主日礼拝

使徒の節制

「使徒の節制」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書; 詩編 第15編1-5節
・ 新約聖書; コリントの信徒への手紙一 第9章24-27節
・ 讃美歌;14、132、511

 
オリンピック競技
 2014年の冬期オリンピックの開催地が、ロシアのソチに決まった、というニュースを先日やっていました。夏と冬とに分かれて4年に一度行われている現在の近代オリンピックは、19世紀に始まったものですが、それは古代ギリシャのオリンピアという町で行われていた運動競技会を起源としていることは誰もが知っていることです。つまりギリシャが、オリンピック発祥の地であり、それゆえにオリンピックの開会式の入場行進の先頭はいつもギリシャなのです。オリンピックの競技の中で、このギリシャ起源ということを最も明確に表しているのは、マラソンでしょう。マラソンという競技の名前も、またそのコースの距離が42・195キロであるのも、紀元前490年、ギリシャの諸都市とペルシャ帝国が戦ったペルシャ戦争におけるマラトンの戦いで、ギリシャ側の勝利を告げる伝令が、マラトンからアテネまでの42・195キロを走って勝利を伝え、そして息絶えたという故事から来ているのです。
 この古代オリンピックが行われていたオリンピアは、ギリシャの南部、バルカン半島の先端のペロポネソス半島の町でした。ペロポネソス半島は、西のイオニア海と東のエーゲ海が張り出してきて陸地がぐっと狭くなっているコリント地峡によって、ギリシャ本土とつながっています。そのコリント地狭に発展した町がコリントです。つまりオリンピアとコリントとは、同じ地域にある、パウロの当時のローマ帝国の行政区で言えば共にアカイア地方の町なのです。パウロが、コリントの教会に書き送った手紙の本日の箇所において、信仰の事柄を、運動競技のたとえを用いて語っているのは、このオリンピアに代表されるギリシャの諸都市で行われていた運動競技会を背景としています。パウロは、ギリシャの人々におなじみだった運動競技のことを用いて、信仰の事柄を語っているのです。

賞を目指して
 パウロがここで語っていることは、競技場で走る者が皆賞を受けるわけではない、賞を受ける、オリンピアの競技においてはそれは月桂冠でしたが、それを受けるのはただ一人だ、ということです。競技に参加するからには、誰もがその賞を目指して走るのです。信仰においてもそれと同じことが言える。信仰者として生きるからには、ただのんべんだらりと歩いていたり、立ち止まってしまうのではなくて、ゴールを目指して、そこで与えられる冠を目指して、しっかりと走ることが求められているのだ、とパウロは語っているのです。

節制
 運動競技に参加して、賞を目指す者は皆、そのために節制をします。ここで「節制」と訳されている言葉には、訓練する、練習する、自分を制御する、という意味があります。つまり、例えば暴飲暴食をしないというように、競技のために悪いことを我慢し、慎むというだけではなくて、もっと積極的に自分を訓練する、自分を律して厳しい練習に励むということを意味しているのです。オリンピックで金メダルを取る選手の華やかな競技の陰には、長い地道な厳しい訓練があります。鍛えに鍛えてすばらしい肉体を造り、技術を磨いて初めて栄冠を得ることが出来るわけです。信仰の歩みにおいて私たちも、ある意味でそれと同じように、自分をしっかりと律して、訓練し、節制をしていく必要がある、パウロはこのたとえによってそのように教えているのです。

自分の体を打ちたたいて
 ただ、この運動競技の話は、あくまでもたとえです。たとえというのは、事柄のある面をきわ立たせて、印象深く、またわかりやすく語るために用いられるものであって、たとえに用いられていることと、そこで語られている事柄そのものとが完全に一致するわけではありません。つまり、信仰と運動競技とは、ある点で重なるところがあるけれども、完全に同じではないのです。運動競技においては、一等になり、賞を得るのは一人です。誰かが金メダルを取れば、他の人は涙を飲むのです。信仰においてはそうではありません。ここで語られていることは、多くの信仰者がいても、最終的に賞を、冠を得ることができるのは一人だけだ、だからその一人になれるように頑張れ、ということではありません。私たちの信仰の歩みは、他の人との競争ではありません。私たちは、他の人と比べて、どちらが信仰において優れているか、信仰の理解と実践が優れているか、ということを競うのではないのです。競技というのはどうしても人との戦いになります。人よりも早く走り、人よりも高く、遠くに飛び、人よりも美しく演技することが求められるのです。その点では、信仰は運動競技とは違うと言わなければならないでしょう。パウロはここで走る競技のことだけではなく、26節では拳闘、ボクシングのことをも語っています。ボクシングというのは文字通り相手を打ち倒すことを目指す競技です。信仰をボクシングに例えるとはどういうことなのでしょうか。それは、信仰とは人を殴り倒すことだ、ということでないことは明らかです。パウロはここで「空を打つような拳闘はしない」と言っています。つまり、ちゃんと相手を見定めて打つのだ、と言うのです。その相手とは誰でしょうか。それが次の27節に語られています。「むしろ、自分の体を打ちたたいて服従させます」。信仰のボクシングにおいて、見定めて打つ相手とは、他人ではなくて自分なのです。自分の体にねらいを定めて、打ちたたいて服従させるのです。それが、先程の節制です。自分がもともと持っている思いや欲望を制御して、信仰における正しい道を歩むことができるように自分を鍛える、そういう節制が教えられているのです。ですから、信仰の競技においては、戦う相手は他人ではなくてむしろ自分自身です。運動の練習、訓練においても、これはむしろ自分との戦いだ、ということが言われますが、信仰においては、私たちはまさに徹頭徹尾、自分自身と戦っていくことになるのです。

