夕礼拝

命の知恵を得よ

「命の知恵を得よ」 伝道師 矢澤 励太

・ 旧約聖書; 箴言、第8章 1節-36節
・ 新約聖書; ルカによる福音書、第7章 29節-35節
・ 讃美歌 ; 204、431、71(1,3,5,7,8)

 
1 私たちが今ここにおり、神の言葉を聴いているということは、当たり前のことではありません。一方では、野球のナイター観戦に行く人があり、伊勢崎モールで買い物を楽しむ人があり、家で映画鑑賞をしている人がある、その只中で、それに逆らって、私たちは礼拝に与かっているのです。「神の正しさを認める」か、「自分に対する神の御心を拒む」か、二つに別れた道のうちの一方を取るよう促され、導かれた結果、今ここにいるのです。

2 洗礼者ヨハネの教えを聞いた民衆は、洗礼を受けて「神の正しさを認めた」(29節)とあります。これに対してファリサイ派の人々や律法の専門家たちは洗礼を受けず、それによって「自分に対する神の御心を拒んだ」(30節)のです。同じ神の言葉を聞いても、それによって神の正しさを認める人もいるし、それを拒む人もあるということが見つめられているわけです。しかも不思議なことは、洗礼を受けたのは、当時最も神から離れている人々、救いから遠いと思われていた人々である民衆たち、中でも徴税人や罪人たちであったということです。また一方で、洗礼を受けることを拒み、神の御心をないがしろにしたのは、当時最も神に近いと自他共に認めていた宗教家たち、ファリサイ派や律法学者たちであったことです。神のことなど今まで何も分からなかった人々、いや聞く機会さえ与えられてこなかった人々こそが、ヨハネの悔い改めを促す言葉を聞いて激しく心を揺さぶられ、神の正しさを認めたのです。
神の正しさを認めるということは、同時に自分の過ちを認めること、自分が正しくなかったことを認めるということでもあります。この夏のオリンピックを見ていて私が印象を深くしたことの一つは、試合に負けた選手が勝った方の選手の肩をたたいたり握手をしたりして,相手の健闘を称えている姿でした。負けを認めなかったり,やけになって勝った選手を突き飛ばしたりするのでなく,自分が敗れたことを素直に認め,握手を交わし,相手を祝福してその肩をたたくのです。私の叔父さんは将棋を趣味にしています。私もついぞ身につきませんでしたが,小さい頃はよくその相手をさせられました。この夏も叔父は東急デパートで毎年行われている将棋祭りに毎日のように出かけていました。この将棋という競技の特徴的なところは,自分の王将の駒が追い詰められて,もはや勝ち目がなくなった時,「負けました」と言って,相手の前に頭を下げることです。はっきりと言葉に出して自分の負けを認める点ではオリンピックの他のスポーツよりも徹底していると思います。神の正しさを認めるということは,自分の中には勝ち目はない,自分の中には正しさはまったくないということを素直に認めることです。そして神の前にひざまずき,「神よ,正しいのはあなただけです」と頭を垂れるのです。神の正しさだけにより頼んで歩んでいく力を与えられる時,私たちは立ち上がることができるのです。民衆たちはそのようにして自分たちの前にご自身を現された神に降伏したのでした。
ところが,ファリサイ派の人々や律法の専門家たちは洗礼を受けることを拒みました。最も神に近い,神のことに詳しい,信仰心の篤い人たちと思われていた人々が,ヨハネの言葉を通して語りかけておられる神の言葉を拒んだのです。いったいどうしてでしょうか。彼らは自分たちこそ神のことをよくわきまえている,神についての知識を誰よりもたくさん身につけた者だと信じていました。実際,多くの人々から信頼を得て,その教えを聞きに,人々がその周りに集まったのです。ところが,洗礼者ヨハネや主イエスが自分たちのもとに来られた時,このお方たちの言葉を通して,神が語ってくださっていると言うことが,彼らには分からなかったのです。彼らは自分でも気づかないうちに,自分なりの神についてのイメージ,神についての理解を築き上げてしまっていたからです。そのイメージや理解に比べてみると,パンも食べず,ぶどう酒も飲まずにいるヨハネは異常な禁欲を自分たちに強いているように見えたし,主イエスが徴税人や罪人たちと食事を共にしている姿は,堕落したこの世のなれの果てにしか見えなかったのです。  

3 私たちは知らないうちに神とはこのようなお方だというイメージを勝手に作り上げて,それに見合う神を捜し求めてしまうことがあるのです。せっかく一生懸命祈ったのに,なぜ神は自分の祈りに答えてくれなかったのか,なぜこれだけ努力して勉強したのに,神は自分の労苦に報いてくださらなかったのか,なぜ何も悪いことをしてもいないのに家族を失い,愛する者を失う悲しみを味わわなければならないのか,そういう愚痴や不満,呪いの言葉が私たちの思いの中に湧きあがってくることはしばしばではないでしょうか。ファリサイ派の人々や律法の専門家たちも,自分たちが一生懸命に神の掟と戒めを守れば,神はそれに応えて,豊かな恵みを与えてくださると信じていたのです。自分たちの清さに応えて報いを与えられる神を信じていたのです。その熱心さがいつしか,自分は神の側についているが,あの人たちは神にはむかっている愚かな人たちだ,と軽蔑の目をもって人を裁く心を生み出していったのです。自分なりの神の理解が邪魔して,今まことの神が目の前に現われているのに,そのことが見えず,これを拒否してしまうということが起こるのです。

