主日礼拝

使徒の務め

「使徒の務め」 牧師 藤掛 順一

・ 旧約聖書; サムエル記上 第10章 17節-24節
・ 新約聖書; 使徒言行録、第1章 12節-26節

 
戦闘準備
 救世軍というキリスト教の団体があります。一種の教会ですが、軍隊的な組織を持っています。「社会鍋」などでも知られている団体です。日本においてこの救世軍を創立し、社会鍋を始めたのは山室軍平という人です。この人が、聖書のわかりやすい解説を書きました。「民衆の聖書」というタイトルで、24巻が発行されています。山室軍平は1940年に亡くなった方ですから、もう相当に古いものです。しかし今でも教文館から発刊され続けていますし、今日の私たちが読んでも決して古さを感じさせません。むしろ分かりやすくて面白い、学問的な難しい註解書を読むよりよっぽど信仰の養いになるようなものです。この「民衆の聖書」の「使徒行伝」の巻、つまり今私たちが礼拝において読み進めている使徒言行録の巻を読んでみますと、第一章の解説には、「戦闘準備」というタイトルがつけられています。使徒言行録第一章には、戦闘準備が語られている。戦闘が開始されるのは第二章です。ペンテコステの日に、聖霊が降り、教会が誕生する、そこから、主イエス・キリストの福音が全世界へと宣べ伝えられていく戦闘が始まるのです。第一章はまだその戦闘開始前の準備の段階です。先々週の礼拝においては、使徒言行録を読み始めるに当たって、これは使徒たちと共に伝道の旅に出ることだと申しました。その言い方を用いるならば、旅への出発は第二章です。第一章は旅の準備、旅支度を整えているところです。戦闘であれ旅であれ、準備は大切です。ちゃんとした準備なしに事を始めてしまうと、良いことであってもうまく行きません。そういう意味において、使徒言行録第一章はとても大事な部分であると言わなければなりません。

聖霊を待つ
 その戦闘準備において、先ず語られていたのは、先週の礼拝においてご一緒に読んだ、主イエスの昇天でした。肉体をもって復活され、弟子たちの前に生きておられるお姿を40日に渡って繰り返し現わされた主イエスが、天に昇り、彼らの目には見えない存在になられた、それが昇天の出来事だということを先週申しました。主イエスはこの昇天に先立って、弟子たちに、もうじきあなたがたに聖霊が降る、その聖霊によってあなたがたは力を与えられ、全世界に、私の証人として遣わされていくのだと約束なさいました。彼らのもとを離れて昇天し、目に見えない方となられた主イエスに代って、聖霊が与えられ、それによって教会が誕生し、伝道が始まるのです。戦闘が開始されるのです。主イエスの昇天は神様がそのために整えて下さった基本的な準備です。その昇天を受けて、弟子たちによってなされていく準備は、聖霊が降ることを待つことです。本日の箇所、12節以下に語られているのは、主イエスの約束と昇天とを受けて、聖霊が降ることを待っている弟子たちの群れの姿です。神様が整えて下さる準備に対応して、教会が、信仰者がなしていく戦闘準備、旅立ちの支度は、「聖霊を待つ」ということなのです。

