主日礼拝

神にできないことはない

「神にできないことはない」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: 創世記 第18章9-15節
・ 新約聖書: ルカによる福音書 第1章26-38節
・ 讃美歌: 1、132、512

季節感が違う?
 礼拝においてルカによる福音書を読み始めています。その最初の所には、主イエス・キリストの誕生の物語が語られています。つまりクリスマスの出来事です。それがいよいよ本日の1章26節から始まります。本日の箇所は主イエスの母となったマリアに、天使が、「あなたはイエスの母となる」と告げた、いわゆる「受胎告知」の場面です。教会学校ではクリスマスにたいてい「ページェント」と呼ばれる「聖誕劇」、つまりイエス・キリストの誕生の物語を描く劇をしますが、本日のこの箇所はその中で必ず上演される大事なシーンです。そういうわけでこのあたりは、クリスマスとそれに備えるアドベントの頃に読まれることが多いわけです。ですから、教会に長年通っておられる方々の中には、この箇所を八月の一年で一番暑い時期に読むなんてそぐわない、季節感が違う、と感じている方もおられるだろうと思います。俳句で言えば、季語が全然合っていない、という感じです。しかしよく考えてみると、この箇所はクリスマスの時に起った出来事を語っているのではありません。ここで主イエスを身ごもることを告げられたマリアは、それからいわゆる十月十日して、主イエスを出産するのです。ですからこれはクリスマスの出来事の十か月前の話です。クリスマスに読まれることがそもそも相応しくない、とも言えます。さらに言えば、イエス・キリストの誕生は12月25日だったということは聖書のどこにも書かれていないのであって、その日にキリストの誕生を祝うようになったのは、何世紀が後になって、冬至の祭りとキリストの誕生とが結びつけられた結果なのです。主イエスの誕生日が本当はいつだったのかは分かりません。従ってそれは本来季節感とは結びつかない事柄なのです。とはいえ、12月にクリスマスを祝う習慣が千数百年にわたって続いてきたことも事実で、そこからするとこの季節にここを読むことに違和感があるのは確かです。しかし私は、クリスマスとは正反対の季節である今、この箇所を読むことになったことはかえってよかったと思っています。そのことによって、クリスマスを祝うことを離れてこの箇所を読むことができるからです。そうすることによって、クリスマスの時期に読むのとはまた違ったことがこの箇所から新たに示され、見えてくると思うのです。

ヨハネとイエス
 さて本日の箇所の最初の26節は、「六か月目に」と始まります。これは何時から六か月目かというと、先週読んだ24節に「その後、妻エリサベトは身ごもって、五か月の間身を隠していた」とあった、その次の六か月目ということです。洗礼者ヨハネの母となった、祭司ザカリアの妻エリサベトが身ごもってから六か月目です。エリサベトの妊娠の期間の後半に入った頃、ザカリアにヨハネの誕生を告げたのと同じ天使ガブリエルが、今度はマリアに、主イエスを身ごもることを告げるために遣わされたのです。このような語り方によってルカは、主イエスの誕生と洗礼者ヨハネの誕生とを、互いに織り成された二本の糸のような関係にあるものとして描いていきます。後に成人した洗礼者ヨハネが主イエスの道備えをする、というだけではなくて、その誕生の前から、ヨハネの出来事が主イエスの出来事の備えとしての意味を持っていたことをルカは描き出そうとしているのです。ルカはこのあたりをよく準備し、丁寧に書いています。そのことは、ザカリアにヨハネ誕生が告げられた場面と、マリアに主イエスの誕生が告げられた場面とがぴったりと重なることから分かります。つまり先ず天使が彼らの前に現れます。すると彼らは恐れや不安、とまどいを覚えます。その彼らに天使は「恐れるな」と声をかけ、そして子供の誕生を告げます。それに対して彼らは、「どうしてそんなことがあり得るだろうか」という思いを語ります。天使はそれに対して、「人間には不可能に思えることも、神の御心ならば必ず実現するのだ」ということを語るのです。そういう話の構造が両者全く重なっています。ルカは意識してそのように物語を周到に整えているのです。そのことによって、神様が周到な救いのご計画を実現していかれたことを描き出そうとしているのです。

