主日礼拝

一羽の雀さえ

「一羽の雀さえ」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:詩編第34編2-11節
・ 新約聖書:マタイによる福音書第10章26-31節
・ 讃美歌:19、127、532

全く無価値な者でさえ
 「一羽の雀さえ」という本日のお話の題は、先程読まれた新約聖書の言葉、マタイによる福音書第10章29節の、イエス・キリストの言葉から来ています。「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない」。二羽の雀がセットで一アサリオンで売られていたのです。アサリオンはお金の単位です。皆さんがお持ちの新共同訳聖書は後ろに付録がありまして、その中に「度量衡及び通貨」の表があります。その冒頭に「アサリオン」とあって、それは「一デナリオンの十六分の一」であると書かれています。一デナリオンというのが、当時の労働者の一日の賃金の相場でした。ですから一アサリオンとは、日当の十六分の一です。それで二羽の雀が買えたのです。そうすると一羽の雀の値段はその半分、つまり日当の三十二分の一ということになりますが、そもそも雀は一羽では売りものにならないのです。二羽セットにしないと商品価値がなかったのです。「一羽の雀」とはそのように値がつかないくらい安いもの、価値の低いものの代表です。その一羽の雀も、「あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない」とイエス・キリストはおっしゃいました。「あなたがたの父」とは、天の父である神様です。神はあなたがたの天の父であり、その神のお許しがなければ、一羽の雀さえ地に落ちることはない、つまり天の父である神は、一羽では売り物にならないような全く無価値な雀さえ、見守っておられ、心に留めておられるのです。それは雀の話ではありません。私たちのことです。私たちは自分のことを、全く価値がない、何の力もない者だと思っているかもしれない。自分の周囲には、立派な人、あれもこれも出来る人、いろいろな意味で恵まれている人が沢山いるのに、自分はその人たちに比べて何も出来ない、何もとりえがないと思っているかもしれない。あるいは、以前は自分もあれこれのことが出来たし、社会の中である地位や役割を持っていたが、年を取ってきて、あるいは病気になってしまったために、その地位や役割を失ってしまった、社会の、人々の役に立たない者、むしろ迷惑をかける者になってしまった、自分なんていなくなった方が世の中のためなのではないか、と思っているかもしれません。私たちはそのように自分に自信が持てなくなり、無力感に苦しみ、生きている価値がないように思ってしまうことがあります。そういう私たちに主イエスはここで、「神は一羽の雀さえも心に留め、見守っておられる。ましてあなたがたのことは、天の父として、慈しみをもって心に留め、見守っておられるのだ。そのことを信じなさい」と語りかけておられるのです。30節には「あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている」とあります。私たちは自分の髪の毛の数など分かりません。「大分少なくなってきたな」ということが分かるぐらいです。でも神様はその数まで数えておられる、つまり私たちが自分のことを分かっていると思っている以上に神は私たちのことを知っておられ、それだけしっかりと私たちのことを見ておられ、関心を持っておられ、私たちに関わろうとしておられるのです。

恐れに捕われている私たち
 そのように語ることによってイエス・キリストは私たちに、31節にあるように「だから、恐れるな」と言っておられます。神様が自分のことを、慈しみ深い天の父として心に留め、見守って下さっていることを知ることによって、私たちは恐れずに生きていくことができるようになるのです。それは逆に言えば、私たちの人生は恐れに満ちているということです。私たちはいろいろなことを恐れて生きています。人生において失敗してしまうことを恐れています。仕事においても、家庭においても、進学や就職においても、友人や同僚との関係においても、あらゆることにおいて、失敗してそれを失ってしまうことを恐れているのです。失敗することだけではありません。病気になること、老いていくこと、そしてその先にある死ぬことを恐れています。病気もその一つですが、突然の出来事、災害、事故、事件などによって不幸に見舞われることを恐れています。そのように私たちには恐れていることがいろいろあるわけですが、本日の箇所の最初の26節には「人々を恐れてはならない」とあります。人々を恐れることが、私たちが抱いている恐れの代表として挙げられているのです。その意味は28節の「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」というところから分かります。これは、信仰のゆえに人々から迫害を受け、殺されてしまうような状況を前提として語られているのです。あなたがたを迫害する人々が殺すことができるのは体だけで、魂まで殺すことはできない、だから人々を恐れるな、と言われているのです。このようにここでは迫害する人々を恐れるなと語られているのですが、今日の私たちはそれとは別の意味で人々を恐れていると言えるでしょう。先ほど申しましたように私たちが自分のことを価値のない、とりえのない、生きていても仕方のない者だと感じてしまうのは、他の人と自分とを比較することによってです。人と比べて自分はダメだ、何もできない、とりえがない、役に立っていないと思ってひがんだり落ち込んだりしてしまうのです。そのように人と自分を見比べることで自分の価値を確認しようとしているのも、人々を恐れているということです。人々による評価、人々の目を恐れているので、「自分は自分なんだ」と胸を張って生きることが出来ないのです。

