説教「ためらわないで」副牧師 川島章弘
旧約聖書 レビ記第20章25-26節
新約聖書 使徒言行録第10章1-33節
ヤッファとカイサリア
少し間が空きましたが、本日から使徒言行録の連続講解説教に戻ります。前回で9章を読み終え、本日から10章を読み始めます。10章1節から11章18節まで一続きの出来事を語っていますので、何回かに分けて読み進めていくことにします。前回、9章32節以下を読みましたが、そこではペトロが「すべての教会を巡回し」ていたことが語られていました。リダの教会では体が麻痺して床に着いていたアイネアを癒し、地中海沿岸の港町ヤッファにある教会では病で亡くなったタビタを甦らせました。その終わり43節にはこのようにありました。「ペトロはしばらくの間、ヤッファで皮なめし職人のシモンと言う人の家に滞在した」。諸教会を巡回したペトロは、しばらくヤッファに留まることにしたのです。
そのヤッファから海岸線を約60キロメートル北上したところにカイサリアという町があります。ヤッファとカイサリアの位置関係については、聖書の後にある付録の聖書地図9「イエスの時代のパレスティナ」をご覧ください。余談ですが「聖書協会共同訳」は「新共同訳」より聖書地図が増え、しかもカラーになっています。このカイサリアという町は、ローマ皇帝の後ろ盾を得てユダヤを支配した、あのヘロデ大王の大規模改修によって一変した町です。劇場、競技場、水道、皇帝礼拝の大神殿などを備えた典型的なローマ風の都市となりました。その際、ヘロデ大王はこの町の名を「カイサリア」に変えましたが、それは皇帝、つまり「カエサル」に敬意を払ってのことです。その後、ローマ帝国から派遣された総督とその軍隊が常駐するようになり、カイサリアはユダヤにおけるローマの政治的、軍事的な拠点となりました。このような都市ですから、当然、カイサリアにはユダヤ人も異邦人も暮らしていたのです。
コルネリウス
このカイサリアにコルネリウスという人物がいました。彼は「イタリア大隊と呼ばれる部隊の百人隊長」で、カイサリアに常駐していたローマ総督の軍隊に属していました。彼は異邦人でしたが、「敬虔な人で、一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず神に祈って」いました。異邦人でありながら、ユダヤ人が信じる唯一の神様を信じ、畏れる人物であったのです。「民に多くの施しをし」とは、異邦人でありながら、ユダヤ人に多くの施しをしたということです。施しはユダヤ人が大切にしていたことですから、彼がユダヤ人の信仰生活を重んじていたことが分かります。とはいえ彼は割礼を受けていたわけではありません。ユダヤ人の神を信じ、その信仰生活を重んじてはいても、異邦人であることに変わりはありませんでした。つまり神の民に加えられてはいなかったのです。彼が割礼を受けなかった理由は記されていませんが、百人隊長としての職責を果たすためであったのでしょう。コルネリウスはその職責を果たしつつ、ユダヤ人の神を信じ、神の民に加えられることを願いつつ生きていたのです。
決定的な転換点
本日の箇所では、ヤッファにいたペトロがこのコルネリウスを訪ねることが語られています。そしてそれはキリスト教会にとって決定的な転換点となりました。なぜならこの出来事によって、キリスト教会の異邦人への伝道が本格的に始まったからです。もちろんこれまでもフィリポがエチオピア人の宦官に伝道し、洗礼を授けたことが語られていました。ですから異邦人への伝道がまったくなされていなかったわけではありません。しかしその決定的な転換点は、このペトロがコルネリウスを訪ねた出来事です。そしてこのことが起こるためには、乗り越えなければならないことがありました。コルネリウスの側にあったのではありません。ペトロの側にあった。つまりキリスト教会の側にあったのです。
コルネリウスが見た幻
ペトロがコルネリウスを訪ねたのは、どのような経緯であったのでしょうか。コルネリウスは、ある日の午後3時頃、祈っているときに、天使が幻で語りかけるのを聞きました。天使はこのように言いました。4節後半からです。「あなたの祈りと施しは、神の前に届き、覚えられた。今、ヤッファに人を送って、ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい。その人は、皮なめし職人シモンと言う人の客になっている。家は海岸にある」。コルネリウスは天使の言葉に従って、「召使い二人と、側近の部下で敬虔な兵士一人」とをヤッファに遣わしたのです。
ペトロが見た幻
