夕礼拝

立ち帰りなさい

「立ち帰りなさい」 伝道師 乾元美

・ 旧約聖書:イザヤ書 第6章9-10節
・ 新約聖書:使徒言行録 第28章16-28節
・ 讃美歌:6、442

<すべての人のための福音>
キリストの福音を宣べ伝えているパウロは、いよいよローマへやってきました。命を狙われたり、海で遭難したり、大変な苦難を乗り越えて、やっとたどり着いたローマです。ローマで伝道をすることは、神がご計画し、お命じになったことでした。
パウロが主イエスを信じる者となった時、神はパウロを異邦人へ遣わすために選んだ、とお語りになり(使徒9:15、26:17)、また主イエスは「エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない」(使徒23:11)とパウロに語りかけられました。
ローマは当時の人からすると、全世界の中心でした。ユダヤ人の地、エルサレムから、ローマでキリストが宣べ伝えられるようになる、ということは、まさに世界のすべての人々に福音が宣べ伝えられる、ということを意味しています。
そして、この神の大きなご計画には、もちろん、時代を隔て、遠い地に生きるこの私たちが、福音を聞く、ということも含まれているのです。

福音とは、良い知らせ、という意味です。それは、主イエス・キリストが、神が遣わして下さった救い主であり、この方を信じることで救われる。主イエスの十字架の死は、私たちの罪の赦しのためであり、主イエスの復活は、私たちの終わりの日の復活の希望である。この、神の恵みの知らせです。

この福音は、すべての人に向けられています。こういう人が救われる、こういう資格や条件がいる、ということは何もありません。ただただ、キリストの救いを信じ、受け入れることだけです。
それは裏返せば、人が神の前で正しい者であることや、救いを受けるのにふさわしい資格を持つことや、条件を満たすようなことは、誰ひとり出来ないということです。私たちは、神の前で、誰も完全な者、正しい者であることは出来ません。それほどに私たち人間の罪は深刻で、手の付けようがないほどである、ということなのです。

神が望んでおられる私たちの歩みは、神を愛し、また隣人を愛することです。しかし、人は罪に捕らわれ、それが出来ません。造り主である神を忘れ、神から離れ、自分中心になり、人を傷つけ、自分を傷つけ、神の御心に従わない歩みをし続けています。誰から見ても、この人は優しくて、正しくて、立派で良いことばかりをしていると思われる人でも、完全ということは決してあり得ません。必ず誰しもが、弱さや、欠けを抱えているのです。

それをただ一人、まことの正しい人として、私たちの世に来て下さり、私たちの罪を赦して下さるために、ご自分の命を差し出して、神に執り成して下さったのが、救い主イエス・キリストです。
ですから、世界のすべての人々は、十字架の死によって私たちを罪から贖い出して下さったこの方に頼るしかありません。
神が遣わして下さったこの方に頼るのならば、どんな人生を歩んできた者も、どんな弱さや、また醜さや、傷を抱えているとしても、それも含めてすべて、自分自身を丸ごと主イエス・キリストの十字架にお委ねして良いのです。そうして、キリストの死によって罪赦され、新しくされ、神の子としていただくことが出来るのです。罪の支配から解放され、神のご支配の中を歩む者、聖霊に導かれつつ、神に喜ばれる歩みを求める者となることが出来るのです。それは、私たちの最も幸いな歩みです。
神が、招いて下さる者ならだれでも、この救いの約束を受けることが出来ます。(使徒2:39)

他の聖書の箇所で、パウロは「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。」(ガラテヤ3:26-28)と語っています。
神に造られ、愛されているすべての人々が、何の区別もなく、主イエス・キリストのみ業によって、ただキリストを信じる信仰によって、神のもとに立ち帰り、救いに与るようにと招かれているのです。

