【2023年5月奨励】この霊によってわたしたちは『アッバ、父よ』と呼ぶのです

  • ローマの信徒への手紙8章14〜17節
今月の奨励

「この霊によってわたしたちは『アッバ、父よ』と呼ぶのです」牧師 藤掛順一

・ローマの信徒への手紙第8章14〜17節

洗礼を受けた者は聖霊を注がれている
この5月の終わりにはペンテコステ(聖霊降臨日)を迎えます。弟子たちに聖霊が降り、伝道が始まり、教会が誕生したことを記念する日です。そのことを覚えて5月の聖句を選びました。
ペンテコステに聖霊が降ったことによって教会が誕生しました。聖霊なる神は教会を誕生させて下さっただけでなく、その後の教会の歴史を導いて下さり、全世界に教会が広がっていきました。この日本の、私たちの指路教会も、聖霊のお働きによって生まれ、支えられ、導かれています。私たちが今指路教会に連なる信仰者として生きていることも、聖霊のお働きによることです。私たちは皆、聖霊を注がれ、そのお働きを受けているのです。そのことは私たちの感覚によって分かることではありません。「聖霊を受けた感じがする」かどうかではないのです。ペンテコステの日に、聖霊を受けて主イエスのことを宣べ伝え始めたペトロが、使徒言行録第2章38節において、人々にこのように勧めています。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」。悔い改めるとは、神を無視して生きている私たちが、神の方へと向きを変え、罪の赦しを願い求めることです。その印として、イエス・キリストの名による洗礼を受けるならば、罪が赦されると共に、聖霊が賜物として与えられる、とペトロは約束したのです。この約束は私たちにも与えられています。洗礼を受けた者は、聖霊を賜物として与えられているのです。ペンテコステの日にペトロら弟子たちに降った聖霊は、洗礼において私たちにも降り、私たちの内にも宿り、み業を行って下さっているのです。そのみ業は、感じられるかどうかではなくて、神の約束として信じるべきことです。私たちは、洗礼を受けたことによって聖霊が自分にも宿って下さっていることを信じて歩むのです。その歩みの中で、次第に、聖霊のみ業が感覚においても分かるようになっていくのです。

洗礼を受ける前から、聖霊は働いておられる
洗礼を受けた者はそのように聖霊を注がれています。しかしそれは、洗礼を受ける前は聖霊の働きを受けていない、ということではありません。私たちは、いろいろなきっかけによって教会の礼拝に来ます。そして一度か二度でやめてしまうのでなく、継続的に出席するようになります。そうしていわゆる「求道者」となって礼拝を守り続けていく中で、「洗礼を受けたい」と思うようになります。これら全てのことは、聖霊の導きによることです。聖霊なる神が私たちを教会へと導き、礼拝に出席しようという思いを起こし、そして信仰を与え、洗礼へと導いて下さるのです。だから、洗礼を受けた時に初めて聖霊のお働きを受けるのではありません。教会の礼拝やこの祈祷会に出席している者たちは、洗礼を受けている者も、そうでない者も、皆聖霊に導かれているのです。聖霊のお働きがなければ、私たちが教会の礼拝や祈祷会に出席することは起こらないし、洗礼を受けることも起こらないのです。このことも、感じるよりも信じるべきことです。聖霊が自分にも働いて下さっていることを信じて歩むことが大事です。その歩みの中で、次第に、その聖霊のお働きを感じ取ることもできるようになっていくのです。

