主日礼拝

夜は更け、日は近づいた

「夜は更け、日は近づいた」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:詩編 第30編1-13節
・ 新約聖書:ローマの信徒へ手紙 第13章8-14節
・ 讃美歌:115、394、475

偽りに満ちた愛
 イエス・キリストを信じて洗礼を受け、キリストによる救いにあずかった信仰者、つまりクリスチャンはどのような生き方をしていくのでしょうか。ローマの信徒への手紙の12章以下はそのことを語っています。その教えを一言で言えば「愛に生きる」ということです。先週の礼拝で説教して下さったナグネ先生が語って下さったのもそのことでした。神は愛であり、その愛によってこの世界と私たちを創造し、愛に生きるべき者として私たちに命を与えて下さったのです。その神のみ心に従って愛に生きることが、聖書が教える人間の生き方の根本です。けれども私たち人間は、神の下で生きることをやめ、神に逆らって自分が主人になって生きようとする罪に陥ったために、その愛を失ってしまっています。愛することができなくなっているのです。いや私たちだってある程度は愛することができるし、現に愛してもいる、と思います。しかし12章9節には「愛には偽りがあってはなりません」とありました。私たちの持っている愛、私たちが人を愛していると思っている愛は、偽りに満ちたものとなっているのです。偽りの愛というのは要するに、相手を愛しているつもりでも、実は自分自身を愛しているに過ぎない、という愛です。そういう偽りの愛しか持っていない私たちの言葉は、相手に通じていきません。同じ日本語を話しているはずなのに、お互いに話が通じ合わず、交わりが築けないということが起っているのです。

偽りのない愛に生きることを求めて
 そのような罪に陥っている私たちが、主イエス・キリストによる救いにあずかって、罪を赦されて新しく生きていく、それがキリストによる救いです。その救いにあずかったキリスト信者は、偽りのない愛に生きる新しい生き方を追い求めていくのです。偽りのない愛に生きるとはどのようなことなのでしょうか。そのことが、12章の9-21節に語られていました。そこに語られていたのは、悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思うことであり、自分を迫害する者のために祝福を祈ることであり、喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣くこと、高ぶらず、身分の低い人々と交わりを持つこと、悪をもって悪に返さず、善を行うこと、自分で復讐せず、神に委ねることなどでした。これらを一言でまとめているのが、最後の21節の「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」です。偽りのない愛に生きるとは、こういうことなのです。つまり偽りのない愛というのは、自分に敵対し、自分を苦しめる人をこそ愛する愛です。自分が気に入っている、好きな人を愛するというのは、結局は自分を愛しているに過ぎないのであって、それは真実の愛とは言えません。偽りのない愛は、敵対する関係の中で、自分から相手の隣人となり、交わりを築こうとすることです。ルカによる福音書第10章の「良いサマリア人のたとえ」がその愛を描いていると前回も申しました。強盗に襲われて傷つき倒れている人を見て、同胞であるユダヤ人の、しかも神に仕える祭司やレビ人は、面倒なことに関わりたくないから避けて通って行ったのです。しかしユダヤ人に蔑まれ、嫌われていたサマリア人が彼を介抱し、宿へ連れて行って世話をしました。それは確かに面倒なことだし、お金もかかるし、旅の予定も変更しなければなりません。それをしたところで何か得になるわけではないし、ユダヤ人である相手から感謝されるかどうかも分からないのです。そういう中で隣人となって相手を助けることこそが偽りのない愛です。主イエス・キリストは、あなたがたもこのような愛に生きなさいとお語りになりました。それは、主イエスをこの世にお遣わしになった父なる神が、このような偽りのない愛を私たちに注いで下さったからです。神の独り子イエス・キリストが、神に背き逆らっている私たちの罪をご自分の身に背負って十字架にかかって死んで下さり、それによって私たちの罪の赦しを実現して下さったのです。つまり神の子である主イエスが、罪の中で苦しんでいる私たちの隣人となって下さり、私たちの罪を赦して神の子として下さったのです。この主イエス・キリストの偽りのない愛を受けた者として、自分も偽りのない愛で人を愛していく、それがキリスト信者の生き方です。そのことは、私たちの中に元々ある愛を燃え立たせることによって出来ることではありません。神の霊、聖霊が私たちに注がれ、私たちを新しくして下さらなければ、偽りに満ちた私たちの愛が、聖霊の力によって偽りのない愛に変えられなければそれは実現しないのです。ですから、聖霊を注がれ、新たにされて、偽りのない愛に生きることを祈り求めつつ歩むことが、キリスト信者の生き方の基本なのです。
 13章の1-7節に語られていたのは、この偽りのない愛が、個人的な関係においてのみでなく、「上に立つ権威」つまり国家権力の下で生きることにおいても求められているということでした。国家の権力やその秩序を神によって立てられたものとして認め、受け入れ、それに従うことがそこには勧められています。それは、この社会において権力を握っている人々を、またこの社会を共に築いている人々を、私たちが愛し、その人々の隣人となって生きることへの勧めです。つまり国家や権力、社会の秩序との関わりも、偽りのない愛に生きることの一環として位置づけられているのです。それゆえに、本日の8節以下では再び、「互いに愛し合う」べきことが教えられています。愛に生きることが、キリスト信者としての新しい生き方の中心であることがこの8節において再び語られているのです。

