夕礼拝

契約の民として

「契約の民として」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: レビ記 第26編1-46節
・ 新約聖書: ローマの信徒への手紙 第11章13-24節  
・ 讃美歌:140、506

神聖法集
 私が夕礼拝の説教を担当する日は、旧約聖書、レビ記を読み進めてきました。本日は第26章からみ言葉に聞きます。そして本日をもってレビ記を終えたいと思います。レビ記は、主なる神様がイスラエルの民にお与えになった、様々な事柄についての掟、律法を集めた書物ですが、私たちが今読んでいる新共同訳聖書においては、17章から本日の26章までの所に「神聖法集」という見出しが付けられています。このような見出しが聖書本文にあるわけではなくて、後の人がこの部分をそのように呼んだのですが、それはこの部分に、一つの目的を持った掟が集められているからです。その目的は19章2節にこのように語られていました。「イスラエルの人々の共同体全体に告げてこう言いなさい。あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である」。また20章の26節にもこうあります。「あなたたちはわたしのものとなり、聖なる者となりなさい。主なるわたしは聖なる者だからである。わたしはあなたたちをわたしのものとするため諸国の民から区別したのである」。つまり17章以下に語られているのは、イスラエルの民が、聖なる方である主の民となり、聖なる者となるための掟です。この部分が「神聖法集」と呼ばれているのはそういう意味なのです。

区別された民として
 「聖なる」という言葉の聖書における意味は、「区別された」ということです。神様が聖なる方であられるというのは、世界の全てを創造なさった方として、被造物とは区別された方であるからです。その聖なる神様のものとされたイスラエルの民は、今の20章26節にあったように、諸国の民から区別された者です。イスラエルが聖なる民であるというのは、彼らが清く正しい者たちだったということではなくて、主なる神様によって他の民から区別され、主の民とされたことによってです。ですからイスラエルの人々には、主の民として、他の人々からははっきりと区別された、違いをもった者として生きるという課題が与えられているのです。その「違い」を明確にしているのがこの「神聖法集」なのです。
 どのような「違い」をもって生きることが教えられていたか、いくつかのことを振り返ってみたいと思います。例えば、主イエスが律法の中で最も大事な掟としてあげた「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」という掟が19章18節にありました。主の聖なる民と他の人々の違いは、隣人を自分自身のように愛することなのです。同じ19章には、占いや呪術の禁止が語られていました。主の民であるイスラエルにおいては、他の民の間では当たり前だった占いや呪術が禁じられていました。占いや呪術に依り頼むことは、主なる神様こそが自分たちを支配し、導いておられることを否定することになるからです。また主がお定めになったいくつかの祭を行い、聖なる集会に集って主を礼拝することが命じられていました。他の民との違いは、主なる神を礼拝しつつ生きるところに明確になるのです。「神聖法集」にはこれらのことが語られてきました。その最後の締めくくりが本日の26章です。レビ記は27章までありますが、27章は献げ物についての教えをもう一度まとめており、内容的には26章がレビ記の締めくくりとなっています。この26章に語られているのは掟ではありません。ここには、これまでに語られてきた掟をしっかり守ることによって与えられる祝福と、もしそれを守らず、主の民として違いをもった生き方をしないならばそこに下される災いとが語られています。26章はその祝福と災いとを対照的に示すことによって「神聖法集」の、そしてレビ記全体の締めくくりをしているのです。

神の民の基本姿勢
 さてその26章を見ていくのですが、祝福と災いについて語られているのは3節からです。1、2節には、「神聖法集」を代表する二つの掟が繰り返されています。それは「偶像を造ってはならない」と「安息日を守れ」という掟です。十戒の第二と第四の戒めであるこの二つの掟は、主なる神の民が、他の民とは区別された聖なる者として生きるための基本的なことを教えています。第一は「偶像を造らず、拝まない」ということです。人間の手で造られた神々を拝まないというところに、主の聖なる民の、他の民との違いがあるのです。このことは、私たちが日本の社会の中で信仰を持って生きようとする時に切実な問題です。私たちの周囲には様々な偶像があり、それらを拝むことが日常的になされています。それをいかにして避けるかが私たちの信仰の戦いとなるのです。しかし1節において、偶像を拝んではならないという命令に先立って、偶像を造ってはならないと語られていることに注目しなければなりません。偶像を造るというのは、木や石や金属で目に見える神の像を造ることに留まりません。自分の思い通りに、自分の願いや求めを実現するために神を造り出すことが問題なのです。十戒の第二の戒めは、「あなたは自分のために刻んだ像を造ってはならない」です。「自分のため」という言葉が原文にはあるのです。「自分のため」の神、それこそが偶像の本質です。ですから私たちが本当に戦わなければならないのは、目に見える偶像を拝む周囲の人々の習慣よりも、むしろ私たちの心の中に起って来る、自分のための神を造り出そうという思いであると言えるでしょう。主なる神の民と他の人々の違いの中心にあるのは、自分のための神を信じるのではなくて、自分の主人である神を信じ、その神をこそ礼拝し、従っていく、ということなのです。2節の「安息日を守る」ということもこれと結び合っています。安息日を守るとは、主がお定めになった日に自分の仕事、営みをやめて、神の前に出て礼拝をすることによって、自分が主なる神の民であり、自分の主人は自分ではなくて主なる神であることを明らかにするということです。自分の都合に従って、暇な時に、気が向いたら礼拝に行く、というのは、神の民のあり方ではありません。それは自分のための神を造り出して拝んでいる偶像礼拝と同じであり、他の人々と違いはそこにはないのです。つまり、偶像を造らず拝まないことも、安息日を守ることも、主なる神に対する私たちの基本的な姿勢に関わることです。1、2節は先ず、神の聖なる民として生きるための基本的姿勢を確認しているのです。

