主日礼拝

まことの礼拝

「まことの礼拝」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:イザヤ書 第1章10-17節
・ 新約聖書:ローマの信徒への手紙 第12章1-2節
・ 讃美歌:18、56、513

神の憐れみに基づく倫理  
 先週の主日礼拝から、ローマの信徒への手紙の第12章を読み始めました。先週申しましたように、この12章以下には、主イエス・キリストによる救いにあずかった信仰者たちの生活についての教えが語られています。11章までのところには、イエス・キリストによる救いとはどのようなものか、つまり教会が信じる信仰の内容、それを「教理」と言うわけですが、それが語られていたのに対して、12章以下には、その教理に基づく生活のあり方、つまり「倫理」が語られていくのです。先週の礼拝において私たちは、そのキリスト信者としての生活における倫理の土台を確認しました。それは1節に「神の憐れみによってあなたがたに勧めます」とあるように「神の憐れみ」です。キリスト信者の生活とは、イエス・キリストによって示され、与えられた神の憐れみに支えられて生きる生活なのです。神は深い憐れみによって、私たち罪人の救いのために御子イエス・キリストを遣わして下さいました。そして主イエスの十字架の死によって私たちの罪を赦して下さり、神の民として下さいました。この神の憐れみによる救いに感謝し、恵みに応えていくことがキリスト信者の生活なのです。ですから12章以下に語られていく教えは、これを守れば救いにあずかることができ、守れなければ神からの罰を受ける、というような道徳的な教え、命令ではありません。キリスト信者の生活は、神の罰を恐れてビクビクしながら掟を守って生きることではなくて、神の大いなる憐れみによって自分の罪が赦され、救いが与えられていることを感謝して、その恵みに応えて喜んで生きる生活なのです。

自分の体を神に献げなさい  
 神の憐れみを土台としてパウロが勧めていることは何なのでしょうか。それは先ず第一に、1節後半の「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい」ということです。これが、神の憐れみに基づいてキリスト信者に勧められている第一のことであり、12章以下の勧めの根本なのです。本日はこの1節後半をじっくりと味わっていきたいと思います。   
 この勧めの中心は、「自分の体を神に献げなさい」ということです。「体」という言葉はここでは「肉体」のみを意味しているのではなくて、心も精神も含めた人間の全体のことだと言うことができます。あなたがたの全てを神にお献げしなさい、とパウロは勧めているのです。そこで「体」という言葉を用いているのは、体をもって生きている日々の具体的な生活を意識しているからです。私たちはこの体をもって日々生きています。まさにその日常の営みの一つひとつにおいて、自分自身を神にお献げして生きることが勧められているのです。キリスト信者としての生活とは、何か難しい高尚なことを考えて生きることではありません。あるいは、世間から離れた修道院のような所で特別な生活をすることでもありません。ごく身近な、日々の具体的な生活において、私たちはキリスト信者として、神に自分をお献げして生きるのです。それは、信仰者の生活の土台である神の憐れみ自体がそもそも具体的なものだからです。神の憐れみは抽象的でも観念的でもないし、俗世間を離れた特別な場で与えられるものでもありません。神の独り子イエス・キリストは、肉体を持った一人の人間としてこの世に具体的に生まれて下さり、人間としての様々な苦しみや悲しみを体験し、そして私たちのために十字架にかかって死んで下さったのです。そのように主イエスは体をはって、私たちへの神の憐れみを具体化して下さったのです。その具体的な憐れみに感謝し、応答する私たちの生活が、体をもって生きている日々の具体的な生活において自分を神にお献げする歩みとなるのは当然なのです。

献身して生きる  
 あなたがたの体を神に「献げなさい」と言われていることにも注目したいと思います。この言葉の元々の意味は「傍らに置く」です。「献げる」とは、その物を相手の傍らに置いて、相手のものとして自由に使ってもらうことです。自分の体を神に献げるというのも、自分自身を、神のみ前に供えて、神に自由に用いていただくことです。このことは、キリスト信者の生活とその倫理を考える上で根本となることです。私たちは、キリスト信者としての生活とか倫理と言うと、自分が神のために何をすることができるか、どのような良い行いをして神に仕えたらよいのか、というようなことを考えがちです。しかしそこでは私たちは、自分の考えや判断によって生きているのです。つまりそこではまだ自分は自分のものであり、自分が自分の主人なのです。自分を神にお献げするというのは、自分が神のものとなり、神のみ心のままに用いてもらうことです。そこに、一般的な倫理、道徳の教えと、感謝と応答の生活であるキリスト信者の倫理との違いがあります。一般的な倫理、道徳においては、自分が良いと信じることを自分の意志によって行っていくのです。そこではあくまでも自分が主人です。しかし神の憐れみに感謝し、それに応えて生きるキリスト信者の生活、倫理においては、主人は神です。そこでは、自分が何が良いと思うかではなくて、神が何を求めておられるか、神が自分をどのように用いようとしておられるのか、が大事です。その神のみ心を常に求め、自分の思いではなくてそのみ心に従って生きようと志すことこそが、自分の体を神に献げて生きるキリスト信者の生活なのです。それを「献身」と言います。キリストを信じて生きる者は皆、自分の身を神にお献げする献身に生きるのです。そのことをこの12章1節ははっきりと語っているのです。

