夕礼拝

命にあずかるために

「命にあずかるために」 伝道師 嶋田恵悟

・ 旧約聖書; イザヤ書 第66章18-22節
・ 新約聖書; マルコによる福音書 第9章42-50節
・ 讃美歌 ; 17、394

 
信仰生活におけるつまずき
 信仰生活において、私たちが経験することに「つまずき」ということがあります。歩いていて、足を障害物にぶつけてよろけてしまうように、主イエスに従って歩んで行く中でも、様々なものによって、つまずき、信仰生活がふらついてしまうのです。そして、時には、神様を信じることが出来なくなってしまい、主イエスに従う歩みを止めてしまう場合もあるのです。私たちは、主イエスが語る神の国の福音そのものに対して疑問を持つことがあります。しかし、それは悪いことではありません。福音に対して疑問を持つ時、私たちは、神様に問いかけているのであって、神様の方を向いているのです。「つまずき」というのは、信仰生活における周囲の人々との関わりの中で、神様を信じることが出来なくなってしまうことです。それは、信仰をもたない人々との関係においても起こるでしょう。しかし、最も深刻なことは、同じ信仰を持って歩んでいる人々との間で起こるつまずきです。教会に来ることが出来なくなってしまう人々の理由の中には、教会の交わりの中で、人々の言動や振る舞いによって傷ついたというようなことが少なからずあります。キリストに従う歩みは、一人だけで悟りを開くようなことではありません。教会の枝に加えられ、共にキリストに従う人々と交わりを形成しつつ、主の体の一部となるのです。交わりのない教会はありません。そして、教会は、罪ある人間の集まりですから、つまずくということは教会である以上避けられないことなのです。私たちは、主イエスの従う歩みにおいて、時に、周囲の人の言動につまずき、又、自らの言動によって他人をつまずかせて歩んでいるのです。

石臼を首にかけられて
主イエスは、「つまずかせる」ことに対して激しい言葉を語られます。31節では「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は大きな石臼を首にかけられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい」と言われています。又、それに続けて、「もし、片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい」と言われます。更に、自らの手や、目が躓かせるのであれば、手を切り捨て、目をえぐり出せと続いていきます。主イエスは、他者をつまずかせることに対しても、体が、自らをつまずかせる原因になることに対しても激しい言葉を語り、徹底して、つまずきの原因となるものを取り除くようにと言われているのです。このようなことを聞くと私たちは、あまりに極端とも言える主イエスの言葉に驚きを禁じ得ません。又、つまずきと決して無縁ではない自分の姿を顧みる時に、主イエスの警告をどのように受けとめたら良いのだろうかとの疑問も浮かびます。もちろん、主イエスは、教会生活の中で、他人をつまずかせた者に石臼を首にかけて海に投げ込んだり、つまずきの原因となる、自分の手足を切断することを勧めて、このようなことを語っているのではありません。又、卑しい肉体を捨て、霊的な完全を目指すことを目的としてこのようなことを語られているのでもありません。それぞれの警告の後に、「地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命に与る方が良い」、「地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方が良い」、「両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方が良い」と言われています。ここで見つめられているのは、地獄に投げ込まれるよりは、命にあずかること、神の国に入ることの方が良いということです。そして、神の国に入ることは、自分自身の肉体をも越える重要なことであると言われているのです。ですから、ここで肉体が卑しいものとして見つめられているのではありません。本来大切にすべき自らの体を捨てでも、神様との交わりを妨げる一切のものから自らを解放することが求められているのです。キリストから離れてしまい、神様の真の命にあずかることが出来なくなってしまうことが何よりも避けるべきこととして見つめられているのです。