神の民の祝福
 このような基本的姿勢をもって主の聖なる民として生きるところに与えられる祝福が3-13節に語られています。先ず3-5節には、作物の豊かな実りの祝福が語られています。時季に応じた雨が与えられ、穀物や果物の豊作が与えられ、食物に飽き足りるようになり、平穏に暮らすことができるのです。自分のために神を利用するのではなく、神を主とし、神に従って生きるところには、このような物質的な豊かさという祝福も約束されているのです。それは主イエスがマタイによる福音書の6章の終わりのところで、何を食べようか、何を飲もうかと思い悩む私たちに、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」とお語りになったのと同じことです。主なる神の民として生きるとは、主がご自分の民である私たちに必要なものを全て与えて養って下さる、という恵みを信じて生きることなのです。
 6-10節には、国の平和、平安という祝福が約束されています。物質的豊かさも平和のない所には得られません。食物に飽き足りることができるのは平和だからです。その平和を損ない、破壊するのは、隣人を愛することができない人間の罪です。平和は、私たちが主の民として、「隣人を自分のように愛しなさい」という掟に従っていくところに、神様の祝福として与えられるのです。
 そして11-13節に語られていることが祝福の中心です。11、12節にこのようにあります「わたしはあなたたちのただ中にわたしの住まいを置き、あなたたちを退けることはない。わたしはあなたたちのうちを巡り歩き、あなたたちの神となり、あなたたちはわたしの民となる」。主なる神が民のただ中に住まいを置き、民と共に歩んで下さる、そのようにして主が共にいて下さることこそ、神の民に与えられる祝福の中心なのです。食物に飽き足りるという豊かさも、平和も、主なる神が共にいて下さるのでなければ、表面的な祝福であって、そこにはいつも虚しさと不安がつきまとうのです。主の聖なる民として歩むところに与えられる最大の祝福は、物質的な豊かさでも平和でもなくて、「わたしはあなたたちのうちを巡り歩き、あなたたちの神となり、あなたたちはわたしの民となる」というみ言葉を聞きつつ生きることなのです。

既に与えられている祝福
 その祝福は、私たちが必死に追い求めることによってやっと手に入れることができるような、遥か彼方にあるものではなくて、主なる神が既に与えて下さっているものです。13節に「わたしはあなたたちが奴隷にされていたエジプトの国から導き出したあなたたちの神、主である。わたしはあなたたちの軛を打ち砕き、あなたたちがまっすぐに立って歩けるようにした」とあります。イスラエルの民は、奴隷にされていたエジプトからの解放という主の救いのみ業によって、既に主なる神の民とされているのです。主が彼らを縛りつけていた軛を打ち砕き、まっすぐに立って歩けるようにして下さったのです。そして約束の地へと歩む彼らの荒れ野の旅路に同行して下さっているのです。この既に与えられている恵みを受け入れ、その恵みを事実として感謝して生きることが、主なる神の民として生きることです。私たちがキリスト信者として、教会に連なる者として生きることもそれと同じです。私たちには、主イエス・キリストによる救いが既に与えられています。主イエスを遣わして下さった父なる神様は、主イエスの十字架の死によって、私たちを縛りつけていた罪の軛を砕いて下さいました。そして主イエスの復活によって、私たちが神の子としてまっすぐに立って歩けるように、新しい命を打ち立てて下さったのです。私たちの信仰は、主イエス・キリストの十字架と復活によって既に与えられている救いの恵みを信じ、受け入れ、その恵みを事実として感謝して生きることです。私たちはその信仰によって、主の聖なる民として歩むことができるし、主の祝福にあずかることができるのです。

