2024年3月奨励 「神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。」 牧師 藤掛順一
使徒言行録第2章29〜33節
主イエスの受難と復活は切り離せない
今月の最後の日、31日にイースター、主イエス・キリストの復活の記念日を迎えます。そのことを覚えて、神が主イエスを復活させて下さったことを語っている32節を3月の聖句としました。主イエスの復活の記念日は31日ですから、この3月のほとんどの日はレント(受難節)であり受難週です。私たちは主イエスの十字架の苦しみと死を覚えつつこの3月を歩み、最後の日にイースターを迎えるのです。そういう意味では、復活を語る聖句はまだ早い、と思われるかもしれません。しかし苦しみを受けて十字架にかかって死んだ主イエスが、三日目に復活したことを私たちは既に知っています。主イエスの十字架の死と復活とによって、神は私たちの救いのみ業を実現して下さったのです。ですから、主イエスの苦しみと死を覚えることと復活を覚えることとは切り離すことはできません。私たちは主イエスの十字架の苦しみと死を覚える時に、その主イエスが復活なさったことを忘れているわけではないし、主イエスの復活を喜び祝う時にも、主イエスの十字架の苦しみと死を忘れていることはありません。レントの中でも主の日(日曜日)の礼拝を守るということは、主イエスの復活を記念し、喜び祝っている、ということです。この3月も私たちは、主イエスの復活を喜び祝いつつ、その主イエスが私たちのために苦しみと死を引き受けて下さったことを覚えて歩んでいくのです。
主イエスの復活は父なる神のみ業
32節は「神はこのイエスを復活させられたのです」と語っています。この「させられた」は「させなさった」という意味の敬語です。つまり、父なる神が、十字架にかかって死んだ主イエスを復活させなさったと語られているのです。主イエスの復活は、父なる神のみ業です。主イエスが自分の力で死に勝利して復活したのではなくて、父なる神が、死んで葬られた主イエスを復活させて下さったのです。死に勝利したのは主イエスではなくて父なる神なのです。
このことは、私たちが主イエスの復活を喜び祝いつつ、その苦しみと死を覚えていく上でとても大事な土台です。主イエスの復活がもしも主イエスご自身の力によることであるなら、そのような力を持っている主イエスにとって、十字架の苦しみや死は、何ほどのこともない、ということになるでしょう。復活することができる主イエスにとっては、十字架の死は根本的な苦しみではない、と言えるのです。主イエスが十字架にかかって死んだのは、本当はそれを免れる力があるのだけれども、その力を隠して、人々の手に身を委ねた、ということになるのです。もしそうなら、主イエスの受けた「苦しみ」は、私たちの苦しみとは全く違うものになります。私たちは、死へと向かう歩みにおいて大きな苦しみを味わいます。主イエスのように捕えられて死刑にされることはないにしても、そもそも私たちの人生は、刑の執行を待っている死刑囚と同じようなものです。死の圧倒的な力が病気や老いを通して私たちに迫り、最終的には私たちを飲み込んでいくのです。それを免れることは誰にも出来ません。その歩みの中で私たちは苦しみと絶望を味わうのです。本当は死に勝利できるのにその力を隠していただけだとしたら、その主イエスに、死に向かう私たちの苦しみや絶望など分からないでしょう。本当は金持ちなのに貧しい暮らしを体験してみているだけの人に、本当に貧しい者の苦しみなど分からないのと同じです。しかし聖書は、主イエスがご自分の力で復活した、とは語っていません。復活は父なる神のみ業なのです。主イエスはその父なる神に信頼しておられました。ゲツセマネの祈りでも「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」(ルカ22・42)と言っておられます。父なる神が「この杯を取りのける」ことができることを主イエスは信じておられたのです。しかしご自分がその力を持っているとは言っておられません。ご自分の死と復活を予告なさってもいましたが(ルカ9・22)、それも父なる神のみ心を信じて語っておられたのです。一人の人間として生きておられた主イエスは、死に勝利する力を持ってはいないのです。その意味で、主イエスの十字架の苦しみと死は、私たちが死に向かう中で味わう苦しみと同じです。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マルコ15・34)という叫びはそのことを示していると言えるでしょう。父なる神が主イエスを復活させなさった、と聖書が語っていることは、十字架の苦しみと死へと歩まれた主イエスが、私たちが死へと向かう中で味わう苦しみを分かって下さり、私たちと共にそれを味わって下さったことを意味しているのです。
