主日礼拝

喜び、祈り、感謝

「喜び、祈り、感謝」 副牧師 川嶋章弘

・ 旧約聖書:詩編 第28編6-7節
・ 新約聖書:テサロニケの信徒への手紙一 第5章12-22節
・ 讃美歌:

絶望へと追い込むみ言葉?
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」。テサロニケの信徒への手紙一の中で最もよく知られたみ言葉だと思います。多くの方に愛され大切にされてきたみ言葉であり、このみ言葉を愛誦聖句としている方も少なくないと思います。しかしその一方でなんと厳しいみ言葉だろうと思わざるを得ません。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」と言われても、とてもそんなことはできないと思うのです。理想はそうかもしれないけれど、現実は違う。そのように思ってしまうのではないでしょうか。
月に一回、主日礼拝でテサロニケの信徒への手紙一を読み進めてきました。読み始めたのは2021年の2月です。医療従事者のワクチン接種が始まり、翌月に2回目の緊急事態宣言が解除される見通しが立ち、自粛生活も終りが近づいてきたのではないか、それほど遠くない将来に社会の生活も教会の営みも元に戻っていくのではないか、という期待がありました。しかし現実には再び感染が拡大し、その後も減少と拡大を繰り返しつつ今に至っています。オミクロン株による爆発的な感染拡大からは脱しましたが、なお感染者数は高止まりのままです。なにより長期化するコロナ禍は多くの人に苦難をもたらしています。数字は単なる統計データではなく、それだけの悲しみ、嘆き、苦しみがこの世界に満ちていることを示しています。それだけではありません。今年の2月末にロシアがウクライナに侵攻しました。戦争は激化する一方であり、戦火の中で叫びと呻きと嘆きが溢れています。今、私たちは、なお続くコロナ禍と悲惨な戦争の現実に直面しているのです。ですからこの手紙を読み始めたときよりもなお一層、私たちは「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい、どんなことにも感謝しなさい」というみ言葉の厳しさを感じずにはいられません。喜べない、祈れない、感謝できない現実にあって、このみ言葉は私たちを慰めるよりも、むしろ絶望へと追い込んでしまうのではないでしょうか。
けれども2021年の2月にこの手紙を読み始めたのは、遠からずコロナ禍が終わり、いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝する生活が戻ってくるという思いからではありません。むしろ逆なのです。たとえ期待通り近い将来に感染が終息したとしても、コロナ禍によって深く傷ついた社会と人々、また教会の営みの回復は簡単なことではないという思いがあり、なお苦難の中を歩んでいくに違いない私たちに与えられているみ言葉として、この手紙を、そして「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい、どんなことにも感謝しなさい」というみ言葉に聴いていきたいと願ったのです。確かに今、私たちは、そしてこの世界は、この手紙を読み始めたときよりずっと厳しい苦難の中にあります。しかしだからこそ私たちはこのみ言葉により深く聴いていきたいのです。このみ言葉はキリスト者の生き方を語っているといえます。でもそれは、このように生きなければならない、と語っているのではありません。そうであるならば、このように生きられない私たちは絶望するか、このみ言葉を無視するしかないでしょう。このみ言葉がキリスト者の生き方のハウツー、あるいは信仰生活のハウツーを語っていると受けとめてはならないのです。そのことを示されていくためにも、このみ言葉が置かれている文脈に目を向けていきたいと思います。

