【2023年9月奨励】主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた

  • 申命記第7章6〜11節
今月の奨励

「主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた」 牧師 藤掛順一
申命記第7章6〜11節

9月は教会創立を記念する月
 指路教会が創立されたのは、1874年(明治7年)9月13日です。私たちはそのことを覚えて9月第二主日に「創立記念日礼拝」を行なっています。今年は「創立149周年記念礼拝」となります。
 指路教会は創立以来149年の間、主なる神に豊かに祝福されてきましたが、何よりも、J.C.ヘボンのもとで生まれたことが、指路教会に与えられた最も大きな祝福だったと言えると思います。ヘボンは横浜開港の年(1859年)に最初に来日した宣教医でした。その時既に44歳だったヘボンは、学識においても大変優れた人であり、主なる神への信仰と献身においても尊敬を集める人でした。その業績については、最近出版された岡部一興さん著『ヘボン伝』をお読み下さい。ヘボンが始めた働きの多くは、受け継がれて今日にまで残っています。和英、英和の辞典、ヘボン式ローマ字、日本語訳の聖書、明治学院やフェリス女学院というキリスト教学校、そして指路教会です。現在の日本の社会にこれだけのものを残した外国人はそういないと思います。そのヘボンのもとで、指路教会(最初は横浜第一長老公会)は生まれたのです。誕生の地は「居留地39番」の、ヘボンの施療所の一室でした。すぐ近くには、二年前の1872年(明治5年)に、日本人による最初のプロテスタント教会である「日本基督公会」(現在の横浜海岸教会)がありました。ヘボンもこの教会の活動に加わっていたのです。生まれたばかりの教会が既にあったのに、二年後に、すぐ近くにもう一つの教会が生まれたというのは、考えてみれば不思議なことです。それは、ヘボンや初代牧師となったルーミスが、「日本基督公会」とは別の「横浜第一長老公会」を造ろうと志したからです。その名称からも分かるように、ヘボンらが築こうとしたのは「長老教会」でした。ヘボンらの、長老教会を築こうという思いによって、日本基督公会の誕生の二年後に、指路教会が新たに生まれたのです。ですから指路教会は「ヘボンさんの教会」と呼ばれています。現在のこの教会堂も、ヘボンのおかげで建ったのです。ヘボンが引退して帰国した年である1892年(明治25年)に、ヘボンの置き土産として建設された赤レンガ造りの旧教会堂は、丁度百年前(1923年9月1日)の関東大震災で全壊しました。その3年後の1926年(大正15年)に、今のこの教会堂が建ったのです。そんなに早く再建できたのは、若い頃「ヘボン塾」の後継である「バラ学校」で学び、貿易会社を築いて財を成していた教会員成毛(なるも)金次郎が、ヘボン先生の遺してくれた教会堂を再建するためにと、ほとんどの額を献金したことによってでした。ですから今この教会堂を用いている私たちも、ヘボンの恩恵を直接受けているのです。そして今でも、ヘボンのことを覚えてこの教会を訪ねて来る人がいます。このように、指路教会はヘボンという卓越した信仰者のもとで誕生したことによって、とても大きな恵みを今も受け続けているのです。創立記念の月である9月に、私たちはこのことをしっかりと記憶しておきたいと思います。
 しかし、私たちが教会の歴史を振り返りつつ今なすべきことは、ヘボンに感謝し、ヘボンを賛美することではありません。ヘボンは、主なる神によって召され、横浜へと遣わされ、この教会の創立者として主に用いられたのです。私たちは、ヘボンをそのように用いて下さった主なる神に感謝し、主を賛美します。それこそが、ヘボン自身が願っていることであるに違いないのです。

主の聖なる民、宝の民とされている私たち
 この9月の聖句として、申命記第7章6節の一部を選びました。6節全体は「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた」となっています。この「あなた」を自分自身のこととして受け止め、このみ言葉を自分に対する神の語りかけとして聞くことが信仰です。ヘボンはまさにそういう信仰に生きました。主なる神からの、「あなたは私の聖なる民である」という語りかけを聞き、主が地上の多くの人々の中から自分を選んで宝の民として下さったことを彼は信じたのです。そしてその主の選びの恵みに感謝し、それに応えて生涯を主にささげ、主が遣わして下さった横浜において、主が与えて下さった賜物を生かして働いたのです。その結果、他の様々な業績と共に、指路教会が誕生しました。それは、彼の働きを通して、彼と同じように「あなたは私の聖なる民である」という語りかけを聞き、主が地上の多くの人々の中から自分を選んで宝の民として下さったことを信じて、その主の選びの恵みにに感謝し、それに応えて生涯を主にささげ、主が遣わして下さった所で、主が与えて下さった賜物を生かして働いていった人々の群れが誕生した、ということです。ヘボンのもとで生まれた主の聖なる民、宝の民の群れが、149年にわたってこの地で歩み続けてきたのです。そして今、私たちが、「あなたは私の聖なる民である」という語りかけを聞いて、主が地上の多くの人々の中から自分を選んで宝の民として下さったことを信じて、この群れに連なって歩んでいるのです。

