夕礼拝

お言葉どおりに

「お言葉どおりに」 伝道師 川嶋章弘

・ 旧約聖書:サムエル記下 第7章5-16節
・ 新約聖書:ルカによる福音書 第1章26-38節
・ 讃美歌:213、190

六か月目
 「六か月目に」と本日の聖書箇所の冒頭にあります。いつから6か月なのかは、前回私が夕礼拝の説教を担当したときの聖書箇所1・5-25を読むと分かります。1・5-25はザカリアとエリサベトの物語でした。この老夫婦には子どもがいませんでしたが、エルサレム神殿の主の聖所で務めをしていたザカリアに天使が現れ、妻エリサベトに子どもが与えられると告げ、生まれてくる子をヨハネと名づけるようにとも告げました。しかしザカリアは天使の言葉を信じられず、そのために口が効けなくなりヨハネが生まれるまで話すことができなくなった、と語られていました。そしてその物語の終りに、天使が告げた通りエリサベトは男の子を身ごもったとあります。そのようにエリサベトが身ごもってから六か月目に、つまり半年後にザカリアに現れたのと同じ天使ガブリエルが、ナザレというガリラヤの町に神さまから遣わされた、と26節は語っています。ダビデ家のヨセフのいいなずけであるおとめマリアのもとに遣わされたのです。26節冒頭の「六か月目に」という言葉は、ザカリアとエリサベトの物語とそれに続くマリアの物語を結びつけているのです。

洗礼者ヨハネと主イエス
 5-25節は、ザカリアとエリサベトの物語であると同時に洗礼者ヨハネの誕生を予告する物語でもありました。そして本日の物語もマリアの物語であると同時に主イエスの誕生を予告する物語でもあります。ルカは、主イエスの誕生を予告する物語に先立って、洗礼者ヨハネの誕生を予告する物語を語り、さらにヨハネの誕生、主イエスの誕生という順序で物語ります。マタイ、マルコ、ルカの三つの福音書は、主イエスの伝道に先んじて洗礼者ヨハネが悔い改めの洗礼を宣べ伝えたことを語ります。しかしルカだけがヨハネの誕生の予告とその誕生、主イエスの誕生の予告とその誕生を交互に織りなして語るのです。ルカはこのように物語ることで、主イエスの誕生物語において、主イエスに先立つ者としての洗礼者ヨハネを示しているのです。

田舎町ナザレ
 天使ガブリエルがザカリアに現れたのはエルサレム神殿の主の聖所でした。エルサレムは当時のユダヤ人の世界の中心です。それは単にエルサレムは人口が多かったとか繁栄していたというだけでなく、ユダヤ人にとって神殿のあるエルサレムこそ自分たちの信仰にとって中心となる町だったのです。ですからユダヤ人は祭りのたびにエルサレムの神殿に巡礼しました。一方でエリサベトが身ごもってから半年後に、天使ガブリエルが遣わされたのはガリラヤ地方のナザレという町です。ガリラヤ地方はエルサレムから60キロメートル以上離れた北の地域であり、ナザレはその南境にあった町です。このナザレは片田舎の町であったようで、ヨハネによる福音書1・46節では、フィリポに対してナタナエルが「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言っています。主イエスに先立つ者である洗礼者ヨハネの誕生の予告は、ユダヤ人社会の中心地であるエルサレムでなされました。しかし主イエスの誕生の予告は、田舎町ナザレでなされたのです。エルサレムはユダヤ人社会の中心地でしたが、当時の世界の中心はむしろローマでした。「すべての道はローマに通ず」と言われたぐらいです。しかし全世界の救い主である主イエス・キリストの誕生の予告は、世界の中心であったローマではなく、ユダヤ人社会の中心であったエルサレムでもなく、名もなき町ナザレでなされたのです。ルカの救いの物語は、福音書から使徒言行録を通してエルサレムからローマへと広がっていきますが、その救い主の誕生の予告は名もなき町ナザレで起こったのです。

