夕礼拝

時は縮まっている

「時は縮まっている」 伝道師 矢澤 励太

・ 旧約聖書; ヨブ記 8:1-22
・ 新約聖書; ルカによる福音書 13:1-9

 
1 1節の「ちょうどそのとき」という言葉から今日の話は始まります。「ちょうどそのとき」とは何のときなのか。すぐ前で主イエスが語っておられたのは自分を訴える人と一緒に役人のところに行く時、途中でその人と仲直りするように努めなさい、ということでありました。裁判官のところについてからでは手遅れだ、牢屋に投げ込まれては遅いのだ、だから今という時のあるうちに神と和解しなさい、隣りの人と仲直りしなさい。そう主イエスは語っておられました。そう語っておられる「ちょうどそのとき」に、ということです。ちょうどそのときに何人かの人が来て、つい最近、もしかしたら今しがた起こった事件を主イエスに知らせてきた。ローマの総督で当時ユダヤを支配していたピラトが、「ガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜた」というのです。これは何のことなのかすぐには分かりにくい文でありますけれども、ピラトが神殿でいけにえを捧げていたガリラヤ人を殺害したということです。いけにえの儀式を司る祭司以外に、一般の人がいけにえを捧げる機会は、ユダヤ教の過越祭の時であったとも伝えられております。過ぎ越しの祭りの時にエルサレム神殿で犠牲を捧げていたガリラヤ人に向かってピラトの放った手下が切りかかったということなのでしょう。そんなにたくさんの数ではない、もしかしたら数名の犠牲者であったかもしれないと考えられておりますけれども、それにいたしましても人々に衝撃を与える事件であったに違いないでしょう。なにしろ神に礼拝を捧げている真っ最中に、神殿に突入した下役たちによって人が殺される事件が起こったわけですから。エルサレム神殿で殺害されたのがガリラヤ人であったということから、この時殺害されたのは、時の政治権力に反旗を翻す革命グループのメンバー、今で言えばテロリストのような人たちなのではないか、とも考えられています。どうもユダヤ地方よりもガリラヤ地方のほうに、こうした暴力による革命を目指す人たちが多かったらしいからです。それにしてもこの時は何も武器を持っていない。まさに丸腰になって神を礼拝していたその只中で命を奪われた。そして見せしめの意味もあってのことでしょう。その流された血を彼らが捧げていた動物のいけにえの血に混ぜて人々に見せびらかしたらしいのです。ショッキングな事件です。

2 そこでこの知らせが主イエスの下にも報告されてきた。そこには主イエスに対する人々の問いがあるのです。「主よ、なぜこんなことが起こるのですか。あなたはこういった事件をどう説明されるのですか」と。私たちが信仰者として歩む中で、非常に多く直面する問いであり、また自らもそのことを巡って時々考え込まずにはおれないのは、やはりこの問いではないでしょうか。「なぜ神が支配されるはずのこの世において、こんなひどいことが起こるのか」、という問いであります。実はエルサレム神殿でこういった事件が起こったということをはっきりと伝えている歴史的文献があるわけではありません。けれども多くの聖書の学者たちは、それだからといってこの事件が、福音書を書いた人が作り出したお話ではないだろう、と言っております。そういう事件が起こりえた可能性はいくらでもあるというのです。そういう意味ではあまりにも悲惨な事件が頻繁に起きるためにわざわざ文献に書き残されることさえもなかった、ということなのかもしれません。これは私たちが生きる現在の世界でも同じことではないでしょうか。新聞やテレビでは、もう耳を、目を覆いたくなるほどのひどい事件が連日報道されています。交際関係のもつれや夫婦の絆の崩壊が殺人事件に至り、たびたび報道されています。幼児や幼い子供が犠牲になる事件も続けて起こっています。世界を見渡せば、あちらこちらでテロ事件が起こる。いつ何が起こっても不思議ではない、そんな世の中になりつつあります。あまりにも事件が頻繁で、私たちの感覚がそれに慣れてしまい、鈍感になってくることに恐れを感じさえするこのごろであります。そこで私たちも問いたくなるのです。「主よ、なぜなのですか」と。