4 ドストエフスキーというロシアの小説家が書いた『カラマーゾフの兄弟』という小説の中に,甦って天に上られた主イエスが再びこの地上に来てくださった時,教会がそれをどう受け留めたのかを想像して語る,興味深い箇所があります。15世紀のスペインのセビリャに、突如主イエスが現れます。ところが主イエス・キリストが約束通り再び来てくださったのに,一番の責任者である大審問官はこう言うのです,「もうお前はみんなすっかり法王に渡してしまったじゃないか。いま一切のことは法王の手中にあるのだ。だから、今となって出て来るのは断然よしてもらいたい。少なくとも、ある時期の来るまで邪魔をしないでくれ」。
もはや大審問官を最高の権力者とする自分たちの王国を建ててしまっているのだから,救い主は要らなくなった。かえってあなたが今この地上に来られるのは我々の支配にとって邪魔になるのだ,というのです。恐ろしいことですが,私たちが自分なりの神のイメージを抱き,それによってこの世の出来事,自らの人生を判断する時,私たちはこの大審問官と同じ罪を犯しているかもしれないのです。 
私が宣教師の先生からいただいた本の中に,「あなたの神は小さすぎる」というものがありますが,私たちも知らず知らずのうちに神を自分のイメージや願望の中に閉じ込めて,それに合う大きさに神を引き下げ,小さくしてしまってはいないでしょうか。その時,私たちもあのファリサイ派の人々や律法の専門家たちのように,今,ここで始まっている神の恵みのご支配が見えなくなってしまうのです。

5 主イエスはそのように神の恵みが見えなくなっている今の時代の人たちは,ごっこ遊びを一緒にしてくれないと言って,だだをこねている子供のようなものだ,とおっしゃいました。「笛を吹いたのに,踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに,泣いてくれなかった」(32節)。おそらく主イエスが広場で教えていた時,しばしば子供たちが隅のほうで結婚ごっこや葬式ごっこをして遊んでいる姿が見えたのではないでしょうか。いくつかのグループが一緒に遊ぼうと言うので,何をして遊ぶか相談したのです。子供の頃のことを思い起こしてみると分かりますが、こうして何をして遊ぶかを決める時によくいたのは、みんなの意見も聞かずに「これをして遊ぼう!」と勝手に決めて、強引に自分のやりたい遊びにみんなを引っ張り込むような押しの強い子だったではないでしょうか。マンガ「ドラエモン」に出てくるジャイアンなどはその典型ではないでしょうか。そういう子に限って、自分の思い通りに遊んでくれないと、周りを非難してわがままを言うのです。結婚式ごっこで歌を歌ったのに、周りはひいてしまって一緒になって踊ってくれなかった。葬式で歌う悲しみの歌を歌ったのに、誰もそれに合わせて泣いてくれない。そう言って、自分の期待に応えてくれない相手のグループを非難して、攻撃するのです。自分の願いや期待に神が応えてくれない、と言って神を拒む時、私たちはわがままを言いながらわめきちらすあの子供たちのグループのようになっている、主はそうおっしゃっているのではないでしょうか。
 ファリサイ派の人々も律法の専門家も、神についての知識は誰よりもたくさん蓄えている専門家です。けれども、だからといってそれによって神と出会うことができるわけではないのです。神学者なら神と出会っているとは限らないのです。主イエスにおいて、目の前に神が来てくださっていることが分からない、ということがいくらも起こりえるのです。神を誰よりもよく知っているはずの者が、あの大審問官のように、神を拒むということがあり得るのです。そのようにして自分に対する神の御心を拒むということが起こりえるのです。