マリア
 この救いのご計画において、ヨハネの両親として神様が選び用いられたのは、エルサレム神殿の年老いた祭司ザカリアとその妻エリサベトでしたが、主イエスを生む母として選ばれ、用いられたのは、ガリラヤのナザレに住むマリアというおとめでした。彼女はヨセフという人のいいなずけだったとあります。いわゆる婚約中だったわけですが、当時一般的に女性が、勿論本人のではなく親の意志によってですが、婚約したのは、14歳前後と言われています。ですからマリアも常識的に言ってそれくらいの年齢だったと思われます。14歳というと中学生です。勿論今日の私たちの社会における感覚と当時の感覚とは全く違うと言わなければならいでしょうが、しかし私たちは主イエスの母となったマリアについて、知らず知らずの内に抱かされている先入観をこのことによって打ち砕かれることは確かだと思います。マリアは、今日で言えばまだ少女と言うべき小娘なのです。成熟した、いろいろな体験を積んで分別を持った落ち着いた大人の女性ではありません。また彼女は、ガリラヤという田舎の、ナザレという名もない、町というよりむしろ村に住む、特に家柄がよいわけでもない、何の変哲もない、どこにでもいるような娘です。私たちは、マリアのことを、私たち普通の人間とは違う特別な、いわゆる「聖女」として考えることをやめなければなりません。聖書はマリアについて、ヨセフという、他の箇所によれば大工であった人のいいなずけとなっていた若い女、という以外のことを語ってはいないのです。エルサレム神殿の祭司ザカリアと自身も祭司の家系であるアロン家の出身であるエリサベトの夫婦と比較したら、このマリアは、全く取るに足りない者だと言わなければなりません。しかし神様は、この、何ら特別な所のない一人の娘を、救い主イエス・キリストの母として選び、お用いになったのです。このことから私たちは、神様の救いのご計画は、人間の思いや常識を超えた仕方で実現されることを教えられます。そしてそれはさらに踏み込んで言うならば、自分のような者は神様の救いのご計画とは関わりがない、などと言える人は一人もいない、ということです。神様の救いのご計画は、人間の常識を乗り越えて、何ら特別な人間ではないこの私をも巻き込んで進んでいくのです。マリアはまさにそういうことを体験したのです。

ヨセフ
 さて彼女のいいなずけだったヨセフについてはここに「ダビデ家のヨセフ」と語られています。ダビデは旧約聖書に出てくる、あのイスラエルの最も偉大な王であるダビデです。ヨセフはその子孫なのです。それゆえにこの後第2章では、先祖の町で住民登録をせよとの勅令によって、ダビデ王の出身地であるユダヤのベツレヘムへと旅をすることになったのです。その旅先で主イエスが生まれるわけです。今は名もない庶民ですが、血筋においては彼はダビデ王の子孫だったのです。このことはヨセフの血統を誇るために語られているのではありません。救い主メシアはダビデの子孫に生まれる、という預言が旧約聖書にあるのです。主イエスはその預言の成就、実現としてこの世に来られた救い主であることが、このことによって示されているのです。しかし面白いことにルカによる福音書はこのヨセフのことをほとんど語っていません。ルカのクリスマスの物語はマリアを中心として描かれています。この点はマタイによる福音書と対照的です。例えばマタイでは、主イエスの誕生のお告げはヨセフに与えられていますが、ルカではそれはマリアに対して与えられており、ヨセフはそのマリアのいいなずけとして一度名前があがるだけなのです。ルカによる福音書におけるヨセフの役割については、別の箇所を読む時に考えることにして、今はマリアへの受胎告知へと話を進めたいと思います。

