主日礼拝

むさぼりの罪

「むさぼりの罪」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:創世記第3章1-7節
・ 新約聖書:ローマの信徒への手紙第7章7-12節
・ 讃美歌:22、206、442

律法からの解放が罪からの解放  
 一か月ぶりにローマの信徒への手紙の連続講解に戻って参りました。本日は第7章の7節以下を読むわけですが、ここがどのような流れを受けて語られているのかを見ておきたいと思います。前回読んだところの4節に「ところで、兄弟たち、あなたがたも、キリストの体に結ばれて、律法に対しては死んだ者となっています」とありました。「キリストの体に結ばれて」とは洗礼を受けて教会に加えられたことを意味しています。洗礼を受けたあなたがたは、律法に対して死んだ者となった、と言われていたのです。また6節には「しかし今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています」とありました。洗礼を受けて律法に対して死んだ者は、律法から解放されているのです。そのことは6章の14節にも、洗礼を受けた者に与えられている恵みとして語られていました。「なぜなら、罪は、もはや、あなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです」。ここには、洗礼を受けた者は律法から解放されており、律法の下にはいない、それによってもはや罪に支配されない者とされているのだと言われていました。つまり律法から解放されることが罪から解放されることだと言われていたのです。このようにこれまでの所には、洗礼を受けてキリストの救いにあずかった者は、律法から解放され、それによって罪から解放されていると語られていたのです。

律法は罪か?  
 そこから、本日の箇所の冒頭の7節の問いが生じています。「では、どういうことになるのか。律法は罪であろうか」。律法からの解放イコール罪からの解放ということは、律法イコール罪ということなのか、という問いです。律法というのは、主なる神がご自分の民であるイスラエルの人々にお与えになった掟であり、神の民としてどのように歩むべきかを教えているものです。その中心にあるのが、モーセの十戒です。そのように、もともと神がお与えになったものであるのに、律法は罪だと言うのか。これはこの手紙を書いたパウロに対して、ユダヤ人たちが突きつけた、問いと言うか厳しい批判です。ユダヤ人たちは、神から律法を与えられていることを、自分たちが神の民として選ばれていることの印として誇り、律法を守ることによって自分たちは神の前に正しい者として生きているという強い自負を持っていました。そのようなユダヤ人たちにとっては、律法からの解放が罪からの解放だというパウロの主張は我慢のならないものだったのです。  
 パウロはこの問いを自ら取り上げて、そして自らそれに「決してそうではない」と答えています。パウロも、律法は神が恵みのみ心によってイスラエルの民にお与えになったものであり、それ自体が罪であるなどとは思っていないのです。それでは何故彼は、律法からの解放が罪からの解放であり救いだと言ったのか。その理由が本日の箇所に語られているのです。

罪は律法によって力を得ている  
 7節後半から8節にこのようにあります。「しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったでしょう。たとえば、律法が『むさぼるな』と言わなかったら、わたしはむさぼりを知らなかったでしょう。ところが、罪は掟によって機会を得、あらゆる種類のむさぼりをわたしの内に起こしました。律法がなければ罪は死んでいるのです」。ここで彼は「罪は掟によって機会を得た」と言っています。これが本日の箇所の鍵となることです。「掟」とは律法のことです。パウロはここで、律法そのものは決して罪ではない、それ自体が悪いものではないが、それが罪の働く機会となってしまっている、罪が律法を利用して私たちの心にむさぼりの思いを起させている、と言っているのです。律法からの解放が罪からの解放であると彼が言っているのは、律法が罪だからではなくて、それが罪の働く機会となり、罪に利用されてしまっているからなのです。そのことは5節にも語られていました。「わたしたちが肉に従って生きている間は、罪へ誘う欲情が律法によって五体の中に働き、死に至る実を結んでいました」。ここにも、罪が律法によって働いていることが見つめられていました。前回の説教でも申しましたが、この「働き」の原語は「エネルゲオー」です。つまり罪が律法によって力を得て、エネルギーを得て、より活発に、エネルギッシュに活動している、ということをパウロは見つめているのです。