私たちの復活の希望
そして父なる神はその主イエスを復活させて下さいました。そのことがダビデによって既に預言されていたことがここに語られています。「彼は陰府に捨てておかれず、その体は朽ち果てることがない」という詩篇16編10節が、主イエスの復活の預言だったのです。それは、主イエスの復活が、ずっと以前から主なる神のみ心、ご計画として示されていたということです。主なる神は、周到な救いのご計画によって、独り子主イエスを人間としてこの世に遣わし、その十字架の死によって、そしてその主イエスを復活させることによって、罪に陥った私たち人間の救いを実現して下さったのです。主イエスの十字架の苦しみと死も、そして復活も、主なる神の救いのみ心の実現だったのです。主イエスは父である神のみ心に従ってこの世を生き、神に逆らう罪人が苦しみつつ死に支配されていくという私たちの苦しみと絶望を味わって下さったのです。その主イエスを父なる神は復活させ、永遠の命を生きる者として下さいました。それによって神は、私たちにも、復活と永遠の命の希望を与えて下さったのです。罪の中で苦しみつつ死に支配されていく私たちの歩みが、それでおしまいにはならず、神が復活と永遠の命を与えて下さることがそこで示されたのです。神が主イエスを復活させて下さったことによってこそ、その希望が示されています。主イエスが自分の力で死に勝利して復活したのであれば、私たちにはそんな力はないのですから、それは私たちとは関係のないことです。しかし罪人が神に見捨てられて死ぬ苦しみと絶望を味わった主イエスを、父なる神が復活させて下さったのなら、同じ苦しみと絶望を体験する私たちにも、神が同じことを約束して下さっていると信じることができるのです。「彼は陰府に捨てておかれず、その体は朽ち果てることがない」というダビデの預言は、主イエスの復活のことを語っていただけでなく、私たちにも復活と永遠の命を与えて下さろうとしている神の救いのご計画を語っていたのです。要するに、神が主イエスを復活させて下さったことこそが、神が同じことを私たちにもして下さるという希望の根拠なのです。
この3月、レントからイースターへと私たちは、主イエスが私たちの罪を背負って苦しみの内に死んで下さったことと、その主イエスを父なる神が復活させて下さったことを見つめて歩みます。それは、私たち自身が罪のゆえに神から離れ、神に見捨てられた者として死んでいく、その苦しみを改めて見つめることであり、その私たちに神が、主イエスの十字架の死によって罪の赦しを与え、主イエスの復活によって復活と永遠の命を約束して下さったことを見つめることです。主イエスの十字架の苦しみと死、そして復活を切り離すことができないこととして共に見つめる時に、そこには私たちを救って下さる神の大いなる恵みのみ心が見えて来るのです。
主の復活の証人とされている私たち
32節の後半には、「わたしたちは皆、そのことの証人です」とあります。神が主イエスを復活させて下さったことを信じ、見つめる者たちは、その神のみ業の「証人」となるのです。「わたしたち」の「わたし」とはペトロです。14節に「すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた」とあるように、ペトロが、他の十一人の弟子たちと共に立ち上がって語った説教の中にこの言葉があるのです。それはペンテコステの日の出来事です。ペトロら弟子たちは、聖霊を注がれて語り始めたのです。それも、主イエスの十字架の死と復活と不可分の出来事です。33節にそれが語られています。「それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見 聞きしているのです」。