小さな者をつまずかせる
それにしても、何故ここまで激しい言葉を語られたのでしょうか。それは、主イエスに従って歩む者たちが、「つまずかせる」歩みをしているからです。それは、このことを語られている文脈を見ると分かります。9章の30節には、主イエスがご自身の十字架と復活について予告された時、「だれが一番偉いか」を議論していた弟子たちの姿が記されています。それに対して、主イエスは、一人の小さい子供を抱き上げ、このような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのであると言われました。又、その後では、弟子のヨハネが、主イエスの名前を使って悪霊を追い出している人々を、自分たちに従わないという理由でやめさせようとしたことが記されています。それに対して主イエスは、「キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける」と言われたのです。この時、主イエスは、十字架に向かって歩んでいました。それにもかかわらず、弟子たちは、主イエスの苦しみに思いを向けることもせずに、自分たちの偉さを競い合っていたのです。そして、自分たちこそはキリストの正統な弟子たちだという思いから、おごり高ぶり、周囲の人々に対して敵意を抱いて、その働きをやめさせようとしたのです。弟子たちは、信仰において、自ら偉く、強くあろうとしていたのです。これは信仰生活を送る中で常に起こる問題です。一生懸命奉仕をすることや、聖書の知識を身につけることの背後で、自らが人々との関係において認められ、評価されることを望んでしまうのです。信仰において、強くなろうとしているのです。ここで、強さとは、表面上、強く見える振る舞い、強権的に自分の力を誇示するような振る舞いだけが見つめられているのではありません。信仰生活において、謙遜に振る舞うことであっても、人々から見て、立派な、偉い信仰者と認められようとしているのであれば、そのような行為も又、ここでの強い振る舞いということが出来ます。そして、そのような態度こそ、人々をつまずかせるものなのです。なぜなら、そのような態度は、必ず強く振る舞うことが出来ない弱い者が生み、そのような人々が顧みられないということが生じるからです。もちろん、誰も、人々をつまずかせようとして振る舞うことはないでしょう。しかし、信仰における熱心さの背後で、信仰において自らを高め、強く、偉くなろうとする思いが生まれる時に、自然と、そのように振る舞うことが出来ない人々につまずきを与えてしまうのです。42節では、つまずかせる相手として、「わたしを信じるこれらの小さな者」が見つめられています。これは、主イエスに従う者、弟子たちを含めた信仰者を指す言葉です。しかし、それは、この時の弟子たちのように、主イエスに従うことで人よりも偉くなろうとしている者のことではありません。むしろ、そのように強く振る舞うことが出来ない人々のことです。この言葉を聞いてすぐに思い浮かぶのは、誰が一番偉いのかを議論していた弟子たちに対して、主イエスが抱き上げて見せた一人の小さな子供です。ここで言う「わたしを信じるこれらの小さな者」とは、一人の子供のようなものが見つめられていると言っても良いでしょう。主イエスが抱き上げて下さらなければ、そこにいることさえ忘れられてしまうような者が「小さな者」として見つめられているのです。信仰において自らを高め、人々の間で偉くなろうとする思いが支配している時、教会の交わりは、主イエスを信じる小さな者をつまずかせてしまうものとなるのです。

つまずきを捨て去って
 主イエスは、人々をつまずかせることだけが語られているのではないことに注目したいと思います。わたしたちの手足や目が、自らをつまずかせるということが見つめられています。主イエスは、自分自身からつまずかせる原因となるものを切り捨てて行くようにと言われているのです。信仰生活におけるつまずきは、手足によって行う業にのみ関心を向けるときに生まれます。神様との関係よりも人間との関係のみに関心を向けるのです。神様ではなく人間の業が見つめられているのです。そして、他人との比較の中で明らかになる自分の至らなさに目を留めて、自分は、相応しくないとの思いに捕らわれたりするのです。又、自分の熱心さが人々の目に留まらずに、正当に評価されないと、不安になり、自分の信仰生活の在り方と異なる人々の振る舞いを受け入れずに、それをやめさせようとしてしまうのです。そのような中で、教会を離れてしまうということが起こるのです。時に、熱心に、人々が立派だと思うような信仰生活をしていても、少しのつまずきによって手のひらを返したように、信仰生活を止めてしまうということも起こるのです。片方の手足を切り離し、目をえぐり出してしまったら、それまでのような業を行うことが出来ません。しかし、そこで、わたしたちの業や、行いによらない、神様との関係を求めていくことが見つめられているのです。ですから、ここで、目や手足によってつまずかないとは、人々との関係において、どのようなことを見ても、どのようなものに接しても、それによって神様との関係を壊さないということです。主イエスの後に従って歩むとは、自分自身を含めて、共に従う人々の、どのような姿に直面しても、そのことによって、神から離れるのではなく、一層、キリストに委ねて、キリストの後に従って行くことなのです。それは、主イエスに従う一人一人が、神様と真剣に向かい合い、その恵に生かされていなければなりません。信仰の根拠、教会生活の根拠が人間関係ではなく、救いの恵にしっかりと立ったものとされなくてはならないのです。