神の民に下される災い
 他方14-39節には、み言葉に従わず、主の民として生きようとしない時に下される災いのことが語られています。まとめて言うならば、病気や疫病、収穫の不足による飢え、敵に打ち破られ、敵の国に捕え移されることなどです。主が既に与えて下さった奴隷状態からの解放の恵みを認めず、主の民として歩もうとせず、み言葉に従わず、つまり神様を主として従うのではなくて、自分を主として生きようとするなら、主はこのような罰をお与えになるのです。19節に「わたしはあなたたちの誇りとする力を砕き」とあります。主なる神に従わず、主の民として生きようとしないことは、自分の力を誇りとして、それに依り頼んで生きることなのです。そのように人々が依り頼んでいる自分の力、誇りを、主はこれらの災いによって打ち砕かれるのです。それによって、自分たちの人生を本当に支えているのは誰なのかをお示しになるのです。
 13節までの祝福の記述と比べて気づくのは、14節以下の災いの記述の方がずっと長く、また具体的だということです。それは、イスラエルの歴史において現実となったのは、あの祝福よりもむしろこの災いだったということから来ています。敵に攻め滅ぼされ、捕え移されてしまうというのは、明らかにバビロン捕囚を意識しています。イスラエルの民は、主の聖なる民として祝福を受ける道を歩むことができずに、災いへの道を歩んでしまったのです。奴隷とされていたエジプトから主の力によって解放され、主の聖なる民とされたのに、与えられた恵みに応えて歩むことができずに、約束されていた祝福を受けることができなかったのです。そこに、信仰に生きることの難しさが示されています。信仰の難しさとは、主なる神様の恵みを受けることの難しさではありません。主は大きな恵みを、既に、何の相応しさもない私たちに、ただで与えて下さっているのです。神様の独り子イエス・キリストは既に私たちの罪を背負って十字架にかかって死に、そして復活して下さっているのです。信仰の難しさは、私たちが、既に実現し与えられている救いの恵みを本当に恵みとして受け入れ、それを事実として感謝して生き、それに応えて生きていくことの難しさです。しかし既に与えられている恵みをちゃんと受け、それに応えていくという真剣さなしには、与えられている恵みはむしろ災いを生むものとなってしまう、ということをレビ記は語っているのです。

神の慈しみと厳しさ
 新約聖書においてはどうでしょうか。先ほど共に朗読したローマの信徒への手紙第11章を見てみたいと思います。この手紙を書いたパウロはここで、自分の同胞であるユダヤ人たち、つまりもともと主なる神の民として選ばれ、導かれていたはずの人々が、今、その主なる神が遣わして下さった救い主イエス・キリストを受け入れず、その救いにあずかろうとしないことを悲しみをもって見つめています。主イエスによる救いが既に与えられているのに、ユダヤ人たちはそれを受け入れず、その恵みに応えて生きていないので、祝福を受けることができなくなっているのです。パウロはそのことを深く悲しみつつ、22節でこう言っています。「だから、神の慈しみと厳しさを考えなさい。倒れた者たちに対しては厳しさがあり、神の慈しみにとどまるかぎり、あなたに対しては慈しみがあるのです。もしとどまらないなら、あなたも切り取られるでしょう」。パウロは、神の慈しみと厳しさとを見つめるようにと言っています。神は基本的に慈しみに満ちた方です。その慈しみは、私たち罪人の救いのために、独り子イエス・キリストの命をも犠牲にして下さるほどのものです。主イエスの十字架による救いは、罪人である私たちに無条件で、ただで与えられているのです。しかしその慈しみと共に、神の厳しさをも私たちは見つめなければなりません。独り子の命さえも犠牲にして与えて下さった救いの恵み、その慈しみに、私たちがどう応えるかが問われているのです。神様の救いの恵みを無にすることなくしっかりと受け止めて、神様の民となって生きていくことを神様は求めておられるのです。私たちはそこにおいていいかげんであってはならないのです。独り子の命を与えて下さった慈しみが、まさに命がけであり、いいかげんなものではなかったように、その恵みをいただくことにおいて私たちも、いいかげんにごまかしてしまうことはできないのです。神様の恵みを受け、神様の民として生きるという信仰において、私たちの前には、レビ記が語っているように、祝福と災いとが置かれています。あなたはどちらの道を選び取るのか、ということが私たちに問われているのです。
 しかしここで、パウロが語っていることをもう少し見ておく必要があります。パウロは、ユダヤ人たちが主イエスを信じない不信仰のゆえに、神の厳しさによって、救いの木から「折り取られた」と語っていますが、同時に、そのことによって、もともとは救いの外にいた異邦人たちがこの救いの木に「接ぎ木」されたと語っているのです。そのようにして、主イエス・キリストによる救いが全人類に及んだのです。そしてそれは、ユダヤ人たちがこの木に再び接ぎ木されて、彼らもキリストによる救いにあずかるためになされたことです。23節には「彼らも、不信仰にとどまらないならば、接ぎ木されるでしょう。神は、彼らを再び接ぎ木することがおできになるのです」とあります。このことをこそ、パウロはここで語ろうとしているのです。つまりユダヤ人たちは神の厳しさによって折り取られたが、それは彼らがもう救われることなく滅びるばかりだということではない。むしろ神は、彼らが立ち返り、主の聖なる民へと回復されることを待ち望んでおられるのです。神の厳しさの背後には、やはり神の慈しみがあるのです。