自由な者として生きる  
 しかしここで間違えてはならないのは、神に自分を献げて、献身して生きるというのは、自分の意志や考えを持たない、神の単なる道具かロボットのようになることではない、ということです。神は私たちを意志を持たない道具やロボットにしようとしてはおられません。神のみ心、神が自分をどのように用いようとしておられるのかは、天から声が聞こえて来てその指示通りにするとか、あるいは誰か偉い教祖のような人の言う通りにする、ということではありません。神は私たち一人ひとりがみ心を自分で考えて判断することを求めておられるのです。それは神が私たちを自由な者としてお造りになった、ということです。私たちは自由な者として、神のみ心を尋ね求め、そして自発的にそれを行っていくのです。そうでなければそれは感謝と応答の生活になりません。つまり自分の身を神にお献げする献身に生きることは、神によって強制されて自分の意志に反することを無理やりさせられていくことではなくて、神によって与えられた救いの恵みを受け、感謝と喜びの中で自分から神のみ心を求め、それに自発的に従って生きることなのです。そのような献身に生きるためには、神との交わり、コミュニケーションをいつも深く持っていなければなりません。神のみ言葉を常に新たに聞き、それによって神の憐れみによる救いの恵みを常に新たに受け、そして神と対話しつつみ心を尋ね求めていかなければなりません。そのために私たちは、毎週神を礼拝し、日々聖書を読み、祈るのです。一週間の始めに礼拝に集って神のみ前に出てみ言葉を聞き、祈り、賛美し、そこから始まる日々の歩みの中で、祈りにおいて神との交わりに歩み、その中で神のみ心を求めつつ決断したことを自発的に行い、そして主の日に再び神のみ前に戻って来るのです。そのように、自らの意志をもって生きる自由な者として、いつも神との交わりの中で生きることが、自分の体を神に献げて生きる献身の生活なのです。

いけにえとして  
 このように1節後半の勧めの中心は自分の体を神にお献げすることですが、そこに、「神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして」という言葉が加えられています。原文における言葉の順序はこの翻訳と丁度反対であり、先ず「いけにえとして」という言葉があり、その後に「生ける、聖なる、神に喜ばれる」という順序になっています。この原文の語順に従って、一つひとつの言葉を味わっていきたいと思います。先ず「いけにえとして」です。自分の体を、神にいけにえとして献げなさいと言われているのです。それは穏やかではない言葉です。いけにえとは、生きた動物を殺して神に献げることです。自分の体をいけにえとして神に献げる時、私たちは殺されなければならないのでしょうか。しかし、神が本当に求めておられるいけにえは、動物を殺すことではないのです。そのことを語っているのが、本日共に読まれた旧約聖書の箇所、イザヤ書第1章11節以下です。その11節にこうあります。「お前たちのささげる多くのいけにえがわたしにとって何になろうか、と主は言われる。雄羊や肥えた獣の脂肪の献げ物にわたしは飽いた。雄牛、小羊、雄山羊の血をわたしは喜ばない」。神が求めておられ、お喜びになるのは、いけにえの動物の命やその血ではないのです。神は何を求めておられるのか、それが15節の3行目以降に語られています。「お前たちの血にまみれた手を洗って、清くせよ。悪い行いをわたしの目の前から取り除け。悪を行うことをやめ、善を行うことを学び、裁きをどこまでも実行して、搾取する者を懲らし、孤児の権利を守り、やもめの訴えを弁護せよ」。神が求めておられ、お喜びになるのは、いけにえの動物の命や血ではなくて、それを献げる人間の正しい生き方です。「搾取する者を懲らし、孤児の権利を守り、やもめの訴えを弁護せよ」に言い表されているように、強い者が弱い者を食い物にするようなことを許さず、弱い立場の者を守ることです。神は私たちがそのようにみ心に適うことを行うことをこそ求めておられるのであって、いけにえを献げることの本来の意味は、自分自身を神に献げて神のみ心に従って生きる者となる、ということだったのです。そこにおいて動物が殺されたのは、自分自身の命はもはや自分のものではなく神のものとなる、ということを象徴的に表すためでした。だから「いけにえとして」において求められているのは、私たちが「殺される」ことではなくて、私たちの命、体、生活の全体が神のものとなり、み心に従うものとなることなのです。