恐れからの解放
 そのように人々を恐れている私たちに主イエスはここで、人々ではなく、「むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」と言っておられます。つまりあなたがたが本当に恐れるべき相手は人々ではなくて神様なのだ、ということです。そしてそれに続いて29節で「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない」と語っておられるのです。つまり主イエスは、人々ではなく神様をこそ恐れなさいと言っておられますが、それは決して、神の前で失敗して滅ぼされたらどうしようとビクビクしながら生きなさいということではありません。神様は確かに、人を裁いて滅ぼすことのできる方ですけれども、しかし私たちの失敗を粗探しして魂と体を地獄で滅ぼそうとしておられるのではなくて、一羽の雀さえも心に留め、守り、養っておられるのです。まして私たちのことは、天の父としての慈しみをもって心に留め、見守っておられるのです。神がこのように自分を心に留め、見守っていて下さることを知るなら、私たちは、人々を恐れることから解放されるのです。人が自分のことをどう見ているか、どう評価しているか、認めてくれているか、役に立つ者だと思われているか、ということで自分の価値を測り、それによって喜んだり落ち込んだりすることから解放され、神が自分を見守っていて下さるという平安や安心感の中で生きることができるようになるのです。

覆われているもの
 ところで26節には、冒頭の「人々を恐れてはならない」に続いて「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである」と語られています。これはどういう意味なのだろう、と誰もが不思議に思うのではないでしょうか。「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない」。これを私たちは普通、隠されている悪事もいつか必ず露見する、人の目はごまかせても、神様には全てお見通しなのであって、神による裁きが下るのだ、というふうに理解すると思います。しかしそのように読むと、「人々を恐れてはならない」ということとどう結びつくのか分からなります。ここでの「覆われているもの」とか「隠されているもの」は、人の目から隠れて行われている悪事とか、人を騙したりごまかしたりしてなされている悪いこと、という意味ではありません。そうではなくてこれは、私たちが自分のことをどんなに価値のない、取るに足りない者だと思って自信を失い絶望してしまっても、神様がなお私たちのことを心に留め、見守っておられる、という神様の恵みです。二羽ひとからげで一アサリオンで売られている雀の一羽さえも神が心に留めておられるという事実です。そのことは、誰の目にもすぐにそれと分かることではありません。覆われている事実、隠されている事柄なのです。私たちの目に見えていること、誰にでもすぐに分かることは、二羽の雀が一アサリオンで売られている、という事実です。一羽の雀はそれだけでは売り物にもならない無価値なものだ、ということです。自分もその一羽の雀のように、この世においては、世間の人々の評価においては、全く無価値なものであり、何のとりえもなく、人々に馬鹿にされ、さげすまれ、自分自身でもそれに反発することができず、自分なんかダメだ、いてもいなくても変わりないのだ、と諦めている、それが私たちの目に見えている現実かもしれません。しかし、その目に見えている現実の背後には、覆われていること、隠されていることがある。それは、一羽の雀さえも心に留めておられる神が、この私を、ご自分の愛する子として見つめ、見守り、導いて下さっているという事実です。この事実は覆われており、隠されているから、なかなか見えない、分からない、それに気づくことができないのです。でも、覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない。神様が私たちを愛して下さっており、天の父として心に留め、見守り、導いて下さっている事実は、いつか必ず、誰の目にも明らかになるのです。そのことを信じる時に、私たちは人々を恐れずにすむようになります。人々の目、世間の評価、この世の判断基準によって自分の価値を測るようなことから解放されるのです。

