夕礼拝

あなたの父母を敬え

「あなたの父母を敬え」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:申命記 第5章16節
・ 新約聖書:ヘブライ人への手紙 第12章1-13節
・ 讃美歌: 309、514

第五の戒めは前半か後半か
月に一度、私が夕礼拝の説教を担当する日は、旧約聖書申命記 からみ言葉に聞いておりまして、今その第5章の、いわゆるモーセ の十戒を読んでいます。本日読むのはその第五の戒め「あなたの 父母を敬え」です。
モーセが主なる神から十戒を与えられた時、それは二枚の 石の板に書かれていた、と5章の22節にあります。そこから、 十戒は第一の板つまり前半と、第二の板つまり後半の二つの 部分に分けられると考えられるようになりました。それではどこ までが前半でどこからが後半なのでしょうか。私たちがよく耳に する分け方は、前半は第四の戒めまでの四つ、後半は第五の戒 めからの六つ、というものです。求道者会で学んでいる「ハイデ ルベルク信仰問答」や、宗教改革者カルヴァンが書いた「ジュネーヴ 教会信仰問答」はそういう分け方をしています。「ハイデルベルク 信仰問答」によれば、前半は「わたしたちが神に対してどのよう にふるまうべきか」を教えており、後半は「わたしたちが自分の 隣人に対してどのような義務を負っているか」を教えているの です。このように、前半四つと後半六つに分けることが一般的に なされてきましたが、しかし十の戒めを二つに分けるなら、四つ と六つではなくて五つと五つに分けるのが自然であり、そうい う主張もあるのです。つまり本日の第五の戒め、「あなたの父母 を敬え」をめぐっては、これを前半に入れるべきか、後半に入 れるべきか、という議論があるのです。第五の戒めを読むにあた って、先ずこの問題をとりあげたいと思います。
「あなたの父母を敬え」という第五の戒めは、「自分の隣人に 対してどのような義務を負っているか」を語っている後半の冒 頭の戒めとして相応しいものだと思われます。父母は最も身近 な隣人です。その父母に対して私たちはどのような義務を負 っているかをこの戒めは語っているわけです。だからこの第五の 戒めからが後半が始まるというのは自然な捉え方だと言えま す。それにもかかわらずこれを前半に入れるべきだという主張が あることの一つの理由は、16節の後半の文章「そうすればあな たは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生き、幸いを得 る」です。この戒めを守ることによってこういう幸いが与えられ るという約束が語られているのです。これまでの四つの戒めに はそういう約束はありませんでした。なぜ、第五の戒めにだけ約 束が付けられているのでしょうか。しかもこの約束は、「父母を敬 う」ということから自然に導き出される約束とは思えません。 「長く生きることができる」、長生きすることができる、という約 束です。父母を敬った者は長生きできる、ということでしょうか。 だったら、親不孝をしている人は早死にするのでしょうか。この約 束をどう理解するがが大きな問題なのです。

長く生きる約束
私たちはこの約束を「長生きする」という意味で理解しがちです が、実は同じ言葉が申命記の32章47節にもあります。45節以下 を読んでみます。「モーセは全イスラエルにこれらの言葉をすべて語 り終えてから、こう言った。『あなたたちは、今日わたしがあなたた ちに対して証言するすべての言葉を心に留め、子供たちに命じて、こ の律法の言葉をすべて忠実に守らせなさい。それは、あなたたちにと って決してむなしい言葉ではなく、あなたたちの命である。この言葉 によって、あなたたちはヨルダン川を渡って得る土地で長く生きるこ とができる』」。申命記はその全体がモーセの、死を前にしての遺言 として書かれていますが、この部分はその中でもさらに、イスラエル の民へのモーセの最後の勧めです。私がこれまで語ってきた教えの全 てをしっかりと心に留め、子供たちにもそれを伝えて忠実に守らせな さい、そうすれば、ヨルダン川を渡って得る土地(それが本日の箇所 では「あなたの神、主が与えられる土地」ですが)において長く生き ることができる、と語られているのです。ここで「長く生きることが できる」というのは、長生きすることではありません。「あなたが た」と呼びかけられているのはイスラエルの民全体です。イスラエル の民が、モーセの語る律法の言葉、その中心が十戒であるわけです が、それをしっかり守り、子供たちにもそれを守らせるなら、神が与 えて下さる約束の地において、長く、代々に亘って住み続けることが できる、それが「長く生きることができる」の意味なのです。逆にも しも彼らが、また彼らの子供たちが、律法を守らず、十戒を無視して 神に背くならば、イスラエルの民は約束の地に住み続けることができ なくなる、他国に攻め滅ぼされてこの地を追い出されてしまう、モ ーセはそういう約束と警告を語っているのです。第五の戒めにおける 「そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生 き、幸いを得る」という約束も、それと同じ意味で捉えるべきでし ょう。ということはこの約束は、第五の戒めとの関係で捉えられるべ きものではなくて、これまでに語られてきた、神に対してどのように ふるまうべきかについての一つ一つの戒め、主なる神以外のものを神 とせず、偶像を拝むことなく、主の名をみだりに唱えてそれを汚すこ とをせず、安息日をしっかり守って神との交わりに生きる、というこ とをしっかりと守り、そういう神との交わりの中で父母を敬うなら ば、神はそのような民を祝福して下さり、彼らが約束の地に長く生き 続けることができるようにして下さる、という約束なのです。つまり これまで語られて来た十戒前半の戒めの締めくくりとして、この約束 が語られていると考えることができるのです。