自分との戦い
 信仰は自分自身との戦いである、ということは私たちにはよく分かることだと思います。例えばこうして主の日の礼拝に集うこと一つにも、自分との戦いがあります。ゆっくり寝ていたい、この時間を別のあのことこのことに使いたい、という思いと戦ってこの場に来るのです。今私たちは聖書通読運動を行なっていますが、自分で聖書を読み、祈ることもそういう戦いなしには出来ません。また日々の生活の中で、信仰者として神様と共に、主イエス・キリストと共に歩むということも、ほうっておいて自然にできることではありません。よく私たちは、「今週1週間、神様のことを忘れないで、信仰をもって歩むことができるようにしてください」という祈りをすることがありますが、しかし私たちは神様にお願いする前に先ず、自分で自分自身と戦ってそうしていかなければならないでしょう。勿論、私たちが信仰者として歩むことができるのは神様の守りと支えがあればこそです。だからその守りと支えを祈り求めることは正しいことですが、しかし自分自身がそのための努力を、戦いを、つまり自分の体を打ちたたいて服従させることをせずに、ただあなたまかせに、神様そうして下さいなどと祈っても、神様はおそらく、「そりゃ無理な注文だ」とお答えになるでしょう。信仰生活というのは、常に、自分自身との戦いなのです。

戦う相手を見定める
 私たちはそのことをよく分かっているつもりです。自分との戦いがちゃんと出来ているかどうかは別として、信仰は自分との戦いだということは知っているつもりです。しかし、本当にそれが分かっているのでしょうか。実は分かっていないのではないでしょうか。分かっていないから、信仰において、自分と戦うのではなくて、他の人と戦ってしまう、他の人と競ってしまうということが起こるのではないでしょうか。つまり、自分の信仰と他の人の信仰を、自分の信仰生活と他の人の信仰生活を、見比べてしまう、そして、自分の方が上だとか下だとか、あの人にはかなわないけれどもこの人よりはましだとか、そういうランクづけのようなことをしてしまう。そこで私たちがしていることは、人との競い合い、人との戦いです。そこでは私たちは、心の中で、人を敵として、人を打ちたたいているのです。信仰が相手を殴り倒すことであるはずはない、と先程申しましたが、しかし私たちは案外心の中でそういうことをしているのではないでしょうか。信仰において人を批判し、殴り倒しているのではないでしょうか。そのように、自分と戦うのではなくて、人と戦ってしまう、という傾向を、私たちは持っていると思います。ですから、信仰において、戦う相手、打ちたたく相手を正しく見定めることが非常に大切なのです。

朽ちる冠
 自分自身と戦うのではなくて、人と戦ってしまうということが何故起こるのかというと、それは私たちが、人の間での、人による賞、誉れを求めているからです。人の間で立派だと思われ、また自分でもそう思って満足したい、そういう優越感を持ちたいという気持ちが、自分との戦いを忘れさせ、人との競い合いに陥らせていくのです。しかしそのような人との競い合いにおいて得られる賞や誉れというのは、「朽ちる冠」です。運動競技をする者は朽ちる冠を得るために節制をする、と25節にあります。オリンピアの競技の優勝者に与えられるのは月桂樹の冠でした。それはじきに枯れて、朽ちていくものです。金メダルやトロフィーならば、もっと長持ちするでしょうが、しかしそれらも本質的にはやはり朽ちていくものです。素材が朽ちていくというだけではなくて、人間の間で、人間の競い合いにおいて得られる冠、賞、誉れは、次第にその価値を失っていくものだということです。世界記録を打ち立てて獲得した金メダルも、その記録が破られれば、また本人やそれを目撃して感動した人々が皆死に絶えてしまえば、それはただ記録上の事柄でしかなくなるのです。だからそんなものには価値がない、などと言うつもりはありません。それはそれで素晴らしいことだし、その冠を得るための努力は尊いことです。しかし私たちは、信仰において、もっと素晴らしい冠を、朽ちない冠を得るための競技に参加しているのだ、ということをパウロはここで語っているのです。信仰において私たちが目指し、そのために節制し、自分を打ちたたいて服従させていくのは、朽ちない冠を得るためです。ところが私たちはいつのまにか、朽ちない冠ではなくて、人間の間での誉れという、朽ちる冠の方を追い求めてしまっているのではないでしょうか。そのために、自分と戦うのではなくて人と戦い、人を打ちたたくような歩みに陥ってしまうのではないでしょうか。つまり問題は、私たちが信仰において、どのような賞を、どのような冠を追い求めているのか、ということなのです。

