主日礼拝

生ける神に立ち帰れ

「生ける神に立ち帰れ」 牧師 藤掛 順一

・ 旧約聖書; 詩編、第146篇 1節-10節
・ 新約聖書; 使徒言行録、第14章 1節-18節
・ 讃美歌 ; 299、170、447
・ 奉唱  ; 148-1

 
アンティオキア伝道
 私たちは今、パウロとバルナバがシリア州のアンティオキアの教会から派遣されて行なった、一般にパウロの第一回伝道旅行と呼ばれる伝道の旅のことを読んでいます。この伝道旅行で彼らは先ずキプロス島に渡り、次いで小アジア地方、今日のトルコに渡りました。その内陸部のピシディア州のアンティオキアにおける伝道の様子が13章の後半に語られていました。パウロたちは先ずユダヤ人の会堂に入ってそこに集まっているユダヤ人やユダヤ教に回宗した人々に対して伝道をしたのです。しかし結果的には、彼らの語る主イエス・キリストの福音を喜んで受け入れたのは、ユダヤ人ではなく、むしろ異邦人たちでした。ユダヤ人たちはむしろ激しく反対し、パウロらの伝道を妨害したのです。13章の終わりには、パウロとバルナバが、アンティオキアの町を去るに当って、足の塵を払い落としたということが語られています。これは、彼らが語った神様のみ言葉を受け入れない人々に対する抗議の印です。主イエスご自身が、弟子たちを伝道へと派遣なさるに当って、もしもあなたがたを受け入れようとしない町があるなら、そこを出ていく時にそのようにせよとお語りになったことが、使徒言行録の前編であるルカによる福音書の9章5節にあります。彼らはそのようにして、次の町イコニオンへ行ったのです。

イコニオン伝道
 イコニオンでの伝道の様子が14章の1~7節にあります。そこでも彼らは、ユダヤ人の会堂で話をしました。その結果、「大勢のユダヤ人やギリシャ人が信仰に入った」と1節にあります。主イエスによる救いの恵みを受け入れた人々が、ユダヤ人にもギリシャ人にも大勢いたのです。しかしまた、アンティオキアの場合と同じように、ユダヤ人たちの中には、主イエスの福音を信じようとせず、むしろ激しく反対し、伝道を妨害する者が出てきました。その人々が、この町の異邦人たちをも唆して、「兄弟たちに対して悪意を抱かせた」と2節にあります。主イエスを信じる信仰の兄弟たち、教会の人々の悪口を言い、評判を落とそうとしたのです。しかしパウロらはそのような妨害に屈することなく、主を頼みとして勇敢に語り続けました。主イエスがそこに、聖霊の働きによって共にいて下さり、彼らの手を通してしるしと不思議な業を行なって下さり、その恵みの言葉を証しされたと3節にあります。妨害の中でも、主イエスの力が働いて、伝道は進展していったのです。その結果、町の人々が分裂し、ある者はユダヤ人の側に、ある者は使徒たち、つまりパウロとバルナバの側についたと4節にあります。町を二分するような対立が生じてきたわけです。主イエスの福音が力強く語られる時、人間はそれを信じて受け入れる者と、反対する者の二つに分けられていきます。そこには中立ということはあり得ません。神様のみ言葉は、それを受け入れるか、拒否するか、その二者択一を私たちに迫るのです。

リストラへ
 反対する異邦人とユダヤ人たちは、町の指導者たちを仲間につけてパウロたちを迫害しようとしました。そこで彼らはこの町を出て、次の町に行ったのです。一つの町で迫害を受けたら次の町へ行けというのも、主イエスが弟子たちを伝道に派遣された時の教えです。一つの所にあくまでも留まって、そこで殉教の死を遂げることが求められているのではありません。むしろ、迫害を避けて次の所へ行くことを通して、福音がさらに広められていくのです。彼らが次に行ったのは、リカオニア州の町リストラでした。そこでの伝道の様子が、8節以下に語られていくのです。
 さて、リストラでの伝道においては、一つの癒しの奇跡が行なわれました。生まれつき足が悪く、まだ一度も歩いたことのなかった一人の男が、パウロによって癒されたのです。この癒しがどのように起ったかを、9、10節から読んでみます。「この人が、パウロの話すのを聞いていた。パウロは彼を見つめ、いやされるのにふさわしい信仰があるのを認め、『自分の足でまっすぐに立ちなさい』と大声で言った。すると、その人は躍り上がって歩きだした」。この人は、パウロの話を熱心に聞いていたのです。おそらくパウロは、町の広場のような所で、人々に話をしていたのでしょう。その近くに、この足の不自由な男が座っていた、それは、道行く人々からの施しを受けるためにそこに置かれていたということでしょう。パウロは、熱心に話を聞いている彼の顔をじっと見つめたのです。そして、「いやされるにふさわしい信仰があるのを認め」たのです。いやされるにふさわしい信仰とは、パウロが語っている主イエス・キリストによる救いのみ言葉を心から信じて受け入れ、その救いにあずかりたいと真実に願い、求めている、ということでしょう。パウロは彼をじっと見つめて、そのような信仰が彼の中にあることを見たのです。

