主日礼拝

土台は神の憐れみ

「土台は神の憐れみ」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:申命記 第30章11-14節
・ 新約聖書:ローマの信徒への手紙 第12章1-2節
・ 讃美歌:37、151、512

ローマの信徒への手紙の構造
 主日礼拝においてローマの信徒への手紙を読み進めていますが、本日より第12章に入ります。この12章から、この手紙は新しい部分に入ります。そこで、この手紙の全体構造をもう一度振り返ってみたいと思います。この手紙の、挨拶を除いた本文は三つの部分から成っています。第一部は1章18節から3章20節、第二部は3章21節から11章の終わりまで、第三部が12章以下です。第一部には、人間の罪とそれに対する神の怒りについて語られています。第二部には、主イエス・キリストによる救いのことが語られています。この第二部は更に二つに分けることができます。3章21節から8章の終わりまでには、主イエス・キリストを信じる信仰によって与えられる神の義、つまりキリストによる救いのことが語られており、9章から11章には、元々神の民だったユダヤ人が今このキリストによる救いから落ちてしまっていることについてのパウロの思いが語られています。私たちは先日までこの部分を読んできたのです。そして本日の12章から始まる第三部には、洗礼を受けてキリストによる救いにあずかった信仰者の生活についての勧めが語られていくのです。
 このようにこの手紙は三つの部分から成っていると言えるのですが、さらに大きく括るならば、第一部と第二部をひとまとめにして、人間の罪とそこからの救いについての教えの部分、つまり「教理」を語っている部分、そして12章以下は、その教理に基づく生活のあり方、つまり「倫理」を語っている部分というふうに分けることもできます。そのように考えると、私たちは本日からこの手紙の第二の部分、キリストを信じる信仰に基づく倫理、信仰者の生活について語る部分に入る、と言うこともできるのです。

喜びと感謝の教え
 求道者会で学んでいる『ハイデルベルク信仰問答』という本があります。私たちの信仰の内容を体系的に知るための必読の書ですが、この信仰問答はローマの信徒への手紙の、先ほど申しました三部構造に従って書かれています。この信仰問答の第一部のタイトルは「人間の惨めさについて」です。人間の罪とそれによって生じている悲惨さが見つめられています。これがローマの信徒への手紙の1章18節から3章20節に当ります。第二部のタイトルは「人間の救いについて」で、イエス・キリストによる救いの恵みが語られています。これがこの手紙の3章21節から11章までの所に当ります。そして第三部は「感謝について」です。罪の悲惨さからキリストによって救われた者は、感謝の生活を送っていく、その信仰者の生活のことが第三部に語られているのです。その部分がこの手紙の12章以下に当ります。つまりこれから読んでいく12章以下には、キリストによる救いの恵みを受けた私たちの「感謝の生活」のための勧めが語られているのです。ですから、先ほど、ここにはキリスト信者の「倫理」が語られていると申しましたが、その倫理はいわゆる「倫理、道徳の教え」とは根本的に違うものです。倫理、道徳の教えというのは、より良い人間になるためにはこうしなさい、という勧めです。だからそれは必然的に掟や命令の形を取ります。しかしキリストを信じる信仰者は、より良い人間になろうとしているのではなくて、神が主イエス・キリストによって与えて下さった救いの恵みに感謝して生きようとしているのです。その感謝の生活のための勧めがキリスト信者の倫理であり、それが12章以下に語られているのです。その倫理の土台にあるのは、掟や命令ではなくて、喜びであり感謝なのです。

「こういうわけで」
 12章1節に「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます」とあることが、今申しましたことを示しています。パウロはこれから、ローマの教会の人々に、キリストによる救いにあずかった信仰者としてどのように生きていったらよいかについての「勧め」を語っていこうとしています。その勧めを語り始めるに際して、彼は先ず「こういうわけで」と言っています。これまでに語ってきたことを受けて、それゆえにこのように勧めます、と言っているのです。これまでに語ってきたこと、それはこの手紙の11章までの全体です。神に背き逆らっている罪人であり、滅びに至るしかない私たちのために、神がその憐れみのみ心によって独り子イエス・キリストを遣わして下さり、その十字架の死と復活によって私たちの罪を赦し、新しい命を与えて下さった。私たちは自分の良い行いによってではなく、主イエス・キリストを信じる信仰によってこの救いにあずかり、洗礼によって主イエス・キリストと一つとされ、聖霊の働きによって神の子とされている。キリストによって与えられているこの神の愛から私たちを引き離すことができるものはこの世には何もない。こういう福音がこれまでのところに語られてきたのです。それらの全ての恵みが、これから語られていく勧めの根拠、土台です。「こういうわけで」という言葉はそのことを語っているのです。

