2026年2月8日
説教題「手引きしてくれる人がなければ」 副牧師 川嶋章弘
イザヤ書 第56章1~8節
使徒言行録 第8章26~40節
エルサレムからガザへ下る道に
使徒言行録8章を読み進めていて、ステファノの殉教をきっかけとして起こった迫害によって、サマリアに散らされたフィリポの伝道について見てきました。そのフィリポに主の天使が、「『ここを立って南に向かい、エルサレムからガザへ下る道に行け』と言った」と、本日の箇所の冒頭26節にあります。主の天使から命じられると、フィリポはすぐ出かけて行き、エルサレムから南に向かい、西の地中海沿岸の町ガザへ下る道に向かったのです。
エチオピア人の宦官
ちょうどそのとき、その道をガザの方に向かって、馬車に乗って移動している人物がいました。27節の後半からこのように言われています。「折から、エチオピアの女王カンダケの高官で、女王の全財産の管理をしていたエチオピア人の宦官が、エルサレムに礼拝に来て、帰る途中であった。彼は、馬車に乗って預言者イザヤの書を朗読していた」。「エチオピア」は現在のエチオピアとは異なり、エジプトの南、ナイル川の上流に位置し、大体現在のスーダンにあたります。また「エチオピアの女王カンダケ」と言われていますが、「カンダケ」は女王の名前ではなく女王の称号です。エジプトの王が「ファラオ」と呼ばれていたように、エチオピアの女王は「カンダケ」と呼ばれていました。そのカンダケに仕えていた高官が、馬車に乗ってガザの方に向かっていたのです。この高官は、「女王の全財産の管理をしていた」と言われていますから、政治的に極めて地位の高い人物でした。彼がそこまでの地位に上りつめることができたのは、彼の能力や努力によるところもあったでしょう。しかしそれだけではこの地位に着くことはできませんでした。彼は「宦官」であった、と言われています。「宦官」とは去勢された男性のことです。カンダケと呼ばれる女王をトップとする、この国の政治システムがどのようなものであったのかはよく分かりませんが、おそらく女王の側近くで仕える者たちは、「宦官」でなければならなかった可能性が高いと思います。男性としての機能を失っているという理由から、女王を中心とする王宮制度の中で信頼され、重要な働きを担うことが多かったのではないでしょうか。この人は宦官となり、男性としての機能を失うことで、女王の側近くで仕えることができ、その中で努力を重ね、能力も発揮して、「女王の全財産の管理」をするほどの最高の地位を得ることができたのです。
聖書との出会い
そのように宦官となることで、地位と名誉を得たこの高官が、エルサレムに礼拝に来ていた、と言われています。何故、彼はエルサレムに礼拝に来ていたのでしょうか。エチオピアからエルサレムはかなりの距離があり、旅には多くの時間を要しました。国の政治の最高の地位にいる人物が、長期に亘って王宮を不在にすることも簡単ではなかったでしょう。それでも彼はエルサレムに行きました。物見遊山に行ったのでも、国の代表として外交のために行ったのでもありません。そうではなくユダヤ人が信じる神様を礼拝するためにエルサレムへ行ったのです。エチオピア人であるこの人が、どのようにしてユダヤ人が信じる神様を知ったのか、はっきりしたことは何も分かりません。しかし紀元前3世紀頃に、エジプトのアレクサンドリアでギリシア語に翻訳された旧約聖書、いわゆる「七十人訳」を読む機会があったのかもしれません。読むだけでなく、彼はその聖書を手に入れていたのだと思います。当時は、今とは違い、聖書はとても希少かつ高価で、誰もが手に入れることができたわけではありません。しかし彼ほどの地位とお金があれば、手に入れることができたはずです。といっても、聖書は今のように一冊の本になっていたわけではなく、幾つもの巻物に分かれていました。イザヤ書の巻物、「十二小預言書」の巻物といったようにです。彼が持っていたとしたら、それは、イザヤ書の巻物であったはずです。このことについては、後で触れることにします。
