「主イエス、天に上げられる」 伝道師 乾元美
・ 旧約聖書:イザヤ書第49章6節b
・ 新約聖書:使徒言行録第1章6-11節
・ 讃美歌:1、405
「三日目に死人のうちよりよみがへり、天に昇り、全能の父なる神の右に坐したまへり、かしこより来りて、生ける者と死ねる者とを審きたまはん。」
わたしたちが、毎週礼拝で告白している、使徒信条の一部です。
本日の使徒言行録の箇所は、その、主イエスが天に昇られたことについて、そして、また再び来られるという約束について、書かれています。
ともすれば、主イエスが天に昇られたことは、クリスマスやイースターの出来事ほどに、祝われることが少ないかも知れません。「クリスマスおめでとうございます」「イースターおめでとうございます」と挨拶したことはあっても、「イエス様の昇天、おめでとうございます」という挨拶を交わしたことは、中々ありません。
しかし、主イエスが天に上げられたことと、再び来られる約束は、わたしたちにとって、大変重要なことです。
主イエスの昇天は、わたしたちための恵みであり、主イエスの再臨は、わたしたちが待ち望むべきことなのです。
主イエスは、死人の中から甦られた後、使徒たちに現れ、確かに生きておられることを、四十日もかけて、たくさんの証拠をもって示されました。また、神の国について教えて下さいました。
その主イエスが天に上げられたのは、一体、どうしてでしょうか。どうして、ずっと地上に留まって、使徒たちと一緒に、いて下さらなかったのでしょうか。
復活の主イエスと、四十日間も共に過ごした使徒たちは、主イエスがまことに死に勝利し、生きておられる方であり、神の子であられ、旧約聖書に預言された救い主だと、確信したでしょう。
その喜びと同時に、使徒たちの内には、かねてから抱いていた、胸の内の期待が、大きく膨らんできたのではないでしょうか。
使徒たちは、一緒になって集まり、主イエスに質問をしました。
「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」
3~5節にあるように、復活の主イエスは神の国について教えて下さり、また聖霊による洗礼の約束を示されました。
その時、使徒たちは、かつて滅ぼされ、他の国に支配されてしまった、自分たちの祖国、イスラエルの国が、地上において、神の力によって再び復興される、今がまさにその時なのではないかと思い、質問したのです。
主イエスは、使徒たちの「この時ですか」という問いに、直接、イエスやノーではお答えになりませんでした。
主イエスはまず、「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない」とお答えになりました。
父なる神が支配し、計画しておられる事や、それが実現する時を、人は知ることが出来ない、と言われたのです。
わたしたちは、いつも「時」を知りたがります。もし、何かが起こる時期を予想出来たり、今後の予定を知ることが出来れば、これからの段取りをして、今後の自分の行動を決めることが出来ます。そのようにして、自分で自分の将来の行動を、コントロールしようとします。
しかし、「父なる神の」ご計画を、わたしたちが把握し、予定を組んで、色々と自分で自分のやることを決めたり、自分の都合で調整したりすることは出来ません。
父なる神のご計画は、わたしたちが考えたり想像したりする範囲を超えているのであって、わたしたちはそれを知ることが出来ないのです。
父なる神のみが、これからの未来のことを支配され、すべてを決定されます。
ですから、わたしたちは、すべてを定めておられる父なる神に、喜んですべてをお委ねしなければなりません。すべてを神に委ね、神に従っていくのが、信仰者の歩みです。
それは、わがままな王様の、気まぐれな決定に、従わなければならないということではありません。
また、わたしたちが意志を持たないロボットのようになるのでもありません。
父なる神の御計画と、定めて下さる時は、他でもない、わたしたちを救うため、わたしたちを神の子どもとして下さるための、最善の、御計画と、時なのです。
「時」を知ろうとした使徒たちを窘めた後、しかし主イエスは、その父なる神の定められた時まで、使徒たちに、なすべきことを告げて下さいました。
「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリヤの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」
主イエスは1章5節で、使徒たちに、聖霊による洗礼が授けられることを約束されました。
その聖霊を受けるとどうなるか。「力を受ける」と言っておられます。
力を受けるというのは、ヤル気が出る、とか、パワーが増える、というようなことではありません。
ここでの「力」は、神から遣わされた者であることを示す、「神の御業」を行う「力」のことです。つまり、聖霊が下り、力を受けることで、使徒たちは、まことに神から遣わされた、主イエスの証人となるのです。
しかも、「エルサレムばかりではなく、ユダヤとサマリヤの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」というのです。
これは、使徒たちが期待した、地上のイスラエルの国の復興、ということとは大きく違うことでした。復活した主イエスによって地上にイスラエルの国が建て直され、使徒たちがその国の大臣や、官僚になる、ということではなかったのです。
神が御計画されていることは、イスラエルの国を回復させることではなく、見えるものも、見えないものも、すべてを支配する、神の国を打ち建てることです。
主イエスの十字架と復活によって、神が、すべての人を支配していた罪と死に勝利して下さったその時から、神の国、神の支配が、もう始まっています。
父なる神が定められた、その神の国の完成の時まで、使徒たちは、主イエスの証人として遣わされるのです。そこから始まる歩みは、教会の歩みです。主イエスを証言し、宣べ伝える者の群れが、教会なのです。
しかも、エルサレムの地域やその周辺だけでなく、地の果てにまで遣わされるといいます。
実際のその様子が、この後の使徒言行録で語られていきます。
これが、使徒たちの思いや期待を大きく超えた、神の救いの御計画なのです。
これらのことを、主イエスが使徒たちに話し終えられると、「イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった」と聖書に書かれています。
主イエスは、ある日忽然といなくなられたり、すーっと透明になって消えたりしたのでは、ありませんでした。
復活の主イエスは、確かに、使徒たちの目の前で、天に上げられたのです。
主イエスが昇って行かれた「天」とは、一体どこなのでしょうか?