主イエスの十字架と復活による救い
 主イエス・キリストを信じてその救いにあずかるとは、この覆われており、隠されている神様の救いの恵みの事実を信じて生きる者となることです。主イエスによる救いは、覆われており、隠されています。なぜならそれは、主イエス・キリストの十字架の死によって実現した救いだからです。神の独り子であられる主イエスが、私たちの全ての罪を背負って、身代わりになって十字架にかかって死んで下さったのです。主イエスのこの身代わりの死によって私たちの罪は赦されたのです。そこに私たちの救いがある、と聖書は語っています。でもそれは、すぐにそれが救いだと分かることではありません。イエスは立派な人だったが、時の支配者たちの妬みや恨みをかったために捕えられ、殺されてしまった、それが目に見える現実です。しかしその目に見える現実の背後には、ご自分の独り子を遣わし、その十字架の死によって罪人である私たちを赦して下さる神の愛が隠されているのです。またそこには、主イエスと同じように人々から見捨てられ、無価値な者としてさげすまれ、排除されている者を父なる神が見捨てることなく、いつも心に留めていて下さり、救って下さる、その神の愛が、覆われた仕方で、隠された仕方で示されているのです。さらに聖書は、その主イエスが三日目に復活したことを語っています。このことも、誰もが納得する決定的な証拠を示して証明することはできません。主イエスの復活もまた、覆われており、隠されていることです。しかしそこには、私たちの罪と死に勝利し、復活と永遠の命の約束を与えて下さる神の愛が、隠された仕方で示されているのです。このように、独り子イエス・キリストの十字架の死と復活によって神が成し遂げて下さった救いの恵みが、今は覆われており、隠されているけれども、いつか必ず誰の目にもはっきりと分かる仕方で現され、完成する、それが、「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない」ということの意味です。今私たちの目に見える現実においては、主イエス・キリストの十字架と復活による神の救いは隠されていて、はっきりとは見えません。むしろ人間の力こそが支配しており、人間にどう思われ、評価されるかが全てであって、それによって自分の価値が決まるかのように感じられる、そういう現実の中を私たちは生きています。けれども、そのような目に見える現実の背後に、一羽の雀にさえ目を留め、見守っておられる神が、天の父として私たちを見守っていて下さる、という神の愛の現実が隠されているのです。神はこの愛によって私たちを見守り、導いて下さって、独り子イエス・キリストによる救いにあずからせ、終わりの日には復活と永遠の命を与えて下さるのです。この神の愛を信じて生きるところに、人々を恐れない、人々の目や世間の評価によって自分の価値を測ることから自由な歩みが与えられるのです。

一羽の雀
 「一羽の雀さえ」という題を掲げた時私は、一つの歌のことを心に思い浮かべていました。それはこの後聖歌隊が歌う「一羽の雀」という曲です。アメリカのいわゆるゴスペルソングの一つで、原語の題は「His eye is on the sparrow」そのまま訳せば「彼の目は雀にさえ注がれている」です。「彼」とは勿論神様です。神は一羽の雀にも目を注いでおられるという、本日の29節を元にして作られた曲です。またこの曲は「天使にラブソングを 2」というミュージカル映画の中でも用いられています。この後聖歌隊がそれを歌うのですが、その日本語の歌詞を前もって今ご紹介しておきます。
一節「こころくじけて 思い悩み 嘆き悲しみ 歩くときも、 まことの友 主はおられる 一羽のすすめもこころにとめて 守りそだてる 主にたよりなさい。
よろこびの歌 たかく歌おう 一羽のすずめさえ 主は守られるから」。
二節「たよる人なく ひとり悩み この世のかぜの 身にしむとき、 まことの友 主はおられる 一羽のすずめも こころにとめて 守りそだてる 主にたよりなさい。 
 よろこびの歌 たかく歌おう 一羽のすずめさえ 主は守られるから」。
 本日歌われる日本語のバージョンはこの二節までですが、英語の元の歌詞は三節まであります。また、これは日本語と英語の特徴の違いで仕方がないのですが、英語の歌詞は日本語よりもずっと内容が豊かです。例えばこの曲のリフレインの部分、「よろこびの歌 たかく歌おう 一羽のすずめさえ 主は守られるから」という所ですが、そこの英語の歌詞を日本語に訳してみるとこのようになります。
 「私は歌う、幸せだから。私は歌う、自由だから。主の目は雀にも注がれており、主が私を見ていて下さることを私は知っているから」。
 一羽の雀にさえ主は目を注いでおられる、それは主がこの私を、私の全てを、髪の毛の一本までも、見ていて下さり、守り導いて下さっているということです。そのことを私は知っている、そこに私の幸せがあるのです。それは何でも思い通りうまくいってハッピーだということではありません。心くじけて思い悩むことがある、嘆き悲しみつつ歩く時もある、頼る人なく独り悩み、この世の風が身にしみる時もある、しかしその私たちの悩み、苦しみ、悲しみを、十字架の苦しみと死を私たちのために引き受けて下さった主イエスが見つめていて下さり、分かっていて下さり、守り支えて下さっているのです。その主に信頼して自分の身を委ねることができるから、私は幸せなのです。またそのように主が私を見守っていて下さることを知っているから、私は自由なのです。人々の目から、目に見えることだけでなされる世間の評価から、またそれに左右されて喜んだり悲しんだり、得意になったり劣等感にさいなまれたりする自分の思いから解放されているのです。天の父として自分を見つめて下さっている主なる神様の慈しみのまなざしを受けるところにこそ、本当に自由な人生があるのです。
 先日もある教会員の話を聞くことができました。家族の介護で大変な思いをしておられる方です。家族だからといっていつも愛をもって介護ができるわけではない、義務感でしているような場合も多い、その重い負担が自分にばかりかかってくる中で、その苦労を誰も分かってくれないことにおしつぶされそうになることがある、以前はまさにそのような苦しみの中で自分が壊れていってしまうことがあった、でも信仰を与えられた今は、誰も見ていてくれなくても、誰も評価したり褒めてくれたりしなくても、神様がここにいて自分を見守って下さっている、神様は全てを見て下さっており、知って下さっている、と思うようになった、それによって、重荷におしつぶされて自分が壊れてしまわないようになった、ということを伺うことができました。まさに、一羽の雀にさえ主が目を注いでおられることを知らされるところに、私たちの人生を支える真実な幸いと、神様によって与えられている重荷をしっかり背負って生きることができる本当に自由な歩みが与えられるのです。