神の子とする霊
このように聖霊は、私たちが信仰を持つ前から、つまり聖霊など知らず、そのみ業を全く感じていない時から既に働いて下さっています。しかしペトロが、洗礼を受けることによって「賜物として聖霊を受けます」と約束したことも真実です。聖霊は洗礼よりずっと以前から私たちに働きかけ、導いて下さっていますが、しかしその聖霊が私たちの内に宿り、私たちを新しく生かして下さるのは、洗礼を受けることにおいてなのです。それ以前のお働きは、私たちを洗礼へと導くための準備です。その準備を経て、聖霊がいよいよ私たちの内に宿り、私たちを新しく生き始めさせて下さるのは、洗礼においてなのです。それでは洗礼において聖霊は私たちをどのように新しくして下さるのでしょうか。聖霊が宿って下さることによって与えられる新しさとは何なのでしょうか。聖霊のお働きによって私たちは、神の子とされるのです。「神の子とする霊」と15節前半に語られています。聖霊は私たちの内に宿って、私たちを神の子として下さる方です。洗礼において聖霊が賜物として与えられることによって、私たちは神の子とされるのです。私たちを洗礼へと導いて下さる聖霊のみ業は、人それぞれに最も相応しい仕方でなされます。そのみ業は様々に違っていて、実に多様です。しかしその多様なみ業が目指しているのは一つのこと、私たちを神の子とすることです。「神の子として下さる」ことこそ、神が聖霊によって私たちに与えて下さる救いなのです。洗礼を受けるとは、この救いにあずかって、神の子とされることであり、信仰者として生きるとは、神の子とされて生きることです。信仰の喜びとは、神の子とされて生きる喜びであり、様々な試練、苦難の中で信仰者を支えるのは、神が自分を子として下さっている、という恵みの事実なのです。

神が私たちを愛して下さっている
神が私たちを子として下さっているとは、私たちのことを心から愛し、大切に思って下さっている、ということです。「子」とは「親に愛されている者」です。人間の親子関係においては、このことが必ずしも当たり前ではありません。そこに人間の弱さと罪が現れています。親に無条件で愛された体験が不十分だと、自分の子をも、また周囲の人々をも、本当に愛することができないと言われます。私たちは多かれ少なかれ、「愛されること」における不足、欠けによる傷を負っているし、それゆえに「愛すること」における不足、欠けをかかえているのです。神はそのような私たちを子として下さいます。それが、神が独り子イエス・キリストによって与えて下さった救いです。人間の親が与える不完全な愛をはるかに超えた、独り子の命をすら与えて下さる完全な愛を、神は私たちに注いで下さっているのです。神の子とされる、という救いによって私たちは、「愛されること」における不足や欠けを満たされ、その不足によって負っている傷を癒されます。そしてそれによって、「愛すること」における不足や欠けを乗り越えて、人を愛することができる者とされていくのです。つまり神が私たちを子として下さる救いによって私たちは、人間の弱さや罪、それによって生じているこの世の様々な苦しみ悲しみを乗り越えて、愛に生きる者として新しく生かされるのです。

恐れからの解放
それは、恐れから解放されることでもあります。15節に「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです」とあります。「神の子とする霊」と「人を奴隷として再び恐れに陥れる霊」が対照的に語られています。聖霊のお働きを受ける前の、生まれつきの私たちを支配しているのが「人を奴隷として再び恐れに陥れる霊」です。神の子とされる前は、つまり神の愛を注がれ、新しくされる前は、私たちは皆この霊に支配され、その奴隷とされていたのです。それは、聖霊と並ぶ別の霊が働いている、ということではありません。生まれつきの私たちを支配しているのは、人間の罪です。罪とは、神を無視して、自分が主人となって、自分の思いを中心として生きようとすることです。神のご支配を受け入れず、自分の人生は自分のものだ、自分の思い通りにして何が悪い、という私たちの思いが罪です。その罪は私たちを「恐れに陥れる」のです。私たちの人生には、自分の思い通りにならないことが沢山あります。自分の人生は自分のものだと主張し、自分の思い通りに生きることを目的としているところには、いろいろなものによって邪魔されて自分の思い通りに生きることができなくなることへの恐れがつきまとうのです。人生の最大の邪魔者は死です。死は、自分のものだと思っている人生を私たちから奪い取り、思い通りに生きることを決定的に妨げます。その死がいつか必ず自分を支配することが目に見えているのですから、人生を自分のものとして生きようとしているところには死への恐れが常につきまとうのです。しかし死だけが人生の邪魔者なのではありません。他の人を邪魔者と感じることもあります。誰かに悪意をもって邪魔されるというのではなくても、自分が望んでいたものを自分は得ることができず、他の人がそれを得る、ということが起る時に私たちは、その人に自分の人生の邪魔をされた、という思いになります。自分の思い通りに生きようとしていると、他の人が自分の邪魔をする敵になっていくのです。自分の人生は自分のものだという思いで生きている私たちは、死を恐れ、人々を恐れ、自分の思い通りに生きることを妨げるあらゆるものを恐れて、いつもびくびくしながら生きているのです。

