【2025年6月奨励】神はモーセに言われた。「私はいる、という者である。」

  • 出エジプト記 第3章14節
今月の奨励

2025年6月の聖句についての奨励(6月4日 昼の聖書研究祈祷会) 牧師 藤掛順一
「神はモーセに言われた。「私はいる、という者である。」」(14節)
出エジプト記第3章7〜14節(聖書協会共同訳)
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主なる神の名は?
 今年度の教会の課題の一つは、礼拝で使用する聖書を「聖書協会共同訳」に変更することの検討です。そのために今年から「月間聖句」を聖書協会共同訳から選ぶようにしています。皆さんにできるだけ聖書協会共同訳に触れていただき、その特徴を知っていただくためです。六月の聖句とした出エジプト記第3章14節も、聖書協会共同訳の特徴が現れている箇所の一つです。先ほどは7節以下を読みました。主なる神は、エジプトで奴隷とされて苦しんでいるイスラエルの人々の叫びを聞いて、彼らをエジプトから解放し、「乳と蜜の流れる地」へと導き上ろうとしておられます。その救いのみ業のために、モーセを遣わそうとしておられるのです。10節で主はモーセに「さあ行け。私はあなたをファラオのもとに遣わす。私の民、イスラエルの人々をエジプトから導き出しなさい」と語りかけました。モーセを、エジプトからの脱出(出エジプト)の指導者として、エジプトの王ファラオのもとへと遣わそうとしておられるのです。しかしモーセはそれに抵抗しています。11節です。「私は何者なのでしょう。この私が本当にファラオのもとに行くのですか。私がイスラエルの人々を本当にエジプトから導き出すのですか」。私にはそんな大それたことはとてもできません、と断るモーセに、主は、「わたしはあなたと共にいる」(12節)と語りかけ、あくまでも彼を遣わそうとしておられます。このやりとりの中でモーセは、イスラエルの人々が「あなたを遣わした神の名は何か」と問うたら何と答えたらよいでしょうか、と尋ねました。それに対する主なる神の答えが14節です。その全体を読みます。「神はモーセに言われた。『私はいる、という者である。』そして言われた。『このようにイスラエルの人々に言いなさい。「私はいる」という方が、私をあなたがたに遣わされたのだと』」。ここは新共同訳では「神はモーセに、『わたしはある。わたしはあるという者だ』と言われ、また、『イスラエルの人々にこう言うがよい。「わたしはある」という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。』」となっていました。さらに、以前の口語訳聖書では「神はモーセに言われた。『わたしは、有って有る者』。また言われた、『イスラエルの人々にこう言いなさい。『「わたしは有る」というかたが、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と」でした。口語訳と新共同訳は「ある(有る)」と訳していたのが、聖書協会共同訳では「いる」に変わったのです。

「私はある」と「私はいる」
 「ある」も「いる」も意味は同じではなか、と感じられるかもしれませんが、そこにはかなり大きなニュアンスの違いがあります。「ある」は「存在する」という意味を表します。「確かにそこにある」ということです。口語訳と新共同訳の「有って有る者」「わたしはあるという者だ」という訳は、この14節の神の名の宣言をそのような意味に捉えています。主なる神が、ご自分は確かに存在しており、永遠に存在しているのだ、と宣言している、という解釈です。14節は従来そのように解釈されてきました。
 それに対して「いる」という言葉には、「存在するかどうか」ではなくて、「どこにいるのか」というニュアンスがあります。そしてそこには、その者の思い、意志が関係しています。「ある思いをもってここにいる」ということです。聖書協会共同訳の「私はいる」という訳はそういう意味をここに見ているのです。つまり主なる神はここで、ご自分が「存在する」と言っておられるのではなくて、「私はある思いをもってここにいる」と言っておられるのです。この解釈は12節との繋がりから導き出されたものです。12節で主は、躊躇っているモーセに、「私はあなたと共にいる」と宣言なさいました。この12節の「私はあなたと共にいる」と、14節の「私はいる」は原文においては同じ言葉です。「私はいる」は12節を受けて語られているのです。つまり主なる神はここで、「私は必ずあなたと共にいる」というご意志を告げることによってモーセを遣わそうとしておられ、イスラエルの人々にも、主なる神が「私はあなたと共にいる」という意志をもって私をお遣わしになったのだと告げなさい、と言っておられるのです。またこのことは3章8節で、奴隷とされて苦しんでいるイスラエルの人々の叫びを聞いた神が、「それで、私は下って行って、私の民をエジプトの手から救い出し、その地から、豊かで広い地、乳と蜜の流れる地、カナン人、ヘト人、ヒビ人、そしてエブス人の住む所に導き上る」と言っておられることとも繋がります。イスラエルの民の苦しみを知った神は、「下ってきて」、救いのみ業を行なおうとしておられるのです。そこにも、主なる神のご意志が示されています。主なる神は、救いのご意志をもって、モーセとイスラエルの民のところに下り、共にいて下さるのです。そういう神の救いのご意志が込められた言葉として、聖書協会共同訳は14節を「私はいる」と訳したのです。