主にあって導く者
12-13節でパウロはこのように言っています。「兄弟たち、あなたがたにお願いします。あなたがたの間で労苦し、主に結ばれた者として導き戒めている人々を重んじ、また、そのように働いてくれるのですから、愛をもって心から尊敬しなさい。互いに平和に過ごしなさい」。この手紙からは、テサロニケ教会に特別な務めを担った人たちがいたことを窺い知ることはできません。テサロニケ教会はキリスト教の最も初期の時代に建てられた教会であり、私たちの教会における長老、執事というような務めが整えられていたわけではないでしょう。しかしだからといって、教会に指導する者、リーダーがいなかったわけではないことがこの箇所から分かります。教会の人たちの間で「労苦し、主に結ばれた者として導き戒めている人々」がいたのです。おそらくパウロがユダヤ人の暴動によって教会を去ることになった後に、パウロに代わって教会を導いてきた人たちがいたのだと思います。その人たちを教会の人たちは「重んじ」、「愛をもって心から尊敬しなさい」と言われているのです。それは、教会に連なる人たちが「互いに平和に過ご」すためです。指導する者なしに秩序ある教会を形作っていくことはできません。ですからそのような役割を担っている人たちを、教会の人たちが「重んじ」「尊敬する」のは当然のことだといえます。なにより指導する者は、自分自身の考えや思いを実現するために導き戒めるのではありません。「主に結ばれた者として導き戒め」とあるように、主に結ばれ、主にあって、神のみ心を祈り求め、み心を示されつつ導き戒めるのです。ただ指導者だからということではなく、主にあって導く者であるからこそほかの人たちも「愛をもって」その人たちを尊敬するのです。指導する者も失敗することがあるし弱さや欠けもあるでしょう。しかし教会のために主にあって労苦して導く者たちをほかの人たちが愛を持って重んじ、尊敬することによってこそ、秩序ある教会が形作られ、互いに平和に過ごしていくことができるのです。

教会のすべての者が担う
続く14節でパウロはこのように言っています。「兄弟たち、あなたがたに勧めます。怠けている者たちを戒めなさい。気落ちしている者たちを励ましなさい。弱い者たちを助けなさい。すべての人に対して忍耐強く接しなさい。」12-13節で教会を指導する者を重んじることが語られていましたから、ここでは指導者のなすべきことが示されていると思うかもしれません。しかしこのパウロの勧めは指導的な立場にいる人ではなく、教会のすべての人たちに向けられたものです。この手紙でパウロがテサロニケ教会の人たちに繰り返し「兄弟たち」と呼びかけてきたことから分かるように、14節冒頭の「兄弟たち」も、教会のすべての人たちに対する呼びかけです。怠けている者を戒めることも気落ちしている者を励ますことも弱い者を助けることも、指導する者だけが担えば良いということではなく、教会の誰もが担うことなのです。パウロはこの手紙で繰り返し教会の人たちが互いに励まし合うよう語ってきました。何度かお話ししたことですが、「励ます」という言葉には「慰める」という意味もあります。ですからこの箇所のパウロの勧めの土台にあるのは、教会の人たちが互いに励まし合い慰め合うことであり、その上でいくつかのことが勧められているのです。

この世にコミットして生きる
まず「怠けている者たちを戒めなさい」とあります。「怠けている者」とは、どういう人たちでしょうか。この手紙の文脈の中で考えるならば、近いうちにキリストが再び来てくださり救いが完成するのだから、なにもしなくてもいいのではないか、という考えを持っていた人のことではないかと思います。しかしそのように考えるのは大きな誤りなのです。キリストの再臨が近いうちに起こると人間の思いで勝手に決めつけてしまっているからだけではありません。私たちキリスト者は、キリストの再臨と救いの完成に希望をおくことによって、この地上での歩みを疎かにするのではなくむしろ大切にするからです。終りの日の救いの完成の希望によって私たちはこの世に無関心になるのではなく、しっかりこの世にコミットして生きるのです。パウロは4章11節で「わたしたちが命じておいたように、落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くように努めなさい」と言っていました。自分が生きている間にキリストの再臨が起こると考えていたパウロが、この地上の歩みにおいて落ち着いた生活をし、それぞれに与えられた仕事に励みなさい、と言っているのです。

気落ちしている者、弱い者
次に「気落ちしている者たちを励ましなさい」と勧められています。「気落ちしている者」とは、文字通りに訳せば「気の弱い者」、「気の小さい者」です。今まで見てきたようにテサロニケ教会は迫害の中にありました。2章14節から分かるのは、彼らがキリストの福音を信じるがゆえに同じテサロニケに住む同胞から苦しみを受けていたということです。もしかしたら仕事仲間から苦しみを受けたのかもしれません。あるいは友人や知人からかもしれないし、家族からであったかもしれません。ですからそのような迫害のために心が挫けそうになっている人たちを励ましなさいと勧められているのです。
さらに「弱い者たちを助けなさい」とも言われています。「弱い者」とは心身の弱さを抱えている者だけでなく、信仰において弱さを抱えている者のことでもあると思います。すでに見てきたことですが、教会の中からキリストの再臨の前に死んでいく人たちが出てきたために、終りの日を待たずに死んだらどうなるのかという不安や恐れが起こりました。キリストの復活を信じ、終りの日の救いの完成は信じているけれど、自分たちの復活を信じられずに信仰が揺らいでいる人たちがいたのです。そのような信仰の弱さを抱えている人たちを助けなさい、と勧められているのではないでしょうか。

