主日礼拝

使徒の任命

「使徒の任命」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: エレミヤ書 第1章4―10節
・ 新約聖書: マルコによる福音書 第3章13―19節
・ 讃美歌:10、206、521

十二人
 主イエスには十二人の弟子たちがいたことが知られています。本日の箇所に、その十二人の名前が記されています。しかし実は主イエスにはもっと沢山の弟子たちがいたのです。前回読んだ7節以下には、おびただしい群衆が主イエスに従って来たことが語られていました。本日の箇所に語られているのは、その多くの弟子たち、従って来た人々の中から、14節にあるように、主イエスが十二人を任命し、使徒と名付けられたということです。「使徒」と呼ばれる特別な弟子たちが十二人選ばれ、任命されたのです。ところが、この「使徒と名付けられた」という文は多くの写本において欠けているために、現在出版されている聖書の原文においてはここには括弧がつけられています。つまりここにはもともとは「使徒」という言葉はなかったのかもしれないのです。しかし、主イエスがこの十二人を選び出した目的として語られていること、「彼らを自分のそばに置くため、また派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるため」というのは、まさに使徒たちの働きの内容です。「使徒」とは「派遣された者」という意味です。主イエスによって派遣され、主イエスの使者としての役目を果すのが使徒です。十二人の弟子たちがそういう務めへと任命されたのです。

新しく造られた者たち
 十二人を「任命し」と訳されていますが、この言葉は原文においては「造る」という言葉です。直訳すれば「十二人を造った」となるのです。このことは私たちが心に刻みつけておいてよいことだと思います。「任命する」には、「君はこの任務を果す能力と資格があると認められるから、この務めに任命する」というニュアンスがあります。そしてそのように任命された者は、上司が自分を評価してくれたことを感謝して、その期待に応えるように頑張るのです。しかしこの「造った」という言葉は、ここに語られていることがそのような出来事ではないことを示しています。主イエスが十二人の使徒たちを「造った」のです。もともとある能力を持っていた者を見出して、その人を任命したのではなくて、主イエスご自身が彼らを「使徒」として造り出したのです。彼らが与えられた使命を果すための力の全て、つまり主イエスによってもたらされている神の国の福音を宣べ伝える力も、悪霊を追い出す権能も、もともと彼らの中にあったものではなくて、全て主イエスによって与えられたもの、主イエスが彼らの中に造り出して下さったものなのです。つまり彼ら十二人は、ここで主イエスによって新しい者として造られたのです。十二人の使徒の任命とはそういう出来事だった、それを「造る」という言葉が言い表しているのです。

主イエスの祈りによって
 13節には「イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た」とあります。十二使徒の任命は、山の上でなされたのです。この直前の3章7~12節の話はガリラヤの湖の岸辺におけることです。そこから一転して、山の上が舞台となっています。山の上で、ということにはどういう意味があるのでしょうか。ルカによる福音書における並行箇所、6章12節以下を読みますと、主イエスは山に登って、一晩祈り明かされたことが語られています。山は、主イエスの祈りの場所なのです。ルカ福音書は、主イエスが徹夜の祈りをなさった上で、十二使徒を選び出されたことを強調しています。マルコ福音書は、ただ「山に登って」とだけ語っていますが、しかしそれはやはり主イエスの祈りを暗示していると言ってよいでしょう。あるいはこのマルコ福音書においては主イエスのその祈りは既に1章35節に語られていたのかもしれません。1章35節にはこうあります。「朝早くまだ暗いうちにイエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた」。そしてその後の36~39節にはこう語られているのです。「シモンとその仲間はイエスの後を追い、
37:見つけると、『みんなが捜しています』と言った。イエスは言われた。『近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。』そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された」。ガリラヤ中で宣教し、悪霊を追い出された主イエスのお姿がここに語られています。ルカ福音書においてこのことを語っている4章42節以下と読み比べてみると、マルコはここにシモンを始めとする弟子たちを登場させています。つまり主イエスは弟子たちを引き連れて、ガリラヤ中で宣教し、悪霊を追い出されたのです。それは本日の所で十二人の弟子が使徒として立てられるための準備であったと言うことができます。そのことに先立って主イエスが祈っておられたことをマルコも語っているのです。ですからマルコにおいても、使徒たちの任命の根本には主イエスの祈りがあると言えるのです。