受胎告知
 天使はマリアに、「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」と語りかけました。「おめでとう」と訳されている言葉は、もともとの意味は「喜びなさい」です。それは当時挨拶の言葉として用いられていたので、その場面に応じていろいろに訳すことができます。ここでは、「あなたは恵まれた方である。主があなたと共におられる」という宣言と結びついていますから、「おめでとう」とするのが相応しいわけです。しかし、天使から突然「おめでとう」などと言われても、マリアはとまどうばかりです。29節「マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ」。この「戸惑い」は前の口語訳聖書では「ひどく胸騒ぎがして」となっていました。マリアは、何のことかしら、と戸惑っただけではなくて、不安、恐れを感じたのです。ザカリアも体験した、生ける神様と直面する時に必ず生じる恐れです。それゆえに天使は、ザカリアに対してと同じように「恐れることはない」と語りかけ、そして神様が彼女に伝えようとしていることを語っていくのです。神様の方から「恐れることはない」と告げて下さらなければ、私たちは神様のみ前に立ってみ言葉を聞くことはできないのです。
 マリアに告げられたのは、「あなたは身ごもって男の子を生むが、その子をイエスと名付けなさい」ということでした。そしてヨハネの誕生の予告と同じように、生まれてくる子がどのような者になるのか、が語られていきます。32、33節、「その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない」。生まれてくるイエスは、「いと高き方の子」つまり神の子と呼ばれます。また彼に父ダビデの王座が与えられます。つまり彼こそがダビデ王の子孫として生まれる救い主なのです。彼は永遠にヤコブの家を治めます。「ヤコブの家」とは神様の民であるイスラエルのことです。主イエスに治められるイスラエルとは、主イエスによる救いにあずかる者たちの群れである教会のことです。主イエスは新しい神の民である教会を永遠に治め、その支配は終わることがない、つまり神の民に永遠の命を与えて下さるのです。このような救いが、生まれてくる子イエスによって与えられる、と天使は告げたのです。

神にできないことは何一つない
 このお告げに対するマリアの反応も、ザカリアのそれと重なります。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」。ザカリアは、自分も妻ももう年を取っているから子供が生まれることなどもうあり得ない、と思ったのです。マリアは反対に、自分はまだヨセフと一緒になっていないから、その自分が身ごもって子を生むことなどまだあり得ないと思ったのです。「もう」と「まだ」の違いはありますが、二人共、神様のお告げになったことを「あり得ない」と思ったのです。それに対して天使が語ったことは、ザカリアとマリアとでは少し違っています。ザカリアに対しては、神様のみ言葉を信じなかったあなたは、その事が実現するまで口が利けなくなる、と告げられました。先週申しましたようにこれは決してザカリアに与えられた罰ではありません。しかしそこにみ言葉を信じないことへの叱責が込められていることは確かです。ザカリアは神様から叱られたのです。しかしマリアに対してはそうではありません。天使は彼女の疑問に答えて、彼女に何が起るのかをさらに説明してくれたのです。35節「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」。マリアに聖霊が降り、いと高き方つまり神様の力が彼女を包むのです。聖霊によって働く神の力によって彼女は身ごもり、聖なる者、神の子である主イエスを生むのです。マリアにこのような説明が与えられたのは、彼女に対する神様の慈しみと思いやりであると言えるでしょう。祭司ザカリアと違って彼女は先ほど申しましたように田舎の小娘です。そのマリアに分かるように、聖霊による神の力があなたを包んでみ業を行うのだ、と教えて下さったのです。次の36節も、その神様の力を具体的な事柄によって教え示して下さる慈しみと思いやりです。「あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている」。エリサベトとマリアは親戚だったことがここから分かります。エリサベトが子供を授からないままに年を取っていることを親戚であるマリアは知っているのです。しかしそのエリサベトが身ごもり、六か月目に入っている、妊娠の後半になり、もうお腹も大きくなってきて、誰の目にも妊娠が明らかになってきている。神様の力が働くことによって、このようなことが実現するのだ、と天使は告げているのです。つまりここで天使はマリアに、神様の力の目に見える印を示しているのです。「六か月目に」の意味がここで分かります。エリサベトの妊娠は、マリアに、神様の力の目に見える、動かぬ証拠を示し、マリアが自分に語られたみ言葉を信じて受け入れるための助けとして用いられたのです。そのようにしてこの二つの話は結び合わされているのです。

