「受けるよりは与える方が幸い」 伝道師 乾元美
・ 旧約聖書:イザヤ書 第43章1-7節
・ 新約聖書:使徒言行録 第20章28-38節
・ 讃美歌:18、390、72
<パウロの告別説教>
キリストの福音を宣べ伝え、各地を旅しているパウロは、これからエルサレムの教会へ向かおうとしています。エルサレムは、ユダヤ人たちの中心地であり、そこには十字架の主イエスが救い主である、という福音を受け入れない者も多くいました。その者たちにとって、パウロは邪魔者であり、暗殺の計画まで持ち上がるほどでした。
それでパウロは、エルサレムへ向かう途上のミレトスという場所から、かつて福音を宣べ伝えて教会が生まれたエフェソの地へ人をやり、その教会を指導する立場である長老たちを呼び寄せました。そうして語られたのが、18節から始まる説教です。25節に「そして今、あなたがたがもう二度とわたしの顔を見ることがないとわたしには分かっています」とパウロが語っているように、これは命を失うことも覚悟したパウロの、エフェソ教会の長老に対する、告別説教だということができます。
長い説教ですので、二週間前の夕礼拝では、その前半の27節までを共に聞きました。本日は後半の部分の28節からを、共に聞いてまいりたいと思います。
<教会とは何か>
さて、パウロは、ここで「教会」とはいったい何なのかを語ろうとしています。
教会とは、なんでしょう。この建物のことでしょうか。もしくはキリストを信じた人たちが、一緒に学んだり、協力していくために、集まった集団なのでしょうか。そうではありません。
教会とは、単なる建物の名称や、自主的な人の集まりではなく、神が恵みによって選び、招いて下さり、集められた人々の群れのことです。誰かの成果でも、功績でもありません。ですから、教会は、人のものではありません。牧師のものでも、長老のものでも、教会員のものでもない、神様のものです。
28節でパウロは「神が御子の血によってご自分のものとなさった神の教会」と言っています。神は、ご自分に逆らい、罪を犯したすべての人のために、ご自分の御子の命を与えて下さいました。罪と死に捕らわれているわたしたちを、ご自分のものとして下さるために、わたしたちの命を買い取るために、神の御子である主イエスの命が支払われたのです。わたしたちが神に対して犯した罪は、自分の命でさえも償えない、神の御子の命によってでなければ償えないほど、深く深刻なものです。
しかし、このようにして、神の救いのみ業は行われました。
神は、主イエスを死者の中から復活させられ、天に上げられました。今、生きて天におられる主イエスは、罪と死に打ち勝ち、天も地も、すべてを支配しておられます。そしてわたしたちのもとへは聖霊が遣わされて、福音を聞かせて下さり、わたしたちを、この神の救いの恵みへと招いて下さるのです。
このような、ご自分の御子の命を与えて下さるほどの、神のわたしたちへの愛と憐みの御心によって、教会は存在しているのです。
主イエスの十字架と復活の恵みを信じた者は、洗礼を受けます。主イエスの十字架の死に与って罪を赦され、また主イエスの復活の命に与って、神と共に生きる永遠の命を与えられます。主イエスと一つに結ばれるのです。また、終わりの日には主イエスのような復活の体を与えられる、真の希望を与えられています。
このように、神の救いの恵みに招かれ、主イエスと一つに結ばれた者の群れが、神の教会です。ですから、教会はキリストを頭とする、一つの体であると言われます。わたしたちは、キリストに結ばれて、体の部分部分になるのです。そして、神の御心に従って、終わりの日を待ち望んで、一つになって歩んでいくのです。
聖霊が降って、教会が誕生したペンテコステの時から、これまでの歴史の中の教会、全世界の教会、そして今のこのわたしたちの横浜の教会にいたるまで、時代も、場所も越えて、教会は神のものであり、またお一人のキリストに結ばれた一つの教会なのです。
<監督者を任命する>
しかし、同時に、わたしたちはこのように目に見える、具体的な地上の教会に属しています。世界にはそれぞれの場所にいくつもの教会が存在しています。わたしたちは、ある特定の時代の、決められた場所で生きているのですから、見えない、一つの神の教会でありながら、この時代、この場所において神を礼拝する群れとしての、目に見える教会が与えられています。
この教会において、教会が神のものであるために、神のご支配がしっかりと現されるために、神は「監督者」をお立てになりました。これは、先に「長老」と呼ばれているのと同じ人々のことを指しています。
