主日礼拝

皆が救われるために

「皆が救われるために」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:申命記 第29章1-8節
・ 新約聖書:ローマの信徒への手紙 第11章1-12節
・ 讃美歌:15、128、405

ユダヤ人たちの救いの希望
 ローマの信徒への手紙の第11章を読み進めています。先週もその1~10節からみ言葉に聞きました。この手紙の9~11章でパウロは、自分の同胞であるユダヤ人たちが、元々主なる神に選ばれた神の民だったのに、その主が遣わして下さった救い主イエス・キリストを受け入れずに敵対しており、救いから落ちてしまっていることを嘆きつつ、そのことをどう捉えたらよいのか、という問題を語っています。そして彼がこの部分の結論として語ろうとしているのは、11章1節の前半に「では、尋ねよう。神は御自分の民を退けられたのであろうか。決してそうではない」とあるように、ユダヤ人たちは今はキリストに敵対しているが、それは彼らがもう神に見捨てられてしまって救いの可能性はない、ということではない、神はご自分の民であるユダヤ人を退けてしまったのではない、ということです。そのことが、11節の前半にもこのように語られています。「では、尋ねよう。ユダヤ人がつまずいたとは、倒れてしまったということなのか。決してそうではない」。このようにパウロは、今は敵対しているユダヤ人たちが、最終的には神の救いにあずかるという希望を語っているのです。
 その希望の根拠として彼がここで語っているのは、自分自身を始めとする何人かの者たちが、神に選ばれて、イエス・キリストを信じる信仰を与えられ、その救いにあずかる者とされているという事実です。ユダヤ人の中に、少数ではあっても、キリストによる救いにあずかる者が立てられている、そこに、この民全体が神に見捨てられてしまったのではないことの印がある、とパウロは言っているのです。そのことを彼はここで、旧約聖書の預言者エリヤの物語を振り返りつつ語っています。イスラエルの多くの人々が主なる神を忘れて偶像の神バアルを拝むようになっている中で、エリヤは一人主なる神の預言者として、バアルの預言者と戦ったのです。しかしその戦いに疲れ果て、孤独と絶望に陥り、もはや主なる神に従う者はこの民の中に自分以外に一人もいない、と嘆いた時に、神は彼に「わたしは、バアルにひざまずかなかった七千人を自分のために残しておいた」とお告げになったのです。もはや完全に背き去り、主なる神の民であることをやめてしまったように思えるイスラエルの中に、神ご自身が、七千人をご自分の民として残しておられる。それはエリヤに「あなたは孤独ではない」と慰め励ましを与えるみ言葉であると同時に、神がこの背きに満ちたイスラエルの民をまだ見捨ててしまってはいない、ご自分のために残しておいた七千人によって、イスラエルの民全体をもう一度ご自分の民として回復しようとしておられる、という救いのみ心の宣言でもあるのです。パウロはこのエリヤへの神のみ言葉を引用した上で、5節で「同じように、現に今も、恵みによって選ばれた者が残っています」と言っています。今恵みによって選ばれ、残っている者、それはキリストを信じ従っている教会の人々です。ユダヤ人たちの中に、少数ではあっても、キリストの救いにあずかっている者たちがいる、自分もその一人だ、そのことが、神がユダヤ人を見捨ててしまったのではないことの証拠なのだ、とパウロは言っているのです。

ユダヤ人の敵対こそ彼らの救いの希望
 以上が、先週お話ししたことのポイントです。しかしパウロが、ユダヤ人たちの救いへの希望の根拠としてここで見つめているのは、彼を始めとする少数のユダヤ人がキリストの救いにあずかっている、ということだけではありません。今は少数だが救いを与えられている者がいるのだから、他の多くの人々にも救われる可能性がある、というだけでは、ユダヤ人たちの救いの希望の根拠としては弱いと言わなければならないでしょう。パウロがここで語っていることはもっと奥深いのです。結論を先に言ってしまうと、パウロは、今大多数のユダヤ人がキリストを受け入れずに敵対している、そのこと自体に、彼らの救いの希望を見出しているのです。

