夕礼拝

神の御心に従って

「神の御心に従って」  伝道師 宍戸ハンナ

・ 旧約聖書: 詩編 第34編1-23節
・ 新約聖書: ペトロの手紙一 第4章1-6節
・ 讃美歌 : 7、411

肉において
 本日は、ペトロの手紙一第4章1節から6節までの御言葉に共に聞きたいと思います。このペトロの手紙一とは、教会の歴史において、始めの頃に教会に対する迫害や弾圧が強くなりかけていたときに、教会に連なるキリスト者を励ますために書かれました。イエス・キリストを救い主と信じる者たちが集う教会が様々な理由により迫害や弾圧を受けておりました。迫害や弾圧を受けるというのは苦難の中に置かれるということです。そのような苦難、苦しみの中にあるキリスト者を励ますためにペトロは手紙を書きました。このペトロの手紙全体が苦難の中にあるキリスト者を励ます手紙でありますが、特に3章8節よりキリスト者の苦難について語ってきました。そしてペトロは改めて語ります。「キリストは肉に苦しみをお受けになったのですから、あなたがたも同じ心構えで武装しなさい」(4:1)と語ります。キリストに倣って苦難を担い、キリストと同じ心構えをしなさい、と勧めております。キリストは肉において苦しまれた。だから、あなたがたも同じように、と勧めております。なぜキリスト者が苦しんでまで信仰を貫くべきなのでしょうか。主イエス・キリストを信じる信仰により苦難を受ける故に信仰から離れる人もいます。「イエスは主である」との信仰の告白のゆえに迫害を受けなければならない、苦難を受けなければならないということがあります。私たちが生きている社会、この地上のキリスト者が歩む世界は、今なお神様に背いた人間の支配に服している世界であります。そして様々な外的な苦しみや目には見えない精神的な苦しみをこの世から受け続けます。そのような苦しみ、苦難を受ける中でペトロはキリスト者を励ますのです。「キリストは肉に苦しみをお受けになったのですから、あなたがたも同じ心構えで武装しなさい」(1節)と語ります。キリストは肉において苦しみをお受けになったとは、主イエス・キリストが十字架の上において人間として苦しみを受けられ死なれたということです。キリストは十字架について死に、その苦しみによって、私たちの罪を赦して下さりました。だから、あなたがたも「同じ心構えで武装しなさい」と言うのは、この私たちもキリストの肉における苦しみと十字架の重荷を自らの重荷として、キリストと同じ心構えで武装しなさいということです。ここで「同じ心構えで」とあります。キリストと同じように、キリストに倣って苦難を追う姿勢を勧めています。けれども主が受けられた苦しみと私ども苦しみとは違うものです。主イエスは罪なきお方として苦しまれた。それに対して私たちの苦しみは自分が招いた苦しみも多かれ少なかれあるのではないでしょうか。自分のしたことの当然の報いだと思われる苦しみもあるでしょう。自分の行いの結果としての苦しみであったても、私たちはそのような苦しみを謙った心で喜んで受けることは難しいことです。自分が失敗をしておきながら、このような苦しみに遭うのはひどいことであると思ってしまいます。「なぜ、このようなことが自分の人生において起きるのか、なぜ今このような状況が与えられるのか」と問いかけの連続ではないでしょうか。

キリストに倣う
 私どもは自分の計画通りに事柄が進まないことがあります。どこでいつ、苦しみが与えられるかということは分からないものです。同じことをしながら、一方は苦しめられ、他方は何事もないということもあるからです。同じ事柄が自分にとっては大変な苦しみだけど、誰かにとっては何事もないことである。またあの時の自分にとっては大変な試練であったが、今の自分にとっては大した問題ではないということが起こります。苦しみとは偶然に起こることではなく、苦しみや苦難さえも神様の意志によって与えられるものなのです。ペトロは言います。「肉に苦しみを受けた者は、罪とのかかわりを絶った者なのです。」これは人間が苦しみを受けたら、罪がなくなるということではありません。キリストに結ばれて、キリストの苦しみと同じ心構えで肉に苦しみを受けるなら、その苦しみにおいて罪とのかかわりが絶たれ、キリストによる赦しの恵みにあずかることができる。主イエス・キリストが私たちのために肉において十字架において苦しんで下さった。そのことを信じる、その主イエスの十字架の出来事を私たちが感謝を持って受け止める時に罪と戦うことができるものあります。主の十字架の出来事を信じ罪と戦い、神様に従うのであります。人間の欲望にではなく神の御心に従って、肉における残りの生涯を生きるようになるためです。

