主日礼拝

自分を神に献げて

「自分を神に献げて」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:イザヤ書第6章1-8節
・ 新約聖書:ローマの信徒への手紙第6章12-14節
・ 讃美歌:326、392、512、81

洗礼の恵み
 先週まで私たちは礼拝において三回にわたって、ローマの信徒への手紙第6章1~11節よりみ言葉に聞いてきました。そこには、洗礼を受けることによって私たちに与えられている神の救いの恵みが語られていました。その恵みは4節にこのように語られています。「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです」。洗礼を受けるとは、主イエス・キリストの十字架の死にあずかり、私たちの古い自分、生まれつきの私たちが死んで葬られることです。そしてそのことを通して、父なる神がキリストに与えて下さった復活の命にもあずかり、私たちも新しい命を生きる者とされるのです。主イエス・キリストの十字架の死と復活にあずかり、私たちも死んで復活する、新しく生まれ変わる、洗礼においてそういうことが私たちに起っているのです。それゆえに、先週のイースターの礼拝においてもこの箇所を読みました。イースターの出来事、主イエスの復活こそ、洗礼において私たちに与えられる救いの恵み、つまり私たちが生まれ変わって新しくされることの根拠なのです。またイースターの出来事、主イエスの復活は、洗礼を受けることにおいてこそ私たちにとって他人事ではなくなり、自分自身のための救いの出来事となるのです。先週の箇所の最後の11節に、「このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい」とありますが、この「あなたがた」とは、洗礼を受けたあなたがたです。あなたがたは洗礼を受けたのだから、自分がキリストの十字架の死にあずかってもはや罪に対しては死んでおり、キリストの復活にあずかって神に対して新しく生きていることを信じなさい、とパウロは言っているのです。

肉体をもって生きる生活において
 本日読む12節以下はこの11節までを受けて語られています。12節冒頭の「従って」という言葉がそれを示しています。パウロはここで、洗礼を受け、キリストの十字架の死にあずかって罪に対して死んで、キリストの復活にあずかって新しく生きているあなたがたはこのように歩みなさい、という勧めを語っているのです。洗礼を受けたクリスチャンの歩むべき生き方がここに示されているのです。先ず12節には「あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません」とあります。「死ぬべき体」とはまさに今私たちが生きているこの体、肉体です。私たちは死ぬべき体をもってこの世を生きているのです。その体を、「罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはならない」とパウロは言っています。また13節には「あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません」とあります。「五体」とは、例えば手や足や目や口という、それぞれ違う役割を持っている体の部分を意味する言葉です。その五体を「不義のための道具として罪に任せてはなりません」と言っているのです。これらの言葉によってパウロが見つめているのは、私たちがこの世において肉体をもって営んでいる日々の具体的な生活です。その具体的な生活が、罪に支配されてはならない、体の欲望に従うものであってはならない、不義のための道具となってはならない、と言っているのです。