「信仰がある」とは
 ここから私たちは、「信仰がある」とはどういうことなのかを教えられます。信仰があるとは、何か信仰による働きができるとか、清く正しい生活をしている、ということではありません。この人は、生まれつき足が悪く、歩いたことがないのです。そういう意味では、何の働きもできない、ただ道ばたに座って物乞いをして生きるしかなかったのです。しかし彼は信仰を持ちました。信仰とは、主イエス・キリストによる神様の救いの恵みを語る言葉を信じて受け入れることです。そのことだけで、十分な信仰があると言えるのです。私たちはともすると、ただ信じているだけでは駄目で、その信仰に基づいて何かができなければならない、神様のために、あるいは世の人々のために、何らかの働き、奉仕ができることが信仰だと思ってしまいます。そして自分のそういう働きを誇ってみたり、逆にそういうことができないから自分の信仰は本物でないなどと思ってしまったりするのです。しかし、本当に信仰があるとはどういうことかは、むしろこのように、生まれつき足が不自由で、自分では何もすることができないような状態においてこそ、言い換えるならば、自分の力ではもはや立ち上がることができないような挫折の中においてこそ、はっきりと現れるのです。主イエス・キリストの福音は、自分の力では何もできない、立ち上がることのできないこの人を、生かしたのです。その顔つきを変えたのです。そこに彼の信仰がありました。その信仰を見たパウロは、彼に「自分の足でまっすぐに立ちなさい」と大声で命じたのです。すると彼は、踊り上がって歩き出しました。彼は、自分の力ではこれまで決してできなかったことを、このパウロの言葉によってできるようになったのです。何かができるようになることが信仰なのではありません。自分の力では何もできないままで、主イエスによる神様の救いの恵みを受け入れることが信仰です。するとその信仰が、私たちを、それまで出来なかった何かができる者へと造り変えていくのです。自分でも思いがけないような力が与えられていくのです。

主の不思議なみ業
 従ってもう一つ言えることは、これはパウロによって行われた奇跡ですが、パウロの偉大な力によってなされたことではない、ということです。パウロは、主イエス・キリストの福音を語ったのです。その福音が、この人に信仰を与え、その信仰を神様が受けとめてくださり、大きな恵みのみ業を行なって下さったのです。イコニオンでも、「主は彼らの手を通してしるしと不思議な業を行い、その恵みの言葉を証しされた」ということが起ったわけですが、このリストラにおける癒しの奇跡もそれと同じように、主イエス・キリストがパウロを通して不思議な業を行い、恵みのみ言葉を証しして下さったのです。