マリアの日常
 その田舎町ナザレに、マリアという娘が暮らしていました。彼女はダビデ家のヨセフのいいなずけでした。ルカは、マタイとは異なり、ヨセフについて彼がダビデの子孫であること以外はなにも語っていません。ルカの主イエス誕生の予告の物語はマリアにスポットをあてているのです。とはいえ「ダビデ家のヨセフ」とルカが記していることも見過ごせません。本日の旧約聖書箇所サムエル記下7・16に「あなたの家、あなたの王国は、あなたの行く手にとこしえに続き、あなたの王座はとこしえに堅く据えられる」とあり、預言者ナタンによって、ダビデ家、ダビデ王国は永遠に続くと預言されていたからです。このダビデの王国は、ダビデの息子ソロモンの時代の後、南北に分裂し、さらにその後北王国がまず滅亡し次いで南王国も紀元前586年に滅んでしまいます。ナタンの預言にもかかわらず、ダビデ王国は滅亡したのです。しかしイエスラエルの民はナタンの預言が間違っていたとは考えませんでした。いつの日か必ずダビデ家とダビデ王国が復興しこの預言が実現する、そのことによってイスラエルの民の救いが実現すると待ち望んでいたのです。ヨセフとマリアがそのことをどの程度自覚していたかは分かりません。しかしイスラエルの民は、王国が滅んで500年以上経っても、なおダビデ家とダビデ王国に特別な期待を持っていたことは確かです。
 ヨセフとマリアがいいなずけであったというのは、二人が結婚する約束をしていたということです。マリアの年齢は12歳くらいだったようで、現代の私たちの感覚からすると早すぎる結婚ですが、当時のユダヤ人社会ではむしろ普通のことでした。つまりマリアは田舎のごく普通の娘であり、当時の社会の習慣にしたがって婚約していたと考えてよいのです。キリスト教の歴史では、マリアが特別な人物として扱われたり、ときには崇拝の対象になったりしました。しかしルカはマリアを何の変哲もない田舎町の普通の娘として語っています。マリアの日常は特別なものではなかったと思います。田舎町ナザレで、その町に暮らす人たちと同じように、世界の中心であるローマとほとんど関わることもなく、ごく普通に婚約し、結婚しようとしていたのです。そのような田舎町のごく普通の娘のところへ、神さまは天使ガブリエルを遣わしたのです。それは、マリアになにか神さまに選ばれる理由があったからではありません。神さまがマリアを一方的に選んだのです。ザカリアとエリサベトの老夫婦については「二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかった」と言われていましたが、マリアについてはなにも言われていません。マリアが特別だったわけではないのです。私たちはそのことに目を向けていきたいのです。

私たちの日常
 田舎町の普通の娘として暮らしていたマリアの日常生活は、私たちの日常生活とはかけ離れています。私たちの多くは都会で暮らし溢れかえる人と物に囲まれています。めまぐるしく動く社会でせわしなく生きていると感じている方もいらっしゃることでしょう。そのような隔たりが、私たちにマリアの日常を思い浮かべることを難しくしているのです。しかしどれほど隔たりがあるとしても、私たちもまた自分の日常を過ごしているという点では、マリアと変わらないのではないでしょうか。マリアの日常が特別でなかったように、私たちの日常も特別というわけではありません。一人ひとりの生活は異なるとしても、それぞれにとっての日常があり、その日常の一コマ一コマを私たちは生きているのです。