苦難に耐え
 「それまでの人間の欲望」ということで3節に「かつてあなたがたは、異邦人が好むようなことを行い、好色、情欲、泥酔、酒宴、暴飲、律法で禁じられている偶像礼拝などにふけっていた」とあります。 主イエス・キリストが求めていることは私たちが主イエス・キリストを信じ、キリストにあって神に従って歩み生きるよう求められています。しかしキリスト者が苦難に耐えなければならないのは、苦難に耐え、3節にあがっているようなことをしないような良い)生活を送ることによる結果として、主による救いを獲得するためではありません。決して禁欲主義を勧めているのではなく、殉教を賞賛しているわけでもありません。けれども私たち、地上の歩む人間は欲望に満ちており、他人のことよりも自分自身のことを考えます。人の痛み・苦しみが理解できません。そして自分自身にもたらされる苦しみを避けます。先ほどの3節での性的な乱れ・酒に関する不道徳が語られ、そこに偶像崇拝が加えられております。これらが異邦人にとっての悪徳であると語られています。けれども罪はあらゆる罪が記されるべきです。隣人の痛みを顧みることなく行われる殺し、暴力、盗み、姦淫、貪り、偽証といった行為も忘れてはなりません。主の御前に私たちが立つ時、行い・言葉・心の中で十戒に記された律法から少しでも離れることはすべて罪です。そしてペトロは「かつてあなたがたは、これらのことにふけっていたが、もうそれで十分です」と語ります。キリストに繋がれ回心した今も、罪がなくなったのではありません。繰り返し私たちも罪を犯します。 自分を満足させる生活は楽しいものです。しかし主なる神様の御前に罪と言われることを繰り返して私たちに何が残るのでしょうか? 生活を破壊し、隣人を悲しめ、苦しめることがあります。罪の刑罰は死です。肉体の死によって全てが終わるわけではなく、救いの完成をなさる方を待ち望みます。

  裁かれる方
 ペトロは「死んだ者にも福音が告げ知らされたのは、彼らが、人間の見方からすれば、肉において裁かれて死んだようでも、神との関係で、霊において生きるようになるためなのです。」と言います。これは3章の19節より書いてありました、主イエスが死人に対して福音を宣べ伝えられたとはどういうことかと関係があります。生きている者だけが信仰の生活をするのではなくて、また生きている者だけに救いの最後の機会が与えられているのではなくて、死んでいる者にも、その機会があるように読めます。人間にとって死が終わりではないということです。私たちはこの地上の歩みをしており、その生活に責任を負っております。生きる者と死ねる者とを裁かれる方の前に申し開きをしなければなりません。すべてのことが神のご支配のもとに置かれている、それはただ神だから、人間の死と命とを御手の内に置かれているお方を信じる。肉においては死ぬけれども、霊において生かされてる。神の恵みによって生きる望みを与えられている。
 その神の子主イエス・キリストを信じ、洗礼を受ける。この永遠の死の苦しみから解放され、神の子として、神の国における永遠の祝福に満たされます。主はこうした生き方をキリスト者に望まれており、神の御心です。神の被造物である私たち人間は、神の御心に従って生きる時にこそ、真の幸福が約束されています。私たちは、神の永遠の祝福の希望に満たされなければ、この世の罪から離れて、神の御言葉に従う良き生活を行うことなど出来ません。キリスト者が、この世の罪から離れ、神の御言葉に従った歩みを始めた時、人々はそしります(4節)。キリスト者がひどい乱行と呼ばれる好色、情欲、泥酔、酒宴、暴飲、偶像礼拝に加わらなくなると、そのようなキリスト者を周囲にいる人々はそしる、非難するということになると言います。神の御言葉に従った歩みを始め、キリストの苦しみに倣うことは、進んで欲望を克服するようになると語ります。そのようないわゆる悪徳にキリスト者は目を向けなくなるということであります。けれども、キリスト者はこのような悪徳から逃れるから、救われるということでしょうか。悪徳から離れるゆえに救われるということではないでしょう。人間の欲望に関する悪徳ということではなく神様の意志に従って生きるようになるということでしょう。キリスト者はキリストの苦しみに倣う、キリストの苦しみを心に留めながら、神様の意志に従って与えられている。残りの生涯を生きるであろうと言うのです。神の意志に従って生きる生活、キリスト者が体験していることです。神様の意志に従って生きる生活というのは口で言うほど易しいものではないでしょう。主の日の礼拝に招かれ礼拝に出席することも大変な戦いではないでしょうか。信仰の生活を送る上で様々な戦いがあります。この世の歩みは厳しいものでしょう。けれども私たちはすでにキリストの苦しみによって、罪の刑罰から既に解放させられています。

信仰を全うする
 キリスト御自身が十字架において苦しみを受けられ命を捧げた。それは何よりも私たちの罪を赦し、救いへと招いて下さるためでし。神の恵みと憐れみにより、独り子が死に渡された。その方により罪人が赦され、救われた。キリスト者はその救いにあずかり、キリストに従っていく歩みをしていきます。けれども地上を歩む限り、苦しみが伴う。信仰における戦い、肉において苦しむことは大変な歩みです。けれども肉において苦しみを受けて下さったキリストがそこに共にいて下さる。そのお方は復活なさり、天へと挙げられ、再び私たちの救いの完成のときに来られます。苦しみのとき共にいて下さり、十字架において命を捧げ復活された、救いの完成のとき、裁きを行って救いを与えて下さる主イエス・キリストを信じる。このお方を信じる時に、キリストの苦難と死に与る者とされ、罪はもはや支配力を持たない、キリストと共なる新しい生命によみがえるのであります。主が再び来られる時、キリスト者はその時まで希望を失わずに苦しみを忍耐して歩めるのです。私たちは、主がお与え下さろうとしている祝福を覚える時、困難な歩みを乗り越えて、信仰を全うすることが出来るのです。

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