誰が支配するのか
 注目すべきことは、パウロはここで「あなたがたは罪を犯してはならない」という言い方をしていないことです。体を罪に「支配させてはならない」、欲望に「従うようなことがあってはならない」、五体を罪に「任せてはならない」と言っています。「支配させてはならない」の「支配する」は「王として支配する」という意味です。罪が自分の体の王となって支配してはならない、と言っているのです。また「任せてはならない」の「任せる」は「あるものの下に置く」という意味です。五体を罪の下に置いてその支配を受けてはならない、と言っているのです。つまりパウロがここで問題にしているのは、肉体をもって具体的に生きている私たちの生活が誰の支配下に置かれるか、誰に従って生活していくのか、ということです。罪や欲望が支配しているなら、私たちの体、五体は必然的に罪を犯し、欲望に従い、不義のための道具となっていくのです。私たちが罪を犯すのは、自分の体や五体を罪が支配しているからです。私たちは、自分が自分の意志で罪を選び取っているように思っているかもしれませんが、本当は罪に支配され、罪の奴隷となっているのです。自分が支配し、罪を選び取っているなら、自分の思い一つで罪を犯さなくなることができるはずです。しかし私たちにはそれが出来ません。支配しているのは私たちではなく罪の力だからです。その罪の力を聖書はサタンとか悪魔と呼んでいますが、サタンは私たちに、自分は自分の主人として、自分の思い通りに生きている、と思わせておいて、実は私たちを罪の支配の下に奴隷として繋いでおこうとしているのです。それがサタンの策略です。最初の人間アダムとエバの罪もまさにそのようにして生じました。サタンの象徴である蛇は彼らに、神が食べてはいけないと言っておられた木の実を食べるように誘惑しましたが、その時に、「これを食べればあなたがたも神のようになれる」と言ったのです。それは、神の支配から自由になって、自分が主人になって思い通りに生きることができるようになる、という誘惑です。その誘惑に乗って彼らは禁断の木の実を食べたのです。その結果彼らは、自由な主人になったのではなくて、罪に、サタンに支配される奴隷となったのです。この罪を私たちは皆受け継いでいます。しかし私たちはそのことになかなか気づきません。むしろ、我々は神から自由になった、もう神はいらない、自分が主人となって生きていくことができる、と思い込んでいるのです。けれどもそういう人間の歩みは罪と欲望に支配されています。不義のための道具として様々な悲惨な事態を引き起こしているのが私たちではないでしょうか。

自分を神に献げる
 パウロはそういう罪の支配の現実を鋭く見つめています。それゆえに彼は「あなたがたは罪を犯してはならない」とは言わないし、「一生懸命良いことに励みなさい」とも言わないのです。彼がここで信仰者たちに勧めているのはそういう倫理、道徳の教えではなくて、13節にあるように、「自分自身を神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい」ということです。つまり、私たちの体、五体が誰のものとなっており、誰がそれを支配しているのか、ということです。自分を神に献げるとは、神に支配していただき、神のご支配の下に身を置くことなのです。この「献げる」という言葉は、13節の「五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません」における「任せる」と同じ言葉です。つまり先程申しましたように「あるものの下に置く」という言葉です。自分の五体を罪の下に置くのでなく、神の下に置きなさい、と勧めているのです。「あなたがたは罪を犯してはならない」とか、「一生懸命良いことに励みなさい」という教えは、自分が自分の主人となって、自分の力で罪を犯さずに良いことをして生きようとすることです。しかし私たちはむしろそういうことの中でサタンの、罪の支配に陥っていくのです。自分の力で努力して良いことをしようとすることは一面において勿論尊い大事なことですけれども、そこにはサタンがつけ込む絶好の機会もあるのです。自分で努力して良いことをしようとしている者の耳元でサタンはささやきます。「お前はこんなに努力して良いことをしている、お前は立派だ、お前はそれを誇ってよいはずだ」。そのようにしてサタンは私たちの心に誇りと自負を植え付けます。するとその誇りや自負から、他の人を批判し裁く思いが生じるのです。自分はこんなに努力して良いことをしているのに、それに比べてあの人は何だ、何もしていないではないか…。頑張って良いことに励んでいる人は、このようにしてしばしば、罪人の赦しというキリストの救いの福音を受け入れることが出来にくくなります。自分はこれだけ良いことに励んでいるが、そういう努力を全然していない罪人が同じように救われるなどというのはおかしい、それでは自分の努力は無駄になるではないか…、そのようにして罪の赦しの福音につまずいてしまうことが起るのです。放蕩息子のたとえ話の兄のことを思い出してみればよいでしょう。放蕩の末にボロボロになって帰って来た弟を父が咎めることなく赦して喜び迎えたことが、父のもとに留まって仕えてきたあの兄には不満なのです。失われていた弟が帰って来たことを喜ぶことができないのです。サタンはそのようにして、自分の力や努力によって良いことに励んでいる者を捕え、支配し、私たちの人間関係を破壊していくのです。