3 けれども主イエスはこの問いに直接にお答えになったのではありませんでした。そうではなく、逆にこの事件を知らせた人も含めて、その周りにいた人たちが主の問いかけを受けることになった。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」(2-3節)。
 そして主イエスは、周りの人の誰もが知っていたであろう、最近起こった有名な事件をもうひとつ引用しました。それがシロアムの塔が倒れて18人が犠牲となったいたましい事件です。シロアムというのはエルサレムへの水を供給する貯水池があった場所です。そこに水を通す水道管を支えていた塔が崩れ落ちたのでしょうか。あるいはこの貯水池を監視するために立っていた塔が倒れたのでしょうか。あるいはまさにその塔を立てる工事中に事故が起こったのかもしれません。いずれにしろ不慮の事故によって18人もの人たちの命が失われてしまった。これもまたどう受け止めてよいのか分からないような事件です。しかもこの事件はヘロデのような人間が意図的に計画して起こしたものではない。不慮の事故です。天災に近い事故です。犠牲となったのはたまたまその日、塔の下を通りかかった人、たまたまその日、工事に当たっていた人たちであったのです。 私たちもすぐに思い出すことができます。一年ばかり前にインドネシアで起きた地震が引き起こした大津波です。10万人を超える犠牲者を出すという恐ろしい自然災害が起こった。しかもあの災害が起こったのはクリスマス直後の主の日、自分が説教をしていたので今もよく覚えているのですが、この国においてはまさに主の日の礼拝が行われている時間帯であったのです。シロアムの塔の崩壊にしても、あのインドネシア大津波にしても、どうしてあんなひどいことが起こるのか。私たちも深刻な思いで問わずにはいられないのです。  しかし主は御自らこのシロアムの事件を引きながら、やはりおっしゃることは同じなのです。いやむしろこのお言葉を繰り返して強調したいがためにわざわざシロアムの事件を引用したかにさえ見えます。「シロアムの塔が倒れて死んだあの18人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」(4-5節)。

4 「因果応報」という考え方があります。文字通り、行いの果実(み)に因んで、それに応じた報いが与えられる、ということです。よい結果が得られれば、それはそういう結果を生み出すよい行いがあったからだと考えます。逆に悪い出来事が起こると、「ああ、それはその人が何か以前に悪いことをしでかしたから罰が当たったのだろう」と考えます。
 ユダヤ教においてはよく親しまれていた考え方です。たとえば先ほど読まれた旧約聖書のヨブ記8章、その3節から4節にこうありました。「神が裁きを曲げられるだろうか。あなたの子らが/神に対して過ちを犯したからこそ/彼らをその罪の手にゆだねられたのだ」。正しい人ヨブに、ひどい災いが降りかかった。「それはきっと君の息子たちが悪いことをしでかしたからに違いない」。友人のビルダトはこんなふうに説明をして見せたのです。これはもちろん私たちの社会においても当然の前提となっているような考え方、その意味でよく理解できる習慣です。しかしよく考えてみると、この因果応報という考え方が出てくるのはほとんどの場合、悪いこと、不吉な出来事があった時に、その説明をする場合ではないでしょうか。あまりよい出来事についてあれこれ説明されることはないように思われます。それよりも悪い出来事が起こってそれがどういうことなのかを合理的に説明してもらいたい、人々がそう思う時に登場するようです。

5 その時に出てくるのはこういう説明です。あの人はきっと過去に何か悪いことをしでかしたに違いない。罪を犯したに違いない。だからあんなひどい目に遭ったんだ。そうやって説明をしようとする。「自業自得ではないか」、とか「ざまを見ろ」とか言わんばかりの思いを内に秘めながら、そういう説明をしてみせる。この国でも占い師や霊能者と呼ばれるような人が出てきて、家の方角が悪いとか、先祖の墓参りを怠っているだろうとか、手相がよくないとか言われたり、星座や血液型のせいにされたりするのです。そしてこれこれのことをして、災いをもたらす要素を取り除けば問題は解決しますよ、ということをまことしやかに教えられて、一生懸命に言われたとおりにやってみるということが起こってくるわけです。