「私はあなたと共にいる」と宣言して下さる神
 このことは私たちの信仰においても重要な意味を持っています。つまり私たちの信仰は、神が「存在するかしないか」という問題ではないのです。神が存在するとしても、天の高みから見下ろしているだけなら、私たちにとって何の支えにも助けにもならないのであって、存在していないのと同じです。問題はその神が、どのような思いや意志をもって私たちと関わって下さっているかです。主なる神は、天から下って来て、私たちと共にいて下さるのです。モーセは「私は(あなたと共に)いる」と宣言して下さった神との出会いによって、出エジプトの指導者として立てられたのです。私たちも同じように、「私は(あなたと共に)いる」という神の宣言を聞くことによってこそ、信仰者として、神と共に生きる者として立てられ、生きていくことができるのです。

わたしはあろうとして、わたしはあろうとするのだ
 これらのことから分かるのは、この3章14節に語られているのは実は神の「名前」ではない、ということです。モーセは、人々にあなたの名を尋ねられたら何と答えたらいいですか、と尋ね、それに対する神の答えが14節だったわけですが、しかしこれは、「あなたのお名前は?」「私の名前は◯◯です」という会話ではありません。示されているのは主なる神の名前ではなくて、主が明確な救いの意志をもってモーセと、そしてイスラエルの民と共にいて下さる、という事実なのです。その点において、これは三つの訳とも共通していますが、「有って有る者」「わたしはある。わたしはあるという者」「私はいる、という者」というふうに「者」と訳しているのは相応しくないとも言えます。原文には「者」に当たる言葉はありません。「者」という訳は、これが神の名前を問うたモーセに対する答えであることを意識したことによって、つまり「お名前は?」「わたしはこういう者です」というやりとりとして捉えたことによって補われた言葉です。最近出エジプト記の注解書を書かれた鈴木佳秀氏はここを「わたしはあろうとして、わたしはあろうとするのだ」と訳しています。そしてその注解においてこう語っておられます。「何よりも、この宣言は名の告知ではない。これまではここに名の告知があるとして、『わたしは有って有る者』というように訳されてきたが、原文には『者』に相当する先行詞がないため、補いとしてつけ足されてきたのである。その意味で解釈者を悩ませてきた宣言文であるが、すでに触れたように、主体的にモーセと共にあろうとして彼に臨んだ神は(12節)、ご自身の揺るぎない意志と決意そのものを、モーセに向かってここで啓示しているのである。神の名を明示することに力点があるのではない。この宣言は、救いのために働きかける意志と決断を表明し、共に生きて働く神として、モーセに自己を顕現した神自身の言葉である」。つまり、14節に語られているのは、「神の名の告知」や「神の名を明示すること」ではなくて、「神ご自身の揺るぎない意志と決意の啓示」であり、「救いのために働きかける意志と決断を表明し、共に生きて働く神として、モーセに自己を顕現した神自身の言葉」なのです。聖書協会共同訳の「私はいる、という者だ」という訳は、「という者だ」が残っている点ではなお不十分とも言えますが、それまでの「ある」を「いる」にしたことにおいて、神が救いの意志と決断を表明して、「わたしはあなたと共にいる」と宣言した言葉として14節を読むことにおいて一歩前進と言えるでしょう。

神の名を知るとは
 「わたしはあろうとして、わたしはあろうとするのだ」という訳は、主なる神の「揺るぎない意志と決意」を感じさせるよい訳だと思います。またそれは神が具体的に行動なさることを示す、動的な訳でもあります。生きておられるまことの神の名を知るというのは本来そういうことなのです。それはただ「名前を認識する」という静的な、動きのないことではなくて、ご自分の意志と決意によって「あろうとして、あろうとする」神と出会うことです。しかも神が「あろうとして」おられるのは、私たちを救おうという強い意志をもって共にいて下さる、ということです。「わたしはあなたと共にいる」と宣言して下さる神と共に生きる者となることこそが、神の名を知る、ということなのです。