神の全能とは?
 このようにして天使はマリアに、聖霊によって働く神様の力が彼女を包むことを告げ、その神様の力は、子がなくて年を取っていたエリサベトに子供を与えるほどに大きいことを示しました。そのしめくくりとして語られたのが37節の「神にできないことは何一つない」という言葉です。神にできないことはない、これはつまり神は全能であるということです。神は全能であるがゆえに、まだ結婚生活に入っていない処女であるマリアが、いいなずけヨセフによってではなく聖霊の働きによって妊娠し、子供を生むという奇跡をも行うことができるのだ。「神にできないことは何一つない」という言葉を私たちは普通このように理解しているのではないでしょうか。けれどもこの言葉は実は、それとはいささか違う意味を持っているのです。この37節の原文を直訳するとこうなります。「なぜなら、神においては、全ての言葉は不可能ではないからだ」。お気付きのように、原文には「言葉」という言葉があるのです。神の言葉は全て実現する、実現できない言葉はない、ということを言っているのです。そして、マリアが受け止めたのもこのことだったのです。それゆえにマリアは、この天使の言葉を受けて38節で「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と言ったのです。神が語られた言葉は必ず実現すると告げられたことを受けて、「その神様のお言葉がこの身に実現しますように」と言ったのです。つまりマリアがここで信じて受け入れたのは、神様は何でもできるという一般的な真理ではなくて、神様は語られたみ言葉を必ず実現することができる、それゆえに私に対して語られたみ言葉も必ずその通りに実現して下さる、ということだったのです。「神の全能」の本当の意味はそこにこそあります。神が全能な方であることは、神様にはあのことはできるのか、このことはできるのか、と考えることによって分かっていくのではありません。神様が、語って下さった恵みのみ言葉を、救いの約束を実現して下さることを知ることによってこそ、私たちは全能なる神様を信じることができるのです。
 神様がマリアに語り、約束したみ言葉とは何だったでしょうか。それは単に彼女が神様の力によって身ごもって男の子を生む、というだけのことではありません。彼女が生むその子がイエスと名付けられ、神の子、救い主となり、ダビデの王座を受け継ぎ、神様の救いにあずかる民をとこしえに治める者となる、という恵みのみ言葉を神様はお語りになりました。また天使は、マリアが神様から特別な恵みをいただいていると告げました。あなたは恵まれた方であり、主があなたと共におられると語ったのです。最初の「おめでとう」、直訳すれば「喜びなさい」という言葉も、神様が彼女に告げて下さったみ言葉です。神様が「喜びなさい」と語って下さったのです。そのみ言葉は必ずこの身に実現する、神様が告げて下さった喜びが自分に与えられる、マリアはそのことを信じて、その神様のみ手に自分を委ねたのです。それが、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」という言葉の意味なのです。