祈り
 弟子たちはどのようにして聖霊を待っていたのでしょうか。オリーブ山において主イエスの昇天を見届けた彼らが、エルサレムの町に帰ってきてしたことが13、14節に語られています。「彼らは都に入ると、泊まっていた家の上の部屋に上がった。それは、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、アンデレ、フィリポ、トマス、バルトロマイ、マタイ、アルファイの子ヤコブ、熱心党のシモン、ヤコブの子ユダであった。彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた」。彼らは、泊まっていた家の上の部屋に上がったとあります。この「上の部屋」即ち二階の部屋は、ルカによる福音書第22章7節以下で、過越の食事が、即ち最後の晩餐がなされた「二階の広間」と同じ場所だったのではないか、と想像されています。家の二階にはこのように人々が集まる部屋があったのです。主イエスの昇天を目撃した人々はその部屋に集まって、「心を合わせて熱心に祈っていた」のです。この祈りの姿こそ、聖霊を待つ人々の最も大事なあり方です。復活された主イエスは4節で弟子たちに、「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい」と言われました。「父の約束されたもの」とは聖霊のことです。その聖霊を待つためには、「エルサレムを離れず」にいることが必要です。それは、エルサレムこそ聖なる都だからということではなくて、今彼ら弟子たちの居る所がエルサレムだから、そこを離れるなということです。あちこちへ動き回って右往左往するな、今いる所にじっと留まり、そこで静かに聖霊を待てということです。聖霊を待つとは、神様のお働きを、神様が力を発揮して下さることを待つことです。そのためには、私たちは、自分たちの活動、自分たちで動き回り、自分たちの力で何事かをしていこうとすることをやめて、心を静めて神様に思いを向けなければなりません。それは具体的には祈ることです。祈る時に私たちは、自分の活動を停止します。そうしなければ祈ることはできません。そして神様を見上げ、思いを神様に向け、神様に向かって語りかけていくのです。私たちの一日の生活は、朝起きてから眠りに着くまで、自分の何らかの活動の連続です。何かを感じ、考え、聞き、語り、決断し、実行し、その中で喜んだり悲しんだり怒ったり苦しんだりしながら時を過ごしているのが私たちです。祈ることはしかし、そのような私たちの通常の活動とは異質なものです。祈りは、あれをしてこれをして、あれを考えこれを決断し、このことを喜びあのことを嘆く…という私たちの生活の通常の流れを切断します。そこで私たちの活動が停止して、心が神様へと向けられるのです。なかなか祈ることができない、ということの原因はここにあります。先へ先へとどんどん進んで行こうとする私たちの生活の流れ、あるいは心の流れを止めるには大きなエネルギーがいるのです。しかしそのように自分の生活の、心の流れを止めて思いを神様に向けることがなければ、私たちは神様と共に生きているとは言えないでしょう。祈ることによってこそ私たちは、神様と交わりを持つことができるのだし、神様の力、お働きを受けることができるのです。聖霊を待つことは即ち祈ることであり、私たちの戦闘準備、旅立ちの支度もそれによってこそなされるのです。

共に祈る
 弟子たちは、それぞれが自分一人で祈っていたのではありません。皆が一つの部屋に集まり、心を合わせて熱心に祈っていたのです。そのような共同の祈り、共に集まる祈りこそが、聖霊が降ることへの準備となりました。教会の誕生への準備、伝道への戦闘準備は、このような兄弟姉妹の心を合わせての祈り、共同の祈りにおいてこそなされたのです。そのことは昔も今も変わりません。横浜指路教会は今年創立130年を迎えますが、それに先立つこと2年、今の横浜海岸教会が日本で最も古いプロテスタント教会として誕生した時にも、新年の祈祷会が三月まで毎日続けられて教会の設立となったことはよく知られているところです。主イエスを信じる者たちが共に集まって心を合わせて祈ることこそ、聖霊のお働きを待つための最も大事な備えなのです。私たちの教会が今新たに聖霊のお働きを受けて新しく歩み出し、旅だっていくために最も必要なことは、兄弟姉妹が心を合わせて共に祈ることです。水曜日の祈祷会にさらに多くの方々が、志を与えられて共に集われることを期待したいと思います。また、その他にも、兄弟姉妹が共に祈る場を、教会として、いろいろな仕方で設けていくことが必要だと思っています。

