夕礼拝

聖霊によって

「聖霊によって」 伝道師 乾元美

・ 旧約聖書:イザヤ書 第61章1-4節
・ 新約聖書:使徒言行録 第13章1-12節
・ 讃美歌:54、342

<聖霊言行録>
本日から、使徒言行録の13章に入ります。13章からは、9節に出てくる「パウロとも呼ばれていたサウロ」が中心人物になっていきます。これまでは「サウロ」という名前で出てきましたが、この13章以降は、ずっと「パウロ」という名前で呼ばれます。
サウロというのは、ヘブライ語の「サウル」という名前をギリシャ風に読んで「サウロ」と言っているのですが、更に「パウロ」というのはローマ風のギリシャ語の名前と言えます。パウロはユダヤ人ですが、ローマ帝国の市民でもあります。そしてここからのパウロの、キリストの救いを宣べ伝える伝道活動は、同胞のユダヤ人だけではなく、遠くローマ世界、異邦人世界に住む人々へと広がっていくのです。

そのように、世界に向かう伝道を、パウロが中心になって担っていくようになりますが、13章以降に書かれていることは、パウロの伝道の業績を讃えるものだったり、パウロが主人公の物語として書かれたのではありません。
この使徒言行録というのは、「聖霊言行録」と言われることもあるくらい、聖霊なる神様の力強いお働きが示されています。このパウロの伝道の始まりの13章においても、キリストの十字架と復活の救いに人々を招く、神のご計画、神のみ業が、すべて聖霊によること、聖霊が命じ、聖霊が導き、聖霊がお働きなるのだ、ということが示されています。
キリストの救いを信じ、キリストの体なる教会に結ばれた人々が、神様の救いのご計画のために、神様によって豊かに用いられ、福音を宣べ伝えていった。その神様の救いのみ業として、これからのパウロの伝道の様子が記されていくのです。

この使徒言行録に記されている力強い、ダイナミックな聖霊のお働きによって、今ここにいるわたしたちも、その神のお働きに仕える教会によって宣べ伝えられてきた福音を知らされ、信仰を導かれ、救いに与りました。
また同じようにわたしたちも、この教会において、この受けた福音を伝えていくように召されています。同じように聖霊なる神様が働かれ、天におられるイエス様が共におられ、神様の救いのみ心に、わたしたちが召されていることを覚えます。わたしたちも、このアンティオキア教会のように、活き活きと伝道の業に仕えていくことが出来るのです。
パウロの伝道の働きと教会の姿に示される、そのような神様の深い恵みと導きを覚えつつ、今日の箇所をご一緒に聞いていきたいと思います。

<聖霊に送り出されてアンティオキア教会を出発>
さて、13章の冒頭には、アンティオキア教会に五人の預言する者や教師たちがいたと書かれています。
まずはバルナバの名前が挙がっています。エルサレムの教会から派遣された人で、パウロが回心した後に使徒たちに執り成したり、またエルサレムからタルソスに逃れたパウロを見つけ出して、このアンティオキア教会まで連れてきた人です。彼はキプロス出身と言われていますから、この後のキプロス宣教は、自分の故郷に伝道をしに行くということでした。ここにおいては、パウロよりもバルナバがこの伝道旅行の主体となっていたでしょう。
そして、ニゲルと呼ばれるシメオン。ニゲルとは「黒い」という意味ですから、アフリカ系の人であったと考えられます。シメオンという名はユダヤ人的な名前なので、まずユダヤ教に改宗しており、そこからさらにキリストを信じたということかも知れません。
そして、キレネ人のルキオです。キレネは現代のアフリカ北部なので、彼もアフリカ出身です。彼はエルサレムから迫害されて散らされた人々の一人で、11:19に「彼らの中にキプロス島やキレネから来た者がいて、アンティオキアへ行き、ギリシア語を話す人々にも語りかけ、主イエスについて福音を告げた」とある、キレネから来た者の一人、つまりアンティオキア教会の創立に係わった人であると考えられます。
そして、領主ヘロデと一緒に育ったマナエン。彼は宮廷に出入りする者でした。
最後にサウロ、つまりパウロです。