本当の救いを求めて
このようにこの人が聖書との出会いを与えられたとしても、それだけで彼が神様を礼拝しようと思ったわけではないはずです。その思いを与えられたのは、この人が真の神様を求めていたから、本当の救いを求めていたからではないでしょうか。彼は、これまでの歩みの中で、努力を積み重ね、才能を発揮し、最高の地位と名誉を得ることができました。多くの財産も得ることができました。現代的に言えば、社会的な成功を収めた人物であり、人生の勝ち組であったのです。しかしどこかに虚しさと迷いを抱えていたのではないでしょうか。地位と名誉を得るために宦官となり、男性としての機能を失ったために、子どもを残せないことへの寂しさがあったのかもしれません。あるいは遮二無二に働いてきたものの、自分が何のために生きているのか分からなくなったのかもしれません。そのような虚しさや迷いを抱える中で、本当の救いを求めたのです。彼の国にも、国家や国民が信じている神々がいたに違いありません。しかしその神々に、本当の救いを見出すことができなかった。その中で聖書を読み、その聖書が語っている神様を知り、この神様こそ本当の救いを与えてくれるかもしれないと思い、この神様を礼拝したいと思い、万難を拝してエルサレムに向かったのです。
私たちが聖書と出会い、神様を知り、神様を礼拝したいという思いを与えられる経緯は、人によって色々です。しかしこの高官と同じような経験をした方も少なくないと思います。もちろん私たちは宦官ではありませんし、高い地位と名誉を得ているわけではないかもしれません。しかし人生というのは、何かを得るためには、何かを手放さなければならない、という面があります。何もかもを得ることはできないのであって、何かを得るために何かを手放す、そのような決断を繰り返して、私たちは生きているのです。たとえば自分のキャリアのために、ほかの何かを諦めるということがあります。生活のためにがむしゃらに働いて、ほかのことに目を向ける余裕がないということもあります。この高官は、宦官になったという自分の決断が間違っていたと思っていたわけではないでしょう。宦官になったからこそ、今の自分があると分かっていたはずです。それでも、そのために失ったものを思うとき、虚しさや迷いを感じたのではないでしょうか。私たちも過去の決断の積み重ねの上に今の自分があることを分かっています。手放すもの、失うものがあったのも仕方のないことだとも思います。それでも手放したもの、失ったものを思い、虚しさを感じたり、あの決断は本当に正しかったのだろうかと迷いに陥ったりします。その中で、それまで自分の支えであったと思っていたものが、本当に自分を支えることはできないと気づき、私たちも本当の救いを求めるのです。そして聖書と出会い、神様を知り、神様を礼拝したいという思いが与えられます。聖書との出会いはずっと前に与えられていて、しかしそのときは、聖書を読んでも何とも思わなかった、ということもあります。その後の歩みの中で、本当の救いを求めるようになり、かつて読んだ聖書を思い出し、そしてもう一度聖書を読み、神様を礼拝したいという思いが与えられる、そういうことがあるのです。
神殿を遠くに眺めて
エチオピア人の高官は、万難を排してエルサレムに礼拝に来ましたが、そこで彼は、がっかりしたかもしれません。彼が異邦人であったからです。エルサレム神殿には、「聖所」や「至聖所」がある「神殿本体」と呼べる建物が一番奥にあり、その手前に、神殿本体に近い方から「祭司の庭」、「男性の庭」、「女性の庭」、そして「異邦人の庭」がありました。異邦人は「異邦人の庭」より先には入れなかったし、イスラエルの女性は「女性の庭」より先に入れませんでした。つまりこの高官は、長い時間をかけてエルサレムまで来たにもかかわらず、異邦人の庭までしか入ることができず、神殿から最も離れた場所で、神殿を遠くに眺めがなら、礼拝するしかなかったのです。
隔ての壁
