「キリスト者の生活」 伝道師 乾元美
・ 旧約聖書:詩編第111編1-10節
・ 新約聖書:使徒言行録第2章42-47節
・ 讃美歌:17、390
【ペンテコステの出来事】
使徒言行録の第2章は、復活の主イエスが天に上げられた後、使徒たち一同に聖霊を送って下さった、ペンテコステの出来事が書かれています。
そして聖霊によって力を与えられた使徒ペトロが、主イエスの十字架と復活、そして天に上げられた事を人々に語り、イエスこそ、神から遣わされた救い主であると証しました。
それを聞いて大いに心を打たれた人々は、ペトロが「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい、そうすれば賜物として聖霊を受けます」と言ったことを受け入れ、その日のうちに三千人もの人々が洗礼を受けたと言います。
この、キリストを証し、キリストを信じる人々の共同体こそが、教会です。教会は、父なる神に復活させられて、天に上げられた主イエス・キリストが、聖霊を送って下さったことで誕生しました。
そして、2:47の後半には、「主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである」と書かれています。これこそが、ペンテコステの出来事のクライマックスと言ってもよいでしょう。
聖霊のお働きによって主イエスの福音が語られ、主なる神ご自身が、救おうとされる人々を招き、教会に加えて一つにして下さったのです。
このような教会の伝道の歩みは、父、子、聖霊なる三位一体の主なる神ご自身の御業です。
すべてのことは「主」が主語なのです。
【一つにされた者たち】
しかし救われた人々は、何でも神様がして下さるからと言って、洗礼の後、ぼんやりしていたのではありませんでした。彼らは、キリストを信じる者、キリスト者として生活したのです。
今日の聖書箇所には、教会のキリスト者が、どのように、何を大切にして生活をしていたかが書かれています。神に招かれ、救いの恵みに入れられた者の、感謝と喜びの生活です。
そして、この教会で信仰生活をしている人も、この使徒言行録に書かれている同じ主に招かれて、同じ福音を信じ、同じ聖霊を受けました。そのように、彼らが一つにされたところに、わたしたちも加えられたのですから、わたしたちの教会生活も、同じことを大切にする生活となります。
そして今回の箇所では「一つになる」という言葉がたくさん出てきます。
44節「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし」
46節「そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り」
47節「主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされた」
洗礼を受けるということは、まず主イエス・キリストと一つに結ばれるということです。そうしてわたしたちは、主イエスの十字架の罪の赦しに預かり、主イエスの復活の命に預かります。
そしてまた、自分と共にキリストに結ばれている者たちがいます。皆共に、お一人のキリストに結ばれた者として、互いも結ばれているのです。キリストに結ばれた者たちは、主にあって一つになります。
同じことの表現ですが、キリストにあって、わたしたちは神を「父」と呼び、神の子どもとなることが赦されたのですから、キリストに結ばれた者は互いに家族です。教会では互いを「兄弟姉妹」と呼んだりします。教会に結ばれた者は、主にある家族となって、一つにされて、共に生きていく群れとなるのです。
【教会が大切にしていること】
さて、42節には、そのように一つとされた彼らが熱心であったことが四つ挙げられています。
「使徒の教え」「相互の交わり」「パンを裂くこと」「祈ること」とあります。
【使徒の教え】
使徒の教えとは、まさにイエス・キリストが神から遣わされた方であり、救い主であるという証言を聞くことです。そして悔い改め、キリストの名で洗礼を受け、罪を赦していただくようにとの勧めです。教会は、まず主イエスを証しし、伝道をする群れなのです。
福音を聞いて、最初に洗礼を受けてキリスト者となった人々は、エルサレムに帰ってきていたユダヤ人たちでした。彼らは共に旧約聖書の教えをずっと聞いて、旧約聖書に預言された救い主をずっと待ち望んでいました。