信仰者は献身者
 それゆえに、私たちにとって本当に必要なことは、自分の力や努力によって罪を犯さないようにして良いことに励むことではなくて、自分自身を神にお献げすることです。神のご支配の下に自分を置くことです。自分が主人であろうとすることをやめて、神に主人、王になっていただくことです。それによって私たちは、義のための道具として神に用いられる者となります。そこでこそ、罪や欲望に支配されるのでなく、むしろそれらと戦っていくことができるのです。つまり私たちは、罪の支配の下で不義のための道具となるか、神の支配の下で義のための道具となるか、そのどちらかなのです。いずれにしても、自分が自分の主人であることはできません。自分が主人になろうとする途端に、罪に支配され、罪の道具となってしまうのが私たちです。自分自身を神に献げ、神に支配していただくことによってこそ、義のための道具として生きることができるのです。これこそが、洗礼を受けたクリスチャンの歩むべき生き方です。自分自身を神にお献げすること、それを「献身」と言います。身を献げることです。信仰者として生きるとは、献身して生きることに他なりません。教会では、神学校に行って牧師、伝道者になることを「献身」と言うことがあります。それは狭い意味での献身です。牧師や伝道者だけが献身しているのではありません。そもそも信仰を持って生きるとは、自分を神に献げ、もはや自分が主人として生きるのでなく、神にこそ主人となっていただくことです。全ての信仰者は皆献身者なのです。

神による新しい命こそ献身の土台
 しかしここで勘違いをしないようにしなければなりません。私たちが自分の力や努力によって献身して生きるのだとしたら、それは先ほどの、自分の力や努力によって良いことに励むのと同じことになります。それは、神に身を献げると言いながら、実は自分が主人であり続けていることになるのです。パウロはここで確かに、自分自身を、また自分の五体を神に献げなさいと勧めています。しかし彼はそのことを、人間の力や努力で達成するべき課題として語ってはいません。「自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ」というところにそれが示されています。あなたがたは死者の中から生き返った者だ、だから神に身を献げなさいと言っているのです。あなたがたは死者の中から生き返った、それは11節までに語られていたこと、つまり洗礼において私たちに与えられている恵みです。ここでの「あなたがた」とは洗礼を受けたあなたがたなのです。洗礼を受けた者は、キリストの十字架の死にあずかって、罪に支配された古い自分においては既に死んでしまっており、そしてキリストの復活にあずかって死者の中から生き返り、罪を赦されて神の下で新しい命を生きているのです。洗礼を受けた信仰者は既に、神の下で、神のものとして、神が与えて下さった新しい命を生きているのです。このことこそが私たちの献身を可能にするのです。自分は既にキリストの復活の命にあずかり、神の下で生きている、その事実に即して生きていくことが、自分を神に献げて生きることです。つまり全ての信仰者は献身者であるというのは、何か特別なことをしなければならないということではなくて、主イエス・キリストの十字架の死と復活によって神が成し遂げて下さった罪の赦しと永遠の命の約束を本当に信じること、その救いが洗礼において自分に与えられており、古い自分を支配していた罪が既に赦され、キリストの復活において神が打ち立てて下さった新しい命、永遠の命を生きる者とされていることを信じて歩むこと、たとえ自分の目に見える現実がなお罪にまみれており、到底神のみ心に適うものではないと思われても、その自分の思いよりも神が洗礼において与えて下さっている救いの恵みにこそ信頼して歩むこと、それこそが自分を神に献げて生きることなのです。

慰めと励まし
 ですからパウロのこの「自分を神に献げなさい」という教えは、厳しい勧告や命令と言うよりもむしろ慰めと励ましの言葉です。その慰めと励ましを明確に語っているのが最後の14節です。「なぜなら、罪は、もはや、あなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです」。パウロは、あなたがたはもはや罪に支配されてはならない、と言っているのではありません。罪はもはやあなたがたを支配することはない、もうあなたがたは罪の支配から解放され、神の支配の下に置かれているのだ、と言っているのです。それは洗礼を受けているからです。洗礼において神は私たちを、主イエスの十字架の死と復活による救いにあずからせ、罪を赦して新しく生まれ変わらせて下さっているのです。私たちは、既に罪の支配から解放されて神のものとされ、神の下で生きる者とされているのです。神がそのようにして下さっているのだから、私たちは自分を神に献げて、神のものとなって生きることができるのです。

