主日礼拝

誰に仕えるのか

「誰に仕えるのか」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:申命記第30章15-20節
・ 新約聖書:ローマの信徒への手紙第6章15-23節
・ 讃美歌:321、357、513

パウロの福音に対する批判
 本日は、ローマの信徒への手紙第6章15節以下からみ言葉に聞くのですが、その最初の15節にこうあります。「では、どうなのか。わたしたちは、律法の下ではなく恵みの下にいるのだから、罪を犯してよいということでしょうか。決してそうではない」。パウロはここで自分で問いを発して、自分でそれに対して「決してそうではない」と答えています。同じような語り方はこの第6章の1節から2節にかけてもなされていました。そこにはこうありました。「では、どういうことになるのか。恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか。決してそうではない」。本日の箇所と全く同じように、自分で問い、自分でそれを否定していたのです。このような語り方においてパウロは、ユダヤ人たちが自分を批判して語っていることを取り上げ、それを否定しているのだということを、この1、2節を読んだ時に申しました。1、2節に語られていることは、その直前の5章20節の後半の、「しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました」ということに対する批判です。罪が増したところに恵みがなおいっそう満ち溢れるなら、恵みがより満ち溢れるためにむしろ罪の中に留まり、罪を犯した方がよいということになるではないか、とユダヤ人たちは批判していたのです。「罪が増したところに恵みがなおいっそう満ち溢れた」ということによってパウロが語っているのは、主イエス・キリストの十字架の死によって神が与えて下さった罪の赦しこそが救いなのであって、罪ある人間がこの赦しの恵みによって救われる、という福音です。それに対してユダヤ人たちは、罪の赦しが救いなら、その救いを受けるために罪を犯し続けた方がよいことになる、と批判していたのです。
 本日の15節の「わたしたちは、律法の下ではなく恵みの下にいるのだから、罪を犯してよいということでしょうか」という問いもそれと同じようなユダヤ人たちからの批判を意識しています。この15節はその前の14節の「あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです」を受けています。神の掟である律法を守って良い行いをすることによって救いを得ることができる、逆に言えば律法を守れない罪人は救われない、それが「律法の下にいる」ということです。パウロは、あなたがたはもう律法の下ではなく恵みの下にいるのだ、と語りました。それは、律法を守るという良い行いによってではなく、ただ神の恵みによって、具体的には主イエス・キリストの十字架による罪の赦しによって救われる、ということです。そういう福音に対してユダヤ人たちは、だったら、良い行いをしようと努力する必要はない、罪を犯してよいということになるではないか、と批判しているのです。つまり1節と15節のどちらの批判も、パウロが語っているキリストの福音、キリストの十字架によって罪を赦されることによって救われるという教えに向けられており、パウロの教えは人を罪の中に留まらせ、罪を犯してもいいんだという思いを与える、と言っているのです。パウロはこれらの批判に対して、「決してそうではない」と強く否定しているのです。

聖なる生活の勧め
 このように、15節以下には1節以下と基本的に同じようなことが語られています。そのことは13節と19節を読み比べても分かります。先週読んだ13節には「また、あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい」という勧めが語られていました。本日の箇所の19節後半には「かつて自分の五体を汚れと不法の奴隷として、不法の中に生きていたように、今これを義の奴隷として献げて、聖なる生活を送りなさい」とあります。これは同じ内容の勧めです。パウロはこの手紙のこれまでの所で、人は皆生まれながらに罪の支配下にあり、自分の力や努力で良い行いをすることによって救いを得ることは出来ない、主イエス・キリストの十字架による罪の赦しという神の恵みによってのみ救われるのだ、という福音を語ってきました。その福音は、ユダヤ人たちが批判しているように、神は赦して下さるんだから罪を犯してよい、という思いを与えて人を罪の中にとどまらせるなどということは決してない、むしろそこには自分の五体を義のために道具として神に献げる聖なる生活が生まれるのだ、ということをこの第6章において繰り返し語っているのです。