互いに戒め、励まし、助ける
これらの勧めにおいて、教会のメンバーは、戒め、励まし、助ける人たちと、戒められ、励まされ、助けられる人たちに分けられる、と私たちは考えるべきではありません。いつも戒め、励まし、助ける人と、逆にいつも戒められ、励まされ、助けられる人がいるのではないのです。私たちの信仰生活を振り返るならば、誰もが怠けてしまうことがあり、気落ちしてしまうことがあり、弱くなってしまうことがあります。同時に私たちの誰もが、ほかの人たちを戒め、励まし、助ける者となり得るのです。これらのパウロの勧めの土台にあるのは互いに励まし合い慰め合うことでした。ですから私たちはときには戒め、励まし、助け、そしてときには戒められ、励まされ、助けられることによって、互いに励まし合い慰め合いつつ歩んでいくのです。

互いに忍耐する
しかしそのように戒め、励まし、助けるのは簡単のことではありません。戒めようとして自分の正しさを振りかざし相手を裁いてしまうことがあります。励まそう、助けようとして、自分の力で相手を変えようとしてしまうことがあります。パウロは14節後半から、「すべての人に対して忍耐強く接し」、「悪をもって悪に報いることのないように気をつけ」、「いつも善を行うように努めなさい」と勧めます。「すべての人に対して忍耐強く接し」は、昔の口語訳では「すべての人に対して寛容でありなさい」と訳されていましたし、新しい聖書協会共同訳では「すべての人に対して寛大でありなさい」と訳されています。互いに戒め、励まし、助けることにおいて、大切なことはお互いに相手に対して忍耐強く接し、寛容であり、寛大であることなのです。信仰生活において自分の正しさが受け入れられなかったり、自分の働きかけが拒まれたりすると、私たちは相手に寛容であるより相手を批判したり裁いたりしたくなります。しかしパウロが言うように「悪をもって悪に報いる」のではなく、互いに忍耐し寛容であることによってこそ、本当に相手を生かす戒め、励まし、助けが与えられていくのです。

喜べない、祈れない、感謝できない現実
12-15節でこのように語ってから、パウロは続く16-18節であの勧めを語るのです。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」12-15節から分かるように、あるいは手紙全体からも分かるように、テサロニケ教会の人たちは、いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝できるような状況にあったわけではありません。むしろ同胞から苦しみを受け、キリストの再臨を待たずに死んだらどうなるのかという不安や恐れを抱えて、苦難の中にあったのです。教会の内にも外にも喜べない、祈れない、感謝できない現実がありました。そのようなテサロニケ教会の人たちの状況を誰よりも知っていたのはパウロです。そうだとしたらパウロは彼らの状況を知り尽くした上で、それでもあなたたちは「いつも喜んでいないとだめだ、絶えず祈っていないとだめだ、どんなことにも感謝しないとだめだ」と言っているのでしょうか。そうではないと思います。このことを勧めているパウロ自身、いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝できる状況にあったわけではないからです。彼はテサロニケに来る前に「フィリピで苦しめられ、辱められた」(2:2)と語っていました。誕生したばかりのテサロニケ教会から不本意ながらも去らなければなりませんでした。何度かもう一度テサロニケに行こうとしましたが妨げられて実現しませんでした。パウロは苦しみと辱めを受け、迫害され、自分の願っていた通りに物事を進めることができなかったのです。テサロニケ教会の人たちと同様に、パウロ自身も苦難の中にありました。