主のはしため
 「わたしは主のはしためです」と彼女は言いました。「はしため」とは女奴隷のことです。奴隷が主人の命令に服従するように、彼女は神様に服従したのです。しかしそれは、奴隷にされ、無理やりに服従させられた、ということではありません。「わたしは主のはしためです」は、「わたしは主のはしためとして生きます」という彼女の意思表示の言葉です。主なる神様に仕える奴隷として生きることを彼女は自分から選び取ったのです。どうしてそんなことをしたのか。そのことは、「お言葉どおり、この身に成りますように」という言葉と共に読むことによってこそ理解できます。マリアにとって、主のはしためとなるとは、「お言葉どおり、この身に成りますように」と祈りつつ生きる者となることでした。彼女はこの時から、神様のみ言葉が自分の身に実現することを祈り求める者となったのです。それは彼女が、恵みに満ちたみ言葉を聞いたからです。神様が共にいて下さり、恵みを与えて下さり、彼女を選び、聖霊によって働く神様の力によって包んで、ご自分の独り子、救い主イエス・キリストを生む母として下さる、それら全てのことを通して、彼女に「喜びなさい」「おめでとう」と語りかけて下さっている、その恵みのみ言葉を彼女は聞いたのです。そのみ言葉が必ず実現することを信じて、自分の身をその恵みのみ言葉に委ねたのです。それが、「主のはしため」として生きることであり、それこそが信仰者として生きることなのです。

本当の喜び
 神様のお言葉どおりにこの身に成るということは、婚約中の身で、まだ一緒にならないうちに妊娠するということです。それが何を意味し、もたらすか、世間知らずの田舎の小娘でもそれくらいのことは分かるのです。自分のお腹の子は聖霊によって授かった子ですと言った時に、世間の人々はそれを受け入れてくれるでしょうか、誰よりも婚約者ヨセフがそれを信じてくれるでしょうか、どちらも、とてもありそうにないことです。従ってこのことによって喜びどころか大変な苦しみが襲いかかって来るだろうことは目に見えているのです。しかしそれにもかかわらずマリアは、神様のみ言葉を受け入れ、それに従う道を選びました。それは彼女が、神様が語って下さった恵みのみ言葉のみを見つめ、そのみ言葉の実現を信じて願い求めたからこそ出来たことです。神様のみ言葉と、この世の目に見える現実や人間の常識が教えることを見比べて、さてどちらの方が得だろうか、どちらの方が苦しみのない、平安な、楽な歩みができるだろうか、と考えている内は、私たちは信仰に生きることはできません。信仰をもって生きるというのは、そのように両者を天秤にかけるような生き方をやめることです。そして、「お言葉どおり、この身に成りますように」と祈る者となることです。神様がみ言葉によって約束して下さっていることのみを見つめ、それがこの身に実現することをこそ祈り求めていくのです。それは決して、悲壮な決意をもって苦しみの中に飛び込んでいくようなことではありません。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と言ったマリアの姿には、そのような悲壮感はありません。むしろそこには、不思議な落ち着き、平安、神様に自分の身を委ねた安心があるのです。信仰者の歩みとはそういうものです。なぜなら信仰者は、神様のみ言葉は恵みのみ言葉であって、それがこの身に実現することによってこそ、本当の喜び、幸せが与えられることを、神様が共にいて下さり、その恵みを受け、み業のために用いられていく本当に有意義な、生き甲斐ある、楽しい人生がそこに開かれていくことを知っているからです。

恵みのみ言葉の実現
 神様のみ言葉は恵みのみ言葉です。そしてそれは神様の全能の力によって必ず実現します。そのことを私たちは、毎週の主の日の礼拝において、聖書を通して示され、教えられています。神様の恵みのみ言葉、約束は、主イエス・キリストの十字架の死と復活において実現しました。神様の独り子であられる主イエスが、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さったこと、また父なる神様が死の力を打ち破って主イエスを復活させ、私たちに罪の赦しと永遠の命の希望を与えて下さったこと、そこにおいてこそ私たちは、神の全能の力を見ます。「神にできないことはない」。そのことは、主イエスの十字架の死と復活においてこそ分かるのです。そしてこの「できないことはない」神の恵みのみ言葉が、今この私にも与えられているのです。マリアが聞いて信じたのと同じみ言葉を神様は今、私たち一人一人にも語りかけて下さり、私たちの体と心、人生を用いて、その恵みのみ言葉を実現させて下さるのです。

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