介入してくる神の言葉
 「おめでとう、恵まれた方、主があなたと共におられる。」天使ガブリエルがマリアに告げた言葉です。この言葉によって、神さまがマリアの日常生活に介入してこられました。「おめでとう」とは、直訳すれば「喜びなさい」となります。「恵まれた方」とは、すでに恵みを与えられた者という意味です。つまりマリアは「喜びなさい、すでに恵みを与えられた者よ、主があなたと共におられる」と言われたのです。ごく普通の暮らしの中に天使の言葉、つまり神の言葉が飛び込んできたのです。マリアが戸惑ったのも無理はありません。1・12節でザカリアは、エルサレム神殿の主の聖所で天使が現れたとき「不安になった」と語られていました。ここでは「マリアはこの言葉に戸惑い」と語られていますが、この「戸惑う」という言葉は、12節の「不安になる」という言葉に強調の意味を持つ言葉が付け加えられたものです。あえてそのことを意識して日本語で訳すならば「とっても不安になる」とか「ひどく不安になる」となります。マリアはザカリアよりもさらに大きな不安を天使の言葉に感じたのです。彼女はザカリアのように主の天使が現れたから不安になったのではありません。マリアがひどく不安になったのは「喜びなさい」という天使の言葉のためです。彼女は「いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ」のです。なにを喜べというのか。いったいどのような恵みを与えられたというのか。すると天使は言いました。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」マリアが神から与えられた恵みとは、身ごもって男の子を産むことであり、その子が偉大な人になり、いと高き方の子と言われることであり、その子においてあの預言者ナタンの預言が成就することなのです。マリアは天使に言います。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」男の人と関係することなしに子どもを身ごもることは、起こるはずのないことです。しかし天使は答えます。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。」そのような出来事があなたに起こるのだと天使はマリアに告げたのです。神はこのみ言葉によってマリアの日常生活に介入して来られ、マリアの人生に関わって来られたのです。

神の決断のもとで
 神さまがマリアの人生に関わられたこの出来事は、人間の可能性の外にある出来事です。マリアの意志や決断で起こったことではありません。神さまがマリアを選び、用いられたのです。天使は「あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている」とマリアに告げます。ヨハネの誕生を告げる物語とイエスの誕生を告げる物語がここで結びつくのです。この二つの物語には異なる点が幾つもあります。エルサレムとナザレという場所の違い、天使の言葉に対するザカリアとマリアの応答の違い、そして生まれてくるヨハネが主に先立つ者であると告げられたのに対して、イエスは「聖なる者、神の子」と告げられました。しかしそのような違いがあるとしても、この二つの物語には共通していることがあります。それは、どちらの出来事も人間の可能性の外にあるのです。高齢の不妊の女性に子どもが与えられることも、男の人と関わることなしに聖霊によって身ごもることも、神の力によってのみ実現することです。そこには聖書に預言された救いを実現する神さまのご決断があります。主に先立つ者であるヨハネの誕生はマラキの預言の成就でした。そのヨハネの誕生の予告に続いて、ナタンの預言を成就し救いを完成される主イエスの誕生の予告が語られているのです。ルカの主イエスの誕生物語は、神さまのご決断のもとで救いの物語が進められていくことを明らかにします。福音書から使徒言行録へと福音が広がっていく歩みを支配しておられるのは神さまなのです。

神の言葉が引き起こすこと
 マリアは神の言葉を聞き、神の言葉に戸惑い、恐れました。それは、自分のような田舎の娘が聖霊によって神の子を身ごもることへの恐れであったかもしれません。すでに婚約していたにもかかわらず、婚約者のヨセフの子どもでない子を産むことへの恐れであったかもしれません。当時のイスラエルでは、婚約は結婚と同じ意味を持っていました。マリアはすでにヨセフの妻としての法的な立場と責任を与えられていたのです。ヨセフによらずにマリアが身ごもれば、彼女は姦淫の罪に問われました。ですからそのことによってどのような目に合うか分からない、周囲からどのような目で見られるか分からない、なにを言われるか分からないという恐れがあったに違いありません。しかしマリアがなによりも不安であったのは、自分の人生が変わらざるをえないことではないでしょうか。結婚を間近にしてマリアには思い描いていた人生があったはずです。ヨセフと一緒にどのような家庭を築いていこうかと考えたこともあったでしょう。しかしそのように自分が思い描き、願っていた人生が根底から覆されるのではないか。自分の人生設計が崩れてしまうのではないか。そのような不安と恐れをマリアは抱いたのです。その不安と恐れは的中しました。神に選ばれ、神の子の母となることによって、マリアの人生は思い描いていたのとは異なったものとなっていきます。それは、決して順風満帆な人生とは言えません。喜びよりも悲しみの多い人生です。2・35でシメオンはマリアに「あなた自身も剣で心を刺し貫かれます」と告げています。我が子が十字架への道を歩んでいくのを、そして十字架に架けられるのを目の当たりにするのです。幾度も自分の心が剣で刺し貫かれたように感じたに違いありません。ルカは、主イエスがそのような道を歩まれることを知っていました。それでも天使は、主イエスを身ごもり、主イエスの母となるマリアに「喜びなさい、恵みを与えられた者よ、主があなたと共におられる」と告げるのです。
 神さまはマリアの人生に介入され関わられたように、私たちの人生にも介入され関わられます。私たちにはそれぞれに自分の日常生活があります。それぞれに思い描いている人生があります。けれどもそのような私たちの日常を決定的に変えてしまうような神との出会いが起こるのです。神の言葉が私たちの日常に切り込んできて、自分が思い描いていた人生を根底から覆すのです。そのことによって私たちも変えられ、自分の思ってもみなかった人生へと導かれます。それは不安と恐れに満ちたことです。しかし主はそこで私たちに「喜びなさい、恵みを与えられた者よ、主があなたと共におられる」と語りかけて下さるのです。そこで私たちに求められているのは「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」というマリアの言葉を、自分の言葉として告白することなのです。

