主日礼拝

何によって自分を評価するか

「何によって自分を評価するか」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:ゼファニヤ書 第3章9-13節
・ 新約聖書:ローマの信徒への手紙 第12章3-8節
・ 讃美歌:50、117、411、76

信仰者の生活のための勧め
 主日礼拝において、ローマの信徒への手紙第12章を読み進めています。これまでに繰り返し申してきましたように、この手紙の12章以下には、主イエス・キリストによる救いにあずかった信仰者の生活についての教えが語られています。前回読んだ12章1、2節には、その土台となることは何かが語られていました。それを受けて本日の3節以下に、キリスト信者として生きるための具体的な勧めが語られていくのです。
 その勧めをパウロは、「わたしに与えられた恵みによって、あなたがた一人一人に言います」と語り始めています。キリスト信者としての生活とは、神から救いの恵みを与えられ、それによって支えられ導かれて生きる生活です。だからそのための勧めも、神から与えられた恵みによってこそ語ることができるのです。それは12章の1節の、「神の憐れみによってあなたがたに勧めます」と同じことです。神の憐れみによって救われたパウロが、同じ神の憐れみ、恵みを受けて生きる信仰者たちの生活についての勧めを語っていくのです。
 また彼は「あなたがた一人一人に言います」とも言っています。キリスト信者としての生活は、教会において、兄弟姉妹と共に生きる生活ですが、でもそれは、自分自身の信仰の生活なしにはあり得ません。私たち一人ひとりが自分の信仰の生活を築かなければならないのです。そのための勧めをパウロは語っていくのですから、私たちもパウロの言葉を、自分自身に対する勧めとして真剣に聞き、神の恵みに支えられた信仰の生活を築いていきたいのです。

自分をどう評価できるか
 その信仰の生活を築くためにパウロが3節で先ず第一に勧め、教えているのは、「自分を過大に評価してはなりません」ということです。キリスト信者の生活を築く上で真っ先に努めるべきであるのはこのことだ、とパウロは言っているのです。これはとても考えさせられることです。キリスト信者として生きるために真っ先に大事にすべきことは何か、と問われたら私たちは何と答えるでしょうか。「神と隣人を愛すること」、「人に親切にし、困っている人を助けること」、あるいは「自分に罪を犯した人を赦すこと」など、いろいろな答え方をすると思います。ところがパウロは、「自分を過大に評価しないこと」が先ず第一に大切だと言っているのです。このパウロの教えに私たちは物足りないものを感じるのではないでしょうか。キリスト信者として生きるための第一の教えが、「自分を過大に評価しないこと」では、あまりにも消極的な教えではないか。もっと積極的に、「キリスト信者として生きるために、こういう善いことをしよう、こういう愛の業に励もう」という教えの方が相応しいのではないか、と思うのです。けれども、自分自身の生活と、そこにおける心の動きを深く振り返って見るならば、このパウロの教えは私たちの現実をしっかり見据えた適切な教えであることが分かると思います。私たちが日々の生活において、心の深いところでいつも感じており、また求めている根本的なことは、自分をどう評価できるか、ということなのではないでしょうか。自分のことを、完全に満足とは行かないまでも、まあまあいい線行っていると評価できるなら、私たちは落ち着きます。平安でいることができます。しかし自分のことを肯定的に評価できず、これではダメだとしか思えないと、私たちは不安になり、焦るのです。私たちはそういう満足・平安と、焦り・不安の間を揺れ動きながら、自分を少しでもよく評価できるようになりたい、と願っているのではないでしょうか。だから自分をよく評価できることは小さなことでも大きく見えるし、逆に自分を悪く評価せざるを得ないことにはなるべく目を塞ぎたいのです。そのようにして私たちはいつも自分を過大に評価することに陥ります。そうすることによって自分を守っているのです。そしてこの自分への評価は、他の人にどう思われているかによって左右されます。人に褒められれば自分でも自分の評価を高めることができるし、人にけなされると、やっぱり自分はダメだ、と思ってしまう。そのように私たちの自分への評価は他人の目によって決まる、というところがあります。だから私たちは、何とかして人によく思われたい、評価されたい、と思い、人の目を気にしながら生きているのです。愛の業も、そういう思いでしているという面があるのではないでしょうか。愛の業に励み、善いことを熱心にすることによって、人に良く評価されたい、それによって自分自身も自分を高く評価できるようになりたい、という思いが私たちの中にはあるのです。そういう自分の思いに気づくと、自分の愛の業は結局自分のためなのだ、という自分の不純さが見えてきて、それでまた「自分はダメだ、愛のない人間だ」と落ち込んだりということも起ります。人間の心はまことに複雑なものです。