「兄弟たち」への勧め
 従って、これから読んでいく勧め、倫理は、人類一般に向けて、人間たるものこのように生きるべきである、と教えているものではありません。この勧めが語られている相手は限定されているのです。この手紙の11章までに語られていることが人生の前提となっている者たち、つまり洗礼を受けて教会に連なっている信仰者たちに対してこの勧めは語られているのです。「兄弟たち」という呼びかけがそれを示しています。「兄弟たち」という呼びかけは、単なる社交辞令として軽い気持ちで語られているのではありません。「皆さん」と言ってもよいところを、もう少し親密な気持ちを表すために「兄弟たち」と言っている、という程度のことではないのです。「兄弟」は文字通りの意味なのです。私たちは洗礼を受けて神の独り子主イエス・キリストと結び合わされることによって、神の子として下さる聖霊を受け、主イエスの兄弟姉妹とされて、神が父である家族の一員とされているのです。この手紙の8章15節にそのことが語られていました。「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです」。同じ8章29節にもこうあります。「神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです」。洗礼によって私たちは、神が父であり、主イエスが長子である神の家族の兄弟姉妹とされているのです。従って私たちが「きょうだい」であるのは、人間的な親しさや親密さによることではありません。どんなに親しく気が合う仲間であっても、主イエス・キリストに共に結ばれていないなら兄弟姉妹ではないし、逆に、お互いに全く知らない者どうしであったり、意見が食い違っていつも対立してしまうような相手であっても、洗礼を受けて主イエス・キリストの体である教会に連なっているなら、兄弟姉妹なのです。パウロが語りかけているのは、キリストの教会に共に連なっている信仰者である兄弟たちです。これから語られていく勧め、倫理は、信仰者のみに当てはまる教えなのです。しかしそれは、まだ信仰を持っていない人、洗礼を受けていない人にはこの12章以下の教えは関係がない、ということではありません。むしろ、皆さんの中でまだ洗礼を受けておられない方こそ、なおさら熱心にこの部分を読み、説教を聞いていただきたいのです。何故ならここには、イエス・キリストを信じ、キリストと結び合わされる洗礼を受けて、教会員として生きるところにはどのような生活、どのような歩みが与えられていくのかが具体的に語られているからです。これから読んでいく12章以下を通して、キリストを信じ、教会に連なって生きるとはどういうことなのかを知ることができるのです。ですからいわゆる求道中の方々にも、この部分をしっかり読んでいただきたいのです。そして、これは既に洗礼を受けている人にも知っておかなければならないことですが、ここに語られていることは全て、主イエス・キリストと結ばれ、教会における神の家族の一員となって生きている者に対する勧めなのであって、信仰を抜きにした、つまり主イエスと共に生きることなしに成り立つような何らかの教訓や処世訓をここから得ようとしても、それは無駄なことなのです。

「神の憐れみによって」
 さてパウロはさらに、これから語っていく勧め、倫理の前提、土台を明らかにしていきます。それが「神の憐れみによって」という言葉です。これから語る勧め、倫理は、「神の憐れみによって」こそ成り立つのです。このことはある意味ではもう分かっていることです。先程の「こういうわけで」によって、これまでに語られてきたことがこれからの勧めの前提であることが明らかにされたわけですが、これまでに語られてきたこととは、一言で言えば「神の憐れみ」による救いに他ならないからです。しかしパウロは敢えてここに「神の憐れみによって」をつけ加えずにはおれなかったのでしょう。私たちの救いは「神の憐れみ」による、そのことは直前の11章32節にも語られていました。そこには「神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです」とありました。これが9-11章の部分の結論です。9-11章でパウロは、元々神に選ばれた神の民だったユダヤ人が今救い主イエスを拒んでおり、その救いから落ちてしまっている。それに対して、ユダヤ人以外の異邦人たちが主イエスを信じて救いにあずかり、教会に加えられている。そこに神のどのようなみ心を見たらよいのか、ということでした。そのように神に問うていったパウロに与えられた答えは、今異邦人が救いにあずかっているのは、ただ神の憐れみによることだ、神は救いにあずかる資格の全くない異邦人を、ただ憐れみのみ心によって救って下さっている、それと同じようにユダヤ人も、神に選ばれた民としての特権によってではなくて、ただ神の憐れみのみ心のみによって救われるのだ、ということでした。この「神の憐れみによる救い」にこそ、今は不従順になってしまっている同胞ユダヤ人たちをも神が最終的には救って下さるという希望の根拠を彼は見出したのです。神の憐れみこそ、ユダヤ人にとっても異邦人にとっても、つまり私たち全ての者にとっての、救いの根拠であり土台なのです。主イエス・キリストの十字架による救いとは、この神の憐れみによる救いです。洗礼を受け、教会に連なっている信仰者は、この神の憐れみを受けているのです。私たちの良い行いには全くよらない、ただ神の憐れみによる救い、これこそが、これから語られて行く勧めの土台なのです。キリスト信者の生活とそこにおける倫理は、神の憐れみによって支えられている生活であり倫理なのです。