倫理道徳の教え?
このように考えると、第五の戒めを前半に入れることにも根 拠があることが分かってきます。そしてこの第五の戒めは、前半 の最後の戒めとして読むか、後半の最初の戒めとして読むか によって意味が違って来るのです。これを後半の、隣人に対す る義務を語っている最初の戒めとして読むなら、「父母を敬う」 ことは私たちの個人的生活、家庭生活の問題となります。最も身 近な隣人である家族のあり方についての倫理的教えが語られて いるということになります。そしてそういう教えなら私たちは、聖 書を読まなくても既によく知っています。お父さんお母さん を大事にしなさい、親孝行をしなさい、ということは小学校の道 徳で教えられることであり、昔の「教育勅語」にも「父母ニ孝ニ」 と言われていたのです。そういう倫理道徳の教えなら、主なる神 様を抜きにしてもいくらでも語ることができます。そこでは、聖書 にも教育勅語と通じる教えがある、ということになるのです。

神の民として生きるための戒め
しかしこの戒めを前半の最後の戒めとして読むならば、つまり神に 対してどのようにふるまうべきかを教えている戒めとして読むなら ば、全く違うことが見えてきます。それは単なる親孝行の教えではな くなるのです。しかし「父母を敬え」という戒めを、神に対してどの ようにふるまうべきかを教える戒めとして読むとはどういうことでし ょうか。そのように読む前提は、十戒が、神の恵みによって救われた 神の民イスラエルに与えられた戒めであるということです。十戒全体 の前提を語っている6節にそのことが示されています。「わたしは 主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神 である」。この「あなた」はイスラエルの民全体です。主がこの民を エジプトの奴隷状態から解放し、救い出して下さったのです。その救 いの恵みを受けた民が、その恵みに応えて神の民として生きていくた めに十戒は与えられたのです。ですから「父母を敬え」という戒め も、イスラエルの民が、エジプトの奴隷状態から解放して下さった神 の民として生きるために与えられているのであって、人類が一般的に 守るべき普遍的道徳を語っているのではないのです。それでは父母を 敬うことと神の民として生きることはどう結びつくのか、それを先程 の32章の46節が語っています。46節におけるモーセの言葉をも う一度読んでみます。「あなたたちは、今日わたしがあなたたちに対 して証言するすべての言葉を心に留め、子供たちに命じて、この律法 の言葉をすべて忠実に守らせなさい」。これは、子供を持つ親たちに 対する命令です。モーセを通して神が与えて下さった律法の言葉、そ の中心が十戒ですが、それを、親が自分の子供たちに語り伝え、子供 たちにそれを忠実に守らせるようにと命じられています。そのように して、神のみ言葉が、律法が、親から子へと代々伝えられ、受け継が れていく、それによってイスラエルは神の民としてこの世に存在し続 けることができるのです。つまり神の民であるイスラエルにおいて、 父母というのは、自分の子供たちに、神のみ言葉、律法を教え、それ を忠実に守り行っていく信仰を受け継がせていくべき者たちなのであ り、子供にとって父母とは、自分に神の言葉を伝え、信仰を教えてく れる人、その父母の導きによって自分も神の民の一人となり、神の恵 みを受けて生きることができる、そういう人なのです。その父母を敬 え、とこの戒めは教えています。「敬う」という言葉は、「大事にす る、大切なものとする」という意味です。父母を大事にし、大切にす る、それは父母が伝えてくれた神の言葉、律法を、またそれを守って 生きるという信仰を大事にし、自分と自分の家族の歩みにおいて欠か すことのできないものとして大切にすることです。そうすることによ って、主なる神の祝福が親から子へと代々受け継がれていき、神の民 として約束の地で長く生きることができるのです。その意味で、あの 「長く生きる」という約束がこの第五の戒めの後に付けられているこ とには意味があります。約束の地で代々にわたって長く生きていくと いう祝福は、神の言葉を、信仰を、親が子に、前の世代の者が次の世 代の者へとしっかり語り継ぎ、子供たちが、次の世代の者たちが、親 たちを敬ってその信仰をしっかり受け継ぐことによってこそ与えられ るからです。