ユダの最期
 さて15節以下には、そのように心を合わせて共に祈っている群れの中で、ペトロが立って語っていったことが記されています。ペトロは、12人の弟子の一人でありながら主イエスを裏切り、逮捕する者たちの手引きをしたイスカリオテのユダの悲劇的な最後について報告しています。18節です。「ところで、このユダは不正を働いて得た報酬で土地を買ったのですが、その地面にまっさかさまに落ちて、体が真ん中から裂け、はらわたがみな出てしまいました」。ユダの最後については、マタイによる福音書の27章にこれとは違う話が出てきます。マタイの方ではユダは主イエスを裏切ったことによって得たお金を神殿に投げ込んで自分で首をくくって死んだとなっています。使徒言行録はその金で得た土地にまっさかさまに落ちて死んだと語っています。いずれにしてもユダは悲惨な最期を遂げたのです。ペトロはそのことを弟子たちに報告しているわけですが、彼はどういう思いでこれを語ったのでしょうか。主イエスを裏切るようなとんでもない罪人の末路はこの通りだ、天罰がてきめんに下ったのだ、ということでしょうか。そうではないでしょう。ペトロはそのようには語れなかった筈です。何故なら、彼ら弟子たちは皆、根本的にはユダと大して変わりのない者たちだからです。弟子たちは皆、主イエスが捕えられた時に、主イエスを一人残して逃げ去ってしまいました。そしてペトロはさらに、主イエスが裁きを受けている総督官邸の庭で、三度、主イエスのことを「知らない」と言ったのです。「知らない」と言うことは、「主イエスなんか自分とは無関係だ」ということです。彼は一度ならず二度ならず三度まで、つまり完全に、主イエスと自分との関係を否定したのです。それは立派な裏切りです。ユダとの違いは、積極的な裏切りか消極的な裏切りかということのみです。そのペトロがユダの最期を語っている、それは、自分はユダのような罪人ではない正しい者だ、ということではあり得ないのです。ユダは悪人だったがペトロは善人だった、ということではありません。この二人の間に根本的な違いはないのです。ところがユダはあのような悲惨な最期を遂げ、ペトロはこのように、主イエスの約束を信じ、聖霊によって使徒として遣わされるのを待っています。どうしてこのような違いが生じたのでしょうか。それは、復活された主イエスとの出会いが与えられたかどうかの違いです。ペトロを代表とする他の11人は、復活された主イエスとの出会いを与えられ、主イエスによってもう一度弟子として、主イエスを信じる者として立てられたのです。主イエス・キリストの十字架の死と復活による罪の赦しの恵みの中に置かれたのです。このことが、ユダと彼らとの唯一の違いです。ルカがここで見つめ、語ろうとしているのは、ペトロたち他の11人も、復活の主イエスの恵みがなければ、ユダと同じように滅びるしかない者たちだったのだ、ということです。ユダは仲間の一人であり、同じ任務を割り当てられていたのです。そのことは17節のペトロの言葉に示されています。「ユダはわたしたちの仲間の一人であり、同じ任務を割り当てられていました」と彼は言っています。ユダもペトロも、同じ仲間であり、同じ任務を与えられていたのです。彼ら十二人の間に違いはないのです。任務だけでなく、主イエスに対して犯した罪においても、違いはないのです。しかし彼らが全て使徒として立てられるのではなかった。復活された主イエスによって罪を赦していただくという恵みなしには、誰も、使徒として立てられ、遣わされることはないのです。

十二人の使徒
 ユダはこのように、自らの罪によってと言うよりも、主イエスの復活の恵みにあずかることが出来なかったために脱落してしまいました。それゆえに主イエスが使徒として任命された十二人が一人欠けてしまったのです。それを補充しなければならない、とペトロはここで言っています。使徒の数は十二人でなければならないのです。それは、旧約聖書における神の民イスラエルが十二の部族から成っていたということと関係があります。先週読んだ6節に、弟子たちが復活された主イエスに「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねたことが記されていました。救い主メシアが、神の民イスラエルの国を建て直し、再興して下さるということが旧約聖書に約束されており、そういう期待を誰もが持っていたのです。主イエスは確かにその約束を実現して下さる救い主です。しかしそれは弟子たちが思い描いていたような形においてではなく、彼らを聖霊によって遣わし、主イエス・キリストの証人の群れである教会を形作ることによってだったのです。教会こそ、主イエスが建て直して下さる新しいイスラエル、新しい神の民の王国です。その基となるのが、十二人の使徒たちなのです。教会こそ新しいイスラエルであることを明確にするために、使徒の数は十二人でなければならないのです。15節に、この時120人ほどの人々が一つになっていたと語られているのもこのこととの関係においてだと言うことができるでしょう。十二人の使徒たちを中心にして、新しいイスラエルである教会が生まれ、育っていくのです。