6 葬式の歌は、自分の罪を悔い、神の前に死ぬべき身である自分の憐れさを嘆き悲しむ姿に重ね合わされます。それは神の怒りを思い、間もなく神が来られることに備え、悔い改めよ、と呼びかける洗礼者ヨハネの姿に重なります。けれども、そのようにして葬式の歌を歌い、自らの大いなる罪を嘆くべき時に、私たちは結婚式の笛を吹いて、喜び踊るようなちぐはぐなことをしているのです。そしてなぜ一緒に踊らない、と言ってヨハネを責めるのです。「あれは悪霊に取りつかれている」と言って、神の使いを神に反逆する悪魔として裁いてしまっているのです。自分を裁き主、神としてしまっているのです。また主イエスが来て、今こそ神の国の祝宴が始まる時だ、と告げ知らせているのに、今度は「葬式の歌に応えて泣いてくれない」と言って「大食漢で大酒飲みだ」と非難するのです。
主イエスが徴税人や罪人を招いて食事を共にされたのは、徴税人や罪人と呼ばれる人々こそが、罪の赦しと喜びの食卓に、神が喜んで招こうとしている者たちなのだ、ということです。神の前に誇るべき何ものも持たず、どんな知恵も見せびらかすことができない人々、それゆえただ神の憐れみにより頼むほか何の望みも持っていない人々、出会ってくださる神に望みを託す以外に道のない人々、そのような者たちこそが、神の国の喜びに与かることができるのです。そこではこの世の賢さ、この世の知恵、私たちの神についてのイメージや期待は打ち砕かれて、主イエスにおいて現れてくださった神が、私たちにご自身を現し、私たちと出会ってくださるのです。この世の知恵が到底思い描くことのなかった姿で、救い主は私たちのもとに来てくださいました。徴税人や罪人と食卓を共にし、神殿や広場で御言葉を語り、病や悪霊に悩む一人一人に出会ってくださり、癒してくださいました。天から一気呵成に父なる神の御力を振るい、天の大軍によって反逆者を滅ぼし、神の子らをいっせいに救いの網で救い上げるという有無を言わせぬ派手で豪快な方法を、神はお選びになりませんでした。むしろこの世の憎しみや無理解に巡り囲まれた中で、散らされている神の子たち一人一人に出会い、これを癒し、慰め、彼らに言葉を与える仕方で神の御業は進められたのです。ついには十字架の上で救い主が殺される、という人間にはどこが救い主と言えるのか分からないような仕方で、しかし神は救いを成し遂げてくださったのです。私たちはキリストの復活の光の中で、神の愚かさは人よりも賢いことを知らされているのです。

7 「しかし、知恵の正しさは、それに従うすべての人によって証明される」(35節)。主イエスはそうおっしゃってくださいました。主がこのようにして語りかけておられるのは洗礼者ヨハネから洗礼を受け、今は主イエスと共に歩んでいる群衆たちです。ファリサイ派や律法の専門家たちはここにはいないのです。ということは、主はここで、あなたがたは「神の正しさを認めた者たち」だと、おっしゃってくださっているのです。洗礼を受けているとは、そういうことです。神の前で自分の正しさを主張できる何ものも持っていないことを認め、神の正しさにすべてをかけることです。今、ここに始まっている神の恵みのご支配、この地上に飛び込み、押し入ってきた恵みのご支配を受け入れることです。この恵みを受け入れる者に、主は語りかけます、「洗礼を受け、神のものとされたあなたがたこそが、神の知恵が正しいことの証拠なのだ。神の御心を拒む闇のようなこの世界にとっては愚かとしか映らないかもしれない、神の救いの御業を信じ、受け入れているあなたがたがいるということ、教会がこの暗闇の世に生まれ、存在し続けているということ、そのこと自体が、神の知恵が正しいことを証しているのだ」。
 私たちがキリストのものとされてこの世を生きているということは、神の御心を拒む人たちも実際にいる中で起こっていることなのです。この日本ではそれは明らかなことです。圧倒的に多くの人たちは、この神を無視するか、理解しないままで、それで何も問題ないかのように生きているのです。そうした中に教会があり、私たちが礼拝に与かっているということは、この世の大勢に逆らって、それにも関わらず、神はおられる、生きて働いておられる、と信仰を告白しているということです。ロシアで起こったいたましいテロ事件にも関わらず、世界は闇によって完全に覆われてはいないということを信じているということです。主イエスにおいて始まった神の国こそが、必ずこの世を制圧し、救いの完成をもたらしてくださることを信じ続けているということです。そればかりではありません。私たちの内にある弱さとも神は戦ってくださっています。自分のイメージや願望に神を引き下げ、閉じ込めてしまおうとする罪の誘惑にも抵抗して神の正しさを認め続けることが、この礼拝で起こっているのです。そして神の御心を拒む世に対して、なお差し伸べられている神の御手を、この世に向かって示し続けているのです。
 私たちがこの夕べ、この礼拝に集い、自分たちの歌ではなく、神の歌に心を重ねて讃美歌を歌い、自分たちの言葉ではなく、神の言葉を聴いていることが、神の知恵の正しさを証しているのです。この神の知恵たるキリストが招いてくださる神の国の食卓に、喜んで与かりたいと思います。

祈り 主イエス・キリストの父なる神様、あなたの呼びかける歌よりも、自分の願望を託した歌を歌いたがる私たちです。あなたの言葉を聴くより先に、自分の言葉を聞けとあなたにも、隣人にも強いてしまう罪人の私たちです。この世の知恵の方が現実的で、圧倒的な力を持っているように見えてしまう不信仰な者です。しかしあなたはこの世の只中から私たちを選び取り、それぞれが思い思いに過しているこの日曜日の夕べに、この日がただの日ではない、主の日であることを教え、礼拝へと導いてくださっています。どうかこの恵みの中に留まり続けさせてください。内にも外にもある世の知恵に抗って、あなたの正しさを認めさせてください。認めつづけさせてください。この世の暗闇に負けてしまうことなく、「私はなお告白しよう、御顔こそ、私の救い、私の神よ!」と告白し続けることができますように。今与かる聖餐を通して、御国の食卓に連なる希望を新たにさせてください。
御子イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。

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