愛における負債
 その8節には「互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません」とあります。この「借り」という言葉は7節の「すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい」の「義務」と同じ言葉です。「借りがある」とは「義務がある」ということです。7節ではその果たすべき義務として、「貢を納めるべき人には貢を納め、税を納めるべき人には税を納め」と語られていました。つまり、税金を納めることも含めた、この社会における様々な義務をしっかり果たすべきことが教えられていたのです。それは、この社会において隣人と共に生きる上での義務をしっかり果たしなさいということです。偽りのない愛に生きるとはそういうことでもあるのです。
 しかし8節においては、だれに対しても借りがあってはならない、つまり自分の義務をしっかり果たしなさいという教えに「互いに愛し合うことのほかは」という留保がつけられています。これはどういうことなのでしょうか。税金を払う義務はしっかり果たさなければならないが、愛し合うことにおいては借りがあってもよい、義務を果たさないことがあってもよい、つまり不義理をしてもよい、ということでしょうか。ここに語られているのはそういうことではなくて、互いに愛し合うことにおいては、私たちの借り、つまり義務が無くなることはない、ということでしょう。もうこれで愛する義務は果たし終えた、もう借りはない、もう愛さなくてよいということはないのです。つまりこれは、愛においては借りがあってもよいということではなくて、私たちは互いに愛し合うことにおいて常に借りがある、義務があるのだ、ということです。他のこと、例えば税金を払うとか、あるいは文字通りの借金を返すことにおいては、これで義務を果たし終えた、返済が終わった、ということがあるし、そうでなければならない。けれども隣人を愛することにおいては、「もう十分」ということはないのです。「偽りのない愛」に生きるとはそういうことです。実は自分を愛しているに過ぎない偽りの愛においては、「これでもう十分、これ以上は必要ない」という思いが生じます。これ以上したら自分が損をする、と思うところに愛の限界があるのです。しかし偽りのない愛、あのサマリア人の愛にはそういう限界がありません。これくらい愛すれば十分だろう、という思いを持っていたら、あのような愛に生きることは出来ないでしょう。人を愛することにおいては、常に借りがある、義務がある、それが、偽りのない愛に生きる者の思いなのです。国家や社会の中で、共に生きる人々に対する義務をしっかり果たして、誰に対しても借りがないように生きなさいというのが1-7節の教えでした。しかし、隣人を愛することにおいては、キリスト信者はいつでも負債を、義務を負って生きるのだ、とパウロは教えているのです。