見ることができるのは一歩先まで
 この曲の英語の歌詞の中にはこのような言葉もあります。「主は私の道を導いて下さっているが、私が見ることができるのは一歩先までだ」。私たちは、人生の歩みにおいて、目の前の一歩しか見ることができません。三歩四歩先まで見通して計画を立てて歩むことはできないのです。勿論私たちはいろいろな情報を集め、情勢を分析して、将来の計画を立てて歩もうとします。でも人生を計画通りに歩める人など一人もいません。人生には様々な予期せぬ出来事があり、思いがけないことが起って、「こんなはずではなかった」ということがいくらでもあるのです。だから私たちは恐れを感じ、これからどうなっていくのだろうという不安を覚えます。そのような私たちに主イエスはここで、一羽の雀にも目を注いでおられる神が、あなたがたの人生を、父としての慈しみのみ心によって見守り、導いて下さっているのだ、そのことを信じなさい、と語りかけておられるのです。このことを信じる時に私たちは、目の前の一歩しか見ることのできない人生を、恐れずに勇気を持って歩んでいくことができます。主イエス・キリストの十字架と復活による救いを与えて下さっている神が、自分の人生の道を、天の父としてしっかりと見ていて下さり、守り導いて下さっているのですから、その父なる神に信頼して、今自分の目の前に与えられている一歩に集中して歩むことが出来るのです。そこには、私たちを捕えている恐れや不安からの解放があります。それと同時にそこには、本当に自由な生き方が与えられます。過去のデータから現在の状況を分析し、それをもとに二歩三歩先のことを予測して計画を立てて歩むことは、企業の経営などにおいては必要なことかもしれませんが、人生にそれをあてはめることは出来ません。そのような歩みは、過去に縛られた、不自由な、そしていつもビクビクしているような、恐れに満ちた人生です。しかし一羽の雀さえ心に留めておられる父なる神様の見守りの中で生きる人生は、そのような恐れから解放されています。天の父である神が、慈しみのみ心によって自分を見守り、導いて下さっていることを信じるなら、目の前の一歩しか見えなくても少しも不安を覚えることはありません。父なる神が自分の歩む道を整え、導いて下さるのですから、その愛に身を委ねて、自由に、大胆に、積極的に生きることができるのです。失敗を恐れることなく、また人の目や評価にふりまわされることなく、自分に与えられている人生をしっかり受け止めて、一歩一歩歩いていくことができるのです。一羽の雀にさえ目を注いで下さっている主イエス・キリストの父なる神を声高らかにほめ歌いながら。

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