朽ちない冠
 私たちは、朽ちない冠を得るために信仰という競技に参加している。その「朽ちない冠」とはいったい何でしょうか。「朽ちない」ということからして、それは「永遠の命」であると言うことができるかもしれません。しかしそう言ってしまうと、とたんにこの朽ちない冠は、私たちにとって何か遠くにあるもの、差し当たっては関係のないものになってしまいます。しかしパウロがここで、節制しつつ、自分の体を打ちたたいて服従させつつ追い求めている朽ちない冠は、「永遠の命」のような、将来与えられる何かではありません。もっと身近なものです。それは何なのでしょうか。彼が何を得ようと願い、努力しているのかは、先週読んだ箇所の最後の所、23節に語られていました。そこには、「福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです」とありました。彼が追い求めている朽ちない冠とは、福音であり、福音に共にあずかることなのです。彼はそのために節制をし、自分の体を打ちたたいて服従させているのです。
 福音とは、主イエス・キリストによって成し遂げられた救いの出来事です。主イエスは、神の独り子、まことの神であられるのに、私たちのために人間となって下さり、私たちの罪を全てご自分の身に引き受けて十字架にかかって死んで下さったのです。この主イエスの十字架の死によって、神様は私たちの罪を赦し、私たちを恵みの内に新しく生かして下さるのです。この主イエスによる神様の救いの恵みが福音であり、それにあずかることこそが、パウロの追い求めている朽ちない冠なのです。永遠の命は、この福音にあずかることの結果として与えられるのです。
 この朽ちない冠は、私たちの中の誰か一人だけに与えられるものではありません。誰かが一番になり、その人だけがこの冠を受け、あとの人は無冠に終わるというものではないのです。私たちの一人一人、みんなが、この冠を共にいただくことができます。神様は私たち全員に、この冠を与えようとしておられるのです。ところが私たちは、この朽ちない冠ではなくて、人間の間での、人間が与える朽ちる冠の方を求めていってしまう。そのために、戦う相手を間違え、打ちたたく相手を間違え、やみくもに走っていってしまうのです。この「やみくもに走ったりしない」という言葉は、口語訳聖書では「目標のはっきりしないような走り方をせず」となっていました。競争は、目標、ゴールを見定めて、そこへ向かって走っていかなければなりません。ゴールを見失ってそれぞれが勝手な方向へ走って行ったのでは競技にならないのです。私たちの信仰においても、キリストの福音にあずかる、という朽ちない冠が見失われてしまうと、人間の間での比較における誇りや自負という朽ちる冠が目標になってしまいます。この朽ちる冠は、みんなで共に受ける、ということはできません。人との比較において受ける冠ですから、自分が受ければ人は受けられないし、人が受ければ自分は受けられないのです。だから、人と戦い、人を打ちたたくようなことになってしまうのです。それは、「空を打つような」虚しい拳闘です。ボクシングなら、それも一つのトレーニングになるでしょうが、信仰においてはそれは、自分にとっても少しも益にならないし、周囲の人をも傷つけることになってしまうのです。

