「主イエスとの四十日間」 伝道師 乾元美
・ 旧約聖書:詩編第103編17-22節
・ 新約聖書:使徒言行録第1章1-5節
・ 讃美歌:18、352、75
主イエスの御業と聖霊の働き
【序】
本日から、夕礼拝で「使徒言行録」を共に聞いて参りたいと思います。
このタイトルは、字の通りに理解すれば、「使徒たちが語り、行ったことの記録」ということになります。
しかし、これは「使徒言行録」ではなく「聖霊言行録」と言っても良い、という人もいます。使徒言行録には、復活の主イエスが天に上げられた後、父なる神によって約束された聖霊が降ってこられた「聖霊降臨日(ペンテコステ)」のことが書かれています。
そして、使徒たちによって、主イエスの十字架と復活が世界に宣べ伝えられ、教会が誕生する様子が活き活きと語られます。聖霊のダイナミックなお働きが、使徒言行録には記されているからです。
でも、聖霊は、突然ここで登場したのではありません。聖霊は、主イエスが地上でおられる時も、ずっと共に働いておられました。世の初め、創造の時からおられた、父、子、聖霊の三位一体の神様です。そして、世の終わりの日まで、わたしたちを導いて下さいます。
わたしたちに御言葉を悟らせ、信仰を与え、命を与えて下さるのは、聖霊のお働きです。
特に、主イエスを信じ、告白する信仰共同体の歩み、教会の歩みは、福音が語られ、また福音が聞かれるところに、聖霊が、豊かに働いて下さることによります。
そのような、「使徒言行録」に書かれた教会の歩みは、約2000年続き、世界中に広がり、この現代の日本の教会、わたしたちの、横浜指路教会に続いています。
この聖書に描かれている教会に、今まさに、わたしたちが連なって、歩んでいることを覚えながら、共に御言葉を聞いていきましょう。
【使徒言行録の冒頭】
「使徒言行録」は、突然「テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著して」、という言葉で始まります。ということは、この使徒言行録は第二巻目ということです。
第一巻目は何かと言うと、新約聖書でその二つ前に納められている「ルカによる福音書」です。ルカによる福音書にも、はじめに「敬愛するテオフィロさま」と書かれており、第一巻のルカによる福音書、そして第二巻の使徒言行録が、一続きの書物であることが分かります。
よく、何巻かに分かれている本は、二巻目の最初の方に「前回までのあらすじ」という感じで、一巻目の内容の要約が書かれています。
ここでは、「使徒言行録」の1章1~2節が、そのような形で「ルカによる福音書」に書かれていたことを示しています。しかし、これは単純なあらすじではなく、最も重要なことが、とても簡潔に、述べられて、一巻目と二巻目の橋渡しをしています。
ルカによる福音書が書き記してきたのは、主イエス・キリストが、旧約聖書に預言された救い主であること。聖霊によってマリアから生まれ、人となって世にこられたこと。人々を教え、様々な業を行われたこと。そしてすべての人を救うために、十字架にかかり、死んで葬られ、三日目に復活されたこと。復活の後、使徒たちや人々に現れ、天に上げられたことです。
こうして第一巻は、復活の主イエスが天に上げられたところで終わります。
これに続き、第二巻は、主イエスが天に上げられる少し手前、復活の後から始まっているのです。
復活の主イエスで終わり、復活の主イエスから始まる。この二つの書物が一貫したものであることがわかります。第二巻から始まる教会の歩みは、復活の主イエスの御業の続きとして、語られていきます。
【復活の主イエスとの四十日間】
さて、わたしたちは先週、主イエスが十字架に架けられ、墓に葬られてから三日目に復活されたことを覚える、イースターの礼拝を守りました。
その一週間後の今日は、ちょうど本日の使徒言行録の1章3節と同じ、復活の主イエスが使徒たちに現れ、共に過ごされている四十日間にあたります。
「イエスは苦難を受けた後、ご自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。」とあります。
主イエスは、苦難を受けられました。
十字架の出来事のことです。罪のないお方が、わたしたちの罪を贖うために、十字架にかかられた。神の御子であり、万物の王である方が、人と同じになってこの世に降ってこられ、最も惨めで弱々しい姿になられ、わたしたちのために死なれた、その出来事です。
しかし、三日目に死人の中から甦られた。復活の主が、使徒たちに現れたのです。
この「使徒」というのは、「派遣された者」「使者(使いの者)」という意味です。主イエスは、神に祈って十二人を選び、「使徒」と呼んで、ご自分の「使者」とされました。このことはルカによる福音書の6:12-16に書かれています。
使徒たちは、主イエスといつも一緒にいました。彼らは、主イエスの一番近くで、共に生活し、お話されたこと、行われた業を、見聞きしていました。
主イエスが十字架で死なれた時、使徒たちには大きな絶望と、悲しみと、また苦しみがあったでしょう。
自分たちが、救い主である、神の御子であると信じて、慕ってきた方が、殺されてしまった。自分たちの王が来られたと思ったのに、罪人として辱めを受け、十字架にかけられてしまったのです。一体、主イエスの教えや、力ある業は、何だったんだろうか。