律法の登場によって私は死んだ  
 今読んだ8節の終わりには「律法がなければ罪は死んでいるのです」とありました。このことは次の9、10節につながっています。「わたしは、かつては律法とかかわりなく生きていました。しかし、掟が登場したとき、罪が生き返って、わたしは死にました。そして、命をもたらすはずの掟が、死に導くものであることが分かりました」とあります。「かつては律法とかかわりなく生きていました」という文章は、「生きていました」に強調があります。つまりこれは、以前は律法なしに日々を過していたということではなくて、律法と関わりがなかった時、私は生きていた、ところが掟、律法が登場したことによって、罪が生き返り、それによって私は死んだ、ということです。律法がなければ罪は死んでいたのに、律法によって罪が生きるようになり、逆に自分は死んだのです。11節がこの部分のまとめです。「罪は掟によって機会を得、わたしを欺き、そして、掟によってわたしを殺してしまったのです」。罪が掟つまり律法によって機会を得て、私を支配し、殺してしまったのです。だから私たちの救いとは、律法から解放されて、罪の支配から解放されて、殺されてしまった命を再び得ることなのです。しかし律法自体は、12節にあるように「聖なるもの、正しく、善いもの」なのです。

「むさぼるな」  
 本日の箇所にはこういうことが語られているわけですが、そうすると問題は、律法が罪によって利用されて、罪の働く機会となっている、罪がエネルギーを得る場になっている、というのはどういうことかです。掟が登場したことによって罪が生き返り、それによって私は死んだ、ということによってパウロは何を思い描いているのでしょうか。それが分からなければこの箇所を理解することができません。そのための手掛かりとなるのは、パウロがここで律法の中の一つの具体的な戒めを取り上げていることです。それは「むさぼるな」という戒めです。それは十戒の最後の、第十の戒めです。律法が「むさぼるな」と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかった、ところが、罪は掟によって機会を得て、あらゆる種類のむさぼりを私の内に起した、と彼は言っているのです。何故パウロはここでこの「むさぼるな」という律法を引き合いに出しているのでしょうか。

最初の掟  
 パウロはここで、本日共に読まれた旧約聖書の箇所、創世記第3章を意識しているのではないか、ということをある注解書が語っていました。創世記第3章は、最初の人間アダムとエバが、神に背く罪を犯し、それによっていわゆる楽園、エデンの園を追放されてしまうという話です。人間が生まれつき陥っている罪の本質がこの話において描き出されているのです。この箇所と、本日のパウロの言葉との結びつきを考えたいと思います。神は、最初の人間アダムとエバ、つまり男と女をお造りになり、エデンの園に住まわせておられました。そこにはおいしそうな木の実が沢山実っており、彼らはそれを自由に食べることができ、それによって何の不安もなく生きていたのです。しかし、園の中央にある「善悪の知識の木」の実だけは食べてはいけない、と神は彼らにお命じになりました。神の命令が創世記2章16節にこのように語られています。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」。これこそ、神が人間にお与えになった最初の掟です。パウロが「むさぼるな」という戒めを引き合いに出すことによって考えているのはこの戒めのことであり、律法とかかわりなく生きていたところに掟が登場したというのは、この最初の掟が与えられたことを意識しているのだと思われるのです。

掟を利用した誘惑  
 創世記第3章において、蛇が人間を誘惑して罪を犯させるために利用したのはまさにこの掟です。蛇は女にこのように語りかけました。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか」。蛇は神が善悪の知識の木の実だけを食べてはいけないとお命じになったことをよく知りつつ、このように言うことによって、神が与えた掟が人間をがんじがらめに縛りつけ、不自由な生活を強いていると思わせようとしているのです。女は始めはそれに対して、いやそうではありません。食べてはいけないのは園の中央に生えている木の実だけです、と答えました。すると蛇は今度はこう言ったのです。4、5節「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ」。これはつまり、神がこの木の実を食べてはいけないと言っているのは、あなたがたが自分と同じように善悪を知る者となり、自分と肩を並べる者になっては困るからだ、神はあなたがたを自分の下にいつまでも奴隷のように縛りつけておこうとしているのだ、ということです。だから、そんな神の意地悪な命令に従う必要はない、この実を食べて、神から自由になって、神のように自分で善悪を判断して生きていったらよいではないか、と言っているのです。要するに蛇が言っているのは、神が与えた掟、律法はあなたがたを不自由な奴隷状態に縛りつけている。神の下で、掟に従っていたのでは、あなたがたは自由に生き生きと生きることはできない。だからもう掟に従うのはやめて、神の下で生きるのはやめて、神から自由になりなさい。そこにこそあなたがたが生き生きと生きる道がある、ということなのです。最初の人間は蛇のそういう誘惑によって、禁断の木の実を食べてしまったのです。その結果彼らは、生き生きと自由に生きる者になったのではなくて、神の恵みによって生かされていた楽園から追放され、荒れ野のようなこの世界を苦労して生きなければならなくなりました。また神から自由になった代わりに罪の奴隷となって、神をも隣人をも、愛するよりもむしろ憎んでしまい、交わりを築くよりも破壊してしまう者となったのです。つまり、神が与えて下さっていた本来の命を失い、死んでしまったのです。ですから「これを食べると死んでしまう」という神のお言葉は嘘ではなかったのです。