信仰の落とし穴
 彼がこのことを繰り返し語っているのは、これがとても大事なことであり、また私たちがしばしば陥る信仰の落とし穴がここにあるからです。聖書が語っているイエス・キリストの福音は、神がその恵みによって独り子主イエスを遣わして下さり、その十字架の死によって私たちの罪を赦して下さっている、ということです。私たちはこの神の恵みの下にいるのであって、律法の下にはもはやいない。つまり神は私たちが律法、掟をどれだけきちんと守り行うことができるか、良い行いをどれだけすることができるかを厳しくチェックして採点し、合格か不合格かを判定しようとしておられるのではなくて、罪人である私たちを赦して救いにあずからせて下さるのです。その神の恵みをいただいて、それに感謝して、その恵みに応えて生きていくのが私たちの信仰の生活です。罪を赦され、救われていることへの感謝と喜びの中で、私たちは神のみ心に従って歩むのだし、なお自分にまつわりついている罪と戦っていくのだし、神と隣人を愛して生きるように努めていくのです。ところが私たちが陥る落とし穴は、良い行いをすることによって自分の力で救いを得るのではない、神が罪を赦し、救いを与えて下さっているのだ、という福音によって安心を得ることで止まってしまって、その安心が、恵みに応えて感謝の生活をすることへとつながっていかないということです。そうなると、罪の赦しという救いを信じることが、実際の生活において罪の中にどっぷり浸ってしまっている現実を少しも変えていかず、かえってそれを問題にすら感じなくなってしまうことが起ります。そうなったら、信仰を持たずに自分の善意によって生きている人よりもむしろ質の悪い者になってしまうのです。パウロは、私たちがそのような間違いに陥りがちな弱い者であることをよく知っています。その弱さを考慮して、繰り返し、様々な角度からこういう勧めを語っているのです。19節の前半に「あなたがたの肉の弱さを考慮して、分かりやすく説明しているのです」とあります。まさにそういう思いで彼は同じことを繰り返し語っているのです。

奴隷となって
 しかしパウロが15節以下で語っていることは、それまでと全く同じことの繰り返しではありません。15節以下でパウロは14節までに語ったことを一歩前進させているのです。つまりここにはある新しさがあるのです。先程読んだ13節と19節の勧めの言葉を注意深く比べてみるとそのことが見えて来ます。13節には、自分の五体を罪に任せて不義のための道具とするのでなく、それを神に献げて義のための道具として神に用いていただきなさい、と勧められていました。それに対して19節は、かつては自分の五体を汚れと不法の奴隷としていたが、今やそれを義の奴隷として献げ、聖なる生活を送るようにと勧められています。13節では「道具」という言葉が二回語られていましたが、19節では「奴隷」という言葉が二回語られているのです。この「奴隷」という言葉が本日の箇所には繰り返し語られています。16節にも、「知らないのですか。あなたがたは、だれかに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷となる。つまり、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです」とあります。この16節から分かるようにパウロはここで私たちに、「あなたがたは誰の奴隷として、誰に仕えて生きているのか」と問い掛けているのです。そしてその問いの前提には、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に仕える奴隷となって義に至るか、そのどちらかなのであって、それ以外のあり方はない、という確信があるのです。

神の奴隷か罪の奴隷か
 あながたは罪の奴隷であるか神の奴隷であるかのどちらかだ、つまりいずれにしてもあなたがたは奴隷なのだ、とパウロは言っています。それを聞くと、いや私はどちらの奴隷にもならない、自由な者として生きていく、と言いたくなります。しかしパウロに言わせればそれこそがまさに、私たちが罪の奴隷となっていることの現れです。神と罪のどちらの奴隷にもならずに自由に生きて行けると思っている時に、私たちは大きな誤解をしているのです。それは、この世界に神の陣営と罪の陣営とがあって、私たちはその間にあってどちらにつくかを問われている、という誤解です。もう今は昔となりましたが、東西冷戦の時代には、それぞれの国は、西側の資本主義、自由主義陣営につくか、東側の共産主義陣営につくか、あるいはどちらにもつかずに中立を守るかを問われていました。それと同じように私たちも、神につくか罪につくか、それとも中立に、つまりどちらにも支配されずに自由に生きるかを選び取ることができると感じているとしたら、それは誤解なのです。ここで問われているのは私たちと神との関係です。神との関係において取り得る選択肢は、神に従い仕えるか、従わず仕えないか、そのどちらかです。中立はない、中立というのは従わないということです。そして神に従わないことが神に対する罪です。ですから私たちは神に従い仕えるか、従わず仕えずに罪の支配下にいるか、そのどちらかなのです。16節はそういうことを語っているのであって、その後半のところは以前の口語訳聖書では、「死に至る罪の僕ともなり、あるいは、義にいたる従順の僕ともなるのである」となっていました。こちらの方が原文に忠実な訳です。つまり神の奴隷であるか罪の奴隷であるかどちらかだというのは、神に従順に従うか、従わずに罪に支配されて生きるか、どちらかだということなのです。私たちは、神に従順に従っていない限り罪に支配されています。神に従わないことこそが罪だからです。先週も申しましたが、罪の支配は巧妙であって、私たちが罪に支配されてしまっていることに気づかせず、むしろ自分は誰にも支配されずに自由に生きていると思わせることによって、私たちを神への従順から引き離し、それによって罪の奴隷としているのです。自分は誰の奴隷にもならないで自由に生きるのだ、と思っている私たちは、実は罪の奴隷となっており、罪に従順に、神に対しては不従順に生きているのです。