自分と人を比べている私たち
 また、人の自分に対する評価が気になるということは、自分も人のことを常に評価しながら生きている、ということです。私たちはいつも自分と他の人とを見比べ、評価し合っているのです。自分が人と比べてより優れている、あの人よりもずっとマシだ、と思えると安心します。しかしその同じ自分が、自分より明らかに優れた、高く評価せざるを得ない、要するにあの人にはかなわないと思う人に出会うと、自分はやっぱりダメだ、と劣等感を抱き、不安や焦りを覚えるのです。私たちはいつもそのように、自分と人とを比べながら生きている。それは私たちが、自分をどう評価できるか、ということをいつも気にして生きていることの表れです。自分をどう評価できるか、が関心の中心となっているから、他の人との比較が気になり、そこに、自分を過大に評価して他の人を見下す思い上がりと、劣等感を感じていじけてしまうひがみの思いとが生まれているのです。これらのことを見つめていく時に、パウロがここで「自分をどう評価するか」ということを、キリスト信者としての生活を築くための勧めにおいて真っ先に語っていることの深い意味が分かってきます。自分をどう評価するかは、私たちの生活、生き方を決定づけるような、根本的なそして重大な問題なのです。

慎み深く評価するとは
 「自分を過大に評価するな」というのは、自分を評価する時に思い上がらず、控え目に評価しなさいという「謙遜の教え」ではありません。なぜなら私たちは、「謙遜」をも利用して自分の評価を高めようとする者だからです。特に日本の社会では謙遜が一つの美徳として受け止められているので、謙遜であることは人から評価されるための一つの材料になるのです。自分の謙遜さを誇る、ということが起るのです。パウロが語っているのは単なる謙遜の勧めではありません。「自分を過大に評価してはならない」に続けて彼は「むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです」と言っています。それはどういうことでしょうか。ここで勧められているのは、「神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて」自分を評価することです。「自分を慎み深く評価する」というのは、「控え目に」ということではなくて、神が与えて下さった基準によって自分を評価することなのです。それはどのようなことなのでしょうか。

信仰の度合いに応じて?
 「神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて」自分を評価しなさいと言われています。つまり自分を評価すべき基準は「神が与えて下さった信仰」なのです。自分にどんな能力があり、どんな善い行い、愛の業をしているか、ということによって自分を評価するのではなくて、信仰によって評価する、それがキリスト信者の生き方の基本なのだ、とパウロは言っているのです。しかし「信仰によって自分を評価する」とはどういうことでしょうか。自分にはどれくらい信仰があるか、その信仰の量を量り、その量が多いか少ないかによって自分を評価する、ということでしょうか。世間において立派だと評価されたり賞賛されることによってではなくて、信仰がどれだけあるかによってこそ人を評価すべきだ、世間で尊敬されていても、信仰がない人は評価に価しない、逆に世間では尊敬されていなくても、信仰を深く持って生きている人は評価され、尊敬されるべきだ、ということなのでしょうか。「信仰の度合いに応じて」という訳はそういうことを思わせます。信仰の度合いは人によって違う、その度合いによって自分を評価すべきだ、というふうに読めるからです。しかしこの「信仰の度合い」という言葉は、口語訳聖書では「信仰の量り」となっていました。「度合い」と「量り」では大分意味が違います。原文において用いられている言葉は「量り」という言葉です。そしてこの言葉は二つの意味を持ち得るのです。一つは、量るものとしてのまさに「量り」あるいは「ものさし」という意味です。第二は、「量られた量」という意味です。新共同訳の「信仰の度合い」はこの第二の意味に理解して訳したものです。そうするとその意味は、量られた信仰の量、即ち信仰の度合いに応じて自分を評価しなさい、つまり各自に与えられている信仰の量を量り、その量によって自分を評価しなさい、ということになります。しかしこの解釈は正しいでしょうか。パウロはここでそういうことを言っているのでしょうか。彼はこの後4節以下で、教会に連なっている兄弟姉妹がそれぞれ神から様々な異なった賜物を与えられていることを語っています。そして、賜物の違いは与えられている役割、務めの違いであって、どちらが上とか下ということはない、様々な異なった賜物を与えられている者たちが皆で一つの体を形作っているのだ、と言っているのです。このことと、信仰の度合いに応じて自分を評価せよ、ということは矛盾しています。信仰の度合いに応じて人を評価するのであれば、当然信仰の多い人と少ない人が明確になり、より良く評価される人とそうでない人の間には上下関係が生じるのです。パウロが語っているのはそういうことではありません。ですから新共同訳の「信仰の度合いに応じて」という訳はいただけません。ここはやはり「信仰の量りに従って」と訳すべきであり、その「量り」という言葉を「量られた量」ではなくて、「量るもの」「ものさし」として理解すべきなのです。