その翌日、この三人がヤッファの町の近くまで来た頃、そのことを知る由もないペトロは祈るために屋上に上がっていました。彼はお腹が減っていて、何か食べたいと思いつつ祈っていると、幻を見ました。「天が開き、大きな布のような入れ物が、四隅でつるされて、地上に降りて来るのを見た。その中には、あらゆる四つ足の獣、地を這うもの、空の鳥が入っていた」と言われています。四隅でつるされた大きな風呂敷に、四つ足の獣、地を這うもの、空の鳥が入っているのを想像すると良いかもしれません。それだけならペトロにとって不思議な幻を見ただけであったかもしれませんが、さらに「ペトロ、身を起こし、屠って食べなさい」と言う声がしたのです。これはペトロにとって、絶対従えないことでした。確かにお腹は空いていました。しかし屠って食べなさいと言われたものは、どんなにお腹が空いていても決して食べないもの、今まで食べたことのないものだったのです。共に読まれた旧約聖書レビ記20章25節には、「私があなたがたのために汚れたものとして区別した動物や鳥、地を這うどのような生き物によっても、あなたがた自身を忌むべきものとしてはならない」とあります。ペトロにとって、ユダヤ人にとって、これらの汚れた生き物を食べるのは考えられないことでした。同じレビ記11章には、ユダヤ教の厳しい食物の規定について詳しく記されています。このようにペトロにとって、この神様のお言葉は到底受け入れられるものではなかったのです。だからペトロは言いました。「主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物など食べたことはありません」。すると、また声が聞こえてきました。「神が清めた物を、清くないなどと言ってはならない」。
完全に神に言い逆らう
16節に「こういうことが三度あり、その入れ物はすぐ天に取り上げられた」とあります。ペトロと神様との押し問答が三度繰り返されました。「神様、こんな清くない物は食べれません」「神が清めた物を、清くないなどと言ってはならない」「いえ、無理です、食べれません」「清くないなどと言わずに食べなさい」「絶対無理です」「食べなさい、と言っているではないか」……。もっとも「三度」というのは、単に回数を意味しているのではありません。ペトロはかつて主イエスが逮捕された後、主イエスを三度、知らないと言いました。それは、主イエスとの関係を完全に否定したことを意味していました。ここでもペトロは単に三度拒んだというより、完全に神様に言い逆らったのです。それほどまでペトロにとって、汚れた生き物を食べることは受け入れられないことでした。これらの生き物は汚れているという考えが、彼の身に深く染みついていたのです。
異邦人への伝道を拒む
しかしこのペトロと神様との押し問答において、単に食物規定の問題だけが見つめられているのではありません。それは、28節でペトロがコルネリウスにこのように言っていることから分かります。「ご承知のとおり、ユダヤ人が外国人と交際したり、訪問したりすることは、許されていません。けれども、神は私に、どんな人をも清くないとか、汚れているとか言ってはならないと、お示しになりました」。神様がペトロに本当に示されたのは、食物のことではなく人間のことでした。外国人、つまり異邦人は清くないとか、汚れているとか言ってはならないことを、それゆえ異邦人の家を訪ね、交わりを持つことを拒んではならないと示されたのです。ということは、ペトロが神様に完全に言い逆らうほど絶対にできないこととは、単に汚れた生き物を食べることではなく、異邦人の家を訪ね、交わりを持つことであったことになります。それは、異邦人に伝道し、異邦人に主イエスによる救いを届けるなんてできない、と思っていたということです。かつてペトロはこう語っていました。「この人による以外に救いはありません。私たちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」(4:12)。十字架で死なれ復活された主イエスによる以外に救いはないと、私たちが救われるべき名は、天下にこのイエス・キリストの名のほか人間には与えられていない、と宣言していたのです。しかしそう宣言していたペトロが、異邦人もイエス・キリストの名によって救われるべきだとは想像できませんでした。これまで身についた考え方、生き方によって、ペトロは救いに関してユダヤ人と異邦人を差別していたのです。だからペトロは異邦人への伝道に自分から踏み出そうとしませんでした。それどころか異邦人への伝道は絶対にしたくない、と神様に完全に言い逆らったのです。
私たちも伝道を拒む者
ユダヤ人と異邦人を差別するペトロを批判するのは簡単です。しかし私たちも同じようなことをしているのではないでしょうか。私たちはペトロのように異邦人に対する差別や偏見を持っているわけではありません。しかし違った形で、私たち一人ひとりに身についている差別や偏見があります。教会は誰でも歓迎しますと言っていても、さすがにあの人はご遠慮いただきたい、と思ってしまうことがあります。そこまで思わなくても、あの人は私たちの教会にはふさわしくない、と思ってしまうことがあります。あるいは、さすがにこの人には伝道できないと思ってしまうこともあります。しかしそれでは、この人は救いに与れないと思っていることになります。私たちも、自分たちに身についた考え方や生き方によって、この人も「イエス様によって救われるべきだ」と想像することができず、その人と関わることを、その人に伝道することを拒んでしまう者なのです。