むさぼりの罪に陥っている私たち  
 この話において、蛇は罪の力の象徴です。罪の力は、神がお与えになった掟を利用して、人間にむさぼりの思いを起させ、罪を犯させ、そして人間を殺してしまったのです。アダムとエバが犯した罪の根本にはむさぼりがありました。それは人のものを欲しがるむさぼりではなくて、神の下で神に従って生きることよしとせず、自分が神のようになって、主人になって、自分の思い通りに生きようとするむさぼりです。このむさぼりこそ、人間の罪の根本です。蛇は神がお与えになった掟を用いて、そのむさぼりを人の心に起させたのです。  
 神に造られた人間はエデンの園において、神の恵みによって生かされており、「園のすべての木から取って食べなさい」という大きな自由を与えられていました。同時にそこには、「善悪の知識の木の実だけは食べてはいけない」という小さな禁止の掟が与えられていました。この掟は、神の祝福を受け、大きな自由を与えられている人間が、その祝福と自由を与えて下さった神に従って、神と良い交わりを持って生きるために、踏み越えてはならない一線だったのです。良い交わりが成り立つためには、お互いが自由でなければなりません。しかし自由であると同時に、お互いに踏み越えてはならない一線を守るということもなければ、良い交わりは築かれません。神がお与えになった小さな禁止の掟はそのような意味を持っていたのです。つまりそれは人間を縛りつけ不自由にするものではなくて、神の恵み、祝福の下で喜びをもって生き生きと生きるためのものだったのです。ところが罪は、本来は良いものであったこの掟を利用して、神から自由になって、自分の思い通りに生きようというむさぼりの思いを起させ、それによって人間を罪の支配下に置き、本来の命を失わせたのです。「罪は掟によって機会を得、わたしを欺き、そして、掟によってわたしを殺してしまったのです」という11節の言葉によってパウロが見つめているのはそういうことだと思われるのです。  
 これは私たち一人一人においても起っていることではないでしょうか。神を信じて、信仰をもって生きるところには、つまり神と良い関係をもって生きるためには、神に聞き従うという姿勢が必要です。つまり神がお与えになった掟を大切にすることが必要なのです。ところが私たちは、神の掟に従うことを、窮屈な、がんじがらめに縛られた、自由のない生活であるかのように思って、そこから抜け出そうとするのです。放蕩息子が父の家を飛び出して行ったようにです。それは私たちが、神に従うのではなく自分が主人となろうとする「むさぼり」の罪に陥っているということです。しかし父のもとを飛び出した放蕩息子がじきに無一物になり、飢え死にしそうになったように、神から自由になって、自分が主人となって思い通りに生きようとする所には、本当に生き生きとした命は得られません。自分が主人になろうとすることによって私たちは人を傷つけ、交わりを破壊する者となってしまいます。神から自由になろうとしてむしろ罪の奴隷となってしまうのです。パウロがここで語っている、罪が掟によって機会を得て、あらゆる種類のむさぼりを私たちの中に起させ、私たちを殺してしまったということが、私たち一人一人に起っているのです。