神が復活させて下さった主イエスは、同じく神によって「神の右に上げられ」ました。つまり昇天です。そして父なる神の右に坐しておられる主イエスが、「約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました」。それがペンテコステの出来事です。つまり復活と昇天とペンテコステ(聖霊降臨)はひとつづきの神のみ業なのです。この一連のみ業によって、教会が生まれました。「わたしたち」とは、聖霊が降って生まれた教会のことだと言えます。つまりそれは私たちのことでもあります。私たちも、約束された聖霊を注がれて教会へと導かれ、主イエス・キリストの十字架の死によって神が私たちの罪を赦して、神の子として下さり、主イエスの復活によって、私たちにも復活と永遠の命の約束を与えて下さったことを信じて、洗礼を受けて聖霊のお働きによって生まれ変わり、キリストの体である教会に加えられています。教会に連なる信仰者とされている私たちは皆、「そのことの証人」、つまり神が主イエスを復活させて下さったことの証人とされているのです。これが教会に、私たちに神が与えて下さっている使命です。私たちは、神がイエスを復活させて下さったことによって、旧約聖書の時代から預言されていた救いのご計画を実現して下さったことを証しし、人々にそれを伝えていくために、教会へと招かれ、信仰を与えられているのです。
教会の歴史は証しの歴史
教会の歴史は、証人としての歩みの歴史、証しの歴史です。私たちは今年、この教会の創立150周年を覚えて歩みます。そこで私たちが覚えることは、この群れが神によって召し集められて、150年にわたって、神が主イエスを復活させて下さったことの証人として歩んできたことです。その歩みの中には、多くの人々が集い、神の恵みにあずかった時もあったし、様々な困難、試練の中で証しが滞ってしまったこともありました。しかし教会の頭である主イエス・キリストは、常にこの群れを守り支えて下さって、証人としての歩みを続けさせて下さったのです。そして今、私たちが、この群れへと招かれて、主イエスの復活の証人として立てられています。教会の歴史に参加し、それを担うとは、神が主イエスを復活させて実現して下さった救いの証人として生きていくことです。主イエスによる救いとは、その救いの証人として立てられることなのだということを私たちは弁えたいのです。
聖霊の働きを見る
それは大変に難しい困難な使命だ、と感じます。主イエスの復活を証しするなどということはどうしたらできるのだろうか、そんなこと証明のしようもないし、誰も信じてはくれないだろうと思うのです。それはその通りです。これは人間の力や工夫で出来ることではありません。しかし同時に言えることは、そのことが私たちにおいては起った、ということです。「神が主イエスを復活させて下さった」、そこに救いと希望がある、と証する証人たちの言葉を聞いて、私たちはどういうわけかそれを信じたのです。納得できる証拠や証明を示されたからではありません。巧みな弁舌によって煙に巻かれたわけでもありません。でも、「主イエスこそ、私たちの罪を背負って十字架の苦しみと死を引き受けて下さった神の独り子であり、父なる神の力によって復活して今も生きておられる救い主だ」ということを「本当にそうだ」と信じたのです。それは聖霊のお働きによることです。ですから、主イエスの復活の証人となることは、私たちの力によってではなく、聖霊のお働きによってこそ実現するのです。私たちに求められているのは、「自分はそのために教会へと導かれており、聖霊なる神が自分をそのように用いて下さる」と信じることです。それを信じて、聖霊が働いて下さることを祈り求めつつ生きる時に、私たちも、「それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです」と語ることができるのです。主イエスの十字架の苦しみと死による罪の赦しと、その主イエスを父なる神が復活させて下さり、私たちにも復活と永遠の命を約束して下さったことを信じて、その神の救いの恵みに感謝して生きていくなら、私たちは主イエスの復活の証人とされます。私たちが信仰の先輩たちの中に聖霊の働きを見て主イエスを信じたように、今度は私たちを通して、人々が聖霊の働きを見聞きし、主イエスを信じる者とされることが起るのです。