この時、アンティオキア教会は、すでに五人の指導者を必要とするほど大きくなっていたということですし、またその五人の顔ぶれを見ても、様々な出身や経歴であったことが分かります。きっとキリストを信じて群れに加わった人たちも、ユダヤ人、異邦人、出身も経歴も様々な、多様な人々がいたのでしょう。

しかし彼らは、そのような互いの違いを超えて、お一人の主イエス・キリストを信じ、一つになって神を礼拝する群れでした。2節に「彼らが主を礼拝し、断食していると、聖霊が告げた」とあります。断食は祈りのために行います。彼らが一つになって神を礼拝し、祈るそのところにおいて、神との交わりの中で、聖霊なる神様が働き、語りかけられました。
「さあ、バルナバとサウロをわたしのために選び出しなさい。わたしが前もって二人に決めておいた仕事に当たらせるために。」
聖霊は教会に向かって、ご自分が決めておられる仕事に当たらせるために、バルナバとパウロを選び出しなさい、とお命じになったのです。
ですから、これからの使徒言行録に記録されている伝道の業は、バルナバやパウロが、自分で計画を立てて、よし、じゃあやってみようと、自分たち個人の思いで始めたものではありません。また聖霊が、バルナバやパウロに個別に語りかけて、個人に担わされた働きでもありません。
これからの伝道は、聖霊によって教会全体に示された神のご計画であったのです。ですから、教会は、「断食して祈り、二人の上に手を置いて出発させた」とあります。教会は祈りを持って、神のみ心に従い、教会全体で二人をその働きに任命し、出発させたのです。
これからの二人の働きや伝道の業は、神のご命令による、教会全体の働き、教会全体で仕える伝道の業であり、また教会の祈りに支えられて行われていくものなのです。

ところで、五人の中心的な人物の内、二人を外へ送り出すというのは、アンティオキアの教会にとっては大変な痛手ではなかったでしょうか。
バルナバとパウロが、これからも自分たちの許に留まり続けて、説教をたくさんしてもらって、指導をもっと手厚くしてもらって、ケアも十分にしてもらえた方が、教会の人々の感情的には良いに決まっているのです。それに、もっと自分たちの生活圏であるアンティオキアの地域においても、まだキリストを知らない人々は多くおり、伝道していかなくちゃいけない、という状況だったでしょう。どこかの顔も見たことのない、遠い地域の人々のために、大事なマンパワーが裂かれて、指導者が減って、自分たちの教会生活が今より大変になってしまうかも知れないなんて、嫌だな、と思っても当然だと思うのです。

でも、アンティオキアの教会は、聖霊のご命令に従って、教会の業として、祈り、二人を任命し、出発させたのです。この「出発させた」という言葉は、「解放する」とか「解き放つ」という意味です。教会は、教会全体で神の召しに応えるために、痛手を負いつつ、二人を自分たちの群れから、自分たちの願いや思いから解放し、神の御手に委ねて、出発させたのです。
そして、これこそが教会の伝道の姿ではないかと思います。それは、自分たちの間だけでこの福音をとどめておくのではなく、自分たちの満足を求めるのではなく、一人でも多くの者たちが、共にこの救いの恵みに与ることが出来るように、自分たちの思いや願いから解放されて、どんどん前進していく神の救いのみ業に仕えていくということです。そうして、自分たちの安定を保つことよりも、神の民が、一人でも多く加えられていくことにこそ、教会が喜びを感じるということです。
そこでは、奉仕する兄弟姉妹のための、祈りもますます熱く捧げられるでしょうし、また、ますます御言葉に耳を澄まして神のみ心を聞こうとし、心を一つにして、支え合い、励まし合って、従って行こうとするでしょう。そのような教会の礼拝と祈りにおいて、聖霊が働いて下さり、歩むべき道を示して下さり、力を与えて、行くべきところへと遣わして下さるのです。
そのようなキリストの体なる教会は、動かずにじっと留まっているのではなくて、神のご意志に従って、活き活きと活発に動き、働き、前進していくのです。