これと思う人々
 そのような祈りに基づいて、主イエスは「これと思う人々を呼び寄せ」られました。十二使徒として立てられたのは、主イエスが「これと思う」人々だったのです。ここは口語訳聖書では「みこころにかなった者たちを呼び寄せられた」となっていました。これはしかし相当に誤解を生みやすい訳です。「みこころにかなった」と言うと、主イエスのお眼鏡に適った、お気に入りの、主イエスがこれは見所があると思った人が使徒として選ばれたという感じがします。しかし原文を直訳すればここは、「彼が望んだ者を呼び寄せた」となるのです。つまり、見所がある、特別に評価が高かった者たちを選んだという意味はここにはありません。語られているのは、この十二人が使徒として任命されたのは、ひとえに主イエスのみ心によってだったということです。そういうニュアンスを出来るだけ生かすために新共同訳は「これと思う人々」としたのでしょう。しかしこれでもまだ誤解を与えるかもしれません。私たちはここを、「主イエスがこれと思って下さるくらい優れた者たちが選ばれた」と捉えてはならないのです。ここには、選ばれた者たちの資質や力量のことは全く語られていません。ただ主イエスのご意志、み心による選びによって十二人が立てられたと語られているのです。このことは、先程の「任命する」が「造る」という言葉だということとも関係しています。ある人の実力を認め、評価して任命するのではなくて、主イエスがご自分の意志においてある人を選び、その人を使徒として新しく造り上げ、その使命を果す力や権能をも授けて下さったのです。使徒とは、主イエスのこのようなご意志と権威によって立てられた者です。自分の持っている何らかの実力によって使徒となったのではないのです。

自分のそばに置くため
 そのようにして任命され、造られた使徒たちは何をしていくのでしょうか。使徒とは、派遣された者という意味だと申しました。彼らの使命は、主イエスの使者として派遣され、主イエスにおいて決定的に到来している神の国の福音を宣教すること、その神の国、つまり神様の恵みのご支配の印として、悪霊を追い出す業を行うことです。けれどもここには、それに先立ってもう一つのことが、使徒が立てられた目的として語られています。それは「彼らを自分のそばに置くため」ということです。使徒たちは、遣わされてあちこちへと出かけて行く前に、先ず、主イエスのそばに置かれたのです。主イエスの傍らに常におり、主イエスのみ言葉を間近で聞き、主イエスのなさる癒しのみ業、悪霊追放のみ業を目の前で見たのです。彼らの使徒としての働きはそこから始まったのです。先程読んだ1章35節以下で、主イエスが弟子たちを引き連れてガリラヤ中を宣教し、悪霊を追い出されたと語られていたのも、彼らをご自分のそばに置いて、主イエスご自身の宣教の言葉を聞かせ、悪霊追放のみ業を見せるためだったのです。そのような準備期間を経て、実際に彼らが宣教へと派遣されていくのは6章7節以下においてです。それまでは、彼らはひたすら、主イエスの側近くに置かれ、主のみ言葉と恵みのみ業を、言わばかぶりつきで聞き、見ていったのです。

使徒的教会
 このようにして立てられた使徒たちのことを、私たちはどのような人々と思っているでしょうか。迫害に耐えて、初代の教会の礎を築いた素晴しい信仰者たちであり、私たちとは比べものにならない、模範とすることすらもはがかられるような、強い、深い信仰を持った人々として尊敬し、そして自分とは全く違う雲の上の人として彼らを祭り上げてしまっているのではないでしょうか。それは大きな間違いです。確かに使徒たちは、教会の二千年の歴史の先頭に立っている人々です。その意味で特別な人々であることは確かです。しかし、使徒たちが先頭に立っている、その同じ群れの中に、彼らの後に続いている私たちもまたいるのです。私たちが今洗礼を受けて連なっている教会は、使徒たちが連なっていた群れと別のものではありません。使徒たちは先頭を歩いていますが、その同じ行列の後ろの方に、私たち一人一人もまたおり、同じ道を歩いているのです。使徒の数が十二人であるということがそこで大事な意味を持っています。十二というのは、神様の民イスラエルの部族の数です。つまり主イエスは、十二人の使徒をお立てになることによって、神様の民であるイスラエルを、ご自分のもとに新たに興そうとしておられるのです。神様が恵みのみ心によって選び、集めて下さった神の民です。それが教会です。それは旧約聖書の時代の旧い神の民イスラエルとは違って、血のつながりによってではなく、主イエス・キリストを信じる信仰によって結び合わされる群れです。その信仰の先頭に立っているのが使徒たちなのです。使徒たちが伝えた信仰、主イエスこそ救い主キリストであるという信仰を受け継いだ人々が、新しい神の民、新しいイスラエルである教会に加えられ、神様の民として歩んでいくのです。古来教会は、自らのことを「使徒的教会」と呼んできました。使徒信条と並んで、全世界の教会が告白している基本信条である「ニカイア信条」には、「唯一の、聖なる、公同の、使徒的教会」とあります。教会は、使徒たちの伝えた教えを受け継ぐ、使徒的教会であってこそ、「聖なる公同の教会」であることができるのです。