恵みによる選び
 ユダヤ人の大多数がキリストを受け入れず、教会に敵対している、そのことがどうして彼らの救いの希望の根拠となるのでしょうか。普通に考えればそんなことは矛盾であってあり得ません。しかしパウロはそのように言っているのです。そのことが分かるのは、6節からです。6節に「もしそれが恵みによるとすれば、行いにはよりません。もしそうでなければ、恵みはもはや恵みではなくなります」とあります。これは5節の「恵みによって選ばれた者が残っています」を受けて語られている言葉です。つまり5節において、何人かの人々が主イエス・キリストを信じ、その救いにあずかる者として残されている、それは神の恵みによって選ばれた人々なのだ、ということを語ったのを受けて、その「恵みによって選ばれた」ことの意味をさらにはっきりとさせているのが6節なのです。「恵みによって選ばれた」とは、「行いによってではなく」ということです。「行いによって」ということが少しでも入り込んで来るなら、恵みはもはや恵みではなくなってしまうのです。救いが、人間の行いによってでは全くなく、ただ神の恵みによって与えられる、というところにこそ、「恵みによって選ばれた」ということが成り立つのです。このように語ることによってパウロは、今信仰を与えられ、キリストの救いにあずかっている少数のユダヤ人たちは、その人々が特別に信心深かったからとか、立派な行いをしたからとか、他の人々とは違って彼らだけはイエス・キリストに従ったから、というようなことによって選ばれたのではない、彼らは、彼ら自身の中にある何らかの理由によってではなくて、ただ神の自由な恵みによって選ばれたのだ、と言っているのです。パウロはこの、神の自由な恵みによる選び、ということを大変強調しています。もしもその選びが人間の側の何らかの条件によることだったなら、それは恵みによるとは言えないのです。例えば、何かの資格を認定するための試験のことを考えてみたらよいと思います。認定を下す人は、受験者の中から自由に選んで好きな人に資格を与えることはできません。試験で一定の成績を挙げた人だけに資格を与えることができるのです。そういうのは恵みによる選びとは言いません。しかし私たちが神の救いにあずかる時に起っているのは、資格の認定とは全く違って、神が私たちを、私たちの行いや信心深さなどにはよらず、全く自由な恵みによって選んで下さり、救いを与えて下さるということなのです。私たち自身にはその資格が全くないのに、神の恵みによって選ばれ、罪を赦され、義とされるのです。パウロはこのことを自分自身の体験として知っています。彼は以前は、キリストを受け入れず、教会を激しく迫害していたのです。そのような彼が、まさに神の自由な恵みによって選ばれて、復活した主イエスとの出会いを与えられ、信仰を与えられ、今や使徒として立てられているのです。彼自身の中には、そのようになる理由や根拠や資格は何一つなかったのに、むしろ敵対していたのに、彼はただ神の恵みによる選びによって救われ、使徒とされたのです。このパウロの場合ほどに劇的ではないにしても、どの信仰者も、本質的にはこれと同じように、自分の中には何の理由も根拠もないのに、ただ神の自由な恵みによる選びによって教会へと導かれ、信仰を与えられているのです。

神によってかたくなにされた
 6節はそのように「恵みによる選び」ということを語っています。そして、キリストによる救いにあずかることがそのように神の全く自由な選びによることであるならば、次の7節のように言うことができるのです。「では、どうなのか。イスラエルは求めているものを得ないで、選ばれた者がそれを得たのです。他の者はかたくなにされたのです」。イスラエル、つまりユダヤ人たちは、神の民として歩んできたのです。その彼らが「求めているもの」とは、神による救いです。彼らは、自分たちは神の民であって、自分たちこそ神の救いをいただくのだと思って、それを追い求めてきたのです。ところが、その求めている救いを彼らは得ることができなかった、それを得たのは、ただ神の恵みによって選ばれた少数の者たちだけだったのです。選ばれた者たちだけが神による救いを受け入れてそれにあずかり、その他の大多数のユダヤ人は、神によって「かたくなにされた」のです。つまりここに語られているのは、救いを得た者たちが、彼ら自身の中にある何らかの理由や資格によってそれを得たのではなく、ただ神に選ばれて信じる心を与えられたように、救いを得ていない、そこから落ちている者たちも、やはり彼ら自身の中にある何らかの理由によってそれを得なかったのではなくて、神が彼らの心をかたくなにして、主イエス・キリストを信じないようにさせておられることによるのだ、ということです。パウロは、救いはただ神の自由な選びによって与えられる、と語ることによって、今信じていない、むしろ敵対し、救いから落ちてしまっている多くの人々も、同じように神のみ手の中に置かれているのだ、ということを明らかにしているのです。信じていない、敵対している人々は、神のみ手の外にあるのではなくて、彼らもまた、み手の中におり、神によってかたくなにされているのです。そういうことが旧約聖書においても語られていたことを、彼は8~10節の二つの引用によって示しています。8節に引用されているのは、本日共に読まれた申命記第29章2節の言葉です。申命記の方と読み比べてみて分かることは、パウロはこの引用において、神ご自身が「鈍い心、見えない目、聞こえない耳」をお与えになる、ということを強調していることです。つまり神が人を「かたくなにする」ことがこの引用によって示されているのです。また9、10節の引用は詩編第69編23、4節ですが、これも、神ご自身が人に不信仰、つまずきを与え、目をくらませ、まっすぐに立てなくされる、ということを語っている箇所です。これらの引用によってパウロは、今主イエス・キリストを受け入れず敵対しているユダヤ人たちが、実は神ご自身によってそのようにされていること、神のご意志、ご計画がそこにあることを示そうとしているのです。