神に従順に生きる
 先程も申しましたように、この15節以下でパウロは「奴隷」という言葉を頻繁に使っています。奴隷とは主人に従順に従って生きるべき者です。つまり奴隷という言葉でパウロが私たちに意識させようとしているのは、私たちが誰に従順に従い仕えて生きるのか、ということです。信仰とは、神に従順に従い仕えて生きることです。私たちにそのことを意識させるためにパウロは、あなたがたは神の奴隷として生きるのだと言っているのです。当時の社会には奴隷が当たり前に存在しましたから、そういう言い方が、先程の19節にあったように「あなたがたの肉の弱さを考慮して、分かりやすく説明している」ことになったのでしょう。しかし今日の私たちにとっては、「奴隷」というのは身近でも当たり前でもない存在であり、それはとんでもなく非人道的なものだという意識がありますから、信仰とは神の奴隷として生きることだ、ということにはとまどいや反発を感じます。しかし私たちはその反発のゆえに、パウロが私たちに投げかけている本質的な問い、あなたがたは神に従順に従い仕えるのか、神に従わず、罪の支配の下で生きるのか、という問いを見失わないようにしなければなりません。それは私たちが信仰者としての生活を具体的に築いていくためにとても大事な問いですし、パウロが15節以下で14節までの教えを一歩前進させているのもそこにおいてなのです。つまり14節までにおいては、私たちを支配しているものは何か、ということが見つめられていました。生まれつきの私たちは罪に支配されている、しかしその私たちが、洗礼を受けて主イエス・キリストと一つに結び合わされ、キリストの十字架の死にあずかって古い自分、罪に支配された自分が死んで罪の支配から解放され、キリストの復活にあずかって新しい命を与えられて、神と共に、神のご支配の下で生きている、ということが見つめられており、だから、自分の五体を神に献げて、義のための道具として神に用いていただこう、という勧めが語られていたのです。15節以下でパウロはその勧めを一歩前進させて、自分を神に献げて神のものとして生きるとは、神の奴隷となって、神に従順に従い仕えて生きることだ、ということを意識させようとしているのです。

「かつて」と「今」
 パウロはこの勧めを、私たちが自分の力で達成しなければならない課題、救いにあずかるために満たさなければならない条件として語っているのではありません。私たちはもはや律法の下ではなく恵みの下にいるのです。ある条件を満たせれば救われ、満たせなければ裁かれて滅びるような世界にはもういないのです。神が独り子主イエス・キリストの十字架の死と復活によって私たちを既に罪の支配から解放し、キリストと共に新しい命を生きる者として下さっているのです。それは洗礼を受けたことによって与えられた救いの恵みです。私たちはその救いの恵みに感謝しつつ、神に従順に仕えていくのです。洗礼を受けた者は、神の恵みによって、神に従順に従い仕えて生きる道を既に歩み始めているのです。そのことを語っているのが17、18節です。「しかし、神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、今は伝えられた教えの規範を受け入れ、それに心から従うようになり、罪から解放され、義に仕えるようになりました」。この「仕える」はやはり「奴隷として仕える」という言葉です。かつて罪の奴隷だったあなたがたが、今や義の奴隷、神の奴隷へと変えられているのです。その「かつて」を「今」へと転換させたのが洗礼です。洗礼を受けたことによって私たちは、罪の奴隷から神の奴隷へと変えられたのです。私たちが従順に従い仕える相手、主人が変ったのです。洗礼を受けるまでの私たちは、自分は誰の奴隷でもなく自由に生きていると思い、自分を主人として、自分の思いに従って生きていました。しかしそれは神に従わずに生きていたということであり、実は罪の奴隷だったのです。しかし洗礼を受けた今、私たちの主人は自分ではなくなりました。神こそが主人であり、私たちは神に従順に従い仕えて生きる者となったのです。私たちが自分で自分をそのように新しく造り変えたのではありません。「しかし、神に感謝します」とパウロが言っているように、これは神がして下さったことです。神が洗礼において私たちをキリストの十字架と復活による救いにあずからせ、罪に対して死んで、神に対して生きている者として下さったのです。律法の下ではなく恵みの下にいる者として下さったのです。洗礼において神が自分を新しく生まれ変わらせて下さったという恵みをパウロは感謝をもって見つめているのです。