生き生きと生きている者として  
 次に「生ける」という言葉があります。自分の体を「生けるいけにえ」として献げなさいと言われているのです。いけにえとは本来生きている動物を殺して献げることですから、「生けるいけにえ」というのは同語反復です。しかしそこで献げられるのが私たち自身であるということにおいて、この「生ける」が重要な意味を持ってきます。私たちは、生きている自分を神に献げるのです。それは、まだ命があるうちに、ということではなくて、本当に生き生きと生きている自分を、ということです。神に献げられるものは生き生きと生きていなければなりません。私たちは、神に自分を献げる、ということをどのように捉えているでしょうか。それはしなければならない大事なことだけれども、そのようにしたら自分はもう自分らしく生き生きと生きることはできなくなる、自分を殺して神のために生きる者となることが神に自分を献げることだ、と思っているのではないでしょうか。つまりキリスト信者としての献身の生活について私たちは、それは正しい立派な生活かもしれなないが、あまり生き生きと生きているとは言えない、明るく楽しい生活ではなくて、堅苦しく縛られた暗い生活だ、というイメージを抱いていることが多いのではないでしょうか。しかしそれは間違いです。キリスト信者としての生活とは、生き生きとした、生命に溢れている生活なのです。主イエス・キリストによる救いは、私たちの人生の根本に、喜びと希望を与え、自分らしく生き生きと元気に生きる生活を与えるのです。暗い顔をして、元気なく、束縛されている、という思いを抱いて生きるのはキリスト信者の本来のあり方ではないのです。それは決して、人生における、この世界における、人間の罪とそれによって生じる様々な悲惨さに目を塞いで、それらを見ないようにして、のほほんと明るく生きるということではありません。私たちは、人間の罪とこの世界の悲惨さとをしっかり見据えて生きるのです。しかしその罪と悲惨さを、主イエス・キリストが十字架の苦しみと死とによって担って下さり、そのことを通して神の救いのみ業が実現していることを私たちは示されています。キリストの十字架の苦しみと死の悲惨さを知っているから、私たちはこの世の苦しみや悲しみ、悲惨な出来事を、目を逸らすことなくしっかり見つめることができるのです。そしてそのただ中にあっても、喜びと希望を失わずに生きることができるのです。神の憐れみの中で自分を神にお献げして生きる所には、そのような深い意味で、生き生きとした、喜びと希望のある明るい生活が与えられるのです。そのように生きている自分を私たちは神にお献げするのです。ですから私たちが自分の力で自分を生かして、その自分を神に献げるのではありません。神が先ず、主イエス・キリストによる救いの恵みによって私たちを生き生きと生かして下さるのです。その恵みに感謝して喜んで生きている自分を、私たちは神にお献げするのです。

聖なる者として  
 次に「聖なる」という言葉があります。自分の体を「聖なる」いけにえとして献げなさい、と勧められているのです。それはどういうことでしょうか。聖書において「聖なる」という言葉の意味は、神のものとして取り分けられている、ということです。聖なるものとは、他の一般的な、この世の、人間の用途に用いるものから、神のもの、神のために用いられるものへと取り分けられたものです。つまり「聖なる」という言葉は、それ自体が清い、正しい、純粋なものだということを言っているのではなくて、そのものが誰のものであるか、そのものの主人、所有者は誰であり、誰のために用いられるのか、を見つめているのです。それが神のもの、神が主人、所有者であり、神のために用いられるなら、それは聖なるものです。従って私たちが自分の体を聖なるいけにえとして献げるというのは、私たちが自分で自分を聖なるものとしてその上で神に献げるということではなくて、罪人であり、神に献げられるには全く相応しくない汚れに満ちた者である私たちが、主イエスによる神の憐れみにすがって自分を神にお献げし、神に用いていただこうとする時に、神が私たちを受け止めて下さり、罪を赦して「あなたは私のものだ」と言って下さり、用いて下さるのです。その時私たちは「聖なるもの」とされるのです。ですから、私たちが聖なるものとなることと、自分の体をいけにえとして神に献げることとは同時に起るのです。神に献げられる前から元々聖である者など一人もいないのです。  
 このように私たちは根本的には、自分を神にお献げし、神がその私たちをご自分のものとして下さることによって聖なる者とされるのですが、しかしパウロがここで、「自分の体を聖なるいけにえとして献げなさい」と勧めているということには、あなたがた自身も、自分の体、生活を神にお献げして生きる時に、聖なる者つまり神のものであることに相応しい者となるように努めなさい、という思いがそこに込められていると言うことができるでしょう。私たちは神が恵みによってご自分のものとして受け入れて下さることによって聖なる者とされるのですが、その恵みに応えて、私たちも、自分自身が聖なる者となるために、つまり神のみ心のままに用いていただくために努力していくのです。それは神がして下さることであると同時に、主イエスによる救いにあずかったキリスト信者がそれぞれの生活において努力していくべきことでもあるのです。