食物の規定と異邦人との関わり
先ほど、ペトロと神様の押し問答は食物の規定の問題よりも、異邦人との関わりの問題が見つめられている、とお話ししました。しかしそれはこの両者が結びついていないということではありません。異邦人に対する差別を取り除くためには、食事の規定が取り除かれなくてはならなかったからです。28節で、「ユダヤ人が外国人と交際したり、訪問したりすることは、許されていません」と言われていましたが、それは異邦人と関わること自体を禁じているというより、特に異邦人の家を訪ね、その食事を一緒にすることによって、汚れた物を食べてしまうことを禁じていた、と言うべきでしょう。異邦人と食事をすることを避けるゆえに、異邦人と関わることも避けなくてはならなかったのです。しかし異邦人へ伝道するとは、異邦人と関わりを持ち、交わりを持つことであり、一緒に食事をすることです。だからこそ食物の規定が取り除かれることが、異邦人に対する差別を取り除き、異邦人へ伝道するために必要であったのです。
ためらわないで
ペトロは幻を見て、その後すぐに、異邦人と関わることを受け入れられたわけではありません。むしろ神様に完全に言い逆らうほど拒んでいました。幻を見た後も、17節によれば、ペトロは「今見た幻は一体何だろうかと、戸惑ってい」たし、19節によれば、「なおも幻について考え込んでい」たのです。神様から異邦人の家を訪ね、交わりを持つことを拒んではならないと示されたものの、そんなことは絶対にできないと思わずにはいられなかったペトロは、戸惑いと悩みの中にありました。神様は御心を示されました。しかしその御心を受け入れられない。どう考えても、どう頑張っても、自分には絶対できないように思え、戸惑い、悩んでいたのです。そのときコルネリウスが遣わした人たちが、ペトロの滞在していた家を探し当てて、やって来ました。すると聖霊がペトロに語りかけました。19節の後半からこのように言われています。「霊が言った。『三人の者があなたを探しに来ている。さあ、立って下に行き、ためらわないで一緒に出発しなさい。私があの者たちをよこしたのだ』」。聖霊はペトロに「ためらわないで一緒に出発しなさい」と語りかけました。この「ためらわないで」と訳された言葉は、「疑わないで」とも「差別しないで」とも訳すことができます。聖霊は、ためらわずに、疑わずに、差別することなく、神様の御心に従いなさいと語りかけたのです。神様の御心に従って、三人の者たちと一緒に出発してコルネリウスの家に向かいなさいと語りかけたのです。29節で、ペトロはコルネリウスに、「それで、お招きを受けたとき、ためらわずに来たのです」と言っています。しかしペトロは大いにためらっていました。自分には絶対できないと思っていたのです。しかしそのペトロが、「ためらわずに来たのです」と言えたのは、聖霊が語りかけてくださり、ただ語りかけてくださるだけでなく、ためらわずに、疑わずに、差別することなく、神様の御心に従う力をも与えてくださったからです。ペトロ自身には、そして私たち自身にも、これまで身についてきた考え方や生き方を乗り越える力はありません。私たちに身についた考え方や生き方は、私たちを支配していると言って良いほどに、とても根深いものだからです。しかし聖霊は、私たちにそれを乗り越える力を与えてくださり、私たちを神様の御心に従う者へと変えてくださるのです。
神の導きによる
聖霊は、コルネリウスが遣わした人たちについて「私があの者たちをよこしたのだ」とも言っています。それはコルネリウスがペトロのところに三人を遣わしたことも、聖霊の働きによるものであり、神様の導きによるものであった、ということにほかなりません。その後、ペトロは三人の人たちの話を聞くことを通して、聖霊が語った通りであったことを確認し、今、起こっていることが神様の導きによることを確信したのです。このことを通して、つまり聖霊の働きによって、ペトロは自分のためらいや疑いから解放され、差別や偏見を取り除かれて、神様の御心を受け入れ、神様の御心に従いました。それでペトロは、カイサリアのコルネリウスのところに向かったのです。
神の御心に従う