<ユダヤ人>
 そして、ローマでいよいよ、世界のすべての人々へ、この福音を告げる伝道が始まります。
 しかし、パウロがローマの地で一番に伝道した相手は、誰だったでしょうか。17節には、「パウロはおもだったユダヤ人たちを招いた」とあり、また23節には、日を決めて大勢のユダヤ人がパウロの宿舎にやってきて、彼らに向かってパウロが福音を語ったことが書かれています。  

 ユダヤ人と言えば、パウロもユダヤ人です。ユダヤ人は、旧約聖書に記されている、神に選ばれたイスラエルの民です。神に与えられた律法を守り、割礼という神の民のしるしを受け、神に従って歩むべき民です。
国は滅ぼされて無くなってしまいましたので、ユダヤ人は、エルサレムに住んでいる者たちと、エルサレムを離れて異国の各地に散らばって生活している者たちに分かれていました。パウロは、散らばって生活している方のユダヤ人でしたし、このローマにもそのようなユダヤ人たちがいたのです。

しかし、パウロがローマへやって来たのは、ユダヤ人以外の世界の人々、つまりユダヤ人が「異邦人」と呼んでいた人々へ伝道するためでした。それが神のご計画でしたし、何年もかかって、やっとその目的を達成するために、ローマにたどり着いたのです。
それなのに、なぜそこで、パウロはまずローマにいる同胞のユダヤ人たちに、福音を伝えようとしたのでしょうか。

<イスラエルの希望>
 パウロは、これまでの他の場所での伝道においても、常に、まずユダヤ人に語ることから始めてきました。なぜなら本来、このユダヤ人たち、イスラエルの民こそ、世界のすべての人々の救いのために、神に選び出され、約束を受けた民だったからです。救い主が来られるというその知らせを、一番に待ち望んでいた民だったからです。

 でもイエス・キリストのお姿は、ユダヤ人たちが期待し、思い描いていた救い主の姿ではありませんでした。馬小屋で生まれた貧しい大工の息子で、最後には神に呪われていると言われる十字架で殺されてしまうような救い主を待っていたのではありませんでした。
 彼らは、自分たちの失われた王国を地上に再建する、力強く、威厳ある、輝かしい王様を期待していたのです。
 ナザレのイエスという方は、その点でまったく彼らの期待外れでした。

 しかも、そのイエスによって与えられる救いは、自分たちのように選ばれ、割礼を受けた民ではなくても、信じることで誰にでも与えられるというのです。神の律法を守ったこともない者たちだ、と見下していた「異邦人」まで神が救われるということは、まるで自分たちの特権を奪われたように感じたでしょう。
神の民であり、神の律法を厳格に守り続けることが、救いに繋がると信じて歩んできたユダヤ人たちにとっては、まるでこれまでの努力が無駄であるかのように思われたでしょう。

 実際、人間のそのような努力の報酬として救いを与えられたり、特権を持つ人が救われるのではないのです。誰も、どれだけ努力しても、律法を守っても、善い行いをしても、救いを神から獲得するなどということは出来ないのです。
神の律法がイスラエルの民に与えられたのは、それが救いのために守る条件だったのではなくて、神に救い出され、選ばれたイスラエルの民が、感謝して神に応えて歩んでいくために与えられたものでした。
 しかし彼らにとって、十字架に架かって死んだイエスという方が救い主であり、この方を信じることで救われる、という教えは、大きなつまずきでしかなかったのです。

 このイエスという方は、まことに救い主です。それは、十字架の死の三日の後、神がイエスを復活させられたことで、明らかにされました。弟子たちは死に勝利された復活の主イエスと共に過ごし、天に昇られるのを目撃し、聖霊を受け、このイエスこそ、神が遣わして下さった、約束の救い主であると告げ始めました。

 このことを聞いて、あるユダヤ人は受け入れましたが、あるユダヤ人は受け入れませんでした。この分裂は、どこでも福音が語られるところで起こりました。22節で、「この分派」つまりキリストの教えについては、「至るところで反対があることを耳にしている」とローマのユダヤ人たちが行っている通りです。