神の恵みと私たちの従順
 神が洗礼において私たちを新しく生まれ変わらせて下さったことは既に14節までに語られていたことです。パウロがそれを一歩前進させているのが17節の、「今は伝えられた教えの規範を受け入れ、それに心から従うようになり」という言葉です。洗礼を受けたことをパウロはこのように言い換えているのです。「伝えられた教えの規範」とは何かについては次回に語りたいと思いますが、要するにこれは教会が宣べ伝えている教えです。ここに見つめられているのは、洗礼を受けることにおいて私たちが、教会が宣べ伝えている教えを受け入れ、心から神に従う者となったこと、つまり私たちの従順です。「心から従った」の「従った」は「従順になった」という言葉です。洗礼には、神が私たちを生まれ変らせ、キリストの復活の命を与えて新しく生かして下さるという「神がして下さること」という面と、私たちが教えを受け入れ、神に従い仕えていくという「私たちの従順」という両方の面があるのです。土台となる第一のことは「神が生まれ変わらせて下さること」です。パウロはそれを6章の前半で先ず語りました。そして15節以下では、この神の恵みに感謝して私たちは、「私たちの従順」をもって応えていくのだ、ということを語っているのです。洗礼を受けて主イエス・キリストによる救いにあずかり、罪を赦され罪の奴隷でなくなった私たちは、神に従順に従い仕える神の奴隷として新しく生き始めている、そのことを語るためにパウロはここで「奴隷」という言葉を用いているのです。

新しい生活へと歩み出そう
 主イエス・キリストを信じて洗礼を受けた者は、罪に仕えその奴隷であったかつての生活から解放され、神に従順に従い仕える者として新しくされて生きています。この神の恵みを受けて生きることが私たちの信仰の生活です。そこにおいて私たちは、罪の奴隷として罪に従うかつての生き方に留まるのではなく、神に従順に従い仕える新しい生き方へと歩み出すのです。罪に仕える奴隷としての歩みは死に至る、しかし神に従順に仕える歩みは義に至り、その行き着くところは永遠の命であるとパウロは言っています。死に至る道と永遠の命に至る道があなたの前にはある、あなたはどちらを歩むのか、と問うているのです。それは本日共に読まれた旧約聖書、申命記第30章において、イスラエルの民の前に、命と幸いへの祝福の道と、死と災いへの呪いの道が置かれ、あなたがたはどちらを歩むのかと問われたのと似ています。この二者択一において、イスラエルの民は結局死と災いへの呪いの道を歩んでしまって、国の滅亡へと至りました。しかし私たちは、命と幸いへの祝福の道を歩むことができます。神が独り子イエス・キリストの十字架の死と復活によって、私たちのためにその道を拓き、またその道へと招いて下さっているのです。主イエスによる救いを信じて洗礼を受けることによって、私たちは死に至る道を離れて、永遠の命へと至る道を歩み始めます。私たちが自分の力や努力でそうするのではなくて、神が恵みによって新しい歩みを与えて下さるのです。その恵みの下に既に置かれているのですから、それに応えて私たちは、罪の中に留まり罪に仕える古い生き方を捨てて、神に従順に従い仕えて生きる新しい生活へと、自らの意志をもって歩み出していきたいのです。

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