信仰の内容に基づいて自分を評価する
 「信仰の度合いに応じて」ではなくて、「信仰の量りに従って」自分を評価する。それは、信仰がどれだけあるかという量によってではなくて、神が分け与えて下さった信仰によって、その信仰を基準として自分を評価する、ということです。つまりパウロがここで問題にしているのは、信仰の量ではなくて、その内容なのです。神が与えて下さった信仰の内容に基づいて自分を評価することを彼は勧めているのであって、それこそが「自分を過大に評価するのでなく、慎み深く評価する」ことなのです。

神が与えて下さった信仰の内容
 神が私たち一人ひとりに分け与えて下さった信仰の内容とは何でしょうか。それをパウロはこの手紙の11章までにおいて語ってきたのです。その中心となる箇所をいくつか振り返って読んでみたいと思います。先ず、3章の9-18節です。
「では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。次のように書いてあるとおりです。『正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。彼らののどは開いた墓のようであり、彼らは舌で人を欺き、その唇には蝮の毒がある。口は、呪いと苦味で満ち、足は血を流すのに速く、その道には破壊と悲惨がある。彼らは平和の道を知らない。彼らの目には神への畏れがない』」。
 ここに語られているように、人間は誰もが皆、神に背き逆らう罪を犯しており、自分の力で救いを得ることはできないのです。そのことが、パウロが語ってきた信仰の前提となっています。その前提の上で、3章21-24節にこう語られています。
「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」
 罪のゆえに神の栄光を受けられない、つまり救われようがない私たちのために、神の独り子である主イエス・キリストが私たちの罪を背負って十字架にかかって死んで下さり、罪の赦しを与えて下さいました。この主イエスを信じる信仰によって、私たちは神の恵みにより、無償で、タダで、義とされ、救われるのです。それが、神が与えて下さった信仰の内容です。このキリストによる救いは5章6-11節ではこのように語られていました。
「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。それだけでなく、わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。今やこのキリストを通して和解させていただいたからです。」
 神の独り子である主イエスが、正しい人でも善い人でもない、罪人である私たちのために死んで下さることによって、私たちを神と和解させて下さったのです。そこに示されている神の愛について、8章31-39節にはこう語られていました。
「では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。『わたしたちは、あなたのために一日中死にさらされ、屠られる羊のように見られている』と書いてあるとおりです。しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」
 神は、その御子をさえ惜しまず私たちのために死に渡して下さったほどに、私たちを愛して下さっているのです。その御子主イエスは今や復活して天に昇り、父なる神の右に座っていて、私たちのために執り成して下さっています。主イエスの十字架と復活と昇天によって示された神の愛から、私たちを引き離すことができるものは、この世にもはや何もないのです。
 これが、神が私たちに分け与えて下さった信仰の内容です。このことを信じて生きるのがキリスト信者です。この信仰によって私たちは自分自身を評価するのです。そこに見えてくることは何でしょうか。先ず第一には、私たちは神に背く罪人であり、不信心な者であり、神の敵となっている、ということです。この世の法律や道徳に照らして何も悪いことをしていなくても、神との関係において私たちは常に背き、神をないがしろにして自分が主人となり、自分中心に生きているのです。そして自分中心に生きている私たちは、人を生かすことができず、むしろ傷つけてばかりです。信仰によって自分を評価する時、救われようのない罪人である自分の姿が見えて来るのです。自分を過大に評価することなど到底できないことがはっきりと示されるのです。しかしそれと同時に、信仰によって私たちは、神がその独り子の命を与えて下さったほどに罪人である自分を愛しておられること、敵である私たちのために主イエスが命を捨てて下さり、罪の赦しを与えて下さったことをも示されます。そこで私たちは、神に愛され、救いを与えられている自分を見出すのです。自分自身はどんなに罪深く欠けの多い者であり、悩み苦しみに満ちた人生を送っているとしても、主イエス・キリストはこの私を愛して下さっており、私のために十字架にかかって死んで下さり、今も天において私のために執り成して下さっている。この主イエスによる神の愛から私を引き離すことができるものは何もない。それが、神が与えて下さった信仰の内容によって自分を評価する時に示されることです。この自己評価に基づいて生きることがキリスト信者の生活なのです。