しかし今や、その方が来られて、自分たちの罪のために十字架に架かり死んだこと。そして、父なる神によって復活させられ、今は生きて天におられるということを聞きました。聖霊が降るのを見ました。旧約聖書の救い主の預言は、主イエスが来られて、実現したのです。
旧約聖書の律法に従って生きてきた彼らは、救い主イエス・キリストに出会って、本当の神の御心を知り、キリストに従う新しい生き方へと促されます。
それで、人々は一つになって熱心に主イエスの救いの御業、そして教えについて、使徒たちに聞き、また与えられた信仰のゆえにどのように自分たちが新たに生活していくのかを、教えられたのではないでしょうか。
それはユダヤ人だけでなく、他の国の者も、また現代に生きるわたしたちも、主イエスと出会うことで、新しく生きる生活が始まります。洗礼を受けた日は、罪に支配されていた自分の最後の日であり、また主イエスの命を生き始める最初の日です。そこから、新しい命に生きる、主に従う生活が始まるのです。
使徒の教え、今のわたしたちは聖書、そして説教によって、主イエスがどのような方であるかを知らされます。
お一人お一人の人生には、これまで大切にしていたこと、捕らわれていたこと、支配されていたことが、あったかも知れません。
しかし、主イエスの福音を知らされることで、そのような自分の中心にあったものが、すべて取り去られ、主イエス・キリストご自身が中心に立って下さるのです。福音によって、わたしたちが従うべき方が明らかになります。
キリストを信じる群れである教会は、聖霊を受けて、そのような福音を語り続けるところ、また聞き続けるところなのです。
【相互の交わり/共有すること】
そして、主イエスに従う者は、それぞれ個人で従うのではありません。主イエスに救われ、新しく生きる者は、共に主イエスに愛された他の兄弟姉妹とも、互いに愛しあい、共に助け合い、祈り合って、主に従っていきます。
それが、次の「相互の交わり」です。主イエスの救いに与るということは、教会の群れに加えられるということです。キリストに結ばれた者は、共に結ばれた兄弟姉妹と共に、一つとなって、交わりの内に歩んでいくのです。
初めて教会に来た方は、教会の中で「交わりの時を持ちます」とか、「豊かな交わりを感謝します」とかいう言葉を聞いて、不思議に思われたかも知れません。「交わり」というのは、教会で使われている独特な言葉の一つでしょう。これは、ただ単に交流するとか、仲良くする、という意味ではありません。
この「交わり」という言葉は、「共にあずかる」「共有する」「共同で関与する」という意味があります。
「相互の交わり」の具体的なことの一つとして、44節には、「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて皆がそれを分け合った」と書かれています。
これは初代教会の一つの具体的な例ですが、ここで大切なことは、信者たちは、まず「皆一つになった」ということです。一つになるというのは、キリストに一つに結ばれて、互いに結ばれたもの同士も一つになるということだと最初に申しました。彼らは、物を共有する前に、まず主イエスから与えられた救いの恵みを一緒に共有して、一つになっていたのです。同じ十字架と復活の福音を聞いて、同じ救いの恵みを与えられたのです。
それが「交わり」の原点です。
主イエスの福音を受け入れ、その一つの主の救いの恵みを共に受けて、互いに一つとなったキリスト者たちは、それゆえに、それぞれに与えられたものも共有し合っていくことができます。それは、持ち物だけでなく、与えられた賜物、持っている能力、そして弱さも、困難も、すべてを共有して、互いに与え合い、補い合い、一つになって主の恵みのもとに従っていくこと。それが、「相互の交わり」ということなのです。
【パン裂き】
さて、共に共有した、主イエスの救いの恵みの、目に見えるしるしとして、キリスト者が大切にしたのは、「パン裂き」でした。
使徒言行録の著者であるルカは、この「パン裂き」によって明らかに思い起こしていることがあります。
それは、最後の晩餐です。ルカによる福音書22:19には、このように書かれています。
「それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。『これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。』食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。」