さらには、自分自身の弱さにも、使徒たちは打ちのめされたでしょう。すべてを捨てて付いて行き、死んでも主イエスと一緒にいると意気込んでいたのに、主イエスを「知らない」と言って逃げてしまった。最後まで従えなかった自分は、何と弱い者だったのだろうか。
そんな、やりきれない、虚しい思いで、使徒たちは三日間を過ごしたのではないでしょうか。
しかし、その主イエスが、死から甦られたのです。
使徒たちは、はじめ、復活の主イエスと出会った時、恐れおののき、亡霊だと思った。そのようにルカによる福音書には書かれています。
しかし、主イエスは確かに目の前におられる。手足に釘の跡がある。食事をいつものように召しあがる。
さらに、主イエスは、四十日間も共にいて、「ご自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示」されました。そのようにして、主イエスは、使徒たちを、御自分が復活し、生きておられることの証人となさったのです。
もし、復活の後、主イエスを見たのが一日だけだったら、「あら、やっぱり昨日は幻を見たんだろうか」とか、「人違いだったんだろうか」と、自分の目を疑ってしまうかも知れません。
でも、四十日間です。その間に、使徒たちは、甦られた主イエスの体に、触れることもあったでしょう。その声は、よく知っている、聞き慣れた声だったでしょう。その食事をされる姿は、よく見慣れたお姿だったでしょう。
証人となる使徒たちは、信じる心が強いとか、素直な心だから、選ばれたのではありませんでした。むしろ、彼らはとても、疑い深く、弱い人たちでした。そのような使徒たちでも、その事実を認めるしかない、そのような方法で、主イエスは御自分が生きていることを示されたのです。
復活し、体を持ち、生きておられる主イエスが、共にいて下さること。
それは、旧約聖書に書かれていた預言が主イエスによって実現したことです。主イエスが、死に打ち勝たれ、十字架の贖いによって、父なる神と和解させてくださることです。すべての人の罪が、赦されることです。
その、復活の主は、その確かな証拠なのです。
使徒たちは、ただ復活した人を見た、というだけではありません。
「神の御業が、成し遂げられたこと」の証人となったのです。
【神の国の教え】
また、その四十日間、主イエスは「神の国について話された」とあります。
主イエスは、十字架にかかられる前から、ずっと「神の国」について教えておられます。
神の国とは、神が支配される、という意味です。死んだ後に、魂が行くと言われているような「極楽」とか、「天国」ではありません。
三位一体の神に、見えるものも、見えないものも、すべてが支配されていること。それが「神の国」です。
神の支配から逃れようとして、神に逆らい、神から離れることが、「神に対して罪をおかす」ということです。
神に創られ、命を与えられたわたしたちは、神から離れてしまっては、死んで滅びるばかりです。
しかし、神は、そのようなわたしたちを捨てて置かず、創ったわたしたちを憐れみ、愛し抜いて下さいます。罪を赦して下さることを、神の御子である主イエスが、十字架と復活の御業によって、示して下さいました。そうしてわたしたちを、罪と死の支配から、神の支配の元に入れて下さいます。
そして、終わりの日がいつか来ると、聖書には書かれています。それは、天に上げられた主イエスが再び来られる時。そして、神の国が完成する時です。
終わりの日には、主イエスの十字架によって、罪を赦され、神の国に入れられた者が、共に主イエスの復活の命に与ります。このわたしたちの復活の希望の約束も、主イエスが真に死人の中から甦られた、ということが、その保証です。
四十日間、主イエスが使徒たちと過ごして、御自身が生きておられるという確かさで保証して下さった、わたしたちの復活と永遠の命の約束です。
神は、この罪の赦しを宣言し、復活の希望を与える、主イエスの十字架、つまり神の国を、あらゆる国の人々に宣べ伝えようとしておられます。ルカによる福音書の最後で、「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」と語られています。神の救いの御計画は、旧約聖書の神の民イスラエル限定の救いではありませんでした。主イエスは、あらゆる国の人々を救おうとされているのです。
神の国、神の支配は、今や主イエスの御業、唯一の、決定的な、十字架と復活によって、始められています。
これから、その御業が宣べ伝えられ、あらゆる国々の人々が、主イエスを救い主であると信じ、告白するまで、つまり神ご自身が、神の国を完成して下さる日まで、その宣べ伝える務めを、主イエスは選ばれた使徒たちにお委ねになります。「使徒」という名の通り、彼らを派遣されるのです。
【聖霊による洗礼】
しかし主イエスは、いきなり「行って来なさい」と送り出したのではありませんでした。派遣する前に、使徒たちと共に食事をされている時、このように命じられました。
「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」
まず父の約束されたもの、つまり聖霊を、待ちなさいと命じられます。聖霊を、まず受けなさいと言われるのです。
聖霊による洗礼は、ルカによる福音書で、洗礼者ヨハネが預言したことです。ヨハネはこのように言いました。