<キプロス宣教>
そうした教会の祈りの中で、聖霊によって、バルナバとサウロは送り出されて行きました。二人が向かった先は、バルナバの出身地であるキプロス島です。

サラミスというところに到着すると、彼らは「ユダヤ人の諸会堂で神の言葉を告げ知らせた」とあります。二人は初めから異邦人に向けて伝道する、というつもりではなくて、まずは同胞のユダヤ人たちに語りかけました。しかし、そうしているうちに、このバルナバとパウロのことを噂で聞きつけたのでしょう、異邦人である、地方総督セルギウス・パウルスという人が、「神の言葉」に関心を持ちました。二人を招いて「神の言葉」を聞きたがったのです。

しかし、この総督と親しくしていた、ユダヤ人の魔術師でバルイエスという一人の偽預言者が、バルナバとパウロに対抗して、総督をこの信仰から遠ざけようとしました。
魔術師は、占いやまじないによって、見えない力を支配しようとしたり、自分がそれを支配しているかのように見せて、人の心を虜にします。しかし、その力は見せかけです。本当に魔術師が、見えない力や未来のことを支配しているのではありません。
また一方で、そのようなまやかしであっても、頼りたくなってしまう、何とかして自分や他人や、また世界を、見えざる力によって把握し、支配したいと願う、人間の弱さがあります。総督は賢明な人物であったと評価されていますが、人間の知恵を超えたものに対しては、魔術に頼ろうとするのです。これまでは、この魔術師が、巧みな言葉で総督に取り入り、総督に重用されて、おいしい思いをしてきたのかも知れません。
そしてこの魔術師は、バルナバとパウロが、そんな自分の立場を脅かす存在だと思い、対抗してきたのです。

なぜなら、バルナバとパウロは、天地をお造りになり、まことにすべてを支配しておられる「神の言葉」を語っているからです。しかもこの神の支配は、キリストの十字架と復活によって、人々の間にはっきりと示されました。一見、すべてに敗北されたかのような、裏切られ、罪人とされ、罵られ、鞭打たれて十字架で死なれたキリストが、死の中から復活し、罪も死も、すべてに打ち勝たれ、神のご支配を打ち立てて下さった。その神の確かなご支配を、「神の言葉」が告げ知らせているからです。

魔術師はその「神の言葉」が邪魔だったのです。魔術師が、また人が、自分が支配して意のままにしようとするところで、神の支配を告げる「神の言葉」はまったく異質なものであり、邪魔であり、受け入れられず、反発に遭うのです。
神の支配を受け入れるということは、自分が支配していると思っていたもの、重んじていたもの、手にしていると思っていたものを手放して、神に明け渡すことだからです。
魔術師は、神の言葉が、自分のまやかしの言葉に対する大きな脅威であることを知っていました。そして、二人の邪魔をして、総督を神の言葉から遠ざけようとしたのでした。

天も地も、命も死をも支配する神の言葉の前に、神ではない、人や、権力や、利益や、あらゆる世を支配しようとしているものは、抵抗しようとするでしょう。
しかし、その抵抗するものと戦ってくださるのは、神ご自身です。

9節以下に、パウロは「聖霊に満たされ、魔術師をにらみつけて言った」とあります。聖霊に満たされた。ここで確かに働いて、神の言葉を邪魔する者を退けて下さったのは、聖霊ご自身です。
パウロは聖霊に満たされて言います。
「ああ、あらゆる偽りと欺きに満ちた者、悪魔の子、すべての正義の敵、お前は主のまっすぐな道をどうしてもゆがめようとするのか。今こそ、主の御手はお前の上に下る。お前は目が見えなくなって、時が来るまで日の光を見ないだろう」。
そうすると、魔術師の目はかすんできてすっかり見えなくなり、歩き回りながら、だれか手を引いてくれる人を探した、とあります。