 福音に反発するユダヤ人は、キリストを信じる者、教会を、迫害し始めました。しかし、そうやって居場所を追い出されたキリスト者たちが、また行った先の土地でこの福音を語り、また迫害に遭い…ということを繰り返して、その結果、キリストの福音は次の地から次の地へ、遠く異邦人まで、広まっていくことになったのです。パウロが囚人としてローマに来ることになったのも、出来事を辿れば、ユダヤ人の激しい反発が原因です。

 パウロも、はじめはユダヤ人の中でも最も厳格に律法を守るグループに属し、キリストに反対し、先頭に立って教会を迫害していました。
 しかし、パウロは復活し生きておられる主イエスと出会いました。そして、パウロがしていることは、神が遣わして下さった救い主を迫害し、神の救いのご計画に逆らっているということを知らされたのです。
 パウロは主イエスが救い主であるということを受け入れ、洗礼を受けて罪の赦しを与えられ、主イエスの復活の命と希望を与えられ、今度は前と正反対に、キリストを伝道し、迫害される者となったのです。

だからこそパウロは、同胞たちも、かつての自分と同じ怒りと、苦しみと、抵抗と、過ちの中にいることをよく分かっています。本当は、イスラエルの民が待ち望み続けた救い主がやってきたのですから、それはそれは大きな喜びに沸き返ることであるはずなのです。20節でパウロが、自分が宣べ伝えていることは「イスラエルの希望」である、と言っている通りなのです。
 パウロはユダヤ人たちに、23節以降にあるように、朝から晩まで、神の国、つまり主イエス・キリストによって実現する神のご支配について証しし、そしてモーセの律法や預言者の書を引用して、イエスについて説得しようとした、とあります。モーセの律法や預言者の書とは、今の私たちでいう旧約聖書のことです。イスラエルの民に与えられた預言、神の約束が、確かに主イエスという方において実現している、ということを、懸命に説き明かしたのです。

 今、私たちから見たとき、主イエス・キリストの救いは、イスラエルの民、ユダヤ人の神の民としての歴史を抜きにして語ることは出来ません。キリスト教は、主イエスのことが語られている新約聖書だけ読んでいれば良いのではないのです。神の救いのご計画は、選ばれたイスラエルの民の歴史を通して実現されたからです。そして、この神のご計画の歴史の中に、今の私たちも、キリストを通して結び付けられ、神の民として連なっているのです。
主イエスによって、神は信じる者を、新しい神の民、新しいイスラエルとして集め、御自分の民として守り導いて下さるのです。

さて、パウロは福音を懸命に語りましたが、このローマでも再び、ユダヤ人たちはキリストを信じる者と、信じない者に分裂しました。こうしてローマにおいても、福音がユダヤ人に受け入れられず、異邦人へ向かう、ということがはっきりと起こったのです。

<心が鈍る>
 パウロは、立ち去ろうとするユダヤ人たちに、「聖霊は、預言者イザヤを通して、実に正しくあなたがたの先祖に、語られました」と言って、26~27節のみ言葉を告げました。
「この民のところへ行って言え。あなたたちは聞くには聞くが決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、立ち帰らない。わたしは彼らをいやさない。」
そして、神の救いは異邦人に向けられた、と言います。  

 この言葉は、どういう意味なのでしょうか。パウロは、福音を受け入れないユダヤ人たちを見限って、聖書を引用して捨て台詞を吐いたのでしょうか。
 そうではありません。それならパウロは、もうとっくにユダヤ人に伝道することを止めていたでしょう。これまでも、キリストに反対するユダヤ人に迫害され、石を投げつけられ、暗殺の計画を立てられ、訴えられて囚人になっているのです。でも、パウロは心からユダヤ人が神に立ち帰ることを望んでいるし、キリストによって与えられる救いを受け入れて欲しいと願っているのです。

