恵みを示され、神との和解、平和を与えられることによってこそ、私たちは自分を支配している罪をはっきりと見つめることができます。そこに、悔い改めが与えられ、罪を赦され義とされて生きる新しい歩みが与えられるのです。

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