使徒たちの使命を受け継ぐ私たち
 そしてそのことは、使徒たちの教えを受け継ぐというだけではなくて、使徒たちに与えられた使命を私たちも受け継ぎ、果たしていく、ということでもあります。キリスト者は、使徒たちの後継者として選ばれ、召され、立てられているのです。それは牧師、伝道者だけの話ではありません。使徒的教会に連なる全ての信仰者は、主イエスが「これと思った人々」です。私たちは皆、主イエスのみ心によって選ばれ、主イエスのそばに置かれ、そしてそこから、使徒たちの使命を与えられて派遣されていくのです。使徒の使命などと言うととてつもないことのように感じますが、要するにそれは、「遣わされた者」、主イエスの「お使い」です。子供に「ちょっとそこまでお使いに行って来て」と言うのと基本的には変わらないのです。主イエスが、私たちに「お使い」をせよと言っておられるのです。お使いは、その子に出来ることをさせるものです。子供に「証券会社に行って値上がりの見込まれる株を選んで買って来い」などと言う人はいません。「ちょっとそこの八百屋さんで大根一本買って来て」などと頼むのがお使いです。主イエスも、私たちに、決して無理なことをさせようとはなさいません。使徒たちの後継者として、私たち一人一人に、それぞれに出来る働きが期待されています。信仰者にとって大切なことは、主イエスがそのように自分を選んで下さり、使徒たちの働きの一端を担う使命を与えておられることを認めることです。それを認めようとしないならば、私たちの信仰は使徒的信仰ではない、使徒たちの後に続く信仰ではない、ただ自分の慰めや平安のために神様を利用しようとしているだけの信仰だと言わなければならないでしょう。

み言葉を聞くことから
 使徒たちの働きの一端を担う。それは大変なことであるように思います。神の国の福音を宣教する、ということだけでも、自分にそんなことは出来るだろうか、と思ってしまいます。けれども、使徒たちも、今見たように、突然宣教へと遣わされたのではありませんでした。先ず、主イエスの側近くに置かれ、み言葉に聞き入る生活を与えられたのです。使徒たちが宣べ伝えていったことは皆、そのようにして主イエスから聞いたことでした。彼らが自分で考え出したことを伝えたのではないのです。私たちにおいても、先ず第一にしなければならないことは、み言葉をしっかり聞くことです。しっかり聞いて、それによって生かされることです。私たちがみ言葉によって神様の愛に基づく本当の喜びを与えられ、主イエスの十字架による罪の赦しの恵みを受け、自分の欲望や誇り、プライドから解放され、愛によって互いに仕え会うまことの自由に生かされていくならば、そのような生活の姿そのものが、言葉によらずとも宣教の力を発揮していくのです。「汚れた霊を追い出す」ことも、私たちにはそんなこと出来るはずがありません。しかし考えてみれば、私たち自身が、もともと汚れた霊に支配されて生きていた者です。汚れた霊の支配の下で私たちは、神様に背を向け、神様の恵みを認めず、み言葉に耳を閉ざしていました。そして自分の思い、願い、欲望の充足を人生の目標として歩んでいたのです。そのような私たちが、教会の礼拝に集うようになり、神様のみ言葉を聞く者ようになり、あろうことかそれを喜んで聞く者となったとしたら、それは私たち自身が、汚れた霊の支配から解放されたという事です.主イエスが、私たちから汚れた霊を追い出し、主の足元でみ言葉に耳を傾ける者として下さったのです。そして、主のみ元で恵みのみ言葉を聞いていくことを通して、私たちはさらに、私たちの心を支配している様々な悪い思い、自分のことばかりを考えて隣人を傷つけてしまう思い、人を愛するよりも自分の我を通そうとする思い、人に与えられている良い賜物や恵みを喜ぶことができず、妬んでしまい、どす黒い嫉妬や憎しみに満たされてしまうことなどから、少しずつでも解放されていくのです。そのような自分の罪に気付き、悔い改める思いを与えられていくのです。それもまた、悪霊追放のみ業です。そのように私たち自身が、汚れた霊から解放されて、本来の自分、神様がもともと私たちをそのように生かそうとしておられる自分に立ち帰っていく時に、そこに起っている主イエスの、汚れた霊への勝利が、他の人々にも及んでいくのです。私たちが人から悪霊を追い出すのではなくて、主イエスがそれをして下さる、そのみ業のために私たちが用いられていくのです。