 引用されているイザヤ書は、イスラエルの民が頑なにされていることが語られていました。イスラエルの民の頑なさは、この預言者イザヤの旧約聖書の時代もそうでありましたし、またパウロが告げたこの時も、ユダヤ人は同じように頑なでした。   

27節に「この民の心は鈍り」とありますが、「鈍る」というのは「太くなる」と訳せる言葉でもあります。心が太っている。自分で蓄えた様々なもので満たされて、外から神が与えて下さるものを、受け入れられなくなっているのです。
そのような虚しいものによって太くなった心は、まるで満腹でいるような気になって、自分が本当は危機的な状況にいることが分からなくなってしまいます。そうして耳を閉じ、目を閉じ、自分自身の中に閉じこもってしまうのです。鈍い心になってしまうのです。
彼らの場合は、誤った民の誇りと、律法による正しさによって自分は救われると思い込んでいる心です。
 しかし、人が自分自身を満たそうとしているものや、世のものは、決して人を救うことが出来ません。死に打ち勝って、新しい命を与えることは出来ません。必ず失われていきます。人は、自分が依り頼み、これによって生きていると思っていることを捨て去って、心をキリストに明け渡し、キリストの新しい命を注いでいただかなければならないのです。
しかし、ユダヤ人は心を鈍らせ、福音を拒むのです。

<ユダヤ人から異邦人へ>
ところが、それは一方で、彼らが主イエスの福音を拒んだために、この福音は異邦人へと広まり、すべての人々へ、世界へと告げ知らされることになりました。
このユダヤ人の頑なささえも、神が、世界のすべての人を救って下さるために、ご計画の内に置かれ、用いておられるのです。
 救いは、神に主導権があります。神はご自分が選んだ者に、救いをお与えになります。それは人が決めたり、思い込んでいる順序や方法ではありません。人の条件でも、資格でもありません。
 このことが、まさに自分は神の民で、救われる権利があると自負しているユダヤ人が福音を拒み、まったく神の救いから漏れていると思われていた異邦人に福音が語られ、受け入れられていく、ということにおいて、鮮明に表れています。
「ユダヤ人である」ということは、もはや救いの条件では全くないし、救いの順番が先である、ということでもないのです。

 救いには、神の自由な選びによるご計画があります。
しかしそれは、じゃあ私はもしかしたら救われない方に選ばれているかも…と心配するためのものではありません。
神の選びは、むしろ救われた者が、まったく救われるはずのない、何の条件も満たすことの出来ない自分が救われたのは、ただ、神が選んで下さったという以外に理由がない、ということを言っているのです。そして、ただただ、神に感謝をすることしか出来ないのです。徹底して、救いが神の一方的な恵みであると、知ることなのです。

 ですからパウロは、その神の選びとご計画があることを信じ、ユダヤ人たちの頑なさを悲しみ、憂いつつも、彼らも確かに神の恵みの内にあることを信じて、いつか必ずキリストを信じることを期待して、諦めずに真っ先にユダヤ人に福音を語り続けてきたのでしょう。
 ここではまた拒まれるのですが、それも神の愛のご計画の中に覚え、パウロは、このローマで、いよいよ神が選び、招かれた異邦人へ福音が告げられていくのだ、ということを宣言するのです。

 この福音を今ここで聞いている私たちも、まったくその神の選びによって、この礼拝へと招かれたのです。誰も救いにふさわしくありません。誰も正しくありません。でも、一方的な神の恵みによって、あなたは主イエス・キリストの罪の赦しと、復活の命にあずかるようにと、招かれ、語りかけられているのです。
この招きに応えて、神に立ち帰りましょう。この救いをただただ感謝して受け取りましょう。余計なもので太くなった心を明け渡し、神の恵みに飢え渇いて、救いを求める者でありたいと願います。
そして、私たちの周りで、まだ福音を聞いていない者も、反対をする者も、この神の深い憐れみの中に、救いのご計画の中にあることを信じ、主イエスこそ救い主です、ということを、私たちも諦めずに、大胆に語っていきたいのです。

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