主イエスは十字架につけられる前に、最後の晩餐の席で、ご自分の死が、すべての者に命を与えるためのものであること、罪の贖いのための、神との新しい契約であることを示し、記念として行うようにと、定められました。
今もわたしたちの教会が大切に守り続けている、聖餐です。
主イエスが裂いて下さったパンは、わたしたちに命を与えるために裂かれた主イエスご自身の体であり、杯は、十字架でわたしたちの罪の赦しのために流された血です。
聖餐とは、ただ単にそのことを思い起こす儀式ではありません。
十字架と復活の救いの恵みにあずかった者が、聖霊なる神様の働きによって、天におられ、今も生きておられる主イエスご自身と一体となる時です。
ですから、聖餐は、主イエスが救い主であると信じて告白し、教会の中で洗礼を受けた者があずかるものなのです。
一つのパンが裂かれ、それが分かたれ、食されて、それぞれの体を養うように、お一人の主イエスの十字架で裂かれた体によって、わたしたち一人一人が新しい命を与えられました。その主イエスご自身との交わりの聖餐によって、わたしたちの信仰はますます励まされ、強められます。
そしてその主イエスとの交わりの食卓に、共にあずかる兄弟姉妹がいます。わたしたちの「相互の交わり」は、この聖餐において、共に主の救いの恵みを確かにされ、さらに豊かにされていくのです。
【祈ること】
そして、教会に生きる者は、祈ることに熱心でありました。
もともとユダヤ人は、よく祈っていました。時間を決めて、一日に何度もお祈りをしました。3:1にも、「ペトロとヨハネが午後三時の祈りの時に神殿に上って行った」と書かれています。
このペンテコステの時に誕生した教会は、ユダヤ人たちがイエス・キリストが旧約聖書に預言されていた救い主であるということを受け入れて誕生したのですから、もちろんこれまでの旧約聖書を捨ててしまったり、神への礼拝を失くしてしまったのではありませんでした。
むしろ、救い主を遣わして下さった神に感謝して、ますます熱心に礼拝し、祈ったことでしょう。
46節には、「毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り」とあるように、キリストを信じた者たちは一緒になって毎日神殿に赴き、祈りを捧げていたのです。
そして、さらに「家ごとに集まって」とあります。
神殿にはキリストを信じたユダヤ人も、信じていないユダヤ人もいたでしょう。
神殿に参った後、キリスト者はそれぞれ家に集まって、主イエスの十字架と復活を覚える「パン裂き」を行い、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していました。彼らはキリストを信じる者として、神を礼拝していたのです。
そのような、救い主イエス・キリストと出会った彼らの祈りは、ここには詳しくは書かれていませんが、きっと大きく変わったに違いありません。
主イエスは、使徒たちに祈りを教えられました。
それはルカによる福音書の11章にあり、今わたしたちにも与えられている「主の祈り」です。主イエスは、祈る時にはこういいなさい、と言って、全知全能の神を、「父よ」と親しく呼びかけるように教え下さいました。
父なる神の、ただ一人の御子は、イエス・キリストだけです。しかし、主イエスはわたしたちの罪を贖い、新しい命を約束して下さって、わたしたちも神の国を受け継ぐ者、神の子となることを赦して下さいました。ですから、主イエスにおいて、わたしたちは神を「父よ」と呼び、祈り求めることが出来るのです。
神に「父よ」などと親しく呼びかけることは、ユダヤ人の祈りでは有り得ないことでした。しかし、キリスト者となったユダヤ人たちは、神が愛の故にご自分の御子を救い主としてお遣わし下さり、罪を赦して自分たちをも真に神の子として下さったことを覚えて、感謝して、喜んで、主イエス・キリストの名によって、「われらの父なる神よ」と、共に祈りを合わせたのではないでしょうか。兄弟姉妹が共に祈ることは、祈りの交わりでもあり、父なる神への願い、感謝を共有することと言えるでしょう。祈りは神との交わり、そして相互の交わりに欠かすことが出来ません。
ところで、主イエスが教えて下さった主の祈りは、父よ、と呼びかけ、わたしたちの自分の願いや訴えに先立って、「御名が崇められますように。御国が来ますように。」と祈るように教えてくださいました。