ここにキリスト教会の異邦人への伝道が本格的に始まりました。教会にとって決定的な転換が起こったのです。24節以下では、コルネリウスの家で、ペトロとコルネリウスそれぞれが、これまで見てきた経緯を語っています。語られている内容は、ほぼ繰り返しですが、このことを通してペトロがコルネリウスを訪ねたこの出来事が、神様のイニシアティブによるものであることが確認され、共有されているのです。コルネリウスはおそらくペトロの存在すら知りませんでした。しかし天使を通して神様が語りかけてくださることによって、コルネリウスはペトロのところに人を遣わすことになったのです。ペトロは自分には異邦人への伝道など絶対できないと思っていました。しかし神様が、「どんな人をも清くないとか、汚れているとか言ってはならない」と示し、聖霊が働きかけることによって、ペトロはためらいを乗り越えて、コルネリウスのところにやって来たのです。この出来事全体が、神様のイニシアティブのもとにあり、ペトロもコルネリウスも受け身であったに過ぎません。しかしそれは彼らが何もしなかったということではありません。彼らは神様の御心に従いました。ペトロとコルネリウスが神様の御心に従ったことにおいて、この決定的な転換は起こったのです。
同じ人間
ペトロがコルネリウスの家の中に入ろうとしたとき、コルネリウスは迎えに出て、ペトロの足元にひれ伏して拝みました。するとペトロはコルネリウスを起こして言いました。「お立ちください。私も同じ人間です」。これは驚くべき言葉ではないでしょうか。足元にひれ伏して拝むべきなのは、つまり礼拝すべきなのは人間ではなく唯一のまことの神様だ、ということだけであれば、当然のことかもしれません。しかしペトロは、異邦人のコルネリウスに、「私はあなたと同じ人間だ」と言いました。それは、「私とあなたは、生物学的に言って同じ人間ですね」ということではありません。「私とあなたは対等の存在だ。私とあなたの間に何の区別もない」と言ったのです。これは驚くべきことです。ついさっきまで、ペトロは異邦人を汚れていると思っていました。自分と異邦人の間には区別があり、異邦人の家を訪ねたり、交わりを持ったり、共に食事をするなんて絶対ありえない、と思っていたのです。しかしそのペトロが神様の御心を示され、聖霊の働きを受けてその御心に従うことを通して、自分と異邦人は同じ人間だと確信するに至りました。神様の御心に従う中で、これまで身についた考え方や生き方を打ち砕かれ、乗り越えさせられたのです。
私たちが御心に従うことによって
私たちは、伝道というのは、伝道する相手が神様の御心に従うことによって進むものだと思いがちです。しかし実はそうではありません。伝道は、伝道する私たちが神様の御心に従うことによってこそ進んでいくのです。私たちは多くの人に伝道したいと願いつつ、しかしペトロのように、身についた生き方や考え方にとらわれ、ためらいや疑いがあり、偏見や差別があって、この人も主イエスによって救われるべきだ、と思えないことがあります。しかしそのような私たちが神様の御心に従う中で、「イエス様はこの人のためにも十字架で死んでくださった」ということに気づかされます。もしこの人が救われないのだとしたら、自分も救われるはずがなかったことに気づかされ、悔い改めへと導かれ、ためらいや疑い、偏見や差別を乗り越えさせられます。そのことを通してこそ、伝道は進んでいくのです。伝道は私たちが相手を変えることによって進むのではありません。それは神様がしてくださることです。そうではなく私たちの教会が、私たち一人ひとりが神様の御心に従う中で悔い改め、変えられていくことによって進むのです。
神の前に出ている
コルネリウスは本日の箇所の最後でペトロにこう言っています。「よくお出でくださいました。今私たちは皆、主があなたにお命じになったことを残らず聞こうとして、神の前に出ているのです」。24節にあるように、コルネリウスは親類や親しい友人を呼び集めていました。コルネリウスとその家族が、親類や親しい友人が、神様のみ前に進み出ていました。ペトロも、ペトロと同行したヤッファのきょうだいたちも、同じように神様の御前に進み出ていました。そしてペトロを通して神様からの語りかけを聞こうとしているのです。ここに教会の姿が、教会の礼拝の姿が見つめられています。私たちは教会の礼拝において、共に神様のみ前に進み出て、神様からの語りかけを聞きます。神様のみ前で、私たちは何の区別もありません。まさに同じ人間なのです。そして私たちが、身についた考え方や生き方から自由になり、ためらいや疑い、偏見や差別から自由になれるとしたら、それは、「人間は皆平等」という思想によってではなく、何よりも共に神様のみ前に集い、神様の言葉を聞くことによってです。私たちは自分の力や努力で自分を変えることはできません。礼拝で神様の言葉を聞き、神様の御心を示され、聖霊の働きによってその御心に従うことを通して変えられていくのです。
私たちの教会では4月から礼拝で使用する聖書が「聖書協会共同訳」に変わりました。「聖書協会共同訳」を用いることによって、私たちはみ言葉の新たな光に照らされて変えられていきたいのです。そしてそれは、み言葉の新たな光に照らされて神様の御心を示され、その御心に従う中で、自分のためらいや疑い、偏見や差別を乗り越えさせられていくということにほかなりません。迎えた新しい年度、私たちの教会がそのように歩むことを通して、私たちは伝道のみ業にお仕えしていくのです。