律法の下ではなく恵みの下にいる
 パウロはその献身を励ますためにさらに「あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです」と言っています。律法の下にいるとは、神の掟である律法を自分の力や努力で守り行い、そのことにおいて実績を積むことによって救いを獲得するということです。律法を守ることにおいて合格点を取れれば救われるが、だめなら不合格、落第、という世界です。律法の下では私たちは誰一人として救いを獲得することができません。この手紙の3章20節がそのことを語っていました。「なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです」。律法の下では誰一人義とされない、むしろ罪の自覚に苦しめられるばかりです。しかし神は独り子主イエスを遣わして下さり、その十字架の死と復活によって私たちに罪の赦しと永遠の命を与えて下さいました。その救いに洗礼によってあずかった私たちは、もはや律法の下ではなくて、神の恵みの下にいるのです。恵みの下にいるとは、自分がどれだけ良い行いをすることができるか、そこにおける成績によって救われるのではなくて、ただ神の恵みによって、具体的には主イエスの十字架の死によって私たちの罪を赦し、復活によって永遠の命を与えて下さるその恵みによって救われるということです。洗礼を受けることによって、私たちはこの神の恵みの下に既に置かれているのです。それゆえに私たちは、どんなに欠けの多い、罪に満ちた者であっても、自分自身を、自分の五体を、神にお献げすることができます。神が既にこの罪に支配された死ぬべき体を恵みの下に置いて下さっているのですから、私たちも、罪や弱さをかかえたありのままのこの体を感謝して神にお献げして、神の下で生きることができるのです。

わたしがここにおります。
 本日共に読まれた旧約聖書の箇所、イザヤ書第6章の始めのところは、イザヤが主によって預言者として立てられた時のことを語っています。彼はエルサレムの神殿で主の大いなる栄光を見たのです。その時彼は「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は王なる万軍の主を仰ぎ見た」と叫ばずにはおれませんでした。栄光に満ちた主の前では、自分は汚れた者、罪人であり、滅ぼされるしかない者なのです。本日の所のパウロの言葉で言えば、罪に支配され、体の欲望に従い、五体を不義のための道具として罪に任せてしまっているような自分でしかないのです。しかしその時、天使が祭壇の炭火をイザヤの口に触れさせ、「見よ、これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取り去られ、罪は赦された」と告げました。主なる神が罪人である彼を赦して下さり、清めて下さったのです。罪に対して死んで、神に対して生きる者として下さったのです。この罪の赦しの宣言と共にイザヤは、「誰を遣わすべきか。誰が我々に代って行くだろうか」という主のみ声を聞きました。自分自身を神に献げ、五体を義のための道具として神に用いていただこうとする献身者を主が求めておられる、そのみ声を聞いたのです。彼はそれに応えて「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」と言いました。こうしてイザヤは主の預言者となり、神によって用いられる、義のための道具となったのです。私たちの信仰においてもこれと同じことが起ります。私たちの生まれつきの死ぬべき体は罪に支配されてしまっており、欲望が私たちの王となっており、不義のための道具となってしまっています。自分の力で良いことに励もうとする中でかえって罪に支配されていってしまうような私たちです。そのように滅びるばかりの罪人である私たちの救いを、神が主イエス・キリストの十字架の死と復活によって実現して下さいました。そして神は洗礼において私たちをその救いにあずからせて下さいます。洗礼を受けた者は、主イエスの十字架の死による罪の赦しにあずかり、復活による永遠の命を生き始めているのです。また私たちがその救いの恵みに確かにあずかって生きていくために、主は聖餐をも定めて下さいました。聖餐において私たちは、ご自分の肉を裂き、血を流して私たちの罪の赦しを実現し、復活して天に昇り、父なる神のもとで永遠の命を生きておられる主イエスと一つとされます。洗礼において与えられた、主イエスの十字架と復活による救いの恵みを聖餐においてこの体をもって味わい、その恵みへの確信を与えられ、それによって養われていくのです。私たちは律法の下ではなく、洗礼と聖餐の恵みの下に置かれているのですから、「わたしがここにおります。わたしを用いてください」という献身の祈りをささげつつ、2016年度を歩んでいきたいのです。

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