私たちが優れているからではなく
 私たちは、主なる神が自分を選んで下さり、「主の聖なる民」「御自分の宝の民」として下さったことを信じています。「聖なる民」とは、清く正しく立派な人々ではありません。「聖なる」とは、神のものとされている、ということです。主なる神が「この民は私のものだ」と宣言して下さったから、私たちは「主の聖なる民」なのです。「宝の民」、それは神が私たちのことを宝物として大切にして下さっている、ということです。私たちは神に選ばれ、神のものとされ、神の大切な宝物とされているのです。そんなこと信じられない、自分は神に選ばれ、神のものとされ、宝物とされるような者ではない、と私たちは思います。そう思うのが自然です。「自分は確かに選ばれた神の民であり、神にとって宝物だ」などと思っている人がいるとしたら、それはよほど傲慢な人か、全く能天気な人です。いずれにしても、自分自身の現実が全く見えていない人です。多少なりとも自分自身が見えている人、自分の現実が分かっている人は、自分が神に選ばれ、宝物とされているなどと思うことはあり得ないのです。しかし問題は、私たちが自分のことをどのように感じているかではありません。私たちがどう思っていようと、主なる神は「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた」と宣言しておられるのです。私たちがいくら、自分はそんなことに相応しくない、と言っても、神は「私があなたを選んだのだからそんなこと関係ない」とおっしゃるのです。それが7節です。「主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった」。主がイスラエルの民を選んでご自分の宝の民とされたのは、イスラエルが他の民よりも数が多かったからではありません。むしろイスラエルは他のどの民よりも貧弱だったのです。「貧弱」と訳されている言葉は「少ない、小さい」という言葉です。しかし見つめられているのはただ人数が多いか少ないかではありません。神に選ばれ、宝の民とされるのに相応しい力、優れたところがあるか、つまり神に貢献できるような民であるか、彼らをご自分の民にすることで神に何かメリットがあるか、ということです。だから新共同訳が「貧弱」としているのは、内容的には相応しい訳です。イスラエルは、神に選んでいただけるような優れたところの全くない、貧弱な民だったのです。

ただ、あなたに対する愛のゆえに
 それでは神はなぜイスラエルを選んだのか。8節にこうあります。「ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである」。イスラエルが選ばれて神の民とされたのは、「ただ、あなたに対する主の愛のゆえ」です。「神の愛」のみが選びの理由なのです。この「あなた」を自分のこととして聞くことが信仰です。神が私を選んで宝の民として下さったのは、神が私を愛して下さっているからだ、と信じるのです。その愛は、「愛されるに相応しい者だから」ではないことが7節に語られていました。だから「私は神さまに愛される資格などありません」という反論は通じません。そんなことと関係なく、神は私たちを愛して下さっているのです。

先祖への誓いのゆえに
 そこにもう一つ「あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに」とあることも大切です。教会の歴史を振り返ることは、「あなたたちの先祖」のことを思うことです。この先祖は神との関係における先祖ですから、血縁におけるいわゆる「ご先祖さま」ではなくて、教会の先達たちのことです。主がその先祖たちを選び、「あなたがたは私の民だ」と誓い、その誓いを守って彼らを導いて下さったのです。それが教会の149年の歴史です。私たちはその先祖たちの子孫として今この教会に集められているのです。その私たちを神は、先祖たちへの誓いのゆえに、愛して、ご自分の民として下さっているのです。私たちが神の戒めをちゃんと守り、み心にかなう人として生きているからではありません。私たちがどのような者であるかとは関係なく、神は先祖たちへの誓いによって、子孫である私たちをもご自分の宝の民として愛して下さっているのです。そういう意味で、私たちが149年の歴史とそれを担ってきた多くの信仰の先達たちを与えられていることは大きな恵みです。彼らのおかげで、弱く罪深い私たちを神は愛して、宝の民として下さっているのです。

神の愛は行動を伴う
 神がイスラエルの民を愛して、御自分の民として下さったことは、彼らをエジプトの奴隷状態から救い出して下さったという具体的なみ業によって示されました。神の愛は言葉だけでなく、行動を伴うのです。神が私たちを愛し、御自分の民として下さったことは、独り子主イエスを人間としてこの世に遣わして下さり、主イエスが私たちの全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さったことによって私たちの罪の赦しを実現して下さったこと、そして父なる神が主イエスを復活させて、永遠の命を生きる者として下さり、私たちにも、復活と永遠の命を約束して下さったことによって示されています。神が私たちをご自分の宝の民として下さったことは、「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ福音書3・16)ということにおいて実現しているのです。

神を信頼して生きる
 この神の愛を受けて、感謝し、それに応えて生きることが私たちの信仰です。そのための勧めが9節以下に語られています。「あなたは知らねばならない。あなたの神、主が神であり、信頼すべき神であることを」。主が神であることを知ることが先ず求められています。それは、イスラエルをエジプトの奴隷の家から救い出して下さった方、独り子主イエスの十字架と復活によって罪を赦し、復活と永遠の命を約束して下さった方こそが神であると知る、ということです。つまり私たちの信仰は、神がおられることを信じるとか、神が世界を支配し、導いていることを信じる、という漠然としたものではなくて、具体的な救いを与えて下さる神を信じ、その神に信頼して生きることなのです。主イエスの十字架と復活によって神の宝の民とされた私たちは、その愛に応えて、神を信頼して生きるのです。

裁きと慈しみ
 主なる神は、「御自分を愛し、その戒めを守る者には千代にわたって契約を守り、慈しみを注がれるが、御自分を否む者にはめいめいに報いて滅ぼされる」方です。「否む」は聖書協会共同訳では「憎む」であり、原文もそういう言葉です。神はご自分を愛する者には慈しみを注ぎ、憎む者は滅ぼされるのです。つまり神の「裁き」です。神を信頼するというのは、神が正しくお裁きになることを信じて、神を恐れる、ということでもあります。神の裁きを恐れることなしに神を信じることはできません。「裁き」を否定するとしたら、それは自分の思い通りになる神のみを信じるということであり、神を侮ることです。それでは、神を本当に信頼して生きることはできないのです。神を憎む者は滅ぼされる、という恐れを失ってはなりません。しかしその「裁き」は「めいめいに」対するものであり、神を愛する者に注がれる慈しみは「千代にわたる」と語られています。私たちは、神の裁きを恐れつつ、その千倍も大きい慈しみに信頼して歩むのです。

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