悔い改めを待っておられる神
 レビ記26章もまさにそのことを語っています。14-39節に、神の言葉に聞き従わない者に下される災いのことが延々と語られていますが、その中に繰り返し出てくる言い回しがあります。18節に「このような目に遭ってもまだ、わたしの言葉を聞かないならば」とあります。21節にも「それでも、まだわたしに反抗し、わたしの言葉を聞こうとしないならば」、23節にも「それでも、まだわたしの懲らしめが分からず、反抗するならば」、27節にも「それでも、まだわたしの言葉を聞かず、反抗するならば」とあります。繰り返し語られているこれらの言葉が示しているのは、主なる神が人々の悔い改めを今か今かと待ち望んでおられる、ということです。神は、その厳しさによって、恵みを受け止めようとせず、み言葉に従わない者に災いを下されます。しかしその思いは、早く目を覚まして私のもとに帰って来て欲しい、これだけの災いによってもまだ分からないのか、まだ祝福へと立ち帰ろうとしないのか、ということであって、それは子供に懲らしめを与えることでその罪を悟らせ、正しい道に連れ戻そうとする親の祈るような思いなのです。
 そして40節以下には、敵に国を滅ぼされ、敵の国に連れ去られた後でも、罪を告白して悔い改めるならば恵みが回復されることが約束されています。40-42節「しかし、もし彼らが自分と自分の先祖の罪、すなわち、わたしを欺いて、反抗した罪を告白するならば、たとえわたしが彼らに立ち向かい、敵の国に連れ去っても、もし、彼らのかたくなな心が打ち砕かれ、罪の罰を心から受け入れるならば、そのとき、わたしはヤコブとのわたしの契約、イサクとのわたしの契約、更にはアブラハムとのわたしの契約を思い起こし、かの土地を思い起こす」。与えられた恵みに応えることをせず、神の民として歩もうとしなかったその罪を告白して、それに対する神の厳しい罰を心から受け入れるならば、その厳しさは慈しみに転ずるのです。その慈しみとは、神がご自身の結んだ契約を思い起こして下さることです。主なる神は、イスラエルの最初の先祖であるアブラハム、イサク、ヤコブとの間に契約を結び、彼らをご自分の民として下さり、彼らの子孫が神の祝福を担う民となると約束して下さいました。イスラエルの民はその歩みの最初から、神様との契約の関係を与えられていたのです。しかし彼らはその契約の恵みを無にし続けたのです。主なる神はそのイスラエルの民が悔い改めて立ち返ることを願い、待っておられます。その時には、彼らをもう一度契約の民として立てると言っておられるのです。さらに44節にはこう語られています。「それにもかかわらず、彼らが敵の国にいる間も、わたしは彼らを捨てず、退けず、彼らを滅ぼし尽くさず、彼らと結んだわたしの契約を破らない。わたしは彼らの神、主だからである」。イスラエルの民は、契約の恵みを無にして歩み、敵の国に連れ去られてしまうかもしれない。しかしそのような厳しい懲らしめを与える中でもなお神は、彼らと結んで下さった契約を決して忘れてしまうことはないのです。神の厳しさによって敵の国に連れ去られた民を、神は決して捨てず、退けず、滅ぼし尽くさず、なお慈しみをもって民の悔い改めを待っておられ、彼らを契約の民として再び生かそうとしておられるのです。

新しい契約の民として
 この主なる神様こそ、独り子イエス・キリストを遣わし、その十字架と復活によって私たちとの間に新しい契約を打ち立てて下さった方です。私たちは、主イエスの十字架による罪の赦しと、復活による新しい命の約束を信じて、この新しい契約の民、新しい神の民とされるのです。この新しい契約はまさに独り子の命をさえ与えて下さる神の深い慈しみによるものです。それゆえにこそ、私たちは、レビ記が、そしてパウロが教えているように、神の慈しみと厳しさを共に見つめて、契約の民として心して歩まなければなりません。神様の慈しみのみを見て厳しさを忘れてしまってはならないのです。しかしまた、パウロが、そしてレビ記が教えているように、神の厳しさの背後には、私たちを救いにあずからせようとする慈しみのみ心があることも忘れてはなりません。神の慈しみと厳しさとによって、私たちは、契約の民、主の聖なる民として、常に歩みを正されつつ、悔い改めつつ、そして大いなる祝福にあずかりつつ生きるのです。

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