お言葉どおりに
 とはいえ私たちは自分の力でこの言葉を告白することはできません。「主のはしため」とは「主の僕」のことです。それは、自分の人生の主が自分自身ではなく神であるということです。自分の願い通りではなく、神の願い通りに生きることなのです。しかし私たちは自分の力で自分の願いを捨て去ることも、主の僕となることもできません。「お言葉どおり、この身に成りますように」と、自分から告白することはできないのです。それはマリアも同じです。彼女がこの言葉を告白することが出来たのは、マリアの言葉よりも先に天使が次のように告げていたからです。「神にできないことは何一つない。」マリアはこの言葉を信頼したのです。「神にできないことは何一つない」とは、直訳すれば「神からの言葉に不可能なことはない」となります。マリアは自分の思い描いていた人生が崩れ、将来に対する不安と恐れの中で、自分の力ではなく「おめでとう、喜びなさい」と語って下さっている神の言葉に信頼したのです。不可能なことはない神の言葉をただ信頼したのです。「お言葉どおり、この身になりますように」とは、神に対する全幅の信頼の告白にほかなりません。
 神さまは私たちに出会ってくださっています。私たちの人生に関わってくださり、私たちを用いてくださいます。私たちの人生が自分を主とするものから、神を主とするものへと変わることを求めておられます。このとき私たちが問われているのは「神にできないことは何一つない」という神の言葉を信頼するかどうか、その一点です。この言葉に信頼して、神を主とする人生の中で起こるあらゆることに対して「お言葉どおり、この身になりますように」と告白する歩み、主の僕として歩むことへと招かれているのです。その歩みは、マリアがそうであったように順風満帆なものではないかもしれません。むしろ試練があり苦しみがあり悲しみがあるに違いありません。しかし天使はマリアに言いました。「喜びなさい。恵みを与えられた者よ。主があなたと共におられる。」私たちは神に従う歩みにおいて、喜べないときがあり、神の恵みの内にあることすら分からなくなるときがあります。しかし主が私たちと共におられるのです。主が私たちと共におられる歩みとは、私たちが単に守られ、自分の思い通り願い通りの人生が約束されているというようなことではありません。むしろ自分がそのときそのとき思い描いている人生を絶えず覆されていく歩みなのです。そのような歩みの中で、試練や苦しみ悲しみがあっても神が共にいてくださるのです。その歩みに真の喜びがあり、豊かな恵みが与えられるのです。マリアの思い描いていた人生、願っていた人生はもはや叶わなくなりました。しかしその彼女のお腹に、主イエスが宿られたのです。自分の人生設計が崩れたと思われたまさにそこで、主イエスが共におられるのです。そしてそのようにマリアが用いられることによって、神の救いの物語が始まるのです。このことにこそ神さまの決断があります。「主があなたと共におられる。」この言葉がマリアの「主のはしため」としての人生を支え続けたに違いありません。私たちもこの言葉に支えられ、主の僕として「お言葉どおりに」と告白しつつ、主に従っていきたいと願います。

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