義に飢え渇く人々の幸い

  • 家庭集会説教 /牧師 藤掛 順一
聖書が教える幸せ

■家庭集会説教 /牧師 藤掛 順一

◆ 義に飢え渇く人々の幸い

マタイによる福音書 第5章6節
 

1.マタイの教えは抽象的?

「今飢えている人々は幸いである。あなたがたは満たされる。」
(ルカ福音書6章21節)

 ルカの具体的な教えが、マタイでは「義に」という精神的、抽象的な教えに変えられている
 ←「義に飢え渇く」などというのは、生活に余裕がある者のぜいたくな飢え渇きだ
 →自分はまだ義に飢え渇いているような余裕はない。

2.ルカの教えの意味

「今飢えている人々は」
=今この世において「あなたがたは満たされる」
=神の国においては、満ち足りることができる。
=「金持ちとラザロ」の話(ルカ福音書16章)
 主イエスは、飢えている人々の具体的空腹を満たそうとはしていない(荒れ野の誘惑)。  この世の不公平、不平等が、そのままで終ることはない、飢えに苦しんだ者には、神の国において満ち足りる喜びが与えられ、それによって神の正しさ、正義が貫かれる。 本当の飢えは、食物の乏しさよりも、神の正義が貫かれず、神が自分の苦しみを無視している、という絶望。主イエスは人々のその絶望に目をとめ、神はあなたがたの苦しみを見ておられ、神の国においてあなたがたをねぎらい、飢えを満たして下さるのだ、と語られた。それがルカにおけるこの教えの意味。

3.私たちは義に飢え渇いている

 「義に飢え渇く」のは、生活に余裕のある人のみが覚える、精神的、抽象的な、贅沢な飢え渇きではない。私たちの具体的な生活における、深刻な飢え渇き。私たちはこの世の人生において、神の正しさ、正義はどこにあるのか、自分の苦しみをちゃんと見ておられる神がおられるのか、という問いを感じる。それが義に対する飢え渇き。私たちは様々な苦しみの中で、常に、神の義、神の正しさが貫かれ、実現することに飢え渇いている。

 詩編42編参照
「お前の神はどこにいる」という嘲笑による渇き
「なぜ、わたしをお忘れになったのか。なぜ、わたしは敵に虐げられ、嘆きつつ歩くのか」という渇き

4.この社会、世界において義に飢え渇く

「義に飢え渇く」は、自分の人生における自分のための義に飢え渇くのみではなく、この世界に存在する不正義、不平等に目を向け、義に飢え渇いている隣人のことを思い、そこでなすべき正義を行なっていくことをも意味している。(「金持ちとラザロ」の話)

5.その人たちは満たされる

 義への飢え渇きは、私たちの苦しみ悲しみが解決することによって満たされるのではない。  神の義は、独り子イエス・キリストの十字架の死において貫かれている。  まことの神であられる方が、私たちの罪の赦しのために、苦しみを受け、命を捨てて下さった。神の正しさはそこに貫かれている。そのことによって私たちは救われた。 もしも神の正しさが、人間に正しさを求め、正しい者のみを救い、悪い者を滅ぼすとい う形で貫かれたとしたら、私たちは救われない。そこでは、神の正しさが貫かれると、 私たちが滅ぼされることになる。神の正しさが貫かれ、なおそこで罪人である私たちが 救われるためには、独り子主イエスが、十字架の苦しみと死とを引き受けなければなか った。神の独り子が、私たちのために、私たちに代わって滅ぼされて下さったことによ って、神の正しさは私たちを滅ぼすものではなく、救うものとなった。神の義はこのよ うにして貫かれた。
主イエスによって貫かれ、満たされた義は、神の恵みであり、私たちの救いである。

6.主イエスに従うことの中で

 主イエス・キリストにおいて神の義、正しさが貫かれていることと、私たちの苦しみにおける義への飢え渇きが満たされることの間には、なお大きな隔たりがある。この隔た りは何によって乗り越えられるのか。

この説教は、弟子たち、即ち主イエスに従っている人々に向かって語られている。主イ エスに従い、主イエスと共に歩むことにおいてこそ、その隔たりは乗り越えられる。私 たちは、苦しみの中で、義に飢え渇きつつ、主イエスの十字架の苦しみと死とを見つめ つつ主イエスに従う。その時、自分の傍らに、自分のために苦しんで下さった主イエス がいて下さることを示される。そこでこそ、主イエスの苦しみと死において貫かれてい る神の義を実感することができる。苦しみは相変わらず苦しみであり、義への飢え渇き は続いているが、それは絶望に陥ることのない、満たされた飢え渇きとなる。
ルカ福音書は、今飢えている人が、神の国において満たされるという、終りの日の希望 を語っていた。マタイは、むしろそれが今のこの世の歩みにおいて現実となることを見 つめている。それは主イエス・キリストが、その十字架の苦しみと死とによって、私た ちの苦しみ悲しみを担って下さることにおいて実現する。そのことを私たちは、主イエ スに従うことの中で、体験する。こうして、私たちの義への飢え渇きは、この世におい て確かに満たされる。

7.義に飢え渇く人々は幸いである

 主イエス・キリストの苦しみと死とによって神の義がこの世に貫かれていることを知っているからこそ、私たちは、自分のためにも、またこの世界においても、飢え渇くよう に義を求めていくことができる。この信仰を失い、神の正義がこの世で貫かれることは ないと思ってしまう時、そこには絶望が支配する。絶望が支配するところには「どうせ 正義が貫かれることはないのだから、せいぜい自分の好きなことをして生きよう。正義 を貫こうとしても骨折り損のくたびれ儲けだ」という気楽な思いが生まれる。
このような思いが蔓延し、人々がもはや義に飢え渇くことをせず、楽しく楽なことだけを追い求めるようになるとしたら、その社会は絶望に支配されているということ。 義を追い求めるにはエネルギーがいる。それはつらいことでもあり、損をするようなこ とでもある。そのような中で私たちは、楽な方に流され、義を求めることをやめてしま う。

主イエスはそういう私たちに、「義に飢え渇く人々は幸いである。その人たちは満たされる」と語りかけておられる。
それは、「私の十字架と復活において、この世には確かに神の義が貫かれている。だからあなたがたは、どんな時にも絶望せずに、義に飢え渇く者となることができるのだ。そこにあなたがたの幸いがあるのだ」ということ。

この社会に義が完全に達成されることはない。それが与えられるのは神の国においてであり、この世においては、義への飢え渇きが続く。しかし私たちは、主イエス・キリストにおいて神が義を貫いて下さり、同時に私たちを救って下さったことを知っている。その恵みに支えられて、義に飢え渇く者であり続けることができる。

そこに私たちの幸いがある。

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