それならこの高官は、ユダヤ教に改宗ないし入信することはできなかったのでしょうか。要するにユダヤ人になれなかったのでしょうか。「ユダヤ人になる」というのは不思議な表現に思えるかもしれませんが、ユダヤ人とは、私たちが通常思っているような単なる民族ではありません。唯一の神様を信じ、割礼を受けて神様との契約に入り、神様の民に加えられた者がユダヤ人なのです。ですから異邦人であっても割礼を受けて契約に入ることでユダヤ人となり、神様の民に加わることができました。しかしこの高官には、ユダヤ人となり、神様の民に加わるには大きな隔ての壁がありました。申命記23章2節にこのようにあります。「睾丸のつぶれた者、陰茎を切断されている者は主の会衆に加わることはできない」。この人は、異邦人であるというだけでなく宦官であるがゆえに、律法によって「主の会衆」、つまり神様の民に加わることができない者であったのです。この人は、神様の救いを求めていました。しかしその救いにあずかり、神様の民となるには大きな隔ての壁があり、彼自身の力ではその隔ての壁を取り除くことは決してできなかったのです。
イザヤを通して告げられた神の約束
このようにこの宦官は、エルサレムに礼拝に来たものの、失望を味わったかもしれません。しかしそれでも彼は神様を求め、その救いを求めることをあきらめませんでした。だからこそ彼は、エルサレムから帰る途中も、馬車の中でイザヤ書を朗読していたのです。先ほどお話ししたように、彼はイザヤ書の巻物をすでに持っていたのではないかと思います。あるいはエルサレムで購入したのかもしれません。しかし私は、この宦官はエルサレムに来る前からイザヤ書を読んでいたと思います。だからこそ彼は、異邦人の庭までしか入れず、また宦官であるがゆえに、神様の民となるには大きな隔ての壁があることに直面しても、エルサレムから帰る途中で、なおイザヤ書を読み続けていたのだと思うのです。彼がかつて読み、そして繰り返し読んできたイザヤ書の箇所が、本日共に読まれたイザヤ書56章1節以下だと思います。3節以下で、このような預言が告げられています。「主のもとに集って来た異邦人は言うな 主は御自分の民とわたしを区別される、と。宦官も、言うな 見よ、わたしは枯れ木にすぎない、と。なぜなら、主はこう言われる 宦官が、わたしの安息日を常に守り わたしの望むことを選び わたしの契約を固く守るなら わたしは彼らのために、とこしえの名を与え 息子、娘を持つにまさる記念の名を わたしの家、わたしの城壁に刻む。その名は決して消し去られることがない」。神様は預言者イザヤを通して、異邦人に対して、「主は御自分の民とわたしを区別される」と言うな、と告げられました。神様が、ご自分の民イスラエルと異邦人を区別されない時が来る、つまり異邦人が神様の民に加えられる時が来る、と約束してくださったのです。さらに宦官に対しても、「わたしは枯れ木にすぎない」と、「わたしは子孫を残せない枯れ木にすぎない」と言うな、と告げられました。律法によって神様の民に加わることができない宦官も、神様の民に加えられ、「息子、娘を持つにまさる記念の名を」、「決して消し去られることがない」「とこしえの名」を与えられる時が来る、と約束してくださったのです。この宦官には、「息子、娘を持つにまさる記念の名」を与えられるということが、何を意味しているかは分からなかったでしょう。それでもこの神様の約束が実現することによって、自分も神様の救いにあずかれるはずだ、と思ったに違いない。この約束の実現にこそ、神様が自分に与えてくださる救いがある、虚しさと迷いからの解放がある、と思ったに違いないのです。しかし彼はどのようにしてこの約束が実現するかは分かりませんでした。だからなおイザヤ書を読み続け、その手掛かりを求めていたのです。
手引きしてくれる人がなければ