ここで、「時が来るまで日の光を見ないだろう」と言われています。
わたしたちは、目が見えなくなるエピソードといえば、このパウロ自身が教会の迫害者であった時に、ダマスコへ行く道中で主イエスと出会い、光に打ち倒されて、目が見えなくなったことを思い出すのではないでしょうか。神との出会いは、これまで自分が確かに思っていた世界や、支配や価値が、本物ではないということを知らしめます。本当は見るべきものが見えていなかったのです。しかし、神によって信仰の目が開かれる時には、神の恵みのご支配を見ることが許され、そのご支配の中で自分が生かされていることを、しっかりと見つめることが出来るようになります。
この魔術師も、本当に見るべきものを見るように、いつか信仰の目を開いて頂くように、神に立ち帰ることを求められたのではないでしょうか。

その後、魔術師がどうなったかは分かりません。
しかし、ここで、「総督はこの出来事を見て、主の教えに非常に驚き、信仰に入った」と書かれています。総督は、魔術師の目が見えなくなった出来事でびっくりして、不思議な力を慕って信仰に入ったのではありません。
総督が非常に驚いたのは、他でもない「主の教え」です。それは「神の言葉」であり、神の国、神のご支配が来た、ということです。
そして、その神の支配は、主イエスの十字架と復活のみ業によって明らかにされたということです。イエスという方が、旧約聖書に預言されていた救い主であり、わたしたちの罪を負い、十字架で死なれたということ。また三日目に死人の中から、神が復活させられて、使徒たちに現れ、天に上られ、そしてすべてを支配する方となられたこと。この主イエスを信じる者は、誰でも罪が赦されるということ。これらのことを聞いて、総督は非常に驚き、信仰に入ったのです。

<聖霊によって>
こうして、聖霊によって命じられ、送り出されたバルナバとパウロのキプロス島伝道では、魔術師の抵抗を退けて、異邦人の地位ある人が、キリストの福音を信じて救われる、という出来事が起こったのでした。
確かに、バルナバとパウロが船出し、説教をし、魔術師と対決し、総督に主の教えを知らせたのです。しかし、この救いのみ業を計画し、支配し、導いておられるのは神ご自身です。二人を選んだのも、送り出したのも、敵を退けたのも、一人の人を救いに与らせるのも、すべて聖霊のお働きによるものでした。
そして、聖霊がそのようにみ業を行って下さるところには、心を一つにして礼拝し、熱心に祈る教会があります。神のみ心に従い、キリストを頭とし、聖霊のお働きに忠実に仕えようとする、教会の姿があるのです。

一人の求道者が起こされ、一人の人がキリストの福音を聞き、救われる、という出来事の背後には、この力強い神ご自身のお働きと、そしてこの教会の兄弟姉妹たちの、痛手を負ってでも神のご計画に従おうとする、奉仕の業、熱心な祈りがあるということです。

そうして、わたしたち一人一人も、教会の祈りの中で、神に招かれ、聖霊に導かれ、キリストを信じる信仰を与えられました。そしてまた、祈りつつ、一人でも多くの者を救いに招こうとする神のみ業に、喜んで仕えていくのです。自分もその恵みと喜びに与ったからです。聖霊なる神様のお働きに教会が祈り仕えていく時、教会は活き活きと働き、活発な、祈り溢れる教会となるでしょう。
アンティオキアの教会がこのように神に従い、伝道の業を始め、その福音が世界中に広がっていったことを覚えて、わたしたちもこの横浜の地で、同じ聖霊なる神様がなそうとしておられるお働きに仕えていきたいのです。心を合わせて礼拝し、熱心に祈り、神のみ心に耳を傾けましょう。そして、じっと動かないのではなく、聖霊によって、一人でも多くの人が教会の群れに加えられることを喜びとして、活き活きと歩んでいきたいと願います。

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