空の上の宇宙空間でないことは、明らかです。そこにずっと浮いておられるのではないでしょう。また、だからと言って、精神的な意味でもありません。主イエスは幽霊でも亡霊でもありません。死人の中から復活して、体をもって生きておられる方なのです。
しかし、確かに、主イエスは、地上から、上へ向かって、昇っていかれたのでしょう。
聖書には、天に上げられた主イエスは、「雲に覆われて彼らの目から見えなくなった」とあります。
この雲は、水蒸気で出来たモクモクした白い雲ではなくて、神の栄光を現しています。
これは、福音書で、山上で主イエスが栄光に輝く姿に変わられた時に、使徒たちを覆った雲、また旧約聖書でモーセの臨在の幕屋を覆い、主の栄光を満たした雲です。この雲は、神の栄光が満ちていること、神がそこにおられることを示す雲です。
ですから主イエスは、確かにこの地上から、上げられて、神の栄光につつまれて、父なる神がおられるところへ行かれたのです。
そのことを、使徒信条は、「天に昇り、神の右に坐したまへり」と表現します。「神の右に座す」という言い方は、このあとの使徒言行録の2章の、ペトロの説教にも出てきます。
それは、位置的に父なる神の右側に座られた、ということではありません。主イエスが真の勝利者、真の王として、父なる神から全ての権能を授けられたという意味です。
すべての権威や、権力や、支配の上に、キリストが置かれた、ということです。
今や、天におられる主イエス・キリストがすべての権能を持っておられ、主イエス・キリストによって、すべてのことが支配されています。
また、そのような支配者である方が、父なる神と、わたしたちとの間に立って下さいます。仲保者(間を取り持つ者)となり、弁護人となって下さいます。わたしたちのために死なれた主イエス御自身が、天において、罪人であるわたしたちのことを、父なる神に執り成して下さっているのです。
そのような、主イエスがおられる天、つまり、神の栄光に包まれた場所は、神に背き、罪人であるわたしたち人間には、決して近寄ることのできない場所です。
しかし、主イエスは、その神の場所から、地上に降ってこられ、へりくだって人となり、わたしたちの罪を贖って赦して下さいました。その、真の神であり、真の人となられた主イエスが、死んで復活し、天に帰られたことで、罪赦された人間であるわたしたちにも、天への道を開いて下さったのです。
ヨハネによる福音書には、「わたしの父の家には住む所がたくさんある。」「行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」と、主イエス御自身が語って下さっています。
そうして、今、主イエスは、天におられるので、わたしたちはこの地上で、この目で、生きておられる主イエスを見たり、お会いしたりすることは出来ません。
例えば、ずっと地上に留まっておられたら、復活の体を持っておられる方ですから、今日の主日は、横浜指路教会に来て下さって、一緒にいて下さったけれど、来週は中国におられるから、来週は横浜にはおられません、というようなことになってしまいます。熱心な人は、ずっと主イエスの追っかけのように、世界中を一緒に移動しなければならないかも知れません。
しかし、主イエスが天におられるからこそ、主イエスは、わたしたちに聖霊を送って下さり、聖霊を通して、世界中すべての場所において、いつでも、どこでも、共にいて下さるのです。
ですから、主イエスを信じる者にとって、主が共におられないなどという時は、一秒もありません。
わたしたちの救い主は、使徒たちが見たように、今は、天に上げられ、そこですべてを支配しておられます。わたしたちのために父なる神に執り成し、場所を用意して下さっています。そして、いつも聖霊を通して、わたしたちと共におられます。
主イエスが天に上げられた、ということは、そのような恵みと慰めが、わたしたちにあるということなのです。
主イエスの業による救いを信じ、洗礼を受け、聖霊を受けた者は、いつも天におられる主イエスと共に生きることがゆるされています。すべての者が、そのゆるしに、招かれています。