パウロの悲痛な叫び  
 このように本日の箇所は創世記第3章とのつながりにおいて読むことができます。それによって、神がお与えになった、それ自体が罪ではない掟によって、むさぼりの罪が力を得て人間の心を支配し、神の恵みの中で生きる本来の命を失わせ、死をもたらしている、ということの意味が見えてくるのです。しかしこの箇所において注目すべきことはもう一つあります。それは、パウロがここで、これまでの所のように「わたしたちは」とか「あなたがたは」という言い方をしておらず、「わたしは」と言っていることです。それがこの第7章の、特に7節以下の特徴なのです。このことは、パウロはここで、人類一般についての普遍的真理ではなくて、自分自身のことを語っている、ということを示しています。パウロは、「罪が律法によって機会を得て、わたしを殺してしまった」ということを、まさに自分自身に起ったこととして語っているのです。同じように9、10節の「わたしは、かつては律法とかかわりなく生きていました。しかし、掟が登場したとき、罪が生き返って、わたしは死にました。そして、命をもたらすはずの掟が、死に導くものであることが分かりました」というところも、パウロ自身の体験として読むべきなのです。この箇所を創世記3章とのつながりにおいて読むことによって見えてくるのは、人間の罪の本質にむさぼりがあり、神の掟、律法がそのむさぼりの罪が力を得る機会となってしまっている、ということです。アダムとエバがそのむさぼりの罪に陥ったことによって、全ての者がその罪を受け継ぐ者となっている、ということを創世記は語っているわけですが、しかし創世記によってそのことを理解することと、そのむさぼりの罪に自分が陥っていることに気づくことは別です。罪の本質を知ったからといって、それが自分にとって本当に深刻な事柄となっているとは限らないのです。パウロは、アダムとエバにおいて起ったように、罪が律法を利用して力を得て人間を捕え奴隷にしているということを、自分自身の深刻な問題として見つめ、語っています。それゆえにこの第7章において、「わたしは」という言い方をしているのです。24節がそのクライマックスです。「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」。これはパウロ自身の悲痛な叫びです。創世記3章を読んだからといってこういう叫びが生まれるわけではないでしょう。彼のこの叫びは、どのようなことから生まれたのでしょうか。

主イエス・キリストとの出会いによって  
 このことは第7章の後半に語られていくことですから、ここからは、これから語られることの予告編のようなものです。この第7章におけるパウロの苦悩を理解するために鍵となるのは、彼がユダヤ人であり、中でもファリサイ派としての教育を幼い頃から受けてきた人だったということです。ファリサイ派とは、神が与えて下さった律法を誇りとし、それを厳格に守ることによって神の前に正しい者として生きることを人一倍熱心に努めていた人々であり、またそのように正しく生きているという自負を強く持っていた人々でした。そのファリサイ派だったパウロが、罪は律法によって機会を得て自分を捕え、殺してしまったと言っているというのはまさに驚天動地のことです。驚くべき大転換が彼に起ったのです。それは勿論、復活した主イエス・キリストと出会ったことによってです。主イエスとの出会いによって彼は、罪が律法によって機会を得て、また力を得て、自分を捕え、殺してしまった、自分は罪の奴隷になってしまっている、という事実に目を開かされたのです。それを示される以前の彼は、自分が罪に支配されているなどとはこれっぽっちも考えていませんでした。むしろ自分は律法に従って正しい生活をしていると思っており、それゆえに罪に陥っている人々を裁く権利があると思い、十字架につけられたイエスがキリストつまり救い主だなどというとんでもないことを言っているキリスト教徒たちを、神を冒?する者として迫害していたのです。しかし復活して生きておられる主イエスと出会った時、彼は、これまで自分が律法を守ることによって正しい者として生きてきた、その誇りの中で人を裁いていた、まさにそこに罪の支配があったこと、罪はまさに神がお与えになった善いものであるはずの律法を用いて自分を支配し、殺してしまっていたことを知らされて愕然としたのです。そこから、あの悲痛な叫びが生まれたのです。私たちも主イエスによって同じことを示されます。罪は、善いものによって、つまり私たちが善いことをしようとする、その思いや行いを用いて私たちを虜にし、奴隷とし、神が与えて下さった本来の命を失わせ、殺してしまう、神の掟、戒めに従って善いことをしようとしており、そのために努力している自分が罪に欺かれ、支配されて、死に至る実を結んでしまっている、主イエス・キリストとの出会いはそのことを私たちに突きつけるのです。その時私たちもパウロと共に「私は何と惨めな人間なのだろうか」と叫ばずにはおれないのです。しかしパウロはこの叫びと共に、「私たちの主イエス・キリストを通して神に感謝します」と語っています。私たちのために十字架にかかって死んで下さり、そして復活して下さった主イエス・キリストとの出会いは、罪に支配されてしまっている私たちの惨めな現実をはっきりと突きつけると同時に、その罪を赦されて新しく生かされる、確かな救いをも与えてくれるのです。これからあずかる聖餐はその主イエス・キリストによる救いに私たちが体全体であずかるためのものです。既に与えられているその救いの喜びをより深く味わうために、第7章の後半を読み進めていきたいのです。

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