今は、教会の体制が、長老制とか、監督制などに分かれていますが、この初代教会の時代にはまだ体制が整えられていたのではなく、「長老」や「監督」という言い方を使い分けていた訳ではありません。どちらにせよ、今の牧師、長老、執事などの教会を指導する人々のことを指しています。
パウロは28節で長老たちに、「どうか、あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください」と言い、「聖霊は、神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者に任命なさったのです」と言います。
この「群れ」というのは、羊の群れを指す言葉です。そして「世話をさせる」というのは「牧羊、羊を牧させる」という言葉です。神が召し集めて下さった群れは、羊の群れに譬えられていて、その神の大切な羊を養い、守るように、羊飼い、牧者の務めが、神によって立てられています。
教会は神が支配しておられるから、一人一人がそのことを覚えて自分で歩んでいけば良い、というものではありません。教会の群れは、まさに羊の群れです。羊は、臆病で、目も悪く、他の羊に付いて行くか、羊飼いに導かれなければ、自分で行動することが出来ません。同じように、わたしたちも、自分では何も出来ず、群れから迷い出てしまう羊のような者なのです。
教会には、未熟な者も、弱い者も、病んでいる者も、気が短い者も、疑い深い者もいます。真面目で、素直で、熱心だから、神に招かれた、というのではないからです。わたしたちは一人一人、本当に弱く、小さく、罪深い者です。しかし、ただ、神の恵みによって選んでいただきました。ですから、この群れを導く指導者が必要なのです。
<残忍な狼どもやって来る>
また、人は弱い者ですし、その罪は深刻です。教会が神のものであることを忘れて、この神の教会を自分のものにしようとしたり、自己実現の場所にしたり、知らず神のご支配から遠ざかろうとしていたりと、さまざまな誘惑や危険があります。
そのことが、次の29~30節に語られています。「わたしが去った後に、残忍な狼どもがあなたがたのところに入り込んで来て群れを荒らすことが、わたしには分かっています。また、あなたがた自身の中からも、邪説を唱えて弟子たちを従わせようとする者が現れます」。
この羊の群れを狙って、狼どもが襲ってくることが語られています。それは外から、そして内からもです。
罪を赦されていながら、なおわたしたちは罪を犯し、誘惑に遭い、自分の思いに従ってしまうことがあります。そして、「邪説を唱えて弟子たちを従わせようとする」、神の福音を曲げて、人間に従わせようとする、そのような罪が教会に入り込んでくることがある、というのです。
それは残忍な狼に譬えられているように、羊を傷つけ、迷わせ、死に追いやろうとするでしょう。わたしたちが、従うべき神から離れて人に聞き従おうとするとき、神ではなく人を中心にする時、わたしたちの群れは、そのように死ぬほどの危機に瀕することになります。
ですから、教会が神のものであるということ、神がご支配しておられるのだということにしっかりと留まるために、わたしたちは神の御言葉を聞き続け、神のご支配に従い、いつも悔い改めをもって、神の御前に謙遜でいなければなりません。
またそのために、神は群れの監督者を選んで任命し、神の教会の世話をさせようとなさったのです。この務めは、とても責任あるものです。長老たちは、これらの務めを自分の力で担うことは出来ません。この長老たちだって「あなたがた自身の中からも邪説を唱える者が出る」と言われているように、人間の弱さと悪の誘惑に、いつも晒されているのです。
しかし、ここで覚えなければならないのは、この群れを導く、一人の大いなる良き羊飼いがおられる、ということです。
その方こそ、「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」と言って下さった、主イエス・キリストです。このお方が、ご自分の命を捨てて、わたしたちを守って下さる。罪と滅びの中から、真の命へと道を切り開き、導いて下さる。命の糧を与え、養い、育てて下さる。この良き羊飼いである主イエスが、常に教会の先頭に立っていて下さるということです。
今日の最初の28節に「どうか、あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください」とあるように、まず長老たち自身が、自分自身、主イエスに守られ、導かれ、養われている者だということを確かにされ、主イエスこそが教会の頭、先頭に立たれる方である、ということに、しっかりと固く立たなければなりません。自分の思いを退け、神の思いに従うように、神の前に身を低くしなければなりません。