信仰を受け継ぐ神の民
ここから示されるのは、聖書は親と子の繋がりを、単なる血 の繋がりとして考えてはいないということです。父母を敬うのも、 生んでくれたから、自分が生きているのは両親のお陰だから、と いうことではないのです。生んでくれたのだから、ということを土 台として親子の関係を築こうとするなら、「生んでくれと頼ん だ覚えはない」ということにもなります。さらには「どうしてこん な自分に生んだのか」という恨みだって生じるでしょう。親と子 の関係は、あるいは世代と世代の関係は、血が繋がっていると か、前の世代のお陰で今があるのだ、ということによって築か れ、維持されるものではないのです。それが本当に築かれ、維持 されていくには、神の言葉を受け継ぎ、信仰を継承しているとい うことが、つまり同じものを見上げ、従っていくという使命の共 有と継承が必要なのです。そのような使命の共有と継承があ る所には、血の繋がりにおける家族や民族を越えた、より深い 絆で結ばれた民が生まれ、「長く生きる」という祝福が与えら れるのです。この第五の戒めを、隣人との関係についての十戒後 半の戒めとしてのみ受け止めていると、血の繋がりにおける家 族や民族のことしか見えてこないために、この祝福が見失われ てしまいます。これを前半の、神に対してどのようにふるまうべき かを語っている戒めとして受け止めることによってこそ、この 戒めは「父母ニ孝ニ」という教育勅語とは違う、信仰を受け継 ぐ神の民を形成していくための戒めとなるのです。

神の家族の中で
またこう言うこともできます。私たちは、信仰を受け継ぐ神の 民の一員とされることによって、主にある父母、兄弟姉妹、子供た ちを与えられ、神の家族となるのです。主イエス・キリストの十 字架と復活による救いによって、今や教会が新しい神の民と して召し集められています。私たちはキリストを信じて洗礼を 受けることによって、この新しい神の民、教会に加えられるので す。神の民である教会には、私たちにキリストの福音を伝え、 信仰を教えてくれた信仰における父や母がいます。私たちはそ の父母を敬い、彼らが語ってくれたみ言葉を、信仰を大切に受 け継ぎ、守っていきます。またこの神の民である教会には、次 の世代の人々が、信仰における子供たちがいます。今度は私たち が父や母として、次の世代の人々に、神の言葉を、キリスト による救いを信じる信仰を、語り伝えていくのです。そのよう にして神の民である教会において私たちは、多くの子供たちを 与えられます。血の繋がりにおける子供のいない人でも、信仰に おける子供たちの父母となることができるのです。そのようにし て、神の民である教会は今まで二千年にわたって歩んできたの だし、これからも長く生き続けていきます。第五の戒めは、神 の民の歴史が親から子へと、世代から世代へと受け継がれて いく、その神の家族の歩みの中に私たちを置いてくれるのです。