フィリポが馬車に走り寄ると、この宦官がイザヤ書を朗読しているのが聞こえてきました。それでフィリポは「読んでいることがお分かりになりますか」と尋ねました。すると宦官は「手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう」と答えました。このとき彼が朗読していたイザヤ書の言葉が32、33節に記されています。これはイザヤ書53章の一部です。私たちの聖書のイザヤ書53章の言葉と違うのは、宦官が読んでいた聖書がギリシア語訳の旧約聖書、「七十人訳」であったからでしょう。しかし言葉の違いがあっても、「主の僕の歌」と呼ばれるイザヤ書53章は、「主の僕」が多くの人たちの罪を、その人たちの代わりに負って、苦しみを受け、死ぬことによって、その人たちを罪から救う、と預言しています。宦官はこの箇所を読んでいましたが、34節で「預言者は、だれについてこう言っているのでしょうか。自分についてですか。だれかほかの人についてですか」と言っているように、この僕が誰のことを言っているのか分かりませんでした。預言者自身のことを言っているのか、ほかの人のことを言っているの分からなかったのです。だから彼はフィリポに、「手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう」と言いました。「手引きしてくれる人がなければ」は、直訳すれば、「私を導いてくれる人がいなければ」となります。正しい聖書の読み方に導いてくれる人がいなければ、聖書を正しく説き明かしてくれる人がいなければ、と言っているのです。
御子によって与えられる本当の救い
そこでフィリポは、35節にあるように「聖書のこの個所から説きおこして、イエスについて福音を告げ知らせ」ました。この「主の僕」こそ、主イエス・キリストであると説き明かしたのです。イザヤのこの預言は、主イエス・キリストが私たちの罪をすべて背負って、私たちの代わりに十字架で死んで、復活してくださったことによって成就し、私たちの罪の赦しと救いが実現した、と伝えたのです。このキリストの十字架と復活によって、あの「異邦人も宦官も神様の民に加えられる」という神様の約束が実現しました。あの大きな隔ての壁が取り除かれて、この宦官に、神様の救いにあずかり、神様の民に加えられて生きる道が開かれたのです。フィリポによってこのことを知らされた宦官は、「水のある所」に来ると、「ここに水があります。洗礼を受けるのに、何か妨げがあるでしょうか」と言いました。そして「フィリポと宦官は二人とも水の中に入って行き、フィリポは宦官に洗礼を授けた」のです。この宦官は、フィリポが聖書から説き明かした「イエスについての福音」を信じ、ほかならぬ自分の救いのために主イエス・キリストが十字架で死んで、復活してくださったと信じ、洗礼を受け、救いにあずかり、神様の民に加えられ、教会のメンバーとされたのです。イザヤを通して神様は、子孫を残せない宦官に、「息子、娘を持つにまさる記念の名」を与えると約束されていました。この神様の約束がキリストによって実現しました。この宦官は洗礼を受け、救いにあずかることによって、「息子、娘を持つにまさる記念の名」、すなわち「キリスト者」という名を与えられ、血縁によるのではない、教会の家族を、神様の家族を与えられたのです。宦官が求めていた本当の救いは、神様の独り子イエス・キリストの十字架と復活にこそありました。独り子イエス・キリストによって神様が与えてくださった本当の救いによって、彼は自分の人生に対して抱いていた虚しさや迷いから解放されたのです。フィリポと宦官が「水の中から上がると、主の霊がフィリポを連れ去った」と言われています。けれども「宦官はもはやフィリポの姿を見なかったが、喜びにあふれて旅を続けた」のです。抱えていた虚しさや迷いから解放されたからこそ、彼は喜びにあふれて旅を続けることが、その人生を歩み続けることができたのです。
自分に関わることとして示されて