神こそが人生の主人
神はそのように恐れに支配されている私たちを、ご自身の子として下さいます。神の子とされるとは、神の下で、神に愛されて生きる者となるということです。そこでは、自分を子として愛し、守り、導いて下さっている神が、自分の主人となって下さるのです。神の子とされるとは、私たちが、人生の主人の座を神に譲り渡すことです。自分の人生は自分のもの、ではなくて、神が恵みによって与えて下さったものとなるのです。そのことによって私たちは恐れから解放されます。自分の人生の主人は自分だと思っているところでは、死は最大の邪魔者ですが、神が主人であることを認めるなら、私たちの人生は、神によって与えられ、導かれ、そして神のみ心によって終わる、神のものとなるのです。そこでは死も、自分のものである人生を死という得体の知れない力によって奪われることではなくて、私たちを子として愛して下さっている神が、地上の人生を終わらせて、みもとに迎えて下さる、神のみ業なのです。死への恐れからの解放がそこに与えられます。同じように、人への恐れからの解放もそこに与えられます。独り子の命をすら与えて、私たちを子として愛して下さっている神が、人生を導き、必要なものを与えて下さるのですから、人と競り合って勝利し、自分の願っているものを獲得する必要はもうないのです。神が自分に与えて下さっているものを感謝して生きることができるのです。だから他の人を、自分の邪魔をする敵として恐れることから解放されるのです。そこでは、神が自分に与えて下さっている人生を喜ぶと共に、神が人に与えておられる人生をも喜び、祝福し、神の下でのきょうだいとして共に生きることができるようになるのです。

聖霊を信じて歩む
聖霊は洗礼において私たちの内に宿り、私たちを神の独り子である主イエス・キリストと結び合わせて下さり、主イエスと共に生きる者として下さいます。そのようにして聖霊が私たちを神の子として新しく生かして下さるのです。しかし洗礼を受けたら突然新しくされて、死への恐れからも、人への恐れからも解放されて、神の子とされている喜びに満たされて生きることができるようになるというわけではありません。大事なことは、ペンテコステに弟子たちに降り、教会を誕生させて下さった聖霊が、洗礼において自分の内にも宿り、自分をキリストの体である教会の一員として下さり、神の子として新しく生かして下さっていることを信じて歩むことです。聖霊を信じて、キリストの体である教会に繋がり、神を礼拝し、み言葉を聞き、キリストの体と血である聖餐にあずかりつつ生きていくことの中で、神の子として新しく生かされている恵みが次第に感じられるようになっていくのです。その喜びが深められていく中で、死への恐れからの解放も、人を敵視し恐れることからの解放も、次第に与えられていくのです。

「アッバ、父よ」と祈ることの中で
私たちがこの恵みを体験して生きていくために、聖霊は今も私たちの内でみ業を行なって下さっています。「この霊によってわたしたちは『アッバ、父よ』と呼ぶのです」というみ言葉に、その聖霊のみ業が語られています。洗礼において私たちを神の子として新しく生まれさせて下さった聖霊は、今私たちを、「アッバ、父よ」と神に向かって呼びかけて祈る者としようとして働きかけておられるのです。主イエスご自身が、父なる神の独り子として「アッバ、父よ」と祈られたように、聖霊は私たちをも、神に向かって「アッバ、父よ」と祈る者としようとしておられるのです。私たちは、この聖霊の働きかけを信じて、それに応えて、神に向かって「アッバ、父よ」と祈っていきたいのです。「アッバ」は、小さい子どもが父親を信頼して親しく呼ぶ言葉です。私たちも、聖霊に導かれて、天の父なる神を「父よ」と呼び、自分の思いや願いを全て語りかける祈りに生きたいのです。その祈りの中で、私たちを神の子として下さっている神の愛が、神の子とされていることの喜びが、感じ取られていくのです。

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