主日礼拝

思い切って大胆に

「思い切って大胆に」 牧師 藤掛 順一

・ 旧約聖書; 詩編、第2編 1節-12節
・ 新約聖書; 使徒言行録、第4章 23節-31節
・ 讃美歌 ; 56、361、476

 
教会は伝道するもの
 本年度の私たちの教会の年間主題は、「宣べ伝える教会」です。主イエス・キリストによる神様の救いの恵み、即ち福音を宣べ伝えること、つまり伝道を年間の主題、目標として掲げて歩んでいるのです。今年の10月には、この主題に沿って教会修養会が行われます。「伝道―証しの生活」というテーマです。また先日の教会全体研修会において、「教会の敷居」というテーマを掲げたのも、この主題との関連においてです。伝道することは、教会に新しい人を迎え入れることです。その「迎える」ということに焦点を当てて、「宣べ伝える教会」としてのあり方を考えたのです。今私たちが礼拝において、使徒言行録を連続して読んでいることも、この主題と関係があります。このことを長老会で決定した時にも、この年間主題との関係が意識されていたのです。使徒言行録を読むことによって示されることは、教会とは、伝道するものだ、ということです。ペンテコステに教会が誕生した、そのことが第2章に語られていたわけですが、それは、伝道が始まったということです。復活した主イエスに出会った弟子たちの群れは既にその前からあったのです。彼らが、聖霊の力を受けて、主イエスこそメシア、救い主であると人々に宣べ伝え始めた、それが教会の誕生だったのです。

妨害
 最初の教会の伝道は、使徒たちの力強い働きによってなされていきました。3章の始めには、ペトロとヨハネとが、エルサレム神殿の門前で、生まれつき足が不自由だった男を癒したことが語られています。この奇跡に驚いて集まって来た多くの人々にペトロは、イエスのみ名こそがこの人を癒したのだ、イエスこそ神が遣わして下さった救い主メシアであると語ったのです。ペトロのこの伝道によって多くの人々が主イエスを信じ、教会に加えられました。教会の成立の最初から、このように力強い、目覚ましい伝道がなされていったのです。しかしそこには直ちに妨害も起こってきました。ペトロたちは神殿の責任者たちによって逮捕され、ユダヤ人の指導者たちから、おかしな教えを伝えて民衆を煽動する者として取り調べられたのです。しかし二人はユダヤ人の最高権威者たちの前でも全くひるむことなく、力強く証しをしました。その結果翌日には釈放されたのですが、教会の伝道は最初からこのような妨害、困難を伴っていたのです。このことを私たちはしっかり記憶しておかなければなりません。先程申しましたように、教会とは伝道するものです。しかしその伝道には必ず困難、妨害が伴うのです。すばらしい奇跡を行う力を与えられていた使徒たちの伝道でさえそうでした。教会が主イエス・キリストの福音を宣べ伝え、主イエスこそ救い主であると証ししていく時に、そこには必ず、それを否定し、敵対する力も生まれ、妨害が起ってくるのです。