感謝の生活のための倫理
 ということは、ここに語られている信仰の生活における倫理は、私たちが神の救いを獲得するための条件を満たすためのものではありません。キリストを信じる信仰における倫理は、それを行うことができればキリストの救いにあずかることができ、行えなければ神のテストに不合格になって救いから落ちてしまう、というものではないのです。私たちは、自分の良い行い、キリスト者としての立派な生活によって救われるのではありません。ただ神の憐れみによって、即ち罪人のために独り子を遣わし、その十字架の死によって罪の赦しを与えて下さった神の恵みによってのみ救われるのです。ですから私たちが立派な信仰者となって良い行いをして生きる者になることが信仰者としての倫理の目的ではありません。またキリスト信者の倫理は、これを守らなければ神に裁かれ地獄に落ちるぞ、という脅しの下で行われる倫理でもありません。私たちの救いは、主イエス・キリストにおける神の憐れみによって既に与えられているのです。私たちは、自分が罪人であることを認め、主イエスによる救いを信じさえすれば、その救いにあずかることができるのです。私たちの信仰者としての生活はそこから始まります。神の憐れみによって、つまり主イエス・キリストによって救われた者は、主イエスと結ばれる洗礼を受けて新しくされ、神への感謝の生活を始めるのです。それが信仰者としての生活です。そこに、12章以下に語られて行く倫理の出る幕があるのです。そのことを『ハイデルベルク信仰問答』はこのように言い表しています。第三部「感謝について」の冒頭の問86です。「問86 わたしたちが自分の悲惨さから、自分のいかなる功績にもよらず、恵みによりキリストを通して救われているのならば、なぜわたしたちは善い行いをしなければならないのですか。 答 なぜなら、キリストは、その血によってわたしたちを贖われた後(のち)に、その聖霊によってわたしたちを御自身のかたちへと生まれ変わらせてもくださるからです。それは、わたしたちがその恵みに対して全生活にわたって神に感謝を表し、この方がわたしたちによって賛美されるためです。さらに、わたしたちが自分の信仰をその実によって自ら確かめ、わたしたちの敬虔な歩みによってわたしたちの隣人をもキリストに導くためです。」十字架の死によって罪人である私たちを救って下さった主イエス・キリストは、聖霊のお働きによって私たちをご自身のかたちへと新しく生かして下さるのです。つまりキリストと共に、キリストに従って生きる新しい生活を与えて下さるのです。私たちが、キリスト信者としての生活における倫理を大切にし、良い行いに励むのは、この新しい生活において、全生活をもって神に感謝を表し、神を賛美するためです。また自分の信仰をその実によって自ら確かめるのだ、とも言われています。それは、信仰に基づく神への感謝の生活が整えられていることによって、その整えられた感謝の生活が私たちの信仰をより確かなものとしていく、ということです。信仰によって感謝の生活が整えられ、その感謝の生活によって信仰がさらに強められていくのです。さらにこの問86の答においては、私たちの信仰生活によって隣人をキリストに導くため、ということも見つめられています。つまり伝道のため、ということです。これらのことのために、私たちは信仰の生活を整え、良い行いに励むのです。つまり私たちの信仰における倫理と、それに基づく良い行いは、自分が救いを得るためになされるのではなくて、救いを与えて下さった神への感謝と賛美のため、自分の救いをさらに深く確信するため、そして隣人への伝道のためになされるのです。ただ神の憐れみによって、良い行いなしにもう救われているなら、良い行いなどしなくてもよいのではないか、という考えは、自分の良い行いによって救いを獲得しようという思いになお捕えられている所に起るものです。救いはただ神の憐れみによるのであって自分が何かをすることによるのではない、ということが本当に分かった人は、だったらもう良い行いなどしなくていい、という思いから解放されて、喜んで、進んで、神に感謝する生活を築いていくのです。そこに、パウロがこれから語っていく勧め、倫理の出番があるのです。 