私たちの中にも、本当の救いを求める中で、聖書と出会い、神様を知り、その神様を礼拝したいという思いが与えられ、教会の礼拝に通うようになった、そのような経験をした方も少なくないでしょう。しかし私たちは自分で聖書を読んだだけで、聖書が語っていることを本当に分かるわけではありません。聖書が誰を証ししているのか分からないのです。私たちにも、「手引きしてくれる人がなければ」ならない、聖書を正しく説き明かしてくれる人がいなければならないのです。私たちは教会の礼拝で、聖書の説き明かしを聞くことによって、聖書が主イエス・キリストを証しし、その福音を告げていることを示されます。しかも他人事としてではなく、自分に関わることとして示されるのです。私たちは、あの宦官がそうであったように、主イエス・キリストがほかならぬ自分の救いのために十字架で死なれ、復活されたことを示され、そのことを信じ、洗礼を受け、救いにあずかり、神様の民に加えられ、教会のメンバーとされるのです。
すべての人への招き
まだ洗礼を受けておられない方、求道者の方の中には、自分が洗礼を受け、神様の民に加わることには、大きな隔ての壁があるように感じておられる方もいらっしゃるかもしれません。しかしあの宦官が直面したような隔ての壁はもはやありません。キリストによって、あらゆる隔ての壁は取り除かれたからです。年齢、性別、民族などに関係なく、すべての人がキリストによる救いを信じ、洗礼を受けて、神様の民に加えられ、教会のメンバーとなることへと招かれているのです。
虚しさや迷いからの解放
私たちの多くは、すでにこのキリストによる救いにあずかっています。しかしそれでもなお私たちは、人生の歩みの中で手放したもの、失ったものを思い、虚しさを感じ、過去の決断は本当に正しかったのだろうかと迷うことがあります。そのような虚しさと迷いを抱えながら私たちは、主の日の礼拝に集います。しかしその礼拝で、聖書の説き明かしを聞き、キリストの十字架と復活による救いを示され、これまで手放したもの、失ったものがあったとしても、それらにはるかにまさる大きな恵みを、大きな愛を与えられていることに気づかされます。神様の民に加えられて、教会のメンバーと共に生かされていることを知らされるのです。そのことを通して私たちは抱えていた虚しさや迷いからの解放を与えられ、喜びに溢れて新しい週の歩みへと遣わされていくのです。
聖霊の働き
エチオピア人の宦官に目を向けてきました。彼の姿に私たち自身の姿も重ねてきました。しかしこの箇所の主役は、実はこの宦官ではありません。フィリポでもありません。聖霊なる神様です。「主の天使」に命じられてフィリポは出かけて行きました。「主の天使」とは聖霊のお働きの現れと言ってよいでしょう。そしてフィリポは、「“霊”」から、つまり聖霊なる神様から、「追いかけて、あの馬車と一緒に行け」と言われて、宦官のもとにいき、そこで聖書を説き明かして、キリストの福音を語りました。宦官がその福音を信じたので彼に洗礼を授け、しかし洗礼を授け終えると、「主の霊」がフィリポを連れ去りました。聖霊がフィリポを宦官のもとに遣わし、聖霊によってフィリポは宦官に聖書を説き明かし、洗礼を授け、聖霊がその務めを果たしたフィリポを連れ去ったのです。それだけではありません。宦官が聖書に出会い、神様を知り、神様を礼拝したいという思いを与えられ、エルサレムに礼拝に行ったのも、聖霊のお働きによることです。聖霊によって、この宦官は聖書を「手引きしてくれる人」との出会いを与えられ、キリストの福音を示され、それを信じ、洗礼を受け、救いにあずかり、喜びに溢れてその人生を歩んだのです。聖霊なる神様こそが、この宦官に聖書との出会いを、神様との出会い、礼拝との出会いを与え、キリストを信じる信仰を与え、洗礼による救いを与え、虚しさと迷いからの解放を与え、溢れるほどの喜びを与えてくださったのです。
同じ聖霊が私たち一人ひとりにも働いています。同じ聖霊が私たち一人ひとりに、聖書や神様との出会いを与え、礼拝へと導き、信仰を与え、洗礼によって救いにあずからせます。これまでの自分の歩みに虚しさや迷いを抱かずにはいられないときも、主の日の礼拝において、私たちは聖霊によってその虚しさや迷いからの解放を与えられ、神様の大きな恵みと愛を与えられて、喜びに溢れて新しい週を歩んでいくことができるのです。