神のご計画の目的
 このことは、彼が既に9章で語っていたことです。9章で彼は、ユダヤ人たちがキリストを受け入れずに救いから落ちていることについて、それは神の言葉が、つまりイスラエルの民、ユダヤ人をご自分の民として選んだという神の言葉が効力を失ってしまい、神の選びがご破算になってしまったということではなくて、そこには自由な選びによって押し進められる神のご計画があるのだ、神はご自分の計画のために、憐れみたいと思う者を憐れみ、かたくなにしたいと思う者をかたくなにしておられるのだ、と語りました。そのように、ユダヤ人たちが主イエス・キリストにつまずき、かたくなになっているのは、神ご自身のご計画によるのだ、ということをパウロはこの9~11章で繰り返し語っているのです。そして11章では、9章においてははっきりと語られていなかったこと、つまり神のこのご計画の目的、なぜ神はユダヤ人の多くの者をかたくなにされ、キリストの救いを受け入れないようにしておられるのか、そのことが語られています。それが11節以下です。「では、尋ねよう。ユダヤ人がつまずいたとは、倒れてしまったということなのか。決してそうではない。かえって、彼らの罪によって異邦人に救いがもたらされる結果になりましたが、それは、彼らにねたみを起こさせるためだったのです。彼らの罪が世の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのであれば、まして彼らが皆救いにあずかるとすれば、どんなにかすばらしいことでしょう」。ユダヤ人たちがつまずいたのは、彼らの罪、失敗によって異邦人に救いがもたらされていくという神のご計画によることだったのです。

ユダヤ人の罪によって異邦人に救いがもたらされた
 ユダヤ人の罪によって異邦人に救いがもたらされていく、それが神のご計画でした。このことの意味を注意深く考えなければなりません。これは一つには、歴史的な経緯を語っていると言うことができます。ユダヤ人がキリストを受け入れず、十字架につけて殺した、さらには主イエスを信じる人々を迫害した、それによって、イエス・キリストによる救いの福音が異邦人にも宣べ伝えられていったのです。パウロも、行く先々で、先ずユダヤ人の会堂に入って伝道するけれども、そこを追い出されて異邦人に宣べ伝えていくようになる、ということを繰り返しています。そのように、ユダヤ人がつまずくことによって異邦人に救いの門戸が開かれていったという歴史的経緯があるのです。しかし私たちは、この歴史的経緯の持つ意味を深く掘り下げなければなりません。このことを間違って受け止めてはならないのです。例えばこのことを、神の救いには定員があって、元々はユダヤ人だけで定員が満たされていたのだが、彼らが脱落したので異邦人もそれにあずかる余地ができた、などと理解してはならないのです。あるいは、ユダヤ人たちはせっかく神が与えて下さった救いを拒んで脱落した、それに対して異邦人たちはその救いを喜んで受け入れたのでそれを得ることができた、というふうに捉えることもまた間違いです。それだと結局救いはキリストを受け入れるという人間の側の決断による、ということになります。それもまた、ここに語られていることを正しく捉えてはいないのです。ユダヤ人の罪によって異邦人に救いがもたらされたことにおいて私たちが見つめるべきことは、そのことによって神の救いのご計画が実現した、ということです。

神のご計画の二つの面
 そのご計画には二つの面があります。第一は、神の民であったユダヤ人たちが救い主イエス・キリストにつまずいた、ということです。自分たちこそ神の救いにあずかる者だという自負を持って歩んでいたユダヤ人たちが、救い主イエス・キリストにつまずき、救いから落ちてしまった、そこに、神の救いを当然の権利として得ることができる者は一人もいない、人間は皆罪人であって、自分の力で救いを獲得することは誰もできない、ということが示されたのです。そして第二の面は、神は異邦人に救いをお与えになった、ということです。異邦人とは、主なる神と共に歩んでおらず、礼拝もしていない民です。つまり本来神に救われることなどあり得ない者たちです。そういう異邦人に、神が自由な選びの恵みによって救いをお与えになったのです。そのことによって、神は自由な選びによる救いを、人間の思いからしたら全くあり得ないと思われる者にも与えて下さることを示して下さったのです。この二つの面を持った神のご計画が実現したのです。第一の面において、ユダヤ人たちは自らの罪、失敗によって異邦人と同じになりました。神に対して特権を持つ民などもはやない、この世の全ての人は、自分の力によっては救われない、ということが明らかになったのです。そして第二の面において、神が異邦人の中で、自由な選びの恵みによる救いのみ業を行って下さることが示され、本来救われるはずのない者に救いの道が開かれたのです。それが、ユダヤ人の罪によって異邦人に救いがもたらされたことの意味です。ユダヤ人がかたくなにされたことは、このような神の自由な選びの恵みによって全ての人の救いが明らかにされるための神のご計画の一部だったのです。