自分の内に塩を持つ
 信仰生活におけるつまずきは、わたしたちが肉体を持ち、人々との関係を持つ以上、必ず起こることです。ルカによる福音書においては、この石臼の話しを語り始める箇所で、「つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である」と言われています。私たちは、弟子たちと同じように、人々との関係に目を向けて、それにつまずくこと、又、つまずかせることから自由ではないのです。では、私たちは、主イエスに従う歩みにおいて何を求めて行けば良いのでしょうか。主イエスが、50節で主イエスは、「自分自身の内に塩を持ちなさい」。と言われています。塩というのは生きていくためには欠かせないものです。主イエスは、自らの内に塩を持つようにと言われているのです。この塩という言葉によって思い起こすのは、コロサイの信徒への手紙第3章5節です。そこには、「いつも、塩で味付けされた快い言葉で語りなさい。そうすれば、一人一人にどう答えるべきかが分かるでしょう」とあります。塩で味付けされた言葉というのは、人々にとって快いものだと言われています。塩とは、人々との関係の中でわたし達の語る言葉を快くするものなのです。では、この塩で味付けされるとはどのようなことなのでしょうか。48節以下には、「地獄では蛆がつきることも、火が消えることもない」と言われて、地獄の火が見つめられている一方で、「人は皆、火で塩味がつけられる。塩は良いものである」と言われています。ここでは、地獄の話しが語られた後に、火によってわたし達に塩味がつけられるということが語られていきます。火ということから連想して、塩味が付けられるという話を展開させているのです。ここには明らかに飛躍があります。しかし、この箇所から、わたし達は、主イエスの十字架を思い起こしたいと思います。主イエスの十字架の死は、まさに、神の子である主イエスが、わたし達に変わって地獄の火で焼かれて下さった出来事だからです。主イエスは、人々をつまずかせてしまうわたし達が受けるべき裁きを、十字架で受けられたのです。そして、その恵の御業によって、わたし達は救われるのです。そしてこの救いの恵みこそ、わたし達を味付ける塩なのです。「塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味をつけるのか」と言われています。わたし達は自分の内に塩味をつけるものがなくても、主イエスの恵によって、私たちは塩味が付けられるのです。

主イエスのへりくだり
自らの偉さを求めて歩む弟子たちの中で、激しい言葉を語られた主イエスは、十字架を目指して歩まれ、事実、ご自身を十字架において捧げてくださった方でした。神の子が人々の下に降り、十字架で死なれることによって神から裁かれるということは、石臼を首にかけて海の中に放り込まれることよりも遙かに苦しいことでしょう。主イエスはその苦しみを耐えつつ、つまずかせ、つまずくことによって神様から離れてしまう者を救うために、神様の裁きを受けられたのです。主イエスこそ、私たちのために裁かれ、地獄の炎で焼かれた方なのです。 そして、私たちは、主イエスの救いの恵を受け入れることによって、「自分自身の内に塩を持つ」ことになるのです。主イエスの救いの恵に生かされる時に、わたし達は、主イエスの謙りに倣って、人々に仕えて行く歩みをなす者とされます。主イエスが私たちのために謙られたことを知らされて、その恵によって味付けられる時に、私たちは、お互いに、私たちのために謙られた主イエスの愛を示す者とされます。この塩を持って生きられる時には、人々との関係におけるつまずき起こりません。なぜなら、主イエスの救いの前でうち砕かれ、自ら、偉くなり、大きい者として振る舞おうとすることから自由にされるからです。人々の評価や、どのように見られるかということから解き放たれるからです。そのような中で、わたし達の語る言葉は、人をつまずかせるものではなく、快いものとなるのです。それは、主イエスが示された救いの恵を示す言葉だからです。この塩を持って歩む時に、50節の最後に言われているように私たちは、「互いに平和に過ごす」ことになるのです。

主イエスによって与えられる命にあずかって
私たちは、主イエスの救いに与って、その恵みに生かされる時に、塩で味付けされて互いに平和に過ごすことが出来ます。そして、このように歩むことこそ、主イエスが語る命にあずかることなのです。主イエスがここで語られている命にあずかるのは、主イエスの救いが完成する終わりの時です。しかし、この世を歩む中で、主イエスの救いの恵という塩を持って歩み、互いに平和に過ごす中で、既にこの命に生き始めているのです。わたし達のつまずかせることから自由ではない歩みの中で、主イエスの恵という塩を自らの内に受け入れつつ、主イエスの後に従うのです。その時、私たちは、つまずきから解放された人々との平和を造りつつ、真の命にあずかっているのです。

関連記事

TOP