教会の縮図
 主イエスのこのようなみ心によって使徒として任命された十二人の名前がここに記されています。その筆頭はシモンです。彼には「ペトロ」という名を付けられたとあります。ペトロとは「岩」という意味です。しかしこれは、ペトロが岩のように強い、堅い信仰の持ち主だったということではありません。私たちは、このペトロが、熱心な人ではあるけれどもおっちょこちょいな所もあり、主イエスと一緒に死んでもいい、などと大見得を切りながら結局三度主イエスを「知らない」と言ってしまったことを知っています。つまり「岩」というのは、ペトロの資質や性格のことではなくて、彼がそのような挫折や失敗を経てなお主イエスによって用いられ、後に教会の土台を据える人とされていった、という神様の恵みの出来事を見つめているのです。ペトロの力が岩なのではなくて、彼を用いた神様の恵みの実力こそが岩なのです。ゼベダイの子ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネ、この二人には「ボアネルゲス」という名が付けられました。それは「雷の子ら」という意味であると説明されています。これは彼らの激しい性格を指しているのかもしれません。よっぽど怒りっぽかったのでしょうか。その他の人々については、あまり多くのことは分かりません。例えばマタイは普通、徴税人だったと言われています。しかしマルコ福音書では、2章13節以下で主イエスの弟子となった徴税人は「アルファイの子レビ」です。このレビとマタイが同一人物なのか、それともこのリストには「アルファイの子ヤコブ」という人がいますから、この人がレビなのか、はっきりしません。しかしとにかく、十二人の使徒たちの中には、当時のユダヤ人たちが罪人の代表として忌み嫌っていた徴税人がいたのです。一方、「熱心党のシモン」という人がいます。熱心党というのは、ローマの支配に武力で抵抗しようとしていた政治的過激派です。そういう人も使徒として立てられたのです。そして最後に出てくるのが「イスカリオテのユダ」です。「このユダがイエスを裏切ったのである」とわざわざ記されています。主イエスがみ心によって選び、呼び寄せてお側に置き、派遣した使徒たちの中に、裏切り者のユダがいた、それはどういうことなのでしょうか。主イエスもユダが裏切ることは見抜けなかった、ユダを選んだことは主イエスの失敗だったということでしょうか。そうではありません。今見てきたように、この十二人はまことに多種多様な人々です。人間的な立場においては全く相容れない人がいます。ローマへの税金を徴収する徴税人と、反ローマの過激派である熱心党とは世間では不倶戴天の敵です。そしてさらに、主イエスを裏切った者までその中にいる。それは、教会に集っている私たちの縮図がここにあるということです。何度も繰り返して申しますが、主イエスは決して、特別に優れた、立派な、信心深い人を選んで使徒となさったのではないのです。ごく普通の人間たち、熱心さもあれば、おっちょこちょいでおあり、激情に走ることもあるし、過激なところもある、いろいろと対立する考えを持っており、そして裏切ってしまう者すらもいる、そのような私たちを、主は選んで、呼び寄せ、み側に置いてみ言葉を聞かせ、悪霊追放のみ業を見せ、そして宣教へと遣わして下さるのです。主イエスによって実現する神様の救いのみ業は、ユダの裏切りをも包み込んで進んでいきます。私たちの立派な良い行いが神様の救いを前進させるのではなくて、私たちの様々な弱さ、偏りのある性格、罪や裏切りすらも、十字架の死によって引き受けて下さり、復活によってそれに打ち勝って下さる神様の全能の力が、救いを押し進めているのです。私たちはその神様のもとに呼び集められた者たちです。主イエスが私たちのことを「これと思って」下さったことによって、自分の弱さや偏り、罪や裏切りを担って下さる神様の全能の力に依り頼んで歩むことを許されているのです。それゆえに私たちは、使徒たちの後に続く者として、使徒的教会の一員として、先ずは礼拝においてみ言葉をしっかりと聞き、そして主イエスが私たち一人一人に与えようとしておられる使命、お使いを勇気をもって果たしていきたいのです。

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