ユダヤ人たちの救いの希望
 パウロは、ユダヤ人たちがかたくなにされたという神のみ業の背後に、このように全ての人に救いを与えようとしておられる神のご計画を見つめています。それゆえにそこに、ユダヤ人たちの救いの希望を見つめることができるのです。ユダヤ人の救いの希望は、彼らが元々神の民であるということをもはや根拠としてはいません。彼らは異邦人と全く同じ罪人であることが今や明らかになりました。むしろそこにこそ、罪人を自由な選びの恵みによって救って下さる神によって、彼らもイエス・キリストによる救いにあずかる希望が見えてくるのです。ユダヤ人たちがキリストを受け入れず、敵対しているという事実の中に彼らの救いの希望を見出すなどということは常識的にはあり得ません。そんなことは矛盾であり理解不能です。しかしパウロの信仰においてはその希望が成り立つのです。それは彼が、徹頭徹尾、神の自由な選びの恵みによる救いを信じているからこそ成り立つ希望です。そういう意味では、そんな希望は成り立たない、矛盾だ、と感じる私たちの思いにこそ問題があると言えるでしょう。イエス・キリストを受け入れずに敵対している者たちには救いの希望を見出すことは不可能だ、という思いは、つきつめていけば結局、救いは私たちが自分の力で、自分の信仰によって獲得するものだ、ということになるのです。だから、信じておらず、敵対しているところには救いの希望などあるはずがないことになるのです。私たちが、そのような人間の常識から脱却して、パウロが語っているユダヤ人たちの救いの希望を共有するためには、あの6節の「もしそれが恵みによるとすれば、行いにはよりません。もしそうでなければ、恵みはもはや恵みではなくなります」というパウロの言葉を自分のものとすることが必要なのです。それはさらに、自分自身の救いを、神の自由な選びの恵みによることとして見つめていくことでもあります。この私が救われたのは、私の良い行いや清さや正しさによることでは全くない、私はむしろ神に敵対し、主イエス・キリストに逆らっている者でしかなかった、そのような私を、神が自由な選びによって教会へと導き、信仰を与え、キリストによる罪の赦しにあずからせ、教会に連なる者として下さった、その神の恵みのみが私の救いの根拠だ…、それがパウロの思いであり、パウロほど激烈な体験は与えられていないとしても、私たち一人ひとりに共通していることなのです。このことを自分自身において本当に確認していくことによってこそ、パウロが、今は敵対しているユダヤ人たちの救いの希望を見つめていることを理解することができるのです。

曇らされることのない希望
 最初に申しました、先週の説教のポイント、敵対しているユダヤ人たちの中に、少数だが、イエス・キリストによる救いにあずかっている者がいる、そこにユダヤ人の救いの希望がある、というのも、今申しました意味においてなのです。つまりそれは、今は大部分の者がキリストを受け入れず敵対しているが、自分を含めた何人かの者はそれを受け入れて救いにあずかっているのだから、他の人々だって自分たちと同じ思いになれば救いにあずかることができるはずだ、ということではないのです。パウロが見つめている希望は、そういう人間的な可能性ではありません。彼は、神の側にのみある可能性を見つめているのです。自分自身の救いが、神の自由な選びの恵みによって与えられたことを見つめているがゆえに、同じ選びの恵みが、自分と同じ罪人である他の人々にも与えられる希望があるのです。その希望は、今多くの人々が主イエス・キリストを受け入れず敵対しているという現実によって曇らされてしまうことのない希望です。むしろ私たちは、その現実の中にこそ、希望を見出すことができるのです。敵対している者たちの間でこそ、神の自由な選びの恵みははっきりと表されるからです。勿論それは、だから敵対している方がいい、ということではありません。周囲の多くの人々が主イエスを受け入れず、敵対しているという現実の中でも、私たちはがっかりしたり、希望を失う必要はない、ということです。神は、人をかたくなにすることを通してすら、皆が救いにあずかるためのご計画を押し進めて下さるのです。自由な選びの恵みによって押し進められる神のご計画によってこの自分も救われたのですから、同じ自由な選びの恵みによる救いが、人間の思いにおいてはあり得ないと感じられるような、あの人にも、この人にも、与えられることを信じて祈り求めていきたいのです。

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