そしてこのことこそ、すべてのキリスト者が最も待ち望み、一番に願いとすべきことなのです。
すべての者が、真の神を礼拝しますように。御国が来ますように。神の国が完成しますように。神のご計画が成りますように。ご計画とは、主イエスの十字架と復活の福音をすべての者が信じ、救いにあずかることです。
教会は、主イエス・キリストが十字架と復活によって、罪と死に勝利され、始めて下さった神のご支配が、完成する日を待ち望んでいます。主イエスが再び来られる日を待っているのです。
主にあって一つとされたわたしたちは、この約束を待ち望んで共に祈り、また聖霊の働きを祈り求めながら、キリストの交わりと、また相互の交わりの中で、福音を宣べ伝えつつ歩んでいくのです。
聖霊が送られたペンテコステの時から、教会はそのような歩みを始めました。
その歩みは、主ご自身のお働きによって進められます。その主のお働きは、教会を一つにし、動かします。キリストを信じる者は、共に教えを聞き、相互に交わり、パンを裂き、祈る生活へと導かれます。そして、主イエスを証しする力を与えられて、御国の完成のために神の御業に、伝道に用いられていくのです。
使徒言行録では、そうして、救われる人々が日々仲間に加えられて、一つにされていったと記しています。
わたしたちも、そのような教会の仲間に加えられて一つにされました。そしてこれからも、救われる者が日々、主によって、教会に加えられていくのです。
【主イエスを証しする生活】
そして、今日の聖書箇所には、教会に属していない人々が、その様子をどう見ていたかということが書かれています。43節には、「すべての人に恐れが生じた」とあり、47節には「民衆全体に好意を寄せられた」とあるのです。
まず、すべての人が恐れたのは、使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたから、とあります。この「恐れ」という言葉は、恐怖の恐れではなくて、神への畏敬の念、敬う気持ちで近づくことが出来ない、そのような畏怖という意味の言葉です。
使徒言行録では、使徒たちによる癒しの業など、奇跡の出来事がいくつか記されています。
その説明として、後に出て来る14:3の、パウロとバルナバの場面で、「主は彼らの手を通してしるしと不思議な業を行い、その恵みの言葉を証しされたのである」とあります。
しるしと業は、恵みの言葉、つまり主イエス・キリストの十字架と復活の福音が確かであるという証明として、神ご自身が行ってくださることなのです。
そのように神ご自身の力が見える形で現されて、その力で証しされた主イエスを、救い主と信じる集団が生まれ、人々は神への畏怖の念を持ちました。
そして、信じた人たちが共に生活している様子を見て、民衆全体は好意を寄せていた、とあります。
聖霊が降り、ペトロの説教で心を打たれた三千人が、洗礼を受け、みなで使徒の教えを聞き、互いに交わり、パンを裂き、祈っている姿。そして、互いに物を分け合い、毎日心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美している姿。
それを外から見ている人たちが、好ましいと思っていた、というのです。
キリスト者が喜びに満ちて、活き活きと、共に礼拝し、互いに愛し合って生活している姿は、主イエス・キリストから受けた恵みがどれほど素晴らしいか、そして共に救われ一つにされた者たちが共に神を賛美することがどれほど豊かなものかを、力強く人々に証ししたことでしょう。
そこには一体、どんな素晴らしいことがあるのだろうか、どうしてそんなに一緒になって喜んでいるのかと、人々は関心を寄せたに違いありません。皆が暗い顔でぎすぎすして、ばらばらだったら、誰も教会に見向きもしなかったでしょう。
聖霊の力を受けて主イエスを証しするということは、十字架と復活を告げ知らせることと、救われた者たちが神を讃える礼拝で、そして喜びの生活の全てで、その恵みを証ししていくということなのではないでしょうか。
わたしたちの教会も、聖霊の働きを受け、このペンテコステに誕生した教会に連なっています。キリストにあって一つにされて、聖書の教えを共に聞き、相互に交わり、パンを裂き、祈りつつ、主イエスを活き活きと世に証ししていく教会生活を共に送っていきましょう。
教会が一つになって、喜びと真心と神への賛美であふれる時、そのようにして主イエスの恵みを証しする時、主ご自身が、またこの群れに、救われる人々を仲間に加え、一つにして下さるでしょう。