伝道の共有
 このような伝道の妨害、困難に直面した最初の教会がその中でどのように歩んだかを本日の箇所は語っています。23節に「さて二人は、釈放されると仲間のところへ行き、祭司長たちや長老たちの言ったことを残らず話した」とあります。ここから私たちはいくつかの大事なことを読み取ることができると思います。第一には、ペトロとヨハネの伝道が、彼ら使徒たち個人の働きではなく、教会の働きとしてなされている、ということです。「釈放されると仲間のところへ行き、祭司長たちや長老たちの言ったことを残らず話した」というのは、ペトロたちが、逮捕され、そこで体験したこと、尋問を受け、それに対してどのように答えたかということを逐一仲間たち、つまり教会の人々に報告した、ということです。使徒たちの伝道の活動と、それによって起こってくる妨害や敵対の事態、それにどう立ち向かったかということの全てが、教会の人々の間でこのように共有されているのです。このことはさらに言えば、ペトロとヨハネが逮捕され一晩留置されていた間、教会の仲間たちが集まって彼らのために祈っていた、ということをも示していると思います。そのことはこの後の12章の始めのところからも伺えます。ここにも、ペトロが逮捕され監禁されたことが語られているのですが、その5節後半に、「教会では彼のために熱心な祈りが神にささげられていた」とあるのです。伝道のために逮捕され、苦しみを受けている使徒たちのために、教会の人々が祈祷会を開いて熱心に祈っている、そういう最初の教会の姿がここに示されています。それと同じことが、この場合にもなされていたと考えることができるでしょう。ですから二人が釈放されて仲間のところに行ったというその「仲間のところ」とは、仲間たちが集まって彼らのために祈っている、その場所に行ったということでしょう。そしてそこで、起こったことを全て報告したのです。このように、教会全体が、使徒たちの伝道の働きを覚え、祈り、支えることによって、その伝道の業を共有しているのです。伝道とはそのようにしてなされ、進展していくものです。伝道は教会の業であり、教会の人々みんなが担い、共有するべきものなのです。実際に奇跡を行なったり、み言葉を語ることは使徒たちがしているとしても、教会に連なる全ての人々が、そのことを覚え、祈り、支えることを通してそれを共有し、それに参加しているのです。ですから、伝道は元気に体を動かせる人だけがすることではありません。たとえ寝たきりでなんの活動もできない、という人であっても、祈ることによって、教会の伝道の働きを共有することができます。自分では体を動かして何かをすることができなくても、祈りによって伝道の業に参加することができるのだし、そういう祈りが、実際に働きを負っている人々を力づけ、支えるのです。
 これは別の言い方をすれば、私たちの伝道は基本的には、個人の業としてなされるものではない、ということでもあります。自分が一人で、自分の熱心さや情熱によって伝道する、というものではないし、またそういうことが求められているのではないのです。伝道は、基本的には、教会の仲間たちと共に、祈り合い、協力し合ってしていくことです。少なくとも、最初の教会の伝道はそのようにしてなされていったのです。ペトロは、一人で伝道しているのではありません。彼はヨハネと共に歩んでいます。3章以降の一連の出来事において、何かをしたり語っているのはペトロだけです。ヨハネは名前は出てくるけれども何もしていないし、何も語っていません。ですからヨハネはなにか付け足しのような、別にいなくてもいいような印象すら受けます。しかしこの奇跡や説教がペトロ一人の働きではなく、ペトロとヨハネの働きとして語られており、釈放された二人が仲間たちのところへ行って報告をしている、ということが実はとても大事なのです。ペトロとヨハネ、そして教会の人々、その全体の連携、協力の中で、この奇跡も、そして伝道も、そこに起ってくる妨害を乗り越えて行くこともなされているのです。それが伝道の基本です。

信仰告白の言葉
 さてそのような二人の報告を聞いた教会の人々はどうしたか、が24節です。「これを聞いた人たちは心を一つにし、神に向かって声をあげて言った」。彼らは心を一つにして、神に向かって声をあげたのです。神に向かって声をあげる、それは祈るということです。教会の人々は共に祈ったのです。先程申しましたことから言えば、彼らは既に、捕えられたペトロたちのために集まって祈っていたのでしょう。そこに、釈放されたペトロたちが帰ってきて、全てを報告したのです。その報告を受けて、彼らは改めて祈りました。しかしその祈りは、「神に向かって声をあげた」と言い表わされているように、ただ漠然と神様に感謝したというのではありません。彼らは、神様に向かって語りかけるはっきりとした言葉を得たのです。そこでもう一つ重要なのは、「心を一つにし」という言葉です。心を一つにし、同じ思いになって、神様に語りかけていく、そういう言葉を彼らは獲得したのです。皆の心が一つになって、同じ言葉を神様に向かって語りかけていったのです。これは信仰の告白と言ってもよいことです。信仰を告白する、という聖書の言葉は、もとの意味は「同じ言葉を語る」ということです。皆が同じ信仰の言葉を神様に向かって語っていく、それが信仰告白です。ここで教会の人々の間に起っているのもそういうことだと言えるでしょう。指導者が逮捕されるという初めての妨害に直面し、ユダヤ人の権力者たちが教会に敵意を抱いているという深刻な状況が明らかになってきている、そういう困難、危機、不安の中で、教会はこのように、信仰告白の言葉を獲得し、語っていったのです。

本当の支配者
 その信仰告白の言葉が、24節の後半から30節まで続いています。先ず語られているのは、「主よ、あなたは天と地と海と、そして、そこにあるすべてのものを造られた方です」ということです。神様が天地万物を造られた方である、という信仰の告白です。それは、この世界がどのようにして出来たか、という知的な、あるいは科学的な興味から来ることではありません。主イエス・キリストの福音を受け入れず、教会に敵対し、伝道を妨げる力が猛威をふるっているこの世界とそこに起る全ての出来事が、実は神様のご支配の下にあるのだ、ということが見つめられているのです。つまり問われているのは、この世界を本当に支配しているのは誰か、ということです。地上の王や指導者たち、権力を握り、教会を迫害し、伝道を妨害している者たちが最終的な力を握っているのか、それとも主イエスの父なる神様がそれらの者たちをも含めてこの世界の全体を支配しておられるのか、このことが、教会にとって、信仰を持って生きようとする私たちにとって、根本的な問題なのです。そこにおいて、主なる神様こそが天と地と海と、そこにあるすべてのものを造り、支配しておられる方だ、という言葉を心を一つにして語ることが、教会の、私たちの信仰なのです。