「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。…その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」。
主イエスはこのことが実現することを、使徒たちに教え、約束されました。
洗礼とは、「浸す」ということです。洗礼者ヨハネは、水に浸すことによって、悔い改め、神に立ち返るための洗礼を授けていました。
しかし、主イエスは使徒たちを「聖霊」に浸します。そして、彼らをまったく新しく生まれ変わらせようとなさいます。死に打ち克ち、復活された主イエス御自身の命を与え、罪を赦し、神に向かって、まったく新しく生きる者として下さる。そのような洗礼です。
聖霊によって、新しく生まれた者として、そして永遠の命を受け継ぐ者とされて、主イエスの十字架と復活の証人、使徒たちは、派遣されようとしています。
この後、「使徒言行録」に記された使徒たちの様子は、ルカによる福音書に書かれている彼らの姿と、まったく違っています。
臆病で、疑い深く、神の御心を何も分かっていなかった使徒たちでした。しかし、復活の主イエスと共に過ごし、主イエスが天に上げられた後に、聖霊を受けてからは、迫害されても、苦難に遭っても、死をも恐れず、勇敢に主イエスを宣べ伝える者となりました。
使徒たちが自分で決意をし、反省をして、変わったのではありません。自分は疑い深く、弱い者であるということを、使徒たちは散々味わったはずです。
彼らは、主イエスに「父の約束されたものを待ちなさい」と命じられた通り、その約束を信じて、ただ待っていたのです。そして、聖霊を受けたのです。このことは第2章に出てきます。
使徒たちが変わることができたのは、神によって変えられたからです。父なる神の約束が成就し、主イエスが復活して確かに生きておられ、また聖霊が共にいて下さったからです。彼らは神に選ばれ、神によって新しくされ、神によって遣わされていったのです。
そうして使徒たちは聖霊に満たされ、救われた者として、主イエスの救いの御業を語り始めていくのです。
【生ける主イエスとの出会い】
さて、わたしたちは、復活の主イエスのお体を、この目で見たり、触れたりすることはできません。
使徒たちが四十日も一緒に過ごしたように、わたしたちも主イエスと過ごすことが出来たら、どんなに素晴らしいかと思います。主イエスの生の声を聞いてみたいし、お顔を見てみたいし、怖いけれど、手の傷も見せて頂いて、触れてみたいと思います。しかし今、主イエスは聖書にあるように、天に上げられ、父なる神の右に座しておられます。
ではなぜ、わたしたちは、主イエスが救い主であると知ることが出来るのでしょうか。見たこともない方を、生きておられる方として、信じることが出来るのでしょうか。
それは、聖霊を注がれて、主イエスの御業を受け継いだ、使徒たち、そして使徒たちが主イエスを伝えて信じた者の群れである、教会の業によります。
教会は、洗礼を受け、聖霊を注がれた、主イエスを信じる者の群れです。ですから、世の教会は使徒たちのように、主イエスに遣わされて、御言葉を語り、洗礼を授け、その地で救いの御業に仕えます。それが、主イエスのご命令だからです。
主イエスのご命令に従う時、そこに聖霊の働きがあります。
聖霊のお働きによって、主イエスの御業を聞いた者は、復活の生ける主イエス御自身と出会います。復活された主イエスは、2000年前のエルサレムという、時間や場所に限定されたところにしかおられないのではありません。今や、天においてすべてを支配しておられ、聖霊によって私たちと出会って下さるのです。わたしたちは、教会において、聖霊の導きによって、使徒たちが力強く証した、今も確かに生きておられる主イエスと出会い、信じる者へと変えられていくのです。
【生きておられる主イエスとの交わり】
本日は聖餐にあずかります。神の御子、主イエスが、確かにわたしたちのために人となって世に来られ、肉を裂き、血を流して下さったことを記念する時です。
主イエスは、信仰の弱い、疑い深いわたしたちに、パンと杯という、見て、触れて、食べることができる、そのような「しるし」を定めて下さいました。聖餐のパンと杯は、まるで使徒たちと四十日間を共に過ごして下さったように、わたしたちと共に、主イエスがおられるという、具体的で、確かなしるしです。
わたしたちが、主イエスの肉であるパンを食べ、血である杯を飲む時に、わたしたちは主イエス御自身の命に養われ、生かされている者であること、そして、生きておられる主イエスが、確かに共におられることを、聖霊のお働きによって、信仰によって、知ることができます。
天におられ、今も生きておられる主イエスの元へ、わたしたちの心を高く引き上げ、共に、主の体と一つになる。その主イエスとの交わりの時が、聖餐の食卓なのです。
まだ洗礼を受けていない方も、教会が語り続ける御言葉を通して、主イエスの命を受けるように、罪を赦して頂くようにと、招かれています。聖霊の助けによって、主イエスこそ救い主であると告白し、洗礼を受け、共に主の命の食卓につきましょう。主イエスは、あらゆる国の人々に、救いを宣べ伝えるよう命じられました。ここにいる者一人一人の名を呼んで、罪の赦しを得させようとしておられます。
主イエスは本当に生きておられる。そして、父と共に主イエスが天におられる今も、約束の聖霊が常にわたしたちと共にいて、常にわたしたちを新しくし、世の終わりまで、わたしたちを、教会を、導いて下さいます。