神のご意志に目を向けて
それにもかかわらず、この手紙でパウロは繰り返し祈りの中で神に感謝しています。たとえば1章1節では「わたしたちは、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こして、あなたがた一同のことをいつも神に感謝しています」と言っていましたし、2章13節でも「わたしたちは絶えず神に感謝しています」と言っていました。なぜそのようにパウロは言えるのでしょうか。そしてなぜパウロは厳しい現実の中にあるテサロニケの人たちに、そして私たちに「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」と言うのでしょうか。私たちは18節の後半にこそ目を向けなくてはなりません。そこには「これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」とあります。「キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」は、聖書協会共同訳の脚注にもあるように、直訳すれば「キリスト・イエスにおけるあなたがたに対する神のご意志です」となります。私たちが目を向けるべきなのは、私たちがいつも喜び絶えず祈りどんなことにも感謝できる状況にいるかどうかではなく、主イエス・キリストにおいて示されている私たちに対する神のご意志なのです。神は、なによりもキリストの十字架と復活において私たちにそのご意志を、み心を示されました。独り子を十字架に架けてまで私たち罪人を救ってくださったことに、私たちに対する神の愛のみ心があるのです。また神は、キリストを死者の中から復活させてくださいました。そのことによって神は、この地上の死で終わらない復活と永遠の命の約束を私たちに与えてくださったのです。そして終りの日に、キリストに結ばれて死んだ者たちが復活させられて、主イエス・キリストと共に生きるようになるのです。5章9節にあるように「神は、わたしたちを怒りに定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められた」のであり、またキリストが死んで復活されたのは「わたしたちがいつまでも主と共に生きるようになるため」です。私たちを罪と死の支配から救い、復活と永遠の命の約束を与えることこそ、キリスト・イエスにおいて示されている私たちに対する神のご意志にほかならないのです。

神の愛の現実に生き始めている
今、私たちが直面している現実は苦しみと悲しみに満ちています。コロナ禍やウクライナにおける戦争だけではありません。誰もがそれぞれに大きな重荷を負って歩んでいます。この社会に希望を持てず、ほかの誰かの助けを期待することもできず、なにより自分自身に失望し、自分を大切にすることができない人もいるかもしれません。そのような私たちに、主イエスの十字架と復活において示されているのは、たとえ自分自身で自分を大切にできないほどの苦難の中にあったとしても、神は私たちを愛していてくださり、大切にしていてくださっているということです。その私たちに対する神の愛のみ心に目を向けるとき、私たちに喜びと祈りと感謝が与えられていくのです。私たちが置かれている状況や直面している現実によって喜んだり祈ったり感謝したりするのではありません。私たちの内側に、喜びや祈りや感謝があるのですらありません。キリストの十字架の死と復活において示された神の愛の現実によって、終りの日に復活と永遠の命を与えられ「いつまでも主と共に生きるようになる」という揺るがない希望によって、私たちはいつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝することができるのです。私たちは、喜べない悲しみの現実の中に、神が与えてくださる喜びを見いだし、祈れないほどの嘆きの現実の中に、主イエスが執り成し祈ってくださっていることに気づかされ、感謝できないほどの絶望の現実の中に、復活と永遠の命の希望を見いだしていくのです。ですからこのみ言葉は、私たちキリスト者がどう生きるべきかを示しているのではなく、私たちにすでに与えられている生き方、すでに与えられているキリストにおいて示された神の愛の現実を告げているのです。
私たちが神のご意志を、み心を示されるのは、主の日ごとの礼拝に聖霊なる神が臨んでくださり、み言葉を語りかけてくださるからです。19-20節に「“霊”の火を消してはいけません。預言を軽んじてはいけません」とあります。「“霊”の火」とは聖霊の働きのことであり、預言とは聖書のみ言葉の説き明かしのことです。私たちは聖霊の働きを妨げてはならないし、聖書のみ言葉を軽んじてはなりません。なぜなら礼拝において、聖霊の働きによってみ言葉が語られることを通して神のご意志が示されるからです。その愛のみ心に目を向けることによってこそ、そのことによってだけ、本当に厳しく、困難な現実の中にあっても、苦しみと悲しみと絶望の中にあっても、私たちは喜びと祈りと感謝を与えられ、いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝して歩んでいくことができるのです。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」キリストの十字架と復活において神の愛のみ心を示されている私たちは、このみ言葉をすでに生き始めています。このみ言葉は、私たちがすでに、いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝して生き始めている現実を、神の愛の現実を私たちに告げ知らせ続けているのです。

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