そして、その大いなる良き羊飼いの許で、聖霊によって選ばれ、任命され、賜物を与えられた者たちが、群れ全体に気を配る。主イエスに導かれている群れが、しっかりと神の御言葉に、神のご支配に留まるように、それぞれの羊たちに配慮していく。その務めが与えられているのです。
<神とその恵みの言葉とに委ねられた教会>
ですから、パウロはこのように言います。「だから、わたしが三年間、あなたがた一人一人に夜も昼も涙を流して教えてきたことを思い起こして、目を覚ましていなさい。そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです」。
この教会は、神のものです。ですから、神と、その恵みの言葉、つまりキリストの福音に、すべて委ねられており、任されており、神ご自身が、この教会を治めて下さるということです。その信仰にたってこそ、選ばれた者たちは、神の御心に従って、神の恵みに頼って、群れを導く務めを担っていくことが出来るのです。
パウロが昼も夜も涙を流して教えてきたこととは、主イエス・キリストの救いの恵みについて、わたしたちを救って下さる、神のご計画についてです。御子の血を流してまでも、罪からご自分の許に立ち帰るようにと、救いへ招いて下さった、神の憐れみと愛の御心です。
この神の言葉は、あなたがた、つまり教会を造り上げることが出来ます。
神の言葉が、人々を恵みへと招き、キリストと結び合わせ、一つの体を築きます。
また、この神の言葉は、聖なる者とされたすべての人々と共に、恵みを受け継がせることが出来ます。神の言葉が、滅びるはずであった人々を、永遠の命を生きる神の子とし、神の国を受け継ぐものとして下さいます。
こうして、教会は、神ご自身によって建てられ、神によって神の国の完成へと導かれていくのです。
<受けるよりは与える方が幸い>
さて、このように、教会がどのようなものであるか、またどのようにして教会を神が治めて下さるかを語った後、パウロはこの説教の締め括りに、主イエスの言葉から、「受けるよりは与える方が幸いである」ということを、長老たちに語ります。この言葉は四つの福音書の中には出てきませんけれども、とても知られている聖書の言葉の一つです。
「受けるよりは与える方が幸い」とは、どういうことなのでしょうか。
単純に聞いたままを考えれば、受けると言うことは、受けなければならない、貧しい、弱い状況にあるということです。与えるということは、人に与える分まで持っているということであり、その人は豊かで幸いだ、ということなのでしょうか。それは人より少し恵まれた状態にあることを、喜ぶ教えなのでしょうか。
しかし、ここでパウロが具体的にしてきたことを見てみましょう。パウロは33節で「わたしは、他人の金銀や衣服をむさぼったことはありません。ご存知のとおり、わたしはこの手で、わたし自身の生活のためにも、共にいた人々のためにも働いたのです。あなたがたもこのように働いて、弱い者を助けるように」と言っています。
パウロは、自分自身、人から受けることをしなかっただけでなく、共にいた人々のためにも働いて、与えたのだ、と言っています。それは、実際、近くにいる、経済的に、社会的に、弱い者を助けることです。
使徒言行録では、教会が誕生した最初の頃から、人々が自分の持っているものを神に献げ、それを必要としている教会の兄弟姉妹に分配し、共同体の中で支え合っていたことが書かれていました。キリストの福音の豊かな恵みに与った者たちは、世の豊かさ、自分の持ち物や財産に固執することから自由にされました。主イエスに救われた者たちは、心も思いも一つとなり、神の恵みを共有し、重荷を分かち合い、互いに必要を補い合って、救いの恵みに感謝する生活を送っていたのです。そしてパウロも進んでそのようにしていました。
そして、もう一つパウロが心がけていることは、信仰が弱い者への配慮です。
パウロは、福音を宣べ伝えている者が、その報酬を受けても良いし、それは当然の権利であると考えていました。しかし、教会の中で、そのことにつまずく人がいたらしいということが、パウロが教会に宛てた手紙から窺い知ることが出来ます。
もともと、ユダヤ人の律法学者は、神の言葉を生活の手段にしてはいけない、ということで、技術を身に着けて自分で稼いで生活を営んでいました。ユダヤ人であり、かつてファリサイ派の律法学者であったパウロも、テント造りの技術を身に着けていました。ですから、使徒言行録の18章にあったように、福音の伝道の際にも、パウロは必要があれば、仕事をして自分で生活を賄いました。