聖書の証言によって
 この信仰は、「そうだったらいいな」という単なる願望ではありません。ちゃんと根拠のあることです。その根拠を示しているのが聖書です。当時はまだ新約聖書はありませんでしたから、最初の教会が拠り所としたのは今で言う旧約聖書です。25節の後半から26節に引用されているのは、本日共に読まれた旧約聖書の箇所である詩編第2編の冒頭のところです。ここには、異邦人、諸国の民、地上の王たちや指導者たちが、主とそのメシアに逆らって騒ぎ立てることが語られています。メシアというところは、詩編の方の言葉では「油注がれた方」となっています。メシアとはもともとそういう意味であり、それは神様によって特別な務めに立てられた者、ということです。そこからこの言葉は「救い主」を意味するものとなりました。ですからこの詩編は、主なる神様とそのお遣わしになった救い主とに逆らって立つ地上の王、支配者たちのことを描いているのです。この詩編の言葉は、主イエス・キリストにおいて起こった出来事を見事に予告しています。そのことが27節に示されています。「事実、この都でヘロデとポンティオ・ピラトは、異邦人やイスラエルの民と一緒になって、あなたが油を注がれた聖なる僕イエスに逆らいました」。ヘロデは地上の王、ローマの総督ポンティオ・ピラトは指導者です。その彼らが、異邦人であるローマの兵士たちと共に、さらにはイスラエルの民までもそこに加わって、神様が救い主としてお立てになった主イエス・キリストに逆らい、捕え、十字架につけて殺したのです。主イエスの十字架において、まさに詩編第2編に語られていたことが実現したのです。しかし詩編第2編はその後の4~6節で「天を王座とする方は笑い、主は彼らを嘲り、憤って、恐怖に落とし、怒って、彼らに宣言される。『聖なる山シオンで、わたしは自ら、王を即位させた』」と歌っていきます。主と救い主とに逆らい騒ぎ立てる王たち、指導者たちの企みを、主なる神様は打ち砕き、ご自身の力を示し、救い主を王として即位させられるのです。また7~9節にはこうあります。「主の定められたところに従ってわたしは述べよう。主はわたしに告げられた。『お前はわたしの子、今日、わたしはお前を生んだ。求めよ。わたしは国々をお前の嗣業とし、地の果てまで、お前の領土とする。お前は鉄の杖で彼らを打ち、陶工が器を砕くように砕く』」。神様がご自分の子を王としてお立てになる、そういう救いのご計画を実現して下さるのです。詩編に語られているこの神様のご計画が、主イエス・キリストの十字架において実現した、と語っているのが、使徒言行録に戻って28節です。「そして、実現するようにと御手と御心によってあらかじめ定められていたことを、すべて行ったのです」。神様に逆らい、救い主を殺して勝利したかのように見えるヘロデやポンティオ・ピラトたちの行為は、実は、神様の救いのご計画を実現したに過ぎなかったのです。このことによって、神様の独り子が私たちの全ての罪を背負って身代わりになって死んで下さるという神様の救いのご計画が実現したのです。そして神様は死の力を打ち破って主イエスを復活させて下さいました。私たちのために十字架にかかって死んで下さり、復活して下さった主イエスが、今や天に昇り、全能の父なる神の右に座して、この世界を、私たちを、恵みのみ手によって支配しておられるのです。それゆえに、今この世界に働いている、神様に逆らい、教会を迫害し、伝道を妨害するいかなる力も、さらには私たちの人生をいつも脅かしている死の力も、もはやこの主イエス・キリストのご支配の下にあるのであって、神様の救いのご計画の実現を妨げることはできないのです。聖書に記されている神様の救いの約束のみ言葉に触れることによって、またそれが主イエス・キリストにおいて実現したことを、使徒たちの証言によって示されたことによって、そして聖霊の働きによってそれを信じ受け入れる信仰を与えられたことによって、教会の人々はこのような信仰告白の言葉を、獲得したと言うよりも、与えられたのです。
 これと同じことが、私たちにも、この礼拝において起ります。私たちもここで、神様の救いの約束を語る聖書のみ言葉に触れます。そして、主イエス・キリストの十字架と復活による神様の救いのご計画の成就、実現を告げるみ言葉を聞きます。そして本日は特に、聖餐にあずかります。聖餐のパンと杯をいただく、そこに聖霊が働いて下さって、洗礼を受けて主イエス・キリストに結び合わされた者たちが、主イエスとのつながりを新たにされ、深められるのです。これらのことによって、私たちも、神様の恵みのご支配を信じる信仰の告白の言葉を、心を一つにして語ることができるようになるのです。