旧新約聖書全体を貫くメッセージ
 そしてこれは、聖書全体を貫いているメッセージでもあります。モーセの後継者として、イスラエルの民を約束の地へと導き登ったヨシュアに、主はこうおっしゃいました。ヨシュア記第1章5節です。「私がモーセと共にいたように、私はあなたと共にいる。あなたを見放すことはなく、あなたを見捨てることもない」(聖書協会共同訳、以下全て同じ)。またダビデ王に対しても主はサムエル記下第7章8、9節でこう言われました。「今、私の僕ダビデに告げなさい。『万軍の主はこう言われる。牧場で羊の群れの後ろにいたあなたを取って、私の民イスラエルの指導者としたのは私だ。あなたがどこに行こうと、私は共にいて、あなたの前から敵をことごとく絶ち、地上の大いなる者の名に等しい名をあなたのものとする」。主なる神はこのように、イスラエルの民の指導者としてお立てになった者たちに、ご自分の民を救おうという強い意志をもって出会い、「わたしはあなたと共にいる」と宣言して下さったのです。イスラエルの民はこの神の「あろうとして、あろうとする」み心によって、神の民として導かれていったのです。
 しかしイスラエルの民の歴史は、彼らがこの神のみ心に応えることができず、主なる神と共に生きるのでなく、他の神々、偶像の神々を拝むようになった、という神に対する罪の歴史でもありました。その罪の結果イスラエル王国は南北に分裂し、外国によって脅かされるようになり、ついには滅ぼされたのです。それは人間の罪に対する神の怒りと裁きによることでしたが、この罪の現実の中でも神は、預言者たちを通して、民を救おうというご自分の意志と決意をお示しになりました。イザヤ書第7章14節です。「それゆえ、主ご自身があなたがたにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」。インマヌエルとは、「神は私たちと共におられる」という意味です。罪のゆえに神の祝福を失い苦しみに陥っている人々に、一人の男の子の誕生によってインマヌエル(神は私たちと共におられる)という救いが実現することを神は告げて下さったのです。この預言が主イエス・キリストの誕生において実現した、とマタイ福音書1章22、23節は語っています。「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われたことが実現するためであった。『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』これは、『神は私たちと共におられる』という意味である」。主イエス・キリストは、インマヌエル(神は私たちと共におられる)という救いを実現するためにこの世に生まれて下さったのです。
 また新約聖書は、主イエスこそ、出エジプト記3章14節の「私はいる」の実現である、とも語っています。ヨハネによる福音書8章58節に「イエスは言われた。『よくよく言っておく。アブラハムが生まれる前から、『私はある』」。この「私はある」は本日の箇所の「私はいる」がギリシア語に訳された言葉です。また同じヨハネ福音書の18章5、6節には、主イエスを捕えようとして来た人々に主イエスが「私である」と言うと、彼らは後ずさりして地に倒れた、とあります。この「私である」も同じ言葉です。「私はいる」(わたしはあろうとして、わたしはあろうとするのだ)と言ってモーセにご自身を表された神が、主イエスにおいて同じようにご自身を表しておられるのです。
 このように、モーセにご自分を現し、揺るぎない救いのご意志を示して下さった神が、その後のイスラエルの民の歩みをも導いて下さり、そしてついに独り子である主イエスを遣わして、罪人である私たちを救おうという揺るぎない意志と決意をもって、「私はあなたがたと共にいる」と宣言して下さったのです。それが、旧新約聖書全体を貫いているメッセージなのです。

私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる
 私たちを救おうという神のご意志は、主イエスが私たちの罪を全て背負って、十字架にかかって死んで下さったことによって、そして父なる神が主イエスを復活させて下さったことによって実現しました。「わたしはあろうとして、わたしはあろうとするのだ」という神の意志と決意は、主イエスの十字架と復活において実現したのです。そして復活した主イエスはマタイ福音書28章18〜20節でこうおっしゃいました。「私は天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じたことをすべて守るように教えなさい。私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。モーセに、ヨシュアに、ダビデに告げられ、イザヤによって預言された「わたしはあなたと共にいる」という宣言が、復活した主イエス・キリストによって今や私たちにも告げられているのです。主イエスは「あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい」と命じておられます。私たちはそんな大それたことはとてもできないと思います。しかし、十字架の死と復活によって「天と地の一切の権能を授かって」おられる主イエスが、「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と宣言して下さって、私たちを伝道へと遣わしておられるのです。この主イエスと共に、六月を伝道の月として歩んでいきたいのです。

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