福音と節制
 さてそれでは、朽ちない冠、すなわちキリストの福音にあずかることに目標を定め、それを得るために節制をするというのはどういうことなのでしょうか。キリストの福音にあずかるためには、守らなければならない戒律があるので、欲望を抑えて禁欲的な生活をすることによってそれをしっかりと守っていかなければならない、ということでしょうか。そうではありません。キリストの福音が福音であるのは、つまり喜びの知らせであるのは、そのような戒めを守ることによってではなく、つまり私たちの側がある条件を満たすことによってではなくて、ただ神様の恵みによって、無条件に、罪の赦しが与えられ、救いにあずかることができるからです。本日共に読まれた旧約聖書の箇所は、詩編第15編ですが、そこには、「主よ、どのような人が、あなたの幕屋に宿り、聖なる山に住むことができるのでしょうか」という問いに対して、「それは、完全な道を歩き、正しいことを行う人、心には真実の言葉があり、舌には中傷をもたない人。友に災いをもたらさず、親しい人を嘲らない人」云々と語られています。このような者こそ、神様の幕屋に宿り、聖なる山に住むことができる、つまり救いにあずかることができる人だ、というのです。これが人間の常識というものでしょう。神様の救いにあずかるためには、それに相応しい清さ、正しさがなければならない、その条件を満たす者だけが、救いにあずかることができる。ところが、主イエス・キリストの福音は、その常識を覆したのです。人間の側の相応しさ、清さ、正しさ、そういう条件を満たすことによって救いにあずかるのではない、救いは、ただ神様の恵みと憐れみのみ心によって与えられる、そこに、福音の福音たる所以があるのです。それならば、その福音にあずかるために、どうして節制が、自分の体を打ちたたいて服従させることが必要なのでしょうか。福音と節制はそもそも対立し、矛盾するのではないのでしょうか。

主イエスの節制と服従に倣って
 節制と服従を、福音にあずかるための条件と考えているうちは、この矛盾を乗り越えることはできません。条件であるならば、救いは文字通り条件つきとなり、福音は福音ではなくなります。そこでは救いは、私たちが自分の力と努力で獲得するものになります。自分の力で獲得するものであれば、獲得できたかどうかを人と競い合うことも起るし、獲得したことを人に対して誇るということも当然起ります。しかし、この節制や服従は、福音にあずかるための条件ではありません。そうではなくてこれは、私たちがあずかる福音の、内容そのものなのです。
 私たちのあずかる福音は、神様の独り子であられる主イエス・キリストが、神としての栄光や力を捨てて、一人の人間となって下さり、私たちの罪を全て背負って十字架の死刑の苦しみを受けて下さったということです。主イエスは私たちの救いのために、神としての権利や誉れを行使することを節制し、ご自分の体を打ちたたいて、十字架の死に至るまで、父なる神様への服従を貫いて下さったのです。この主イエス・キリストの節制と服従こそが私たちに与えられている福音の内容です。福音にあずかるというのは、この主イエス・キリストのものとなり、主イエスの節制と服従によって与えられた救いの恵みにあずかって、主イエスと共に生きる者となることなのです。その時私たちは、主イエスの私たちのための節制、服従の歩みに倣って生きる者となるのです。それは、救いの条件を満たすためではなくて、主イエスの救いの恵みに感謝して、この主イエスと共に、主イエスに従っていくためです。しかもそれは命令されて、強制されてすることではありません。自分から自発的に、自由に、そのように生きていくのです。この手紙を書いたパウロは、そのように歩んでいたのです。私たちはこれまでの所で、パウロの節制、服従の姿を見てきました。彼は、使徒として自分に与えられている当然の権利を放棄して、無報酬で福音を宣べ伝えていました。自分自身は、偶像に供えられた肉をも平気で食べることができる自由を得ているけれども、それによってつまずく弱い人々のために、その自由を行使しないと宣言しました。一言で言えば、誰に対しても自由な者でありながら、すべての人の奴隷となって生きていたのです。それがパウロの節制であり、自分の体を打ちたたいて服従させる歩みだったのです。そしてそれは、救いにあずかる条件を満たそうとすることではなくて、主イエス・キリストの節制と服従によって与えられた救いの恵みに感謝し、その恵みに応えて生きようとする彼の自由な、自発的な、心意気だったのです。主イエスの救いの恵みに感謝し、それに応えようとするこの心意気において、福音にあずかることと節制とは結びつくのです。
 27節の後半でパウロは、「それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです」と言っています。これは、主イエスの私たちのための節制と服従による救いの福音を宣べ伝えていながら、自分がその主イエスに倣って節制と服従に生きていないのでは、本当にその救いにあずかっているとは言えない、ということです。福音にあずかるとは、主イエスの節制と服従に倣って、主イエスと共に、自分の自由と権利を、人のために制限し、放棄して、すべての人の奴隷となって生きることなのです。主イエス・キリストの節制と服従によって、何の条件もなしに、罪人であるままで救いにあずかった私たちは、その感謝と喜びの中で、このような節制と服従への心意気を持って、主イエスと共に生きていくことができるのです。それは、福音にあずかるという朽ちない冠を得るための条件ではありません。しかし、誰に対しても自由な者でありながら、すべての人の奴隷となって生きる、という節制と服従に生きることによってこそ、神様がみんなに与えようとしておられる朽ちない冠を、他の人々と共に追い求めていくことができるのです。つまり、信仰のレースを正しく走るための秘訣がそこにあるのです。

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