神が与えて下さる新しい自己評価に生きる
 主イエス・キリストを信じる信仰は私たちに、自分自身を評価する全く新しい量り、ものさしを与えてくれます。信仰という量りによって自分を評価する時に私たちは、自分の深い罪を示され、自分を過大に評価しようとする驕り高ぶりを徹底的に打ち砕かれます。そして同時に、自分の弱さや罪や、人と比べることによって生じる優越感や劣等感、高ぶりやひがみから解放され、神の恵みによって生きる者とされるのです。本日共に読まれた旧約聖書の箇所は、ゼファニヤ書3章9節以下です。ここは、エルサレムがその罪を赦され、救いにあずかるという預言です。その11節後半に「そのとき、わたしはお前のうちから勝ち誇る兵士を追い払う。お前は、再びわが聖なる山で驕り高ぶることはない」とあります。エルサレムは驕り高ぶりから解放され、救われるのです。そのために神は勝ち誇る兵士を追い払い、12節にあるように「苦しめられ、卑しめられた民を残す」のです。ここは口語訳聖書では「柔和にしてへりくだる民をあなたのうちに残す」となっていました。民の驕り高ぶりが取り去られ、へりくだりが与えられるのです。そのへりくだりとは、12節後半にあるように「彼らは主の名を避け所とする」ということです。へりくだって謙遜の美徳を身に着けるのではなくて、自分の中には頼れるものが何もない者が、ただ主なる神の名を避け所とし、主にのみ依り頼むのです。それがへりくだりです。そこに、主なる神による救いが与えられるのです。そういう意味では「苦しめられ、卑しめられた民を残す」という訳にも意味があります。苦しめられ、卑しめられて、自分には何の価値もないことを思い知らされる中で、自分の中の何かではなく、ただ神に依り頼む者となる。そこに神は、新しい自分を、神に愛され、赦され、救われている自分を示して下さるのです。信仰とは、神によって与えられるこの新しい自己評価に生きることです。神によって与えられる新しい自己評価を受け入れることこそが、自分を慎み深く評価する、ということなのです。  この新しい自己評価を与えられて生きる時に、私たちの、他の人への評価も変わっていきます。他の人と自分を比べて優越感や劣等感を抱くことから解放されて、他の人をも自分と同じように主イエスによる罪の赦しの恵みを受けている者として見つめ、評価することができるようになるのです。そこには、一つの体に共に連なる兄弟姉妹としての交わりが与えられていきます。そのことが4節以下に語られているのですが、そこは次週以降に読んでいきたいと思います。本日は、主イエス・キリストを信じる信仰によって私たちは自分自身を神の救いの恵みの中で、全く新しく評価することができるようになること、そこにキリスト信者としての生活の始まりがあることを確認しましょう。この後あずかる聖餐は、主イエスが罪人である私たちのために肉を裂き、血を流して贖いを、罪の赦しを実現して下さったことを覚え、その恵みにあずかるためのものです。神が与えて下さった信仰の内容を私たちは聖餐において味わうのです。それによって私たちは、神に敵対している罪人である自分が、それにもかかわらず神に愛され、救いの恵みを与えられていることを確信し、自分自身をそのように全く新しく評価して生きていくことができるのです。

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