教会で、キリストの体と血にあずかる聖餐は、まさにそのように、今わたしたちが、生きておられる主イエスと共におり、主イエスが主人となって招いて下さる、神の国の食卓に、共に着いているという現実を、具体的に目に見える「しるし」によって、指し示しているのです。
主イエスが共にいてくださり、支配しておられるところ、それが神の国であり、教会においては、他に先だって、そこに神の国が実現しています。
さて、使徒たちは、天に上げられた主イエスが、雲に覆われて見えなくなった後も、じっと天を見つめていました。
そこに白い服を着た二人の人が登場します。「白い服」は、神の使いを表わします。
彼らは「あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」と使徒たちに告げます。
主イエスが再び、天に上げられたのと同じ有様で来られる。それは、何のためでしょうか。
使徒信条は、「かしこより来りて、生ける者と死ねる者とを審きたまはん」と、主イエスの再臨と、最後の審判があることを告白します。
主イエスが再び来られるのは、最後の審判を行うためです。それは、神の義、正しさが、全世界に、すべてに対して、啓示される時です。神の国が完成される時です。
神の正義が示される時、一体どのような人が、神の正しさに適う者となれるでしょうか。
どのような人間が、罪がないと認めてもらえるでしょうか。無罪の者など一人もいません。
世界のすべて、そしてわたしのすべてに関する事柄が、調べられ、公にされ、神の基準によって、正義か、悪かを判断されるという時、わたしはどのように申し開きが出来るでしょうか。有罪が確定すると分かっている法廷に立たされるのは、とても恐ろしいことです。
しかし、わたしたちがその審きを行なう方の顔を見上げる時、そこには救い主であるイエス・キリストがおられます。
わたしたちの罪を赦すために、十字架にかかり、自らその罪を負って下さった、その救い主こそが、今や父なる神から全権を委託された、審判者なのです。
人類の歴史が始まって以来、すべての人間は神の前に罪人です。しかし、唯一、罪のない人間となって下さった神の御子が、すべての人の罪を負って下さいました。それゆえに、その救いの御業を受け入れた者は、神の法廷で、罪人でありながら、正しい者と認めて頂けるのです。
わたしたちは、主イエスが、恐れも、罪も、死も、すべて引き受け、負って下さったこと、わたしを義として下さったことを信じて、最後の審判の時を待つことが出来ます。
救い主である審判者が来られる日を待つことは、わたしたちに与えられた約束がすべて実現する、その大きな喜びの日を待つことです。
この祝福は、ウエストミンスター大教理問答で、次のような、喜びに満ちた言葉で表現されています。
「義人は(義とされた人は)…天に受け入れられ、そこで、あらゆる罪と悲惨とから完全に、また永遠に解放され、思いも及ばぬ喜びに満たされ、また、無数の聖徒と清い天使たちの間で、しかし特に、父なる神とわたしたちの主イエス・キリストと聖霊を、永遠に、直接に見、喜ぶ中で、体と魂の両方において完全に清くされ、幸せにされます」
わたしたちは、教会は、この時を待ち望みながら、歩んでいます。
神の国は、すでに始まっていますが、未だ、完成していません。
その間の時を、教会は歩んでいます。
未だ世界には、罪と悪と死が満ちていますし、神を信じない者は多く、また犯罪が絶えず、人が傷つけ合い、死は絶望的なものとして力を振っているように思えます。
しかし、わたしたちは、主イエスが、すでに罪と悪と死に勝利しておられることを知っています。わたしたちは、その主イエスの勝利に支えられて、この世界と向き合っていくことができます。
わたしたち教会は、その勝利を、救いの知らせを、聖霊を受け、証人として、地の果てまで告げ知らせることを、主イエスから委ねられているのです。
主イエスは天に上げられました。
そのことによって与えられている祝福と、恵みを覚えましょう。
今は、神の国の完成に向かって、聖霊が送られ、わたしたちが主イエスの証人として、神から遣わされる時です。
「地の果てに至るまで、わたしの証人となる」という、使徒たちに委ねられ、教会に委ねられた使命へと、私たちも遣わされていく時なのです。
主イエスが再び来られる、終末の祝福の時を待ち望みながら、主イエスの証人として歩んでまいりましょう。