使徒の条件
 その十二人の使徒の欠員が満たされなければなりません。しかしそれを満たすのは誰でもよいわけではないのです。使徒として立てられるためには、厳しい条件があります。それが、21、22節に語られていることです。「そこで、主イエスがわたしたちと共に生活されていた間、つまり、ヨハネの洗礼のときから始まって、わたしたちを離れて天に上げられた日まで、いつも一緒にいた者の中からだれか一人が、わたしたちに加わって、主の復活の証人になるべきです」。洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになった時から、昇天まで、つまり主イエスの地上のご生涯の全てを一緒にいて目撃した人のみが使徒として立てられることができるのです。それは何故かというと、そういう者こそが、22節の最後にあるように「主の復活の証人」となることができるからです。使徒の務めは、主イエスの復活の証人であることです。復活の証人であるためには、十字架につけられる前の、地上を歩まれた主イエスのことをよく知っていなければなりません。そういう人によってこそ、主イエスの復活の真実性が証言され得るのです。ヨハネの洗礼のときからの全てのことを知っていることが求められているのは、主イエスがこんなことを語られた、こんなみ業をなさったということを証言するためと言うよりも、根本的には、主イエスが復活なさったことを確かに証言するためなのです。使徒は、主イエスの復活を証しします。何故ならば、先程申しましたように、基本的には皆ユダと同じ罪人である彼らが、復活された主イエスによって罪の赦しの恵みを与えられることによって、使徒として立てられるからです。使徒は、主の復活の証人であって始めて使徒であることができるのです。
何を証言するか
 このことは、使徒たちの証言の内容にも関わってきます。使徒たちが証言することの中心は、先程申しましたように、主イエスがこんなことを語られた、こんなみ業をなさったということではないのです。十字架につけられて殺され、葬られた主イエスが復活された、ということがその証言の中心です。そしてそれはさらに言えば、主イエスの復活が本当にあった事実なのだ、ということを証言するということではありません。彼らは勿論主イエスの復活という事実の目撃証人ですが、彼らが証言することはその事実よりも、そのことの持つ意味です。この主イエスの十字架の死と復活によって、ユダと同じように滅びるしかない罪人である自分たちが、罪の赦しの恵みを与えられ、主イエスによる救いにあずかって新しくされ、彼らを中心として、新しい神の民、新しいイスラエルである教会が、復活された主イエス・キリストのもとに、聖霊のお働きによって築き上げられていく、そのことをこそ彼らは証言し、宣べ伝えていくのです。

くじを引く
 このことを証言する「主の復活の証人」として、ユダに代わる新たな一人が選出されます。その候補に挙げられた人は二人でした。先程の条件に合う人は「バルサバと呼ばれ、ユストともいうヨセフとマティア」という二人だけだったのです。この二人の内どちらが十二人目の使徒となるか、そのことを決定するために、彼らは先ず祈りました。「すべての人の心をご存じである主よ、この二人のうちのどちらをお選びになったかを、お示しください」。そしてくじを引いたのです。くじを引くというのは、聖書において、神様のみ心を求める一つの方法です。本日共に読まれた旧約聖書の箇所、サムエル記上の第10章においても、神様がイスラエルの最初の王として誰をお選びになり、お立てになっているのかを知るために、先ず部族ごとにくじが引かれ、当たった部族の中で氏族ごとにくじが引かれ、そのようにして最終的にサウルが選び出されたのです。サウルはこのくじに当たったから王になったのではありません。彼は既にそれより前に、神様のご命令によってサムエルから王として油を注がれていました。サウルを王とすることは神様のみ心においては既に決定されていたのです。そのみ心を人々に明らかにし、確認するためにくじが引かれたのです。本日のところの使徒の選出のくじもそれと同じ働きをしています。既に定められている神様のみ心を知るためにくじ引きがなされたのです。私たちの教会は先日教会総会を行い、そこにおいて長老、執事の選挙を行いました。そこで選出された方々の任職式をこの礼拝において行うわけですが、あの選挙も、基本的にはこのくじと同じ考え方で行われるものです。選挙に際して、すべての人の心をご存じである主に祈り、そして投票をする、その結果によって、神様のみ心を知るのです。教会総会における選挙は、人気投票ではないし、自分の思いを代弁してくれる利益代表を選ぶことでもありません。主のみ心を尋ね求めるための信仰的手段なのです。
 くじはマティアに当たりました。主のみ心はそこにあったのです。これはひょっとしたら、大方の人々が予想し、考えていたのとは逆の結果だったのかもしれません。もう一人のヨセフの方が先に名前をあげられており、「バルサバと呼ばれ、ユストともいう」というふうに人々からいくつもの名前で呼ばれていたということは、彼の方がみんなから愛され、慕われていたのかもしれません。しかし神様のみ心はそういう人間の思いとは違うのです。主イエスの復活の証人となり、復活された主イエスによる罪の赦しの恵みのみによって立てられ、その恵みを証しすることによって教会の礎となっていく使徒は、人間の価値判断や評価とは違う仕方で、神様によって立てられるのです。