神にされそうになったパウロとバルナバ
 ところが、この癒しの奇跡を見たリストラの人々は、パウロの語った恵みの言葉やそれを信じたこの人の信仰にではなく、パウロの力に目を奪われました。彼らは「神々が人間の姿をとって、わたしたちのところにお降りになった」と言い始めたのです。そしてバルナバを「ゼウス」、パウロを「ヘルメス」と呼びました。ゼウスもヘルメスも、ギリシャの神々です。ギリシャ神話には沢山の神々が出てきますが、ゼウスが主神、ヘルメスはその子供で、神々のスポークスマンのような存在、また雄弁の神です。パウロとバルナバでは、バルナバの方が年長で、話をするのはもっぱらパウロだったので、彼らはこのように二人を位置づけたのでしょう。そして、町の外にあったゼウス神殿の祭司が、彼らのいる家まで雄牛数頭と花輪を運んできて、彼らにいけにえを捧げようとした、つまり、パウロとバルナバを神様として礼拝しようとしたのです。このリストラは小アジア、今のトルコにあると申しました。トルコというと私たちは、イスラム教の国というイメージを持っていますが、イスラム教が起こったのはこれよりも数百年も後のことです。この当時の小アジアは、ギリシャ文明が華やかだったのです。だからこの町の郊外にもゼウス神殿があったのです。ギリシャ文明というのは、沢山の神々を信じる多神教の世界です。ギリシャ神話においては、神々と人間の間の区別はあいまいです。神々の間にも、人間と同じように愛や争いや嫉妬があり、神が人間の女性を愛するということもあります。神々が人間の姿をとって人間のところを訪れるという話も沢山あるのです。このような、人間と神々との境目があいまいな世界というのは、長い間一神教の伝統の中で生きてきたユダヤ人や西欧の人々よりも、私たち日本人の方がよくわかるのではないでしょうか。日本の文化においても、神々は沢山います。神道の神々だけでなく、仏と呼ばれる神もいます。神棚と仏壇がいっしょにあっても違和感を感じません。人間も、偉い人、大きな業績をあげた人は死んで神様として祭られたりします。六十年前までは、天皇を現人神として礼拝することが強制されていました。それぞれの家庭においても、「ご先祖様」が神あるいは仏として崇拝され、拝まれています。人間と神々との区別がそのように曖昧なのです。ですから、この場合のパウロのように、すばらしい奇跡を行なった人がすぐに神としてあがめられていくという感覚は私たちにはよくわかるのです。

恐れと不安の信仰
 このようにここには、パウロとバルナバが、奇跡を行ったためにあやうく神様にされそうになった、という話が記されているわけですが、このことの背後に潜んでいる人間の思いをもっと掘り下げていきたいと思います。リストラの人々が、バルナバとパウロを、他の多くの神々の中から、ゼウスとヘルメスと呼んだのには理由があるのです。それはこの地方に伝わっていた一つの伝説によることです。昔、この地方のある貧しい農夫の家を、ゼウスとヘルメスの神々が、やはり人間の姿をとって訪れたことがあった。農夫の夫婦は、訪れてきた見知らぬ旅人が神々であることなど知らずに、貧しい中で精一杯もてなした。その後、この地方を洪水が襲った時、彼ら夫婦はゼウスとヘルメスの加護によって救われた、という伝説です。この伝説を受け継いでいたリストラの人々は、いつかまたゼウスとヘルメスが人間の姿に身をやつして訪れるかもしれない、と思っていたのです。だから、見知らぬ二人の人によって大きな奇跡が行なわれたのを見て、すぐにその伝説と二人を結びつけたのです。このことから、彼らがパウロたちにいけにえを捧げ、礼拝しようとしたことの背後にある思いが見てとれます。それは、自分たちも洪水から守られ、救いにあずかりたい、ということです。神々をちゃんともてなし、大切に迎えた者には恵みが与えられる。しかし逆に言えばそれをしなかった者は、洪水によって流されてしまうような災いが来る。その災いに陥らないで、恵みにあずかるために彼らはいけにえを捧げ、礼拝をしようとしたのです。ここに、彼らが神々というものをどのように見つめ、感じているかが示されています。神々というのは、きちんとお祭りし、粗相のないようにしていれば、恵みを与えてくれる、しかし、ちゃんとお祭りせずに、ないがしろにしてしまうと、つまりご機嫌を損なってしまうと、恐ろしい災いをもたらす、そういう存在なのです。私たちのこの社会で信じられ、祭られている神々も、それと同じだと言えるでしょう。五穀豊穣の神は、機嫌を損ねれば飢饉を与える神になります。その神をなだめすかして、豊かな実りを与えてもらうために、祭が行われるのです。ご先祖様も同じです。ご先祖様が守ってくれる、ということの反面には、先祖のたたりということが言われます。浮かばれない先祖の霊が今生きている者を苦しめる、それをなくすために、ちゃんと供養をしなければならない、先祖の霊を慰めなければならないのです。先祖を祭ることは、先祖のおかげで自分が今あることへの感謝を現わすことだとよく言われますが、その背後には、先祖の霊のたたりを恐れるという気持ちが働いているのです。パウロたちにいけにえを捧げて礼拝しようとしたリストラの人々の心の奥底には、このような恐れと不安の思いがあります。宗教は人間の不安や苦しみを契機として広まっていくという面があります。このリストラの人々にとって礼拝や祭はまさに、人間の不安や苦しみや恐れを鎮め、安心、平安を得るための手段だったのです。

