夕礼拝

御名が崇められますように

「御名が崇められますように」  伝道師 宍戸ハンナ

・ 旧約聖書: 詩編 第138編1-8節
・ 新約聖書: マタイによる福音書 第6章9節
・ 讃美歌 : 12、440

神との交わり
 本日は、マタイによる福音書の第6章9節という1節を通して神様の御言葉を聴きたいと思います。本日の箇所は主イエスの教えである「山上の説教」のちょうど中心にあたる箇所であり、主イエスが「祈り」について教えておられる部分です。主イエスは「だから、こう祈りなさい」(9節)と「主の祈り」を教えて下さいました。ルカによる福音書第11章にも、弟子たちの「わたしたちにも祈りを教えてください」という願いに対して主イエスが「祈るときには、こう言いなさい。」(2節)と「主の祈り」を教えたことが語られております。主の祈りとは誰か昔のある人間が考え出した祈りではありません。神の独り子である主イエスが「あなたがたはこう祈りなさい」と教え、私たちに与えて下さった祈りです。主の祈りの祈る対象である神、その独り子を通して私たちに祈ることを求めておられる祈りであります。「祈り」とは私たちと神との交わりであると言えます。どのような祈りをしているかに、その人と神との関係が現れると言えます。家内安全、商売繁盛などに現される自分の願いのみを求めて祈る人にとって、神との関係はご利益によって結ばれた関係です。信じてはいるが祈っていないのであれば、その人にとって神は交わりの相手ではないということになります。神を信じているように見えて、実際には自分自身を頼りにして生きているのです。そのように、どう祈るか、あるいは祈らないかに、私たちと神との関係が現れます。神が、主イエスの言葉を通して「こう、祈りなさい」とお命じになったということは、神様ご自身が私たちとの祈りにおける交わりを求めておられるということです。神ご自身が私たちとの交わりの関係を結ぼうとしている、ということを示されたのです。祈りをする、または「主の祈り」を祈るとは、神様が私たちと結ぼうと望んでいる関係に生きることです。神様と交わりを持って神と共に生きることです。私たちが神のことをどう思い、どういう関係を持とうとするかと言うことよりも、神ご自身が私たちのことをどう思い、どういう関係を持とうとしておられるかということです。神様御自身が私たちとどのような関係を求めておられるのか、そのことに即して生きることが私たちの信仰生活です。

主の祈り
 主イエスはなぜ、この「主の祈り」を私たちに教えられたのでしょうか。本日の箇所は主イエスの「だから、こう祈りなさい」と祈りを教えられる部分から始まります「だから」とあるのは、主の祈りは、その前の祈りについての教えと結びつけられているのです。5節以下に語られている祈りについての教えは、偽善者のように、異邦人のように祈ってはならない、という部分から成っております。主イエスは異邦人の祈りについて、「くどくどと述べてはならない」と言われました。あなたがたのなすべき祈りは、もっと簡潔な、短い祈りだ、と言われたのです。その簡潔な、短い祈りとして、主の祈りが教えらました。主の祈りは、異邦人のようなくどくどと言葉数の多い祈りと対照的な、簡潔な祈りであります。それは単に長さ、言葉の多少の問題だけではありません。異邦人がくどくどと言葉数多く祈るのは、「言葉数が多ければ聞き入れられると思い込んでいる」からなのです。神に祈りを聞いてもらうには、言葉数が多くなければならない、私たちの側にもそれなりの努力や精進が必要なのでしょうか。けれども主イエスはそれに対して、「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」(8節)と言われました。神は私たちに必要なものを必要な時に与えて下さる方であると主イエスは言われます。主イエスは、主の祈りによって、まことの神の民、神の子と神との関係、交わりに私たちを生かそうとしておられます。