あなたも感謝と賛美に生きることができる
 本日共に読まれた旧約聖書の箇所、申命記第30章11節以下は、モーセが、神の戒め、律法について、それは決して難し過ぎるものではなく、遠く及ばないようなものでもない、神がそのみ言葉をあなたのごく近くに置いて下さっているのだから、あなたはそれを行うことができる、と語っている所です。キリスト信者としての生活、倫理もこれと同じです。神は私たちに、とても実行できないような厳しい掟を課しておられるのではありません。キリスト信者としての倫理を守り行うことなど自分にはとてもできない、と思ってはならないのです。神は必ず、私たちがそれを行うことができるようにして下さるのです。神が求めておられるのは、神の憐れみを受け、それに依り頼んで生きることです。主イエスにおける神の憐れみを見つめ、それが自分を生かし、支えていることを本当に知るならば、私たちの生活は、感謝と賛美の生活となるのです。キリスト信者としての倫理に生きることは決して難しいことではありません。それは、神が与えて下さった大きな恵みに感謝して生きるという、人間としてむしろ自然な生き方なのです。私たちは誰もが、この感謝と賛美の生活へと招かれているのです。

勧め、励まし、慰め
 最後に、「あなたがたに勧めます」の「勧める」という言葉について見ておきたいと思います。この言葉の元々の意味は「傍らに呼ぶ」ということです。傍らに呼んで親しく語りかけるのです。それを「勧める」と訳すことが勿論できます。主イエスが私たちを傍らに呼んで、親しく、「神の憐れみを受けているのだから、あなたはこうしたらいい」という勧めを与えて下さっているのです。それがこれから読んでいく12章以下です。
 しかしこの言葉は他の訳し方もできます。フィリピの信徒への手紙の第2章1節にはこのようにあります。「そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、〝霊〟による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら」。この中の「キリストによる励まし」の「励まし」が本日の箇所の「勧める」と同じ言葉なのです。主イエスが私たちを傍らに呼んで語りかけて下さっているのは勧めだけではありません。それは「励まし」でもあります。主イエスは自分の罪のために弱り落ち込んでいる私たちを力づけ、励まして、神の憐れみに支えられて感謝の生活を送れるようにして下さるのです。12章以下は、教会に連なって生きる私たちへの主イエスの励ましの言葉でもあるのです。
 またこの言葉は、コリントの信徒への手紙二の第1章3、4節では、さらに違う訳し方がなされています。「わたしたちの主イエス・キリストの父である神、慈愛に満ちた父、慰めを豊かにくださる神がほめたたえられますように。神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます」。ここに何度も出てくる「慰める」が、「勧める」と同じ言葉なのです。主イエスは私たちを傍らに呼んで親しく語りかけ、「慰め」をも与えて下さるのです。滅びる他ない罪人である私たちが、神の憐れみによって罪の赦しにあずかり、永遠の命の約束を与えられている、という聖書の告げるメッセージは、私たちにまことの慰めを与えます。信仰の生活とは、このまことの慰めに生きることなのです。『ハイデルベルク信仰問答』の有名な問1を思い起こします。「問1 生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。 答 わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることです。この方は御自分の尊い血をもってわたしのすべての罪を完全に償い、悪魔のあらゆる力からわたしを解放してくださいました。また、天にいますわたしの父の御旨でなければ、髪の毛一本も落ちることができないほどに、わたしを守っていてくださいます。実に万事がわたしの救いのために働くのです。そうしてまた、御自身の聖霊によりわたしに永遠の命を保証し、今から後この方のために生きることを心から喜び、またそれにふさわしくなるように、整えてもくださるのです」。生きている間も、その命が奪い去られる肉体の死においても変わることのない真実の、唯一の慰め、それは自分が主イエス・キリストのものとされていることです。言い換えれば、罪人である自分がキリストにおける神の憐れみによって救われている、ということです。キリストによる憐れみを受けた私たちは、心から喜んで、この方つまり主イエス・キリストのために生きていくのです。キリストを信じる信仰における倫理はその生活を整えるためのものです。その土台は、神の限りない憐れみのみ心なのです。

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