虚しい偶像
 さてパウロとバルナバは、自分たちが神様にされ、礼拝されそうになっていることを知ると、「服を裂いて群衆の中へ飛び込んで行」ったと14節にあります。服を裂くというのは、激しい抗議や反対の意志表示です。彼らは、自分たちが神様として祭り上げられることを必死になって阻止しようとしたのです。彼らは「皆さん、なぜ、こんなことをするのですか。わたしたちも、あなたがたと同じ人間にすぎません」と叫びました。これは人々の誤解を解くための言葉ですが、それだけではありません。パウロはここでむしろ積極的に伝道をしようとしています。それが次の、「あなたがたが、このような偶像を離れて、生ける神に立ち帰るように、わたしたちは福音を告げ知らせているのです」という言葉です。彼は、「わたしたちは神様ではないから、礼拝などしないでくれ」と言っているだけではなくて、彼らに「こんなことはやめて生ける神に立ち帰れ」と勧めているのです。「このような偶像」という言葉は直訳すれば、「このような虚しいもの」という意味です。あなたがたがご機嫌を損ねることを恐れて、たたりを恐れていけにえを捧げようとしているその神々は、虚しいものだ。本当に礼拝すべき生ける神が別におられる、私たちは、あなたがたが虚しい神々を離れて生けるまことの神に立ち帰るために、福音を告げ知らせているのだ、そうパウロは言っているのです。

生けるまことの神
 虚しい偶像の神々と生けるまことの神様と、いったいどこが違うのでしょうか。そのことをパウロは続けて語っていきます。「この神こそ、天と地と海と、そしてその中にあるすべてのものを造られた方です」。生けるまことの神様は、天地万物の創造者です。ということは、造られたものである被造物とははっきりと一線を画しておられるということです。人間も被造物です。だから、人間が神になってしまうことはないし、ましてや人間が木や石で造った像が神であったりすることはないのです。虚しい偶像の神々と生けるまことの神様の違いは、人間が考え、造り出した神々と、逆に人間を始めとして全てのものをお造りになった神の違いです。人間が造り出した神は、当然、人間の思い、体験、知識の延長上にあります。ギリシャの神々が、人間と同じ姿をしており、人間と同じように、愛したり、怒ったり、争ったり、嫉妬したりするのはそのためです。また、ちゃんともてなさないと機嫌を損ねて意地悪をしたりするのも、みんな人間のすることです。人間の持っている性格や思いがそのまま神々にあてはめられているのです。それに対して、パウロが宣べ伝えている生けるまことの神様は、人間の思いの投影ではありません。人間はこの神様のことを、人間の側からは理解することも知ることもできないのです。16節には「神は過ぎ去った時代には、すべての国の人が思い思いの道を行くままにしておかれました」とあります。それは、生けるまことの神のことを知らずに歩むままにしておかれたということです。人間が自分の思いのままに歩んでいく時、そこでは偶像を造り出すことはできても、生けるまことの神様を知ることはできないのです。しかしパウロは17節でこうも言っています「しかし、神は御自分のことを証ししないでおられたわけではありません」。これまでの時代にも、神はご自分のことを全く証ししないでおられたわけではない、まだご自身を決定的に表してはおられなかったこれまでの時代においても、生けるまことの神は働いていて下さり、人間にご自身を示していて下さっていたのです。それはどのようにしてか。「恵みを下さり、天からの雨を降らせて実りの季節を与え、食物を施して、あなたがたの心を喜びで満たしてくださっているのです」。ここに、生けるまことの神が示されている、雨を降らせ、実りの季節を与え、食物を施して、私たちの心を喜びで満たして下さる、即ち私たちの生活が支えられ、生きていくのに必要なものが与えられ、生きる喜びが与えられている、それは、生けるまことの神様の恵みのみ業なのだ、とパウロは言っているのです。