6 それにしても先ほどのような事件や事故が起こった時、私たちが因果応報の考え方をもって合理的な解決を図ろうとする、その思いの深みにありますのは、「自分がこの事件、あの事故にまきこまれなくてよかった」といって胸をなでおろす思いです。あるいは先ほども出てきたような「あんなことをしていたから、罰が当たったのだ。いい気味だ」といった人を見下げる思いです。そうやって自分は関係ない。自分はちゃんとやるべきことをやっているから大丈夫だ、と思い込んでいる。高をくくっている。災いにあった人と自分とは違うんだという説明をひねり出して、それでもって安心しているところがあるのです。
 11年前に阪神淡路大震災が起こって間もないころ、私は試験を受けるために京都に行きましたが、食堂で夕食をとっていると、後ろで食事をしていた家族がつい二ヶ月ほど前に起きた神戸の大震災について話しながら、こう言うのを聞きました。「でも京都は昔から地震がないところだから大丈夫だろう」。私は驚きました。すぐお隣の神戸であれだけの震災があったのに、それでも自分の住んでいる京都は地震がない、大丈夫だろうと思ってしまう。自分たちとは関係のないことだと思ってしまう。自分の身に降りかかってくることではない、と思えてしまう。しかしそういうところが私たちにはあるのです。

6 主イエスが問われるのは、こうして自分を棚に上げて世の災いをあれこれ説明してみせる姿勢です。自分とは関係のないことだ、まさか自分の身には起こるまいと思って、さかしらに災いの説明をしてみせる心のありようです。そこで主はおっしゃる。「あなたがたも悔い改めなければ同じように滅びるのだ」。この世に起こる災いを目の当たりにしてなすべきことは、それを因果応報説でもって説明し、そこで自分は安全だといって胸をなでおろすことではない。そうではなくて、むしろ自分自身も含め、すべての人が迎えなければならない神の裁きの時を思い起こすべきだ、というのであります。自分もだめかもしれない。神の裁きに耐えられないかもしれない、そう思って自らを深く省みることなのです。
 そこで主がお語りになったのが実のならないいちじくの木のたとえです。ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、三年の間、その実がなりはしないかと期待してこの木のところに通い詰めた。ところがついにこのいちじくの木は実をつけなかった。怒ったこの主人は、このぶどう園を管理していた園丁に向かって言います、「こんな実を結ばないいちじくの木を植えたままにしておくのは土地の無駄だ。さっさと切り倒してしまえ」と。
 私たちはこの話を聞いて、ぶどう園の中にたった一本だけ生えているいちじくの木を想像するのではないでしょうか。周りはみんなぶどうの木です。毎年豊かな実を結んでいます。その中で独り取り残され、何もよい実りを生むことができずにいる。なんだか場違いのようなところに立っている。それは私たちの姿なのではないでしょうか。そこでぶどう園の主人に問われる。「お前はさかしらに人の不幸を説明して、自分はそこに巻き込まれることはない、自分は大丈夫だと安心しようとしている。しかし人の悪い行いがその人に災いをもたらしたのだ、と言っているあなた自身はどうなのか。この三年間の間ひとつでも、よい実りをもたらしたといえることがあるのか」。その時、何もよい実を結ぶことのできていない私たち、いちじくの木は言葉を失い、うつむいてしまうのです。ぶどう園の主人、すなわち父なる神の前で、「これがわたしの結んだよい実りです」、そう言って差し出すことのできる何ものもなかった自らの過去を思うのです。
 けれどもその時、このぶどう園の管理をゆだねられている園丁は、このいちじくの木をかばうようにして言うのです。「御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください」(8-9節)。実りを生まない私たちいちじくの木、しかしその私たちをかばい、「もう一年待ってください」とおっしゃってくださる。それは主イエス・キリストではないでしょうか。この園丁は言うのです。「もう一度このいちじくの木に機会を与えてやってください。チャンスを与えてやってください。木の周りを掘って、肥料を与えたら、今度は実を実らせるかもしれません。与えられた猶予期間の間、私が全力を尽くし、あらゆる手立てを講じてみますから」。

7 ある人はここに三位一体の神が語られているといいます。聖書のどこに三位一体の神について語られているのか、そう問題になることがありますけれども、明らかにここでは父なる神と子なる神イエス・キリストが語り合っています。相談をしています。もう切り取ってしまえと裁きを告げる父なる神の前に立ちはだかって、子なる神が「ちょっとお待ちください。もう少し猶予をください。私が自分の責任で何とかしてみますから」、そう言って交渉をしてくださっている。いや、父なる神の義の前でうなだれる、私たちいちじくの木のためにとりなしをしてくださっているのです。そしてその主イエスの申し出を父なる神もよしとしてくださっているのです。まるでそのとりなしを待っていたといわんばかりに喜んでくださっているのです。