しかし、伝道のために教会が献金を献げ、パウロの生活を支えてくれるのであれば、パウロはそれを受けて、むしろ御言葉を語ることに集中し、専念することにしたのです。
それは、福音の伝道を生活の手段にしてもよい、という意味ではありません。むしろ、神の福音の伝道のために最も良いことを選ぶ、福音を優先順位の一位に置く、ということでしょう。
教会の人々が伝道のために献金を献げ、パウロがそれによって福音の伝道に専念し、救いを多くの人に語れるのであれば、パウロは喜んで生活の援助を受けるでしょう。
また、援助を受けることでつまずく人がいるならば、パウロはその人の信仰のために、自分が福音の妨げにならないために、自分が報酬を受ける当然の権利を使わないで、自分で仕事をし、自分の力で生活することを選んだのです。
このように、自分が苦労をしてでも、余計な苦労や困難を負うことになっても、権利を捨てても、経済的・社会的に、そして信仰的に弱い者のために配慮し、その重荷を担う。福音のためを第一に思う。それが、パウロがやってきたことです。
それならば、「与える方が幸い」というのは、余裕があって、そこから人に与える、というようなものではないことが分かります。むしろ自分が何かを失ってでも、相手が福音の恵みを受けるために、与えていく、ということです。
なぜパウロはこのように、自分の権利を捨てて、苦労を引き受けて、自分が損をしてまでも、弱い人を助けること、与えることが出来るのでしょうか。
それは、まさにパウロが従っている主イエス・キリストこそが、パウロのためにそのようにして下さったからです。罪の中で何もできないパウロのために、キリストが、神の御子である身分を捨て、弱く貧しい人となられ、苦難と悩みを負って、ご自分の命を捨てて下さったからです。
パウロも最初はただただ、キリストから受ける者でありました。
しかし、このようにして主イエスの十字架と復活の救いを受けて、新しくされたパウロは、何があっても損なわれることのない、神の恵みを与えられたのです。
世の権利を捨てることも、自由を失うことも、損をすることも、苦労を引き受けることも、そして、命を失うことさえも、パウロにとってはどれも神の恵みを損なうものではありません。
むしろ、そのようにして苦しみや悩み、重荷を担い、主イエスの後に従っていく中で、パウロは主イエスが自分にして下さったことの大きさ、その恵みをますます深く覚え、神の愛の御心を知らされていったのではないでしょうか。
パウロは長老たちに、あなたたちには、キリストの福音が与えられている。この神の恵みに、神の言葉に、あなたがたは委ねられている。だから、神の群れを預けられたあなたたちも、主にあって、「与える者」となるように。そして、そのようにキリストから限りない恵みを受け、今や与える者とされていること、弱い者のために重荷を担い、与えることが出来る者は、本当に幸いなのだと、パウロは語っているのです。
<主イエスと共に>
しかしこれは、長老たちだけが心に留めていれば良いことではありません。教会に集められた一人一人が、主イエスがご自分のすべてを与えて下さり、生かして下さった者なのです。わたしたちも、主イエスと共に生きることが許されているのなら、失われない神の恵みを受けているのなら、隣人のために、損をしても、権利を失っても、重荷を引き受けてでも、与える者となることができ、またそれが幸いだ、と言うことが出来るのです。
また一方で、わたしたちは、実際には多くのものを、それは具体的な助けや、配慮や、祈りや、奉仕を、兄弟姉妹から受けているのではないでしょうか。誰も与えるばかりになることは出来ませんし、また何も受けずにいられるほど、強い者もいません。互いに与え、互いに受け、神の恵みを共に分かちながら、神の群れは、お一人の良き羊飼いのもとで養われ、強められ、導かれていくのです。
本日は、聖餐に与ります。聖霊によって、パンと杯のしるしを通して、キリストの十字架で裂かれた肉と、流された血によって、わたしたちが神のものとされたことを覚えます。御自分の命をわたしたちに与えて下さり、わたしたちを養い、強めて下さる復活のキリスト、良き羊飼いが、わたしたちと共におられることを味わい知る時です。ひとつのパンを共に頂き、お一人のキリストの体に共に結ばれ、共に養われている、その恵みをしっかりと受け取りたいと願います。
また、まだ洗礼を受けていない方も、神が一人一人の名を呼び、教会へと招いて下さったのです。キリストが命を捨てて与えて下さった、罪の赦しと永遠の命を信じ、受け入れ、共にこの神の教会に連なり、共に神の食卓に与る日が来ますようにと祈ります。