祈りの言葉
 この信仰の告白に導かれて、教会は神様に祈り求めています。29、30節です。「主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。どうか、御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください」。この祈りの言葉は、彼らに与えられた信仰の言葉、つまり、主なる神様こそこの世界の造り主であり支配者であられること、地上の王や支配者たちの神様に敵対する思いによって主イエスは十字架にかけられて殺されたけれども、そのことを通してかえって神様の救いのご計画が実現されたということ、この信仰告白から導き出されたものです。つまり、この祈りの言葉も、与えられたものです。彼らは、信仰を告白する言葉を与えられると共に、祈り願う言葉をも与えられたのです。その内容を見ていきましょう。「主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め」と祈っています。自分たちが今受けている妨害、脅し、その苦しみを、主なる神様にこそ見ていただくことを願っているのです。それは、主なる神様こそが全てのものの支配者であり、彼らを脅し、苦しめている者たちをも支配しておられる方だからです。だからこの脅しをどうにかして下さるのは神様しかいないのです。人間の、私たちの熱心さによって脅しや迫害に打ち勝つのではありません。私たちにそんな力はないし、そういうことが求められているのでもないのです。さらに、「思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください」と祈っています。これも、人間の思いから生まれた祈りではありません。神様が独り子イエス・キリストの十字架と復活によって救いのご計画を実現して下さったという信仰の告白を与えられた者が、その神様の
ご計画の中で自分に与えられている使命、務めを覚えていく中で、このような祈りが与えられていくのです。「あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください」という祈りの言葉がそのことを示しています。教会に連なる信仰者たちは、神様に召し出された僕たちなのです。私たちは、僕として、主人である神様のお命じになる働きをしていくのです。それが、「思い切って大胆に御言葉を語る」ことです。教会は、最初に申しましたように、伝道するものです。み言葉を語り、主イエス・キリストによる救いの恵みを宣べ伝えるために教会はあるのです。その教会に導かれたということは、神様が私たちを伝道の業のために用いようとしておられるということです。私たちは、自分にはそんな力はないとか、そんな大変なことはご免蒙りたいなどと思いますが、神様は、私はあなたをこのことのために用いる、あなたの働きが必要なのだ、と言っておられるのです。そのご命令に、僕として聞き従う者でありたい、そういう祈りを教会は与えられたのです。
 さらに、「病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください」とも祈られています。これも、人間の思いから出て来る祈りではありません。病気を癒したり、しるしや不思議な業をすることができるのは神様だけです。その神様が、「御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって」、これらのことをして下さるのです。主イエスご自身も、神様の僕と呼ばれています。私たちはその主イエスのさらに僕です。神様の僕である主イエスのそのまた僕として生きる、そういう信仰の告白から、このような祈りが生まれるのです。何故なら、神様の僕である主イエスの僕として生きるところには、私たちの力では思いもよらない驚くべきことが起こるからです。自分が主人であろうとしている時には全く考えられなかったような恵みの体験が、主イエスの僕となった者たちには与えられるのです。そのことを祈り求める言葉を、教会は与えられたのです。

祈りの言葉を求めて
 これらの、信仰の告白と祈りの言葉に応えて、聖霊が教会の人々に再び降りました。31節、「祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした」。ペンテコステの出来事がもう一度繰り返されたと言ってもよいでしょう。しかし2章と同じことが繰り返されているのではありません。ここでは、教会は初めての妨害にあい、この世の力を持っている者たちからの脅しを受けています。聖霊は、そういう教会の、信仰者たちの事情、状況に合わせて働いて下さるのです。ここで彼らに必要だったことは、妨害や脅しを受けている事態を神様に見ていただき、それらのことを神様のみ手に委ねて、思い切って大胆に御言葉を語ることでした。彼らは、信仰告白の言葉を心を一つにして共に語ることを通して、その本当に必要なことを願い求める祈りの言葉をも与えられたのです。そして神様はその祈りの言葉にしっかりと応え、それを実現して下さったのです。私たちも、これと同じ信仰の体験を与えられます。主イエス・キリストによって実現した神様の救いの恵みを告げるみ言葉を聞き、聖餐において主イエスとの交わりを体をもって味わうことによって、私たちも、主イエスを信じる信仰の言葉を、心を一つにして語るようになるのです。そしてそこには、今私たちの群れに本当に必要なこと、祈り求めるべきことは何かが示されていきます。「宣べ伝える教会」という本年度の主題はそのおおまかな方向性を示していると言えるでしょう。しかしそれが本当に私たちの歩みとして結実していくには、もっと具体的な言葉が必要です。聖霊のお働きをさらに豊かに受けて、私たちが心を一つにして共に祈り求めるべき言葉をさらに具体的に示され、与えられていきたいのです。そのようにして神様が与えて下さった祈り願いを心を一つにして祈り求めていくときに、それは私たちの自分勝手な願いとは違って、聖霊のお働きによって必ず実現していくのです。

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