父なる神
 私たちがまことの神の民としての神との関係に生きるとはどういうことでしょうか。私たちと神との関係とはどのような関係なのでしょうか。それは主イエスの教えられた主の祈りの呼びかけにありますように「あなたがたの父」という言葉です。主イエスはあなたがたが祈る相手は、あなたがたの父である、あなたがたは、子として、父である神に祈るのだ、と言われます。私たちが「願う前から必要なものをご存じ」である神様に、私たちは祈るとうことです。父と子の関係を示すことになります。父は子を愛し、子のために本当に必要なものを与える、子が願ったら初めて与えるのではなく、願う前からそれを与える。あるいは、子がいくら願っても、それが子にとって必要でない、むしろよくないものである場合には、それを与えない、そのようにいつも子のためを思い、よいものを与えようとするのが父であります。人間の親はなかなかそのようにできないでしょう。本当に必要なものを与えずに、むしろ不必要な、害になるものを与えてしまうことがあるが、神は真実の父として、子である私たちに、本当に必要なものを、必要な時に、必要なだけ与えて下さる。神はあなたがたとそのような父と子の関係を結ぼうとしておられる、というのが主イエスの教えであり、そのために主の祈りを教えて下さったのです。

天にまします
 最初の一句は「天にましますわれらの父よ」と神様への呼びかけから始まります。けれども私たちは本当に、神が天の父であり、願う前から必要なものをご存じであり、与えて下さる方であられることを信じて生きることができるでしょうか。主イエスは神に向かって「アッバ、父よ」と呼びかけて祈られました。この「アッバ、父よ」とは小さい子供が父親を呼ぶ親しい呼びかけの言葉です。私たちの言葉では言えば「パパ」とか「お父ちゃん」というような言葉でしょう。当時のユダヤ人たちの祈りにおいても、神に「父よ」と呼びかけることがなかったわけではないようだが、「アッバ」という言葉で呼びかけることは主イエスのみがなさった、まことに大胆なことだった。主イエスは、そう呼びかけることのできるただ一人の方、神の独り子であります。その主イエスが、「私がアッバ、父よ、と呼びかけている方は、あなたがたの天の父でもある。あなたがたも、この神に、『天におられるわたしたちの父よ』と呼びかけて祈りなさい、あなたがたもそのように祈ってよいのだ」、と言って下さった。主イエスが人間となってこの世に来て下さったのはこのことのためだった。もともと神の子ではなく、疎遠な、異邦人の神しか知らず、くどくどと言葉数多く祈らざるを得ない私たちが、主イエスと共に、「天にましますわれらの父よ」と祈ることができるようになるために、主イエスは人となり、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さいました。

神の国と神の義
 私たちは、礼拝において、またそれぞれの生活において、主の祈りを祈ります。この祈りを土台として、そこに様々な自分の思いや願いを加えて祈っていきます。時には祈りの言葉が、「神様、何故ですか。何故このようなことをするのでしょうか」と問わざるを得ないときもあります。祈りの言葉にならない祈り、神様への問いかけもあります。
 少し先のマタイによる福音書の第6章33節ではこうあります。主イエスは私たちにこのようなことを求めておられます。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。」主イエスは、たとえ明日食べる物、着る物に事欠くがあるとしても、まず「神の国と神の義を求めなさい」と言われます。私たちは自分自身のために、自分の愛する者のために、差し迫った重大な事柄のために、心を注ぎ出して祈る者であります。けれども、私たちは神様に対して「御名が崇められますように」と熱意を込めて祈る者ではあるでしょうか。この姿が私たちの根本の姿ではないでしょうか。だからこそ、主イエスは言われます。「だから、こう祈りなさい。」と繰り返し、繰り返し一言ずつ「主の祈り」を教えて下さるのです。私たちは祈りを教えていただかなければならないのです。神が本当に神であられること、そのことが私たちの本当の幸せとなるからです。なぜ、神が本当に神であられることが私たちの本当の幸せと言えるのでしょうか。天におられるわたしたちの父、父なる神はわたしたちに愛する独り子をお与え下さるほどに、私たちを愛し抜かれたお方であるからです。カルヴァンは言います。「神の栄光は私たちの救いとは切り離されているものではない。」のです。主イエスは「だから、こう祈りなさい」という主の御言葉と主の助けを私たちに賜ります。私たちは自分中心にしか振舞えない、祈れない者であります。祈りにおいても罪を犯してしまう、そのような私たちの姿であります。そのような私たちに主は祈りを教えて下さいました。
 神様の御名を汚す私たち者であります。私たちの罪を、主イエスが十字架の死によって贖って下さり、赦して下さいました。神様の御名はそのようにして聖なるものとされたのです。神が愛する独り子をこの世に賜り、その御子の十字架によって私たちの罪が赦された。その大きな恵みを受けた私たちは感謝して歩みます。その感謝の歩みこそが神様を崇めることです。神様が聖なるものとされた御名を、私たちも聖なるものとするのです。神の大きな恵みに感謝をする。神に感謝をする生活こそ、神を崇めるということです。私たちはそうして、神様を崇め、聖なるものとすることができます。  「御名が崇められますように」(新共同訳)とあります。御名とは名前です。「崇める」という言葉には「聖くする、聖なるものとする」という意味があります。「聖なる」とは、神のものとして区別されたということです。何かが聖なるものとされるのとは、神がそれをご自分のものとして選び分かたれるのです。御名が聖なるものとされるのもそれと同じである。御名を聖とするのは神ご自身であり、神が聖とされたから、御名は聖なるものであります。だから人はそれを崇めるのです。この祈りは、神ご自身が聖とされ、神の働きを願い求める祈りです。神が、ご自分のみ名を聖なるものとして下さるように、とお願いしているのである。