神に喜ばれる者として  
 そしてこのことが次の「神に喜ばれる」ということへとつながっていきます。神に喜ばれるいけにえとして自分自身を献げなさいとパウロは勧めているのです。それは私たちが清く正しい立派な生活を送れば神に喜ばれる、ということではありません。私たちは清くも正しくもない罪人です。私たちがどんなに努力しても、それによって神に喜ばれる者となれるわけではありません。しかし神はそのような罪人である私たちが、主イエス・キリストにおいて神が示し、与えて下さった憐れみによる罪の赦しを信じてそれにすがり、そこに与えられた救いの恵みに応えて、自分を神に献げ、神のみ心に従って生きようと努めていく時に、そのことを喜んで下さるのです。つまり神が本当に喜んで下さるのは、私たちが自分で清く正しい者となり、ということはキリストによる救いなどいらない者となることではなくて、独り子イエス・キリストによって神が与えて下さった救いの恵みを感謝していただくことなのです。その恵みを受けてそれに応えて生きて行く中で、私たちは神に喜ばれる者とされていくのです。

礼拝と日々の生活  
 このように、自分の体を、生きた、聖なる、神に喜ばれるいけにえとして献げることが、キリスト信者としての生活、倫理の根本です。そしてパウロはこの勧めに続いて、「これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」と言っています。ここには、キリスト信者としての生活は、神を礼拝することと切り離すことができないことが示されています。神を礼拝することなしにキリスト信者として生活することはあり得ないのです。そしてここにはそれと同時に、まことの礼拝とは、自分の体を、つまり日々の具体的な生活を、神にお献げすることなしにはあり得ないことが示されています。自分自身を神にお献げすることを伴わない礼拝は、どのように荘厳に、またどれだけ多くの人が集り、どのように整った形式で行われても、まことの礼拝ではない、神が喜んで下さる礼拝ではないのです。先ほどのイザヤ書第1章はそういうことを語っていました。形式的に、いかに多くのいけにえが献げられていても、香が炊かれたり、いろいろな祭が盛大に祝われていても、それを行っている者の心が正しく神に向かい、神のみ心に従って生きようとしていないなら、そのような礼拝を「わたしは憎んでやまない」と神は言っておられるのです。それは私たちのこの礼拝においても同じです。私たちはこの礼拝において、神のみ言葉を聞き、主イエス・キリストにおいて神が大いなる憐れみによる救いのみ業を行って下さったことを知らされています。またその救いをこの体をもって具体的に味わうために、本日は聖餐にあずかります。聖餐のパンと杯を受け、キリストの十字架による救いの恵みをこの体をもって体験するのです。礼拝はそのような恵みの時です。しかし私たちがその恵みに感謝し、応えて、自分自身を神にお献げするということがなければ、私たちの礼拝もまた、偽りの、神にとって重荷でしかないものとなってしまいます。礼拝は、神の大きな憐れみ、恵みが与えられる時であると共に、私たちがその憐れみ、恵みにお応えして、自分をお献げする時でもあるのです。そのことを目に見える形で表しているのが、礼拝の中で行われる献金です。献金は、私たちが自分自身を神にお献げすることの具体的なしるしです。ですから献金は教会の会費ではありませんし、礼拝の出席代金でもありません。私たちは自分自身を神にお献げするために、礼拝の中で献げものをするのです。そのことによって私たちの生活の全体が、生きた、聖なる、神に喜ばれるものとなるのです。  
 主の日の礼拝において私たちはこのように、神のみ前に出て、み言葉をいただき、聖餐にあずかり、祈り、賛美し、そして献金をすることの全体を通して、キリストによる救いの恵みを受け、感謝して自分自身を神にお献げして生きる者となります。そしてその礼拝の恵みに支えられて、それぞれに与えられている日々の献身の生活へと遣わされていきます。そこでは神が私たちを、み心によって生かし、用いて下さるのです。それによってこそ私たちは、本当に自分らしく生き生きと、明るく元気に生きていくことができるのです。

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