恵みの神
 このパウロの言葉はとても重要です。なぜならここには、生けるまことの神と、人間が造り考えた偶像の神々との根本的な違いが示されているからです。偶像の神々は、先程申しましたように、人間の恐れや不安の思いの投影です。それゆえに、偶像の神は幸せ、恵みをもたらすという面と同時に、災い、不幸をもたらすという両面を持っているのです。そして、恵みの面が向けられるか、災いの面が向けられるかは、人間にはわからない、神の気まぐれによるのです。だから人間はいつも粗相のないように、神々のご機嫌を損ねないようになだめたりすかしたりしていなければならないのです。偶像の神を信じる信仰は根本的に恐れに支配された信仰です。恐ろしいから信じる、不幸に陥らないために信じるのです。それが、パウロたちにいけにえを捧げようとしたリストラの人々の思いでした。それに対してパウロはここで、生けるまことの神様は、人間に恵みを与え、喜びを与えて下さる方だと言っているのです。生けるまことの神を信じる信仰は、恐ろしいから信じるとか、不幸に陥らないために信じるというような、恐れを本質とする信仰ではないのです。それは、神様の恵みの中で、喜んで生きる信仰です。生けるまことの神様に対しては、私たちは、何か粗相があったら罰があたるとか、ちゃんと敬わなければたたりがある、などと考える必要はないのです。生けるまことの神様は、むしろ私たちに、いつも、恵みを与えようとしておられる、私たちを喜びの内に生かそうとしておられるのです。

生ける神に立ち帰れ
 私たちにいつも恵みを与えようとしておられる、この生けるまことの神様は、私たちの願望から生まれたものではありません。私たちはもともと、このような神様を知らないのです。私たちが知っている神、つまり私たちの願望から生まれる神は、必ず、恵みに対する対価を求めるものです。神の恵みを受けるためには人間の方もこれこれのことをしなければならないということに必ずなるのです。何故ならそれが人間の常識だからです。恵みを受けるためには何らかの対価を払わなければならない、それが人間の常識です。しかし聖書は、生けるまことの神様は、その人間の常識を超えた存在だと語ります。過ぎ去った時代には、神は天から雨を降らせ、実りの季節を与え、食物を与えて下さるという仕方でご自身を示しておられました。それも、見返りを求めずに与えられていた恵みです。そしてその時代は過ぎ去り、今や、新しい時代が始まったのです。それは、生けるまことの神様が、新しい仕方でご自身を私たちに示し、証しして下さる時代です。その神様の新しい示し、証しが、独り子イエス・キリストにおいて与えられたのです。主イエス・キリストは、人間となって下さった神です。人間の姿に身をやつして来たのではなく、まさに私たちと同じ人間になってこの世に生まれて下さったのです。それは、私たちの罪を全て背負って、私たちの代わりに十字架にかかって死んで下さるためです。この主イエスの死によって、私たちに、神様の恵みが豊かに注がれています。それは、何の対価をも求めない、それを得るために何の条件もいらない、ただひたすら恵みを信じて求めることによって与えられる恵みです。このような恵みは、恵みへの代価を求める人間の常識からは考えられないものです。聖書が語る神様は、人間の感覚からすれば、非常識な神様なのです。この、人間の常識を全く越えた生けるまことの神様の恵みが、主イエス・キリストによって、今や私たちに示され、与えられているのです。だから私たちは、神様の前で、粗相をしないようにとびくびくする必要はないのです。イエス・キリストを信じ、その下で生きるとき、私たちは、たたりや災いを恐れる信仰ではなくて、恵みへの感謝と喜びを本質とする信仰に生きることができるのです。私たちが信じるのは、災いや苦しみを避けるためではなく、何物によっても失われない喜びに支えられて苦しみと戦っていく力がそこに与えられるからです。本日共に読まれた旧約聖書の個所、詩編第146編は、この生けるまことの神様に依り頼む人の幸いを歌っています。その5、6節にこうあります。「いかに幸いなことか。ヤコブの神を助けと頼み、主なるその神を待ち望む人。天地を造り、海とその中にあるすべてのものを造られた神を」。この天地を造られた生けるまことの神様の恵みがさらにこのように歌われていきます。「とこしえにまことを守られる主は、虐げられている人のために裁きをし、飢えている人にパンをお与えになる。主は捕われ人を解き放ち、主は見えない人の目を開き、主はうずくまっている人を起こされる。主は従う人を愛し、主は寄留の民を守り、みなしごとやもめを励まされる。しかし主は、逆らう者の道をくつがえされる」。この、生けるまことの神に立ち帰るならば、私たちも、あの足の不自由だった人のように、苦しみや悲しみにうずくまっているところから立ち上がり、新しい人生を歩み出すことができるのです。

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