神の栄光
 神がご自分の御名を聖なるものとなさるとはどういうことでしょうか。ヨハネによる福音書第12章27、28節にはこうあります。「父よ、御名の栄光を現してください」(28節)は「御名を聖なるものとしてください」と同じ祈りと言えます。主の祈りの第一祈願である「御名が崇められますように」ということを主イエスご自身がここで祈っておられます。御名の栄光は「わたしはまさにこの時のために来たのだ」(27節)とあるように、「この時」に現わされる。「この時」とは、「今、私は心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか」とあるように、十字架の苦しみと死が目前に迫っているこの時です。主イエスは「この時のために来た」。主イエスがこの世に来られたのは、十字架の苦しみと死とを引き受け、それによって私たちの罪を赦して下さるためです。御名の栄光は、主イエスが十字架の死への道を歩み通されることによって現される。神は、独り子主イエスが、私たちの罪を背負って十字架にかかって死ぬことを通して、御名の栄光を現し、御名を聖なるものとして下さるのである。そこにこそ、私たちの救い、罪の赦しがある。それゆえに、「御名を聖なるものとしてください」という祈りは「神のための祈り」でははないのです。むしろ私たち自身のための、私たちの救い、罪の赦しを願い求める祈りであります。神の御名が聖なるものとされることこそが、私たちの救いなのです。神の御名が聖なるものとされることこそ、私たちが罪を赦されて新しく神の恵みの下で生きる道はそこにこそ開かれているのです。

感謝の生活
 神の恵みを受けた私たちはどう歩むのでしょうか。神の計り知れない恵みに応えて感謝したいものです。私たちの信仰の歩みは感謝の生活です。その信仰の生活において私たちは神を崇めます。神が聖なるものとして下さった御名を、私たちも聖なるものとしつつ生きるのである。神ご自身が、その独り子の命を与えて私たちの罪を赦して下さり、私たちが汚している御名を聖なるものとして下さり、その御名の下に私たちをもう一度集めて、神の民として生かして下さるときに、私たちはその神の御名を崇め、ほめたたえる人生を歩み出すことができるのである。ある教父が「主の祈りは福音全体の要約」であると言いました。主の祈りの大切さを語る人は多く、色々な言い方があります。福音とは喜びの知らせです。神から与えられている救いの真理です。「神の栄光は私たちの救いとは切り離されているものではない。」神の栄光があるとこに私たちの真の救いが存在するのです。

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