8 さてそこで結局問われてくるのは、やはり私たち自身ではないでしょうか。私たちいちじくの木は、主イエスのとりなしによって命拾いをさせていただいた者です。終わりの日の裁きに備えて、真実の悔い改めに生きるために、猶予期間を与えられている者たちなのです。ここで失敗したら今度こそ切り倒されてしまうであろう、その裁きの時に備えるべき者たちが私たちなのです。しかし園丁である主イエスはよくご存知です。私たちが自らの力で豊かな実りをもたらすことなどできない、その意味で役立たずなものであることを。神のご期待に沿うことなどできない出来の悪い者であることをよくご存知です。けれども主イエスは決してあきらめない。お前たちのように不毛で実りのない木のことなんかもう知らないといって、決して投げ出したりはなさらない。決してあきらめることなく、今日も私たちと必死になって関わり続けてくださっている。父なる神の前で、私達のためにとりなしてくださっている。そういうお方なのです。
 いや、さらに突き詰めて言うならば必死になって私たちと関わってくださったその末に、主イエスはついには、ご自分の体を裂き、血潮を流され、それを肥料として私たちに注いでくださったのではないでしょうか。実をならせない不毛な私たち、罪にまみれた私たちを救い出すために、ご自身を与えることによって、ご自身が神の御前での私たちの実りとなってくださったのです。そこに立つことの中でしか、そこに注がれる恵みに生きることの中でしか、私たちの実りというのは考えられないのです。主イエスの十字架の死と、死からの復活が、裁きにも耐えうる私たちの実りとなるのです。

9 ある人は悔い改めれば滅びを免れるというのだから、主イエスも結局は因果応報的に考えておられるのではないか、といいます。しかしそれはとんでもないことだということが、これで分かるのではないでしょうか。因果応報で考えるのなら、このままでいくと自らの滅びを招くことになるから、なんとか身の安全を確保するために神の前で自分を低くしよう、神の怒りを買わないように、せいぜい謙虚な自分を演じよう、そういった策略を持った、神と取引をするような生き方しか生まれないでしょう。
 しかしそうではないのです。なによりも神の独り子が命がけで私たちをかばい、最後には私たちのために文字通り死んで下さったのです。身代わりとなってご自身の肉を裂き、血を注いでくださった。それほどまでに愛し関わり続けてくださっている。その愛を前にしてあなたはどう出るのか、そこが問われているのです。そこでなお心を頑なにし、せっかく与えられた猶予期間を無駄にするなら、それは自らを滅びに振り向けていくことにならざるをえないのです。
 「悔い改める」ということ、それは一言で言って「神のもとに帰る」ということです。世の災いを合理的な説明をもってすませ、自分の力でなんとかしようとすることをやめて、「見えるもの」も「見えない運命の力」をも、すべてをご支配くださっている主なる神のところに帰る。そこに生きる中で、なお分からないこと、頭をかきむしりたくなるような悩み苦しみが起こってくるなら、そこで神に向かって叫べばよい。神に語りかけ、神の胸をたたき、泣き叫びながら訴えかけていったらよい。その叫びを神はしっかりと受け止め、私たちの思いを超える仕方で答えてくださるのです。そこから離れたところで、あれこれと不幸の因果関係を論じても、それこそなんの実りももたらさない、不毛なことでしかないのです。

祈り 主イエス・キリストの父なる神様、さかしらに人の不幸を説明しようと試み、そのことでもって自らの安全を確保しようとする因果応報的な思いから、今私共を解き放ってください。むしろそれらの出来事をも貫きつつ、ただあなたの恵みのご支配のみが実現していくことに私共の思いを向けさせてください。主イエスご自身が私共のためにとりなしてくださり、なんの実りももたらせず、ただあなたの御前で黙しうなだれるしかない私共のために、十字架の上で肉を裂き、血を流してくださいました。それほどまでにして与えられたこの大切な猶予の時、どうか私共がいつも新しくあなたのもとに帰り、主のとりなしに支えられつつ、主の愛に応えて歩む、その一歩一歩を刻んでいくことができますように。
感謝して主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。

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