肉における父母
さてそれでは、教会において神の民、神の家族として生きて行く私 たちは、血の繋がりにおける父母のことをどのように見つめたらよい のでしょうか。私たちに神の言葉を伝え、信仰を教えてくれた信仰の 父母が同時に血の繋がりにおける父母でもあるなら、それはとても恵 まれたことです。しかし私たちにおいては、そういうことは希なケ ースです。親の信仰を受け継いで信仰者として生きている人は、この 国においてはまだまだそう多くはありません。そういう人がもっと増 えていって普通のことになることを私たちは祈り求めていかなければ なりませんが、それでも、信者ではない親を持っている信仰者はこれ からもなお大勢であり続けるでしょう。そういう現実の中で、「父母 を敬え」というこの戒めをどう受け止めたらよいのか、ということは 切実な問題です。そのことにおいて、先程共に読まれた新約聖書の箇 所、ヘブライ人への手紙第12章が示唆を与えてくれると思います。 ここは、私たち信仰者が、苦しみを神から与えられる鍛錬として耐え 忍ぶことによって信仰が成長することを信じて、神を信頼して歩むこ とを教えています。9節においては、人間の父である「肉の父」に対 して、神が「霊の父」と呼ばれています。霊の父である神が、私たち をご自分の愛する子として鍛錬なさるのだから、苦しみや試練が与え られているのは、神の子とされていることの印なのだ、と言っている のです。そして10節には「肉の父はしばらくの間、自分の思うまま に鍛えてくれましたが、霊の父はわたしたちの益となるように、御自 分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです」とあ ります。だから肉の父を尊敬してその鍛錬を受けたように、霊の父で ある神の鍛錬を忍耐して受けなさい、と言っているのです。ここに、 人間の父である「肉の父」と、「霊の父」である神が共に「父」とし て見つめられています。肉の父を敬い、その鍛錬を受けるのだから、 より根本的な「父」である霊の父をさらに敬い、その鍛錬を忍耐して 受けなさいと言われているのです。そこにおいて、人間の父、肉の父 を尊敬し、その鍛錬を受けることが否定されていないことに注目しな ければなりません。私たちが真実に敬うべき根本的な父は、霊の父で ある神です。しかしその霊の父を敬うことを学ぶために、人間の父、 肉の父が神によって立てられているのです。それゆえに私たちは、自 分の肉における父母を、その人が信仰者であろうとなかろうと、敬 い、大切にするべきなのです。肉における父や母は人間ですから、い ろいろと欠点があり、不十分なことがあります。子供を育て、養い、 鍛えることにおいて間違ったことをしてしまうことも多々あります。 今の10節に、肉の父は「しばらくの間、自分の思うままに鍛えてく れましたが」とありました。そのように人間の親は、自分の思いによ って子供を鍛えるわけで、そこには様々な間違いや不適切なことがあ るのです。それは信仰者の親だろうと、そうでない親だろうと同じで す。信仰があるからといって、完璧な親になることなどできないこと は、親になった人は誰でも知っています。ですから私たちはこの第五 の戒めを、信仰者である父母だけを敬うことが教えられていると考え てはなりません。多かれ少なかれいろいろな欠点を持ち、罪のある人 間が、神によって私たちの父として、母として立てられ、その人たち を通して神が私たちに命を与え、養い、育ててきて下さったのです。 その父と母を、様々な欠点や罪にもかかわらず、敬い、大事にするこ とによってこそ、私たちは神を敬うことができるのです。主イエス は、ファリサイ派の人々が、本来両親を支えるために用いるべきもの であっても、「これは神への献げ物だ」と言えば両親のために用いな くてもよい、と教えていたことに対して、それは偽善だと厳しく批判 なさいました。つまり、神に仕えることを口実にして、両親を、特に この場合には年老いた両親を敬い支えることをしないのは、正しく神 を敬うことではない、それは偽善だ、とおっしゃったのです。またそ の逆に、人間の父母を敬うことを口実にして神を敬うことを疎かにす ることも正しくありません。神を敬い大切にすることと、父母を敬い 大切にすることは、あれかこれか、というものではないのです。時と して両者の板挟みのようになって苦しむことも起ってきますが、その ような時には、私たちの肉の父母は、神が私たちに命を与え、養い、 育てて下さるために、み手の中で用いて下さった人々なのだ、という ことを覚えたいと思います。私たちは、霊の父を敬うからこそ、肉に おける父母を敬って生きるのです。困難に見えても、そのような道が 必ず開けていくことを信じて歩むことが大切なのです。

前半と後半を結びつける戒め
このようにこの第五の戒めは、十戒の前半の最後の戒めと して受け止めることも大切だし、また後半の最初の戒めとし て読むことも大切です。そういう意味では、この第五の戒め が、前半と後半とを結びつけている、と捉えることが最も適切 であると言えるでしょう。つまり、神に対してどのようにふるま うべきかという前半の戒めと、隣人に対してどのような義務を 負っているかという後半の戒めは、結び合っているのであって、 別々のことではないのです。そのことが、私たちに命を与え、 養い育てるために神が恵みによって立て、用いて下さった最 初の隣人である父母を敬え、という第五の戒めによって示さ れているのです。

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