祈りに満ちた静けさ
 このようにして、主の復活の証人としての十二人の使徒が揃いました。聖霊が降ることを待つ準備、伝道の開始への戦闘準備がこうして整ったのです。もう一度確認しますが、この準備において人々がしたことは、祈ることと、くじを引いてみ心を求めることだけです。聖霊のお働きを受け、主の証人として立てられていくために人間の側でなすべき準備は、祈ることと、み心を尋ね求めることだけなのです。「だけ」と申しましたが、しかしむしろこのことこそが大切なのです。聖霊のお働きを受けるために、私たちは、このことに集中しなければなりません。ところが私たちはつい、それ以外のことをしたくなります。何か自分の手で、工夫で、力で、いろいろなことをしたくなるのです。しかしそれはかえって、聖霊のお働きを、神様のみ心の実現を妨げることになってしまうことが多々あるのです。使徒言行録第一章は、最初に申しましたように「戦闘準備」の章ですけれども、そこには落ち着いた静けさが支配しています。皆が心を合わせて祈っている、その静けさです。この祈りに満ちた静けさを私たちも大事にしたいのです。そこに聖霊が降ります。すると、戦闘が開始されるのです。使徒たちは、まさに力強く、大胆に、飛び回って活動していきます。そのような激しい、力に満ちた活動を生むのが、この祈りに満ちた静けさなのです。

使徒的教会
 最後にもう一つの大事なことを指摘しておきたいと思います。教会は、主イエスの復活の証人である使徒たちに聖霊が降ることによって誕生しました。その使徒たちは、ここにその条件が記されているように、限られた特定の人々です。彼らが天に召された後は、もう使徒と呼ばれる人はいないのです。ただ一人の例外はパウロです。パウロは、復活の主イエスとの出会いを特別な仕方で与えられて、言わば特別枠での使徒となりました。しかしそれ以後はもう使徒はいません。教会の牧師は使徒ではありません。長老や執事も、使徒ではありません。私たちは皆、使徒たちの証言を受けて主イエス・キリストを信じている者です。使徒たちの信仰を受け継いでいるのが教会であり、私たちなのです。私たちが礼拝において告白している使徒信条と並ぶもう一つの、古代からの信条である「ニカイア信条」には、教会のことが、「唯一の、聖なる、公同の、使徒的教会」と言われています。教会は使徒的でなければならないのです。使徒たちの証言を大切に受け継ぎ、使徒たちの教えた主イエス・キリストの福音にしっかりと立つものでなければならないのです。その使徒たちの信仰が記されているのが聖書です。ですから使徒的な教会とは、聖書によく聞き、聖書に基づいて定められた教会の信条、信仰告白を大切に学び受け継いでいく教会です。そのような歩みにおいてこそ、聖霊なる神様が私たちに豊かに働いて下さり、力を与え、使徒言行録に記されているような生き生きとした教会の歩みを与えて下さるのです。

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