新しい生き方を可能にするものは何か
 この「愛における負債」ということについては、来週の説教においてもう一度考えたいと思っています。本日この箇所において見つめたいのは、「偽りのない愛」に生きることをその根本とするキリスト信者としての新しい生き方を支える土台は何なのか、ということです。言い替えれば、私たちはどのようにしたら偽りのない愛に生きる新しい生き方を身に着けることができるのだろうか、ということです。先程も申しましたように、この手紙において、キリスト信者の生き方について語られているのは12章からですが、その12章の始めの所、1、2節は、実はそのことを語っていたのです。12章の1節にはこうありました。「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」。ここでパウロは、キリスト信者の生き方についての勧めをこれから語っていく土台として、「神の憐れみによってあなたがたに勧めます」と言っています。神の憐れみこそが、信仰者の新しい生き方を支える土台なのです。生まれつきの私たちは罪に支配されてしまっていて、自分の力で救いを得ることができないし、偽りのない愛に生きることができません。その私たちを神は憐れんで下さり、独り子イエス・キリストを遣わして下さり、その十字架の死によって罪を赦して下さいました。主イエス・キリストによる救いは、私たちの力や善い行いによって獲得されるのではなくて、ただ神の憐れみによって与えられる救いです。その救いにあずかった私たちは、感謝して、憐れみ深い神に自分自身をお献げするのです。それが私たちの礼拝です。礼拝において私たちは、自分の体を憐れみ深い神にお献げするのです。それによって私たちの体はもはや自分のものではなくなり、神のものとなります。するとそこに、12章2節に語られていることが実現するのです。2節には、「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」とあります。神の憐れみによる救いに感謝して自分を神にお献げして礼拝する時に、私たちは新しくされ、変えられるのです。つまりそこには聖霊が働いて下さり、私たちを新しく生かして下さるのです。生まれつきの私たちはこの世に倣って、この世の思いに従って生きています。そこでは、「何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえる」ことができないのです。その私たちが、「心を新たにして自分を変えていただき」、神の御心をわきまえて生きる者へと、つまり偽りのない愛に生きる者へと新たにされるのです。神の憐れみによる救いに感謝して自分を神にお献げする礼拝において、聖霊のお働きを受けて新しくされることこそが、キリスト信者としての新しい生き方を可能にするのだということを、パウロは12章の始めにおいて既に語ったのです。

もう一つの土台
 本日の箇所である13章の11節以下においても、パウロは教会の人々に、キリストによる救いにあずかった者としての新しい生き方を勧めています。そしてその冒頭に、その新しい生き方を支え、可能にするもう一つの土台、根拠を語っているのです。それは、「あなたがたは今がどんな時であるかを知っています」ということです。キリストを信じているあなたがたは、今がどんな時であるかを知っている。そのことが、信仰者としての新しい生き方を支える土台なのだ、と言っているのです。しかし、「今がどんな時であるかを知っている」というのはどういうことなのでしょうか。実はここの原文には、「今が」という言葉も「どんな」という言葉もありません。原文を直訳するとここは、「あなたがたは時を知っている」となるのです。キリストを信じて生きているあなたがたは、時を知っている、そのことが、あなたがたの新しい生き方を支えていくのだ、とパウロは言っているのです。

時を知っているキリスト信者
 「時を知っている」というのは、時計を見て今何時何分かを知る、というのとは全く違うことです。この「時」は、神による救いのみ業の時です。神がこの世界の中で私たちのための救いのみ業を行って下さる、その特別な時です。キリストを信じる者は、その神の特別な時を知っているのです。神がその独り子イエス・キリストをこの世に遣わして、救いのみ業を行なって下さったことを知っているからです。私たちは、神の独り子であられる主イエス・キリストが、私たちのためにこの世に来て下さり、私たちと同じ人間としてこの世を生きて下さり、そして私たちの全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さり、復活して父なる神のもとに昇られたことを信じています。神が過去において既にこの救いのみ業を行って下さったことを知っており、信じているのです。それを知っている私たちは、神が将来、これからして下さる救いのみ業をも信じることができます。それは、天に昇り、父なる神の右に座しておられるキリストが、いつかもう一度この世に来て下さって、全ての者をお審きになること。それによってこの世が終り、神の国が完成し、私たちにも復活と永遠の命が与えられること。そのようにしてキリストによる救いが完成することです。主イエスによって過去になされた救いのみ業を信じる者は、将来なされるこの救いの完成をも信じることができるのです。「あなたがたは時を知っている」というのはそういうことです。過去から現在そして未来へと流れていく時の中に、神が救いのみ業を行って下さる決定的な時、他の時とは意味が違う特別な時がある、ということを私たち信仰者は知っているのです。過去においては主イエス・キリストが地上を歩まれた時がその特別な時だったし、将来においては、キリストがもう一度来て下さることによって神が私たちの救いのみ業を完成して下さる特別な時が来るのです。主イエス・キリストを救い主と信じる信仰者は、このことを知っているのです。

