憐れみ深い人々の幸い

  • 家庭集会説教 /牧師 藤掛 順一
聖書が教える幸せ

マタイによる福音書 第5章7節

1.「情けは人のためならず」?

日本の諺に「情けは人のためならず」というのがある。
私たちは主イエスのこの教えをそれと同じと理解し、「この教えは既に知っている」と思っているのではないか?

この諺における「情け」と、主イエスの言われる「憐れみ」は同じなのか?

「憐れみ深い」についての聖書の教え
マタイ福音書25章31節以下
「憐れみ深い人々」とは、思うだけでなく具体的な行動ができる人。自分の周囲にいる、自分が助けるべき「最も小さい人の一人」に気づく感性を持っている人。隣人を見出し、隣人となることができる人。
ルカによる福音書第10章25節以下(「善いサマリア人」の話)

隣人になるとは、敵意を乗り越えること。「最も小さい者」とはしばしば自分の敵のこと。
「憐れみ深い者」=敵をも愛する人(5章44節)。

これらの教えから、主イエスが教えている「憐れみ」は、「情けは人のためならず」の「情け」をはるかに越えたものであることがわかる。私たちは、自分は「憐れみ深さ」からはるかに遠いと言わざるを得ない。そのことを知ることによってこそ、私たちはこの教えの前に本当に立つことができる。「情けは人のためならず」と同じに受け止め、「それは知っている」と思っている間は、この教えを本当に聞くことができない。

「幸いの教え」はどれも、私たちがもともと知っていることではない。

主イエスはこれらの教えによって、私たちの生活の中に、私たちの知らない新しい、本当の幸いを造り出そうとしておられる。

2.神の憐れみ

この教えが与えようとしている「幸い」は、「その人たちは憐れみを受ける」という幸い。
それは人からの憐れみでなく、神の憐れみ。
神の憐れみとはどのようなものか?

詩編第89編
「主の慈しみ」(2節)=「憐れみ」
「わたしが選んだ者とわたしは契約を結び、わたしの僕ダビデに誓った。あなたの子孫をとこしえに立て、あなたの王座を代々に備える、と」(4、5節)。
主の慈しみとは、お選びになった者(ここではダビデとその子孫)と契約を結び、それをどこまでも守って下さること。
31~33節…ダビデの子孫である王たちの罪とそれに対する神の罰

「それでもなお、わたしは慈しみを彼から取り去らず、わたしの真実をむなしくすることはない。契約を破ることをせず、わたしの唇から出た言葉を変えることはない」
(34、5節)

主なる神が、人間との間に結んだ契約をどこまでも守り、人間の裏切りに対して怒りはするし罰を与えるが、契約を破棄することなく、どこまでもそれに忠実であって下さる。 これが神の慈しみ=憐れみ。この神の憐れみは、主イエス・キリストによって私たちに与えられている。キリストの十字架の死によって、神は私たちと新しい契約を結んで下さった。その契約において、私たちは罪を赦され、神の恵みの下に生きる新しい命を与えられている。私たちは主イエスが求めておられる憐れみからほど遠い者だが、既にこのような憐れみを受けている。

3.憐れみを受けた者として

7節の教えは、「憐れみ深い者となりなさい、そうすればあなたがたは神の憐れみを受けることができ、幸いになることができる」ということではない。私たちはキリストによって神の憐れみを既に受けているがゆえに、憐れみ深い者となることができるし、そのために努力することができる、ということ。

18章21節以下(「仲間を赦さない家来のたとえ」)
「私がお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」(33節)。

私たちは自分では決して償うことができない罪(負債)を、キリストの十字架の死によって赦して(帳消しにして)いただいた。借金を帳消しにする時に、貸していた者は損害を引き受ける。神が私たちの罪を赦すために引き受けて下さった損害が、独り子主イエス・キリストの十字架の死。そこに神の深い憐れみがある。その憐れみを受けた私たちが、自分に百デナリオンの負債(罪)のある人を赦すこと、それが、私たちが「憐れみ深い者」となること。百デナリオンは決して小さい額ではない。人を赦し、憐れみ深い者であろうとすることは、苦しみと損害を伴う。「情けは人のためならず(=それは結局は自分のためだ)」などと思っていたらそれはできない。どう廻り廻っても自分のためになりそうもない、損失を受けることにしかならない、という場面において、私たちの憐れみ深さが問われている。そこでなお憐れみ深い者として生きることは、主イエスによって神の大きな憐れみをいただいていることを知り、その憐れみに応えて生きようとする所でこそ可能となる。
逆に私たちが人に対して憐れみ深くなろうとしないならば、それは神が御子の十字架の死によって与えて下さった憐れみを無にすることになる。

4.憐れみ深い人々の幸い

憐れみ深い人が憐れみを受け、幸いになるのではない。神の憐れみを受けている幸いな者が、憐れみ深くあろうとすることができる。それが信仰における順序。それならなぜ主イエスは「憐れみを受けている人々は幸いである、その人たちは憐れみ深くあるであろう」と言わないのか。

マタイ18章においても、あのたとえ話の前に、「あなたに言っておく。七回どころか、七の七十倍までも赦しなさい」というみ言葉がある。
七の七十倍までも(徹底的に)兄弟の罪を赦す、憐れみ深い者であれ、とまず命じられている。あなたがたは憐れみを受けている者なのだから、という根拠はその後で示される。それと同じように、私たちは、「憐れみ深い人々は幸いである」という主のお言葉に従って、人の自分に対する百デナリオンの罪を赦そうと努力していく。そのことの中でこそ、主イエス・キリストによる神の憐れみ(一万タラントンの赦し)を本当に知ることができる。憐れみにほど遠い者であることをいつも思い知らされていく私たちだが、主イエスにおける神の憐れみを知らされているがゆえに、なお憐れみ深い者であろうとすることができる。そこに、私たちの幸いがある。

TOP