夜は更け、日は近づいた
 その信仰によって、私たちが生きている今のこの時を見つめるならば、11節の後半から12節に語られていることが見えて来ます。「あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです。夜は更け、日は近づいた」。私たちが生きている今のこの時は、夜更け、真夜中です。つまり今私たちは深い闇の中にいるのです。この世界は闇の力、罪と死の力に覆われています。私たちも、罪に支配されてしまっているために偽りの愛しか持つことができず、お互いの言葉が通じずに交わりが破壊されてしまうことをいつも体験しています。また死の力が今のこの時を支配しており、私たち自身を脅かしていると共に、愛する人々を私たちから奪っていきます。神による救い、神の恵みのご支配の光は、まだどこにも見えないのです。しかし、神が救いのみ業を行って下さる特別な時を示されている私たちは、その闇の中で、「夜は更け、日は近づいた」と信じることができるのです。夜の闇が永遠に続くことはない、夜が更ければそれだけ朝が近づいているのだということを確信することができるのです。それは地球の自転によって夜はそのうち朝となり昼となるという自然なことではありません。罪と死の支配する夜は、何時間かすれば必ず夜明けが来るというものではないのです。夜明けは、自然に、自動的に来るのではなくて、神の救いのみ業によって、神の恵みのみ心によってもたらされるのです。神が救いのみ業を行って下さる特別な時があることを知っている私たちは、夜の闇の中で、この神によってもたらされる夜明けが近づいていることを信じて、それを待ち望むことができるのです。先程共に読まれた旧約聖書の箇所、詩編第30編の6節に、「泣きながら夜を過ごす人にも、喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる」とありました。嘆き悲しみつつ夜を過ごした人が、喜びの歌と共に朝を迎えることができるというのは、自然にそうなる、というわけではありません。神が生きて働いて下さっているのだから、私たちはこのように信じて待ち望むことができるのです。

闇の行いを脱ぎ捨てて
 神が私たちに約束して下さっている喜びの朝とは、主イエス・キリストが神としての栄光をもってもう一度来て下さり、そのご支配があらわになるその時です。その時父なる神は、罪と死の力を滅ぼして下さり、私たちにも、主イエスと同じ復活と永遠の命を与えて下さるのです。そのようにして私たちの救いが完成する、その夜明けを、私たちは信じて待ち望みつつこの世を生きるのです。「だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう」とパウロは言っています。キリストによる救いにあずかった信仰者への、新しい生き方の勧めです。信仰者は、闇の行いを脱ぎ捨てて新しく生きることができるのです。闇の行いとは、罪と死に支配されている今のこの世の闇のみを見つめ、イエス・キリストによって神が既に行い、将来行って下さる救いのみ業を見つめようとせず、この世に倣い、この世の思いに従う生き方です。生まれつきの私たちはこの闇の行いに生きていました。自分自身を愛することしかできず、迫害する者を呪い、喜ぶ者を妬み、泣く者を見て同情しながらも優越感を抱き、自分を賢い者とうぬぼれて人を蔑み、悪に対してはそれ以上の悪をもって仕返しをし、自分の怒りに任せて復讐をし、善をもって悪に打ち勝つのではなくて、ますます悪の奴隷となっていくような生き方です。しかしイエス・キリストによる神の救いにあずかった私たちは、そのような闇の行いを脱ぎ捨てることができるのです。何故なら、日が近づいていることを知っているからです。罪と死の支配する闇の中に、主イエス・キリストが既に来て下さり、十字架の死と復活によって、私たちの罪を赦して下さり、神の子として新しく生かして下さる救いのみ業を行って下さったのです。そして天に昇り、今は父なる神のみもとにおられる主イエスが、いつかもう一度来て下さり、その救いを完成して下さり、罪と死を滅ぼして私たちにも復活と永遠の命を与えて下さるのです。そのことを信じて待ち望むところに、私たちの新しい生き方、善をもって悪に打ち勝ち、偽りのない愛に生きる新しい歩みを可能にする土台があるのです。

夜明けを待ち望みつつ
 私たちの周囲は、今はまだ暗い闇に覆われています。しかし、主イエスがもたらして下さる夜明けは確実に近づいています。眠りから覚めるべき時が既に来ているのです。夜明けに備えて、日の光の下を歩むのに相応しい新しい生き方を身につけていきたいと思います。これからあずかる聖餐は、そのために備えられているものでもあります。聖餐のパンと杯を受けることによって私たちは、主イエスが世の終わりに約束して下さっている神の国の食卓にあずかる恵みを前もって味わい、その希望を新たにされるのです。それによって、近づいている